魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

魂魄の宰相 第四巻の四の①

2007-10-28 08:44:58 | 魂魄の宰相の連載

四、風習に変わる

富国強兵は王安石の目標とする抜本的な事柄であったが、国家が財政的にも軍事的にも脆弱さを続けるのは人材不足と悪習が根本的な原因であるとすると、富国強兵を貫徹する為には大量の人材を育成しなければならない状況であったのだが、其れを補完する法律も無かったので、神宗が如何すれば良いのかと質した時、王安石は言明したのだ:「悪習を変えるべく法律を創ることが今急務と為っております」。

其の意味するところは、所謂悪習の源である古くさい儒家の学術を先王の道に取って替えることが最も効果的と考え、皇帝に尭と舜の術を奨励することを提言し、其のことに依って「君を尭と舜に為らしめ、更に悪習を取り除く」ように上意下達で徹底することを薦めたのだ。儒家思想の行き詰まりが最早暴露されて仕舞っていたのだが、未だにこのことが変法革新の最大の障害と為っていたので、これらの行き詰まりを打破することが出来無ければ、改革を推進し続けることは出来ようも無かったのだ。変法についての保守派との論争は具体的な法令と措置の上で徒に激化していたので、最も抜本的な解決方法は思想的な指導をすることにあったのだ。
双方の論争の焦点は、先ずは宗朝創始の精神を護っていくべきか、変更していくべきかと言うことが論点となった。

保守派は皆創始の精神を護る立場に偏重して、儒家重視の創業の家訓を護り盛り立てて行く立場を採ったのだ。儒家は変化を恐れて伝統の継承を護ろうと、孔子も「父への行は三年続けて、孝行と言える」と言っていると安定を重視したのだ。このような考えの下で保守派は変法に渾身の憎しみをもって、甚だしきは理非曲直を論ぜず、変化に対し徒に反感を持つばかりであったのだ。「祖法は変えるべきにあらず」と司馬光などが思っていたので、王朝が交替した原因は法律(制度)を変えた為だとも極論し、若し漢が蕭何の法を守っていたならば、衰亡することは有得無かったのであり、その様な事例は漢だけで無くて、若し三代の法を改め無かったならば、三代の君が常に禹や湯や文武の法を守っていたならば、今尚、存続していたのであり、要するに法律(制度)を変えることが歴代の王朝が滅亡した根本の原因であって、そこで、法律(制度)を変えることは罪過であり、誤りであって、詰り、間違いであり、変えれば変えるほど世の中を悪くし、良くすることは有得無いと極言するに至ったのだ。

司馬光の視点をもってすれば、このような革新は歴史を逆行させて仕舞うので全くの誤りであって、安定を堅持するのが本筋で、変化を求めてはいけ無いのだ。先王の道を奨励する王安石と三代の治世を堅持しようとする司馬光とは、この様に完全に相反する夫々の持論を持っていたのだ。司馬光は三代が最も完璧な時代を創りだしたのであり、将に歴史の発展変化(結論的に逆行すると言うのだが)は法律(制度)を変えることだと断定されても、現実には法律(制度)を変えれば変わるほど世の中は悪い方に向かうので、世の安定の為には制度を変えてはなら無いのだとした。この論法には実は明らかな矛盾が在って、司馬光は三代が最も良い時代と言って措いて、其の実、当時の朝廷に対してどの様に評価していたのか?司馬光も馬鹿では無いので、彼は間違い無く、その時存在する当時の朝廷が三代には及ぶべくも無いと矛盾を感じていたが、如何したら先王の道に法り、当朝に三代の御世に至らすことが出来るのか悩んでいたのだ。三代の治世までに達する為には、今日の悪習に換えて先王の道を必要とし無いのか?恐らく彼の歴史観が極めて悲観的であり、その考えの根本には世直しの実現性を信ぜず、「今のところ三代の法を改め無い方が現実に適い、現時点が理想的では無いとしても、革新が過ぎるのは最悪の事態を引き起こし、今は何も手を付け無いのが最善で、さも無ければ更に悪く為る」と考えていたのだろう。

司馬光は保守派の代表の人物で指導者でもあるので、彼は当然変化を恐れていたが、世の中を変化させる基本思想を恨んでいたので、一旦彼が政権を握って仕舞うと情勢が抜本的に好転するのを期待することは出来無くなった。然も、司馬光は実際には「保守」に拘っていた訳では無いと思われる節が在り、本当は如何なる変革をも恐れるのもでは無かったのかもしれず、彼の言動も其の時々で変わっていたのだ。彼が一旦政権を握ると身を翻し、新法を進め無いように仕向けるのみならず、殊更に事の是非を論じて飽く迄改変を進めようとし無かったばかりか、更に、彼は就任から五日間以内に新法を廃棄して仕舞い、「変法派」を左遷し、徹底して抑え込んだのだ。「祖法は変えるべからず」と言うが、彼は強引に直前の先皇の法を変えて仕舞ったのは、雅か神宗が直前の皇帝では無かったとでも言うのか?神宗の創った法は哲宗の朝廷では「祖先の法」では無かったのたか?司馬光の道徳的な学識は古今で称賛され、人は皆純臣と認めているのに、彼は神宗の朝廷では長年朝臣で在ったにも拘らず、神宗皇帝には少しの感情も抱かなかったのか?皇帝が目を掛けていたにも拘らず、死後幾らも経無い内に、彼は矢継ぎ早に直前の「父道」を廃棄して仕舞ったのに、彼を如何して忠臣の孝行者などと言えようか!彼は初志を貫かず、焦って「神宗の法を変え」、祖宗に忠実に成る為には、先帝に忠実になってはなら無いと、虎の威を借る狐の様に「母を以って子を直す」を持出し、皇太后を手懐けて先帝を蔑ろにした司馬光は確信犯と言え、そのことは恐らく誰でも知っていて、自らを欺き人をも騙した者が、天下や後世を全く愚弄したのだ!


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