魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

【魂魄の宰相 第九巻 「三、禅の詩は仏教の曲」~「四、諸経の注釈を為す」】

2017-04-12 11:55:39 | 魂魄の宰相の連載

三、禅の詩は仏教の曲

 王安石は江寧に十年居る間も、詩で志を述べ、詩に禅を導入し、詩で禅を説いて、禅に関係ある詩を大量に作った。此れ等の詩詞はとても芸術としての評価も高く、仏教特に禅宗への彼の見方をも顕していたのだ。

動かず

 善行をしないければ、悪いことが起きるとは限ら無い。様々な生・住・滅があると、考えを纏める。
 法に縛られず、僧衣を身に着けず。
 仏法で洗い清めて究極的な悟りの境地に達するのは、過去・現代・未来の三世を超越する揺ぎ無い根本原理があるからだ。動かず行われるとは、即ち善行は法が行うということである。明らかで無いとは正しい道理が不明であると言うことで、仏法の知識に欠けていたのでは、如何取り組んでいこうかが分らず、世の中に張り巡らされた網に捕らわれて、落ち込んで世の中に流されることになって仕舞うと言うことを言っているのだ。世の法は無常であり、生滅のことを思って、不安になっても、拘り過ぎてはいけ無いが、此れを考え無い訳にはいか無いので、悟りを願うなら、常に心に留め、賢明に見聞を広げ、冷静に考え、正しく身に付け無ければなら無いのだ。仏教には、諸法の変化の過程で何時も現れ出るものとして生、住、滅の三相(生、住、異、滅の四相とも云われる)があり、生とは誕生、滅とは終焉で、住とは前の二者の中間で比較的安定している段階のことであるのだが、此れ等に執着してはならず、じっと考えると、変化の中にも変わらず動か無い実相が見得るのだと考える。仏教は更に智慧を聞慧、思慧、修慧の三つの種類に分けていて、聞慧とは音声で得た経験・知識から入信することで、初級の知恵とされ、思慧とは思惟を通じて得られるもので、割りと高い知恵とされ、修慧は修行から実証され得るもので、根本的な知恵とされていて、後の知識を得れば、最高の智慧となるのだ。
 仏教其のものとして「自我を消え去らす」という側面があり、自らが自我を否定することを含んでいて、仏法を学ぶ者は、法の為に縛られるべきで無く、若し、法に縛られたなら、仏法を得ることが無くなるとするは、仏法の目的が人に自由を得させるものだからで、法に依って縛っては、此のような根本の目的に背離して仕舞うからである。僧衣は質素な衣で、僧衣を着るのは世間の煩悩に汚染されることから避ける為のものであり、質素を旨として心掛けねばなら無いものなので、僧は皮衣を着るのだ。若し、法衣以外の衣を着るならば、心は本当に汚れて仕舞い、裏表が在ると言うことになり、名が有っても実が無く、全く価値も無くなるのだ。外在する形式を追い求めては混じりけの無い真の心を得ることなど出来無くなるので、法で縛らず法を得させる為には、何時も僧が皮衣を着て無くとも心の浄化は保たれるとしたのだ。此れが王安石の仏法に対する理解で、彼の行動綱領ともなり、其処で彼の晩年は非常に好い仏教徒となることが出来、ずっと自分の本領を維持して、王は初めから無駄な形式は踏むことが全く無くとも、僧に準じて納棺されるように要求し得たのだ。
 王安石には詩《夢》の一首が更にあって、「人の一生は夢幻の如く」と言う言句を著して  自分の考えを存分に表明したのだ:
 人の一生は夢のように儚いものだとするならば、空寂(悟りの境地)を求めることも無意味となる。
 とは言え、我を忘れて夢の世界に身を委ねれば、夢は数知れ無い功徳を成就する。
 人の一生は夢幻の如く、一瞬のもので、実際にはありそうもない幻想のようなもので、捉え所無く、頼り無いものだ。心に求めることも無ければ、考え一つ起こることも無く、全く。此れは全て仏教の有触れた説法で、全く新味が無い。然し、世の中が夢幻のようだと再び言った後に、直ぐに王安石は筆鋒を一転させ、修業することでの功徳とは何かと言う其の実体を得ようと、所謂、河砂の如き夥しい数の諸仏や菩薩が様々な功徳を齎したのに、如何して生涯は夢のようだと念を押すのだろうか?此の問題の提示の仕方は実は非常に鋭いもので、今までの説法を逆手に取るもので、論理の矛盾を衝いて、彼の独創的な思考を持つ精神と疑いも無く類希な風格を見事に顕示したものであったのだ。
 王安石が作詞したのは多くは無く、後世まで伝わるのは更に少ないのだが、その中には仏教と関係がある作品は可也大きい割合を占めているのだ。

 雨霖の鈴

 せっせとこつこつと。今までずっと表に出ること無く、棲家作りに専念していた。浮名を流しあぶく銭を稼いで何の助けになろうかと、慙愧の念に耐えている時に、輪廻がやって来て只慌てふためくのみだった。幸運にもこの上無い真の悟りを覚え、瞬時の間と雖も解脱を得ることが出来たのだ。理由はともあれ、「海」と言う文字を見誤ったのは、一滴の水滴を意味する文字の「漚」と「海」とを誤認したのだ。元々仏陀の本来の性はいい加減なものであったのだ。全く丁寧で礼儀正しくと迄は言得難く、妄想の中に埋もれがちであった。彼は目が眩む程の艶やかなものを貪り求めていたので、初めから誰もが彼を信用出来無かったのだ。ある日無常がやって来て、終に閻魔王に打ちのめされることになったのだ。真っ逆様に落とされて、千種の謀に拠る不意打ちを、如何して彼が免れ得ようか。
 せっせとこつこつと只闇雲に働くだけでは、物事の本質を理解することも出来無いので、無闇に仕事を増やしているようにしか見えず、訳も分からず作ったものは、鳥が甘粛の麦畑の上に作った巣のように直に壊れて仕舞うものなのだ。世の中で実力以上の名声を上げても殆ど利も無いことなので如何なる意味があると言うのか?残念がっている時に、輪廻がやって来たので、ただ混乱するのみだった。幸いにも此の上無い真の悟りに出会い、一瞬の間輪廻から抜け出て、世間の柵(しがらみ)から開放されて、解脱出来たのだ。何に根拠を求めてか、海を総て取り去ったのは、一粒の泡を思い浮かばす漚を東支那海や渤海等の海の字と勝手に見間違ったからで、本性として好い加減な仏であって、如何でも良い妄想の中に没頭しがちだったのだ。外に在っては嘘で固めて目が霞む程の妖艶さを貪り求めていたのに、誰が元々くだらないものを真理と信じることが出来ようか?或る日、死に神の無常がやって来て、おろおろとして為す術も無く、終に閻魔大王に打ちのめされ、辛く苦しい目に会わされ、この間は、閻魔から受ける千種の手段、万種の謀を免れず、生死の境の苦しみを見る目になるのだ。
 王安石は禅宗の典籍の故事については非常に熟知していたので、由って、大量に其の中の文を使った。「元々仏陀の本来の性はいい加減なものであったのだ」は《永嘉証道歌》から引いて、「元々いい加減なもの」は六祖が伝えた法である偈であった「元来一物も無い」を変えたもので、「終に閻魔王に打ちのめされる」、「如何して彼が免れ得ようか」等も総て禅宗で慣用とされた慣用句なのだ。
 此の詩の詞は総て仏教の用語を使っていて、不覚にもぎこちなく突飛であって、言葉を選び、文を組み立てる上では全く特異なものとなったが、作者の仏典に対する熟知と習熟度を正に体現していて、六根それぞれに拠って認識される色・声(しょう)・香・味・触・法の六境の境地に至る芸術の技と力にも勝っているのだ。思想から言えば、上辺のものから深く入り込んで純粋な仏理に達したことを明確にしのだが、世間の人には其の根源が分らず、ため息ばかりで、正しく法を説き切れず、名利を貪り求め、外見に拘り、漚を海と見間違え、妖艶も実在のものだとし、結局三界を超越して、世の柵から抜け出すことが出来無くて、結局は地獄の閻魔王に屈するところとなり、すべての衆生が生死を繰り返す地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道の六道で輪廻されることになったのだ。此のことは彼の仏教の理論に対する理解が非常に深いことを表わしていて、仏教に対する彼の信条は誠実だったことも分るのだ。

 南郷の子

 世間の人を見ると溜息が出る。世間にはほんの僅かしか居無いのだ。過ぎ去った昔の面影は既に無いのが、遣る瀬無い。此れ迄は神を信じるばかりだった。僅か乍も疎遠になった。私は悪魔を取り払い仏教に転向するように自身に説いて来た。真実を求め、妄想を取り除こうと座禅するのは間違いだ。身を空しくしてこそ法身に変化出来るのだ。
 本音を言っても、微塵も受け入れられることが無く、世間の人が此の道理を分ら無いことが嘆かわしく、全く面目を失ったのだが、初めからずっと神の存在を見誤っていたことが分ったので、落ち込んでばかりいては、永遠に解脱も叶わないと言うことを掴んだのだ。  人の守るべき正しい大通は等しくあると言うことだが、何を疎かにし、何を大切にしろと言うのか?ただ心の魔ものを参らせるだけでは、法を大きく堂々巡りをさせるばかりだ。心を落ち着かせ、摂ろうともせず離すこともせず、真実と虚妄も無く、諸事から離れて物事の是非・道理を判断すれば、自ずと実相が見えて来るものだ。本当は妄りな心は拭い切れるものでは無く、不相応な要求を為すのが現実で、実際は絶えず好い加減に成り勝ちなのだが、身を空しくさえすれば法身となれ、此の事無しに身を法身として捧げては成ら無いのだ。
 見たところ王安石は幻覚自身もさること乍彼の《証道歌》が好きで非常に熟知していたので、拠ってことある毎に引用していたのだ。《証道歌》は「卓越した学問になるが儘の悠然とした道士がいて、妄想を止めること無く、現実も認めることも無かった。本性は仏性にあることを明らかにし無い儘、身を空しくして法身に玄化した」と「『妄想を止める』と、『現実を認めることが無かった』と言った二つの句が総ての事物・現象は本来空で、固定した姿を持つことが無いことを著したものだとだと知った」と言う句を、王安石は典故を用い文章を少し修正し書きつつ自由自在に用い、自分の詩の中で見事な文に変えたのだ。
王安石と金華の兪紫芝(字は秀老)とは親しい友人で、二人が唱和した何編ものの作品がある。兪秀は好禅で有名で、二人が唱和したものは多くが禅と関係があったのだ。王安石には《訴衷情?和俞秀老鶴詞》の五首が有り、其の中の三首が禅宗と関係がある:

 三

 林間に居住することを猛然と反対された。其処に居ると直に追い立てられた。彼は追われる度に何故真丹を離れなければなら無いかと黙り込んだ。 美味しい漿水(どろりとした飲み物)の価値は、閑を出される程である。同じもので返さなければならない。要約すると、軍持(寺の漿水を満たすもの)を蹴り倒したことで、潙山を勝ち取ったのだ。
 王安石は晩年の日々興に乗って旅行に出て、山を越え、川を渡り、或いは行をして或いは泊まり、一つ処に留るのを嫌がっていたのだ。彼は此れが自分に合った暮らし方だと思っていたのだが、自由を妨げる障害も無く、自制することも無かった。所謂死語とは、禅宗では死句であるとするものと句を活かす為に役立つという説が有ったのだが、死句は語義が既に尽くされていて、含蓄が不足する感が有り、残さずにより良い語句を探す余地も有り、活句は抑揚の美しい、流れるような趣が有り、多方面に変化する可能性を残していて、其語は簡明であるが、其意は無限なのだ。死句を使うことは拘りを生み易く、語句を束縛したのだ;活句を使えば自ずと中に引き込まれ、言外の意味を見出せたので、禅宗は活句を使うことを提唱して、死句を使うことを否定したのだ。死語を使う度に脱することを追求されたが、此れを使うべきで無いとすること迄には至ら無かった。
 仏教では出家が生産に関るもので無いとの考えであったのだが、人から供養を受け、檀家の恩に報いる為には必ず修行に励まなければ為らないとしていたので、そうでなければ、恩返しする為に将来必ず牛になり馬になって報いることで、人に借りを返すのだ。《黄蘗希伝》に拠ると:
 師(黄蘗希伝)は終日お茶堂の内に座って、南泉が下りて来て、聞く:「確り聡明な者に学べば、仏性に会えることになると言われるが、此の道理は如何に?」師曰く:「一昼夜の間でも従は無ければ、一物も得られず」泉曰く:「長老に見(まみ)えているのだが、そうでは無いのか?」師曰く:「恐れ入った」。泉曰く:「漿水のお金を置いた上に、如何して人に草鞋銭を足させようとするのか?」師は一息ついた。
 漿水のお金は、飲食と普段の生活の費用に使われるのだ;草鞋銭は、行脚や参学の費用として使われるものだ。一昼夜の間でも従わなければ一物も得られないと言う見解では、南泉からすると結局得るものが無くなるので、未だ望みが有ると否認したいのは当然のことだった。死語を探して使うと言うことの本当の主旨は分から無いが、四方八方の檀家には漿水のお金を必ず返さなければならないと言うことも、そう易々とは出来無いことなのに、漿水の入った淨瓶を蹴り倒して、潙山を勝ち取ったのだ。此処での王安石は更に他の禅宗の典故を引用して、《景徳伝灯録》を記載した筋書きは、司馬と言う行脚僧達が湖南からやって来て、道士は一行が名づけた「大潙山」と言う山を発見し、此れを総勢壱千五百人の智者達の居所として、百丈の門下から一人を選んで此の山に居住させ、結局選ばれたのは当時単なる典座(雑事役)だった霊祐であったので、当時は首席に座していた華林善覚が此れに対して不満であって、曰く:「或者は分不相応に上座に位置し、典座が如何して住職なのか?」丈曰く:「若し皆に対して一転して人並み外れて優れると言得るなら、住職に相応しい」。直に淨瓶を指して曰く:「浄瓶を呼び起こすことも出来ずに、汝は何を呼び込むというのか?」林曰く:「棒で突っついて呼び起こしては為ら無い」と丈から師(霊祐)が聞いたことを利用して、師は淨瓶を蹴り倒して出て行ったのだ。丈は笑って言った:「主席が樵に負けた」。師は終に望まれることになったのだ。
 司馬の行脚僧達は百丈の門下の霊祐が潙山の住職に相応しいと認めたが、首席の華林善覚は自分の地位が最高だと思っていたので、彼を越えて霊祐を潙山に居住させるべきでは無いと言ったことから、百丈が前例も無い一度の試験を敢行することを決定し、誰が皆に対して珍奇で素晴らしい言葉を巡らすことが出来るかに依って、山に居住させる者を決めようとしたもので、華林善は自分が有利な試験だと感じたが、先生の出した淨瓶の試験問題は淨瓶を呼んではなら無いと言うことだったのに応答が適当で無く、言葉を発してはなら無いと棒で突っつくことしか出来無かったのに対して、霊祐は一言も発すること無く、足で淨瓶を蹴り倒してさっさと出て行ったので、百丈は霊祐が適任だと思って、法器として足りると感じられ、彼が潙山に行って住職に付くことを決めたのだ
 如何して善覚は霊祐に負けたのか?若し、浄瓶を呼んだなら、即ち、死語となり、決まりを犯したことになる;若し、浄瓶を呼ばないならば、即ち、妄語となり、更に事実に背離したことになるのだ。そこで浄瓶を呼ぶか如何かは、全く問題外で、華林は明らかにもこの問題の意味するところを分かっていたのに、安直に棒で突っつくことで呼ぼうとしたのは失敗で、此の種の否定式な問題の回答を試みること自体行き過ぎなのだが、併し、此の種の問題の解答には紆余曲折して始めて本質に向い得られ、思慮が有って得られるものなので、百丈の感心を得ることが無かったのだ。霊祐は一刀両断の如き切れ味で、有無も言わせず、分かり易く単純なやり方を見せ付けたので、感心されて、潙山を勝ち取れたのだ。                        

 四

 巣作りする燕は此れ見よがしに旋回する。僅かな志は梁に窪みを造ること。青雲の千里に翼を広げるのは、如何して鸞皇なのだ。 臨済の居場所に、徳山が行く。きっぱりと引き受ける。時が下がって居住して、一切の出来事は天魔の仕業で、地に落ちて香を燃やす。
 燕が千里を旋回すると雖も、其の志は微かなもので、目指しているのは梁を彫って巣を造ることだが、如何に鸞鳳(優れた人)の志と違えようか?此処での王安石は富貴を貪り求めることが、志のちっぽけな肉食者の燕に擬えて、鳳凰が高潔で遠大なことを計ることも同じようなものではないかと疑問を呈したのだ。
 臨済義玄と徳山宣鑒の両人は同時期の禅宗の大師であったが、義玄は黄蘗との偶然の出会いを切掛けとして、百丈懐海を、馬祖の正統な後継者とすることに、最大限の尽力を行使して、臨済宗を今日に至る迄の長期に亘って伝承させたのだ;宣鑒は竜潭を崇め信じていて、天帝の行う治政の道と理解し、石頭の一門を大きな宗派に為し、其の後雲門、法願の二宗を輩出したのだ。両家は共に仏陀を詰って租を罵るので有名で、家風は峻烈で、「徳山の一棒。臨済の喝」と称号された。
 王安石と臨済宗は、雲門宗の僧侶の皆と行き来があった時に、両家の素晴らしさに接して、宗風を引き受けることを自分の務めにした。宋門には兵器庫があって、自然に天魔や外道を恐れ入らせることが出来、正法に振り向かせ、罪を悔いて香を焚き、法を護って勤労に励む人になった。此のことで見えるのは、王安石が世の中で為すべき事業を二度と忘れてなら無いこととして思い続け、禅門の宗風を旨として、天魔や外道を改心させることを自分の務めとしたことなのだ。

 五

 普化を只の狂人と言う莫れ。実際は人を導く手引きを為した人だった。急に宙返りを打って、ずっと羲皇(伏羲)を跳び越えていたこともあった。 臨済の居る、徳山へ行く。引き受ける。将に彼は業績を建立し、心の誠実さが滲み出て、大勢の礼拝を受けたのだ。
普化は馬租の弟子であった盤山の宝積の直伝を受けていて、彼が鎮州に居た時には義玄が臨済宗を建立することに協力したのだが、其行動は何時も非常に決って奇抜であって、常に気が触れたような態度で、狂った振りして民衆を欺き、言葉遣いも節度が無かった。彼は絶えず居場所を定めず、或いは街に入って或いは墓地にいて、然も食事の時間も決めて無く、常規を逸していた。彼は更に何時も大きな鉦を手に持って、人に会うと鈴を一度振るってからが言うのだ:「明るい頭が来れば、明るく打ち、暗い頭が来れば暗く打つ」。或いは人の背中を叩いて、振り向きざまに、直に言う:「金を恵んでくれ」。嘗て、彼が夕暮れに臨済の庭に入って生野菜を盗み食いしていると、臨済が言った:「此の男はまるで驢馬のようだ」。彼は両手を地面に付けて、驢馬のように啼いて見せた。或日臨済自身と河陽、木塔の二人の長老が彼のことを、「彼は日中に街の中で『気が狂う気が狂う、揺れる、揺れる』と言って、凡そ訳の分から無い吾人だ」と取り沙汰していると、彼が突然入って来たので、臨済が道子に言った:「汝は其れでも聖人か?」彼は問い返す:「汝は如何して私に其れでも聖人かと聞くのか?」 臨済が大声で一喝したのだが、彼は指刺して言った::「河陽は女々しく、木塔は口煩い。臨済は著間々し過ぎるので、反省せよ」。普化の臨終の時、道子は明日東門に行って死にたいと思っていると言うことを、先に皆に公表していたので、皆は挙って見送りに行ったにも関らず、彼は翌日には南門に変更し、更に翌日には正門に変更して仕舞い、結局彼は何度も冗談を言って喜んでいたのだが、人もだんだん少なくなって、四日目になると、彼は北門に行って死去したのだ。
 普化が乱れ狂っていたのは飽く迄世を化かす為だったのだが、其れは反面教師として全ての者を教え導く為であった。彼が到達していた域は、既に凡俗を超越し聖人の域に達していたにも関らず、羲皇の上古は古くさく無いとしても、威音と王前については重要視し無かったので、時代を超え地域を越えて皆の心を捉えることが出来無かったのだ。普化の変節を表した故事が在り、《景徳灯録》によると、盤山宝積禅師が臨終した時、皆に訴えて言った:「我を遥かに居る人に知って貰える方法は在るのか?」集まった弟子は老師が肖像画を欲しいと理解したので、皆が似顔絵を差し出したのだが、師の意に適うものは無かったのだ。普化が前に出て言った:「遥か遠くの何某でも得られる」。宝積が言った:「何故、老僧に似せて提出し無いのか?」普化は踵を返して出て行った。宝積が言った:「あの男は振り向き様疾風のように出て行った!」普化のやり方に肯定を表したのだ。踵を返して出て行くことで、普化が言いたかったのは此れこそ老師の肖像画であると言うことで、此のような挙動は全く常規に合は無いものではあったが、師の称賛を得たのだ。盤山が言った絵は決して肖像画を指すのでは無く、彼の禅法と精神を言ったもので、その他の弟子は其意が不明であったので、最善を尽くして只師の面影だけを描写したのだが、普化は師の意を知っていたので、踵を返して出て行ったことは開放されるという意味で、思うが儘に自由になることを表わして、此れ正に禅宗の本当の精神だったのだ。此のことで王安石が普化を理解出来ていたことが分かり、彼は大事に受け継いで、誠心誠意仏法を追い求めたのだ。
 王安石は芸術的手法で仏法と禅を表現して、仏教を広めるにことに一定の働きを果たすことが出来たのだ。


四、諸経の注釈を為す

 王安石は仏教の理論について系統的な研究をしていたので、彼は多種の経典の注釈を行って、其の中で彼の仏教に対する独特な見解を表現した。彼は《金剛経》、《維摩経》も注釈を為し、其れを神宗に献上した時のものとして、《進二経札子》がある:
 臣は政務で疲れが溜まって特別な計らいを受け、病で休んでいる間、仏典を探求した。《金剛般若》、《維摩詰所説経》をじっくりと見切ると、謝霊運、僧の肇等の注釈は存在意義が無いと感じ、更に、世に伝承されている天親菩薩、鳩摩羅什、彗能等に依って解釈されているものを疑ったのだが、其れらの中でも取り分け好い加減に盗作したものは言うに及ばず。気を付けて無いと自分の見解に凝り固まるので、考証は欠かさなかったのだ。図らずも徹底して天に持ち上げて聞き、進んで参加することを承諾して貰ったのだ。皇帝陛下に平伏したのは、持って生まれて妙法を知っていたからで、聖人を倣って宿植し、書物に記載して、象訳して伝えれば、一点の間違いも無く確実に伝わるので、ぐだぐだと説明する必要は無いのに、臣が愚浅の故に、敢えて聞いたのは思慮の足り無いことであったのか?大聖人は禍福に関する道理の教えを設けることに手を尽くすものなのに、一切の衆生に羽毛皮骼も実相だとはっきり認識させることが、実相の概念を顕にする助けとなるのだと、臣は詰らない事に拘って、嘗ては顧問を体験し、更に、詔を造ること引き受けていたことを、安は敢えて覆い隠そうとでもしたと言うのか?謹んで事実を記録した書物を修正するように上程する。只、天の威厳を汚したことが、臣の恥じ入る極みと非常に恐れるのだ!
 王安石は世に代々伝わり親しまれて来た羅什、彗能の《金剛経》の注解が盗作だと疑い、更に亦、謝霊運の《金剛般若経注》、僧肇の《維摩詰所経注》が多くの箇所で間違いがあり、経義に達して無いと思っていたのであるが、此れより分かるのは彼本人が間違いを知らせる事に自信があったと言うことだ。彼は仏教に熱心な神宗に一度以前に「聖徳の心を永遠に宿し、生来の仏法の理解者として、細部に亘って仏教の経典総てを理解していて、自分に非があれば敢えて進んで恥を晒す」と持ち上げといて、更に付け加えて「諸仏が衆生を教え導き悟りへ到達させる時、鳥獣が此の世の中で尚も真実の有りの儘の姿を知ることに力を貸したのだ」とも言ったのは、自分が進んで上意を得て、関与するように御機嫌伺いしたことを、敢えて自ら隠さ無かったことを著し、改めて以上のことを聞くと、彼が経の二冊に対する注釈の自信を表現したものだと分るのだ。
 王安石の《維摩詰経注》の三巻と、《宋史?芸文志》には記録が有り、其の《金剛経注》とは別に《遂初堂書目》にも記録があるが、然し、此れ等の二つの注釈書は既に全く伝えられることが無くなって仕舞ったとされていることは、非常に惜しいことだ。
 《金剛般若経》は、略称《金剛経》と言い、般若の経典の類の中でも分量が少ない一部であって、三百頌だけしかなく、それは般若の略本と見られているが、然し、小冊と雖も、般若の根本を成す重要な思想は漏れ無く含んで余すところが無いので、予てから特別に重んじられて来たのだ。省略されていることがあるのでは無いかと探求すること対して世の中が関心を示さ無かったのは、二十七の主題を通じて全ての般若の主要な思想が含まれていると考えられていたからだ。
 鳩摩羅什が此の経を訳出してからは、中国の仏教界が非常にそれを重視したが、其の分量が程好いものだったので、写経が容易であることを喜び、民衆も其のことをとても好み、常に此れを写し、暗誦することを仏事の功徳としたのだ。
 禅宗はもともと《縁伽経》を根本的な経典にしていたのだが、未来を予見出来るとする来蔵と般若との結びつきを重視したので、般若の類の経典についても可也重視していて、四祖を信じる者達には其の著作の中で《金剛経》を引用したことがある者が多かったのだ。聞く処に拠ると、六祖恵能は《金剛経》を知って道を悟ることが出来たので、之に対して説明し宣伝することが多く、その弟子の神会の時に至ると、呆気無く《金剛経》を捏造して祖宗の禅宗史に伝えることで、此れを表向き《縁伽》と称して祖宗と北宗とを相対抗させたのだ。神会が極力広く宣伝することを通じて、《金剛経》は禅宗の中での地位を大いに高めることになり、禅宗が栄えるに従って、《金剛経》の影響も日に日に増大したのだ。此のように禅宗が好まれるに従い王安石も此の経を大いに重視することになったので、注を行うことになったのは奇異のことでは無かったのだ。
 《金剛経》は諸法が「本質は空しいものである」との妙理を説いている。所謂「本質は空しいもの」とは、一切の事物は総じて本質なぞ無いと説き、其のもの自体は実在では無く「本質は空しいものである」と言う意味は只これ事物には本質が無いと言うだけのもので、物事が決して絶対的に虚無であることを意味するものでは無く、物事そのものは存在することには間違い無いのだが、此のような存在は只現象の存在があるのみで、それ故「玄有」と言うのだ。「玄有」自身には二重の意味がある:(一)幻とは或る種相対であり、決して有らざるもので無く、只相対的であって絶対的に実在する存在とはし無いのだ;(二)幻とはある種の条件があるもので、訳も無く現れるものでは無く、必ず原因を備えていなければならないものである。物事の本質は空虚で形を定め無いものであって、双方から離れて双方の中道に実相があると理解することが出来れば、未だ空しさに落ち込んでいなければ、落ち込まずに済ますのだ。
 《金剛経》は物事の本質は空で幻であると力説するのだが、極端には走らず、自らは否定的な形式を採り乍も存在自身は自ら肯定し、譬え仏陀に関することであっても固定概念に捉われず、仏陀の説法にも矢鱈本質があるものでは無いのだとして、只都合良く拵えられたもので、病気の特効薬のようなものに過ぎないとしたのだ。「仏教は般若を説くが、般若で無いものでも、名を般若とするものがある」と言う説に代表される此の種の文は非常に多いのだが、此れらは或種の認識と推理の様相を表すもので、其の意味する処は、即ち、唯、先ず自ら否定することを通して漸く自らが実在することを確認出来るのだと理解出来、其の中には深い哲理と弁証の精神が含まれているのだ。
 王安石の注釈文は既に伝承が絶えたが、彼には《書金剛経義贈吴珪》の一篇が更にあって、彼の経義に対する理解の度を表現している:
 惟仏の世尊、正しく目覚めることに備える。十方世界で、この上無き身に会うと、身は一尋で、計り知れ無い義を説く。然し傍行に載せて、翻訳に疲れ果てると、理窮まり為すべきも無く、性は尽きて止まる所無し。《金剛般若波蜂蜜》が一番で人には最上のものでありとは、実に其の通りである。
 諸仏の世尊が、目覚めることに備えて、十方世界での此の上無い仏身をはっきりと見てとれることが出来、一尋(七尺、通常の人身を指す)の身を以って高らかに計り知れ無い妙義を説いたのだ。然し、梵文で記載されたものは、「理が窮まり為すすべ無く、性は尽され止まる処無い」と漢訳され、《金剛経》が最上の上を行く経典と名乗れるのは、只この妙義があったからなのだ。
 「理が窮まり為すべ無く」とは、諸法の本質には空しいことを説くもので、若しも、夢が又幻の如くであるなら、若し、更に稲妻の如きに現れるなら、実際には在りそうも無い幻想としか言えず、捕え処も無いものであり、実質としては何も無く、如何にして得ることが出来ようか? 六祖は「私の此の法門は、成就してからは、誰一人師となることを望まずに一人で生きることを願うので、仲間も無くし身一つとなり、書を読む住まいも無い」と言うが、身一つで友も無く、得ることが出来る何があると言うか? 諸法の本質は空虚であるとの道理に達することに窮したが、直に、無くても得られるものが有ることを知って、既に得るべくものが無いならば、即ち、執着あっては生まれず、執着しても生まれ無いならば、即ち煩悩も無くなると言うのだ。
 「性は尽され留まる処無い」とは、道理を窮めれば天分を発揮することが出来、ことに窮すれば道理として、最善を尽くして努力しようと言う心が生まれるものなのだと言うことなのだ。諸法の本質が空しいとすれば、得るべきものが無く、心を著す術も無く、心を著す術も無いならば、「諸法の上には、何処にも居場所が無いと思うのだ」。心を顕わにするならば、世の中での善悪や好悪も、我は捉われた意識に固執することから免れて、仏心以外にも興味を持てば、絶えず互いに思い遣る心を養い続けられるとしても、仏心以外に固執すれば、此れも又、自由を無くすのだ。心が不安定なら、決して様々なことを思い慕うことは無くなるので、一念発起し、同じく心から仏教以外の存在を認め無いのであれば、尚も諸々の仏教以外のことには関心を無くなすことに為って仕舞い、振り返って考えることなぞ微塵も考えられず、心を発展させることも無くなって仕舞うので、此のように凝り固まって仕舞うことを避け、境遇に惑わされること無く、譬え物の役に立つことが無くとも、心を自由にすることが大切なのだ。
 王安石は二つの文章に依って経義の概要を著し、彼の仏法対する深い理解と非常に優れた独創的な造詣を体現していた。道理に窮して天分を発揮しようとしても、得るものが無く止(とど)まることも無いならば、悪戯にじっと自由を待つような姿勢を外見から内面に至るまで絶対に見せず、自分が向きあう環境を通じて自分の身に付け、一度見事に意義を見出せたなら、初めて力の限り尽くすことが出来るようになれるものなのだ。
 《維摩経》も般若を基にして大乗の経典を作り上げたもので、中道を正しく認識することで諸法の実相を子細に体験し観察することが強調されている。其れは大乗と小乗の境目を非常に重視して、小乗と雖も仏説に従ったものではあるが、只、此れも一時凌ぎの方便の説だけのものであり、所詮は話しにならず、境地、行、果(むくい)などの面では全て大乗には及ぶものでは無いとした。全経で極力小乗が如何に劣っていて大乗が優れていると広く宣伝しようと、其の中心となる思想を「弾は小さいものには当らず」、 「大きいものには欠けるところなく満ちていると賛嘆する」として、小乗を非難して、大乗を賛嘆することを旨としたのだ。
 《維摩経》を読むと身の儚さと何がしかの趣を感じるのだが、其の思いは刀で切って穢れと共に全てを無にするようなものなのだ。世の中の人々が此の現象を体感すると、『維摩』は病気にも効能が有ると思ったのだ。
 《維摩経》は東方で毘耶離国の大居士の維摩詰の故事を述べたものなのだ。維摩詰には計り知れ無い資産が有って、一大の富豪で、俗世の在家信徒の為妻もいたのだが、彼はまた戒律を清浄に奉じ、常に梵行を修め、嫌らしく利益を貪ること無く貧民を救済し、彼の境地は極みに達していたので仏陀の大弟子等皆の偉大な声聞乗と縁覚乗の二乗をも超越していたのだ。維摩詰の暮らし方は世俗と出家とを会わせて一つにしたもので、気に掛けてはいても、家族とは遠く離れて暮らし、飲み食いはと言えば、禅食の味に親しみ、諸々の淫らな遊びを捨てて、欲に溺れることなぞ微塵も無く、賭博や碁や演劇に現を抜かすことにも節度を守る人であった。上辺だけでは、彼には妻妾が群がり、豪奢な生活を極めていて、賭け事や劇に興じ、好色にも芸者をあげて遊ぶ爛れた生活をするような人に見えたが、実は違い、実際の彼は貪欲では無く、心に楽禅の喜びに楽しんで仏戒を厳守して行を修めた人で、彼が賭博場や劇場に行くのも節度を越えて遊ぶ為では無く、彼が妓楼をうろちょろするのも色狂いの為では無く、色狂いの弊害を明らかに示す為だったのだ。要するに、彼は上辺では爛れた暮らしを装い、実際には全く清らかな人だったのだ。
《維摩経》は「仏国」への一つの概念をも提示をしていて、仏国では浄土は遥か遠い対岸にあるものでは無いと考え、世の中にあるもので、世の中を浄化して出来るのが即ち仏国で、世の中のごみを浄化して煩わしいものが無くなるように仏国に相応しく「心を清めて」 、「浄土を得ようと欲するが為には、其の心を清めるにあたって、其の心の清らかさに従えば、仏土と清められるのだ」とするのだ。此の意味は、国土はまるごと汚いが、肝心な点は人の心にあって、心がごみで染まっても、心を清めれば浄土となるのだ。
 《維摩経》は「不二入法門」を提唱し、俗世と出家、生死と涅槃、有相と無相、有知と無知等は二つ同時には一切成り立たないものとして主張するのが、此の不二入法門の拠所で、最上の法とは「我慢無し」には得られるべきもので無く、更に、全て妄想に思い悩まされることから開放されれば、不思議な境地に入れるのだ。最上の法は、惟単に一切のものを断ち切り、遠く離れるだけでは無く、更には、会うこと無ければ何も聞けず、思いが無ければ知りたくも無く、言葉が無ければ説くことも出来ず、言葉を交えず、名字も名乗らずと言う厳しい法であるのだ。当時、文殊等全ての大菩薩が最上の法の理解について銘々述べ、最後に文殊が此の問いを維摩詰に聞いたが、時に維摩詰は押し黙って一言も発し無かったので、文殊師利は面目が大いに保て賛嘆して、言った:「善き哉、善き哉!文字や言語が存在し無いことが、正しく最上の法なのだ」。法は無いことに価値があり、互いに文字を使わず、文字が有っても無いとしてこそ、真の解脱が得られるのだ。
 《維摩経》は更に「『止まることが無い』が、元々総ての法を制定している」と言うことを強調して、諸法は全て因縁の和合で生まれるものなのだが、民衆には『縁』は生じ無かったので、法に寄り付くことは無く、寄り付か無ければ止まらず、止まらなかったら法も無く、法が無いのを前提にすれば、最初から法を作り上げることになり、例えば一枚の白紙の上で、正に最新で最も美しい図画を描写するように出来るのだ。
 維摩詰の生活様式は中国の南北朝の時期の玄学の名士と清談家に頗る近いのだが、あれらを深く受け入れて俗世間の娯楽まで否定するものでは無く、と同時に、出家の間で味わい体験する愉悦を帝王や顕貴も受け入れることをも渇望していたのだ。王安石は決して俗世間の享楽を求めず、さりとて、彼も完全無欠な世の中を望んでいたのでは無く、徹底的に世の中とかけ離れた倫理を目的として人心を離す気は毛頭無かったので、彼は内心で当然世俗と出家との間の道を目指していたので、儒家の人生哲学と仏教の出家の思想とが活力ある結合をして合一することを渇望して、打ち立てるようとする気概を顕して、現実的で自由闊達な人生の理論を作り上げようとするのだが、《維摩経》と維摩詰の生活様式は正に此の種の見本を提供するものであると考え、彼が此れに特段の興味を持ったことは不思議なことでは無かったのだ。
 《維摩経》が包摂する「止まらずに本分を為す」と「最上の法に入る」などの深淵な理論は、更に、禅宗に非常に大きい影響を生んだ。四祖道信は禅門の宗旨を説明する為に此れを何度も引用した。北宗の「五方」は《維摩経》に沿うもので、不思議なことに方便門に明らかに示したのだが、此のことから分かるのは「悟宗の経典此れ一つと教える」ことに利用したのだ。此れに対して南宗は此れを一層重視することで、六祖恵能の《壇経》の中で何度も引用することで南宗の宗旨を作り上げ、「真心、止まること無く本分を為す」等の意味を説明し、更に、単純に山林に宴座することに反対し、 北宗との違いを備えたのだ。此の経は『離』という文字を殊更説くものであって、文字から離れることを煩く言って、同時に、言葉も無くして寡黙になることも強要したのだが、此のことが後世の禅宗の「文字を立てず」と言う宗旨に直接の影響為したのだ。
 王安石は進んで《維摩経》を読んで僧肇の理解を上回ったと自認した程であったのだが、残念乍その書を見ることは出来無くなったので、評定は出来無い。然し、彼には此のことに関する二首の詩が残っているので、彼の見解の概要を知ることが出来るのだ。《維摩経》を読むと身体は泡のようで風のようで、刀で切って香を塗るのと同じ思いが湧くのだ。宴座の世間は此の理屈を観て、維摩は病気にも効能が有ると思ったのだ。
 身体は此のように四つの元素の結合から出来ているだけのもので、決してそれ自体が本質としてあるものでは無いのだから、風が吹くようなことがあっても、泡のように、慌てることは無いのだ。身体は此のように捉えられるものなので、刀で一寸切って仕舞っても、痛みが直るか如何かに関らず、胡麻油を塗りたくろうとするように、物事の本来の性質や姿なぞは全て空しく、実在しないのであるから、憎愛の取捨を生み出す必要も無いのだ。人の感性は体と感覚器官の基礎の上に作り上げられたものなので、身体には実質が無く、自ずと空しさを受けるので、愛を貪ったり分かれたりということは、全く必要が無いのだ。
《維摩経》の『方便』を見定める第二のこととして維摩が病気になった衆生を苦海から救い、彼岸へ導く為に、身体は儚く、人の体質は絶えず変わり、何時も健康でいられるということは無いと説明したので、国王や大臣、或いは年輩の在家信徒等も皆訪ねて来て、仏陀も大弟子を遣わして病気のことを詰問させる心算だったのに、不思議なことに大勢の大弟子が皆辞退して行か無かったのは、自分の修養の境地が維摩詰程には至って無いので、行っても仕方が無いと考えたと言うことだが、甚だしきに至っては多くの大菩薩でさえ病気のことを聞く資格が無いと語る始末で、終には最も気高き知恵者と号称される文殊師利只一人しか派遣することしか出来無くて、文殊は己が敵うものでは無いと知っていたので、実際は他の者を派遣しようとしたのだが失敗し、嫌々乍も行かざるを得無かったという有様だった。維摩は文殊師利や名の聞こえた諸菩薩と民衆を前にして神通力を示して見せたので、自らの手腕で彼は仏陀の国土の衆生を切り取って此地に移し、すべての人を心服させたのだ。
 王安石は此の故事を用いて、維摩の身に変えて説明し、世の中に存在する肉体である以上、亦、出家の間は法身で、法身であれば神憑りと雖も、肉体は病気に罹るものなので、将に世俗と出家の間には、色身と法身の違いがあろうとも道理の上では違いが無いのだと解説したのだ。
 彼には《維摩像賛》が更にあった:
 身と像は、二つの相では無い。三世の諸仏も、同じく此のような有様にある。
 若し真実と取るならば、虚妄を返すことに成る。香花を持って、供養をすべきなのだ。
 凡ての身には其れ自身なりの像が有り、此れ即ち実像で、実像と虚像は、二つのものでは無く分けられるものでも無いのだ。拠って、身と像は二つのものでは無く、仏陀と私も差別無くあるもので、二つの現象がある訳では無く、此れ即ち実像なのだ。虚妄と対峙して真実を追い求めようとすれば、真実に到ることが無いだけに留まらず、希望通りに願いが達せられなくなるのは、世の中の人々が此の世の悩み・迷いを忘れんが為に虚妄も真実として仕舞う正反対の方向に向かって仕舞うからで、虚妄を何とかせずに真実には出会得無いので、虚妄を捨てて真実を求めなければ、真実から離れて虚妄に塗れて仕舞うこともあり得るのだ。
 王安石は《縁(えん)厳(げん)経(きょう)》に対しても非常に関心をもっていたので、彼が書いた《縁厳経解》十巻の中には、嘗て晁公武が《郡斎読書志》の中で著したことが書かれていたと言われているのだが、今日、其れは残って無い。彼には又《題自書縁厳経要旨后》が有る:
 余は鐘山に帰って、道原の書を読むのに暇(いとま)が無く、自らの手で校正を行い、寺に在って書を発行した。時、元豊八年四月十一日、臨川の王安石は稽首して書を献じる。
彼は《縁厳経》には間違いもあると判断したので校正をし始め、《縁厳経要旨》を書いたのだ。《縁厳経》の全名は《大仏頂如来蜜因修証了義諸菩薩万行首縁厳経》で有り、副題は『唐天竺の沙門の類が密に帝釈天を皮肉ったので、烏萇国の沙門の弥迦が釈迦の訳語をして、菩薩の戒律として弟子の前正議大夫同中書門下平章事の房融笔に授けた』と、嘗て、知昇の《続訳経図記》に記録されていた。然し、呂澄先生の考証を拠所とすると、此の経は実は盗作であった。経が偽物としても、併し字句は緻密で繊細であり、多くの意義を持ち、大変中国人、特に文人や士大夫の習性にぴったり合い、従って、忽ち広く流行し、華厳、天台、禅宗、密宗などの夫々の分派が皆此の経典を思い慕うようになると、俗世の文士は更に殺到して、呆れたことにまるで伝統や習慣と迄になったかのようであったのだ。
 王安石の時代で、此の経を疑う人はいず、拠って、細かく調べられることは無かったのだ。王安石は此れに大変興味を抱いていたのだが、彼は此れに対し唯校正の研究に没頭していた訳でも無く、娘の置かれた境遇を哀れと感じていて、家が恋しく親を慕う苦しみを取り除いてやろうと、娘にも読むように勧めていたのだ。当時彼の娘は、莱県の君主として封じられた呉安持に嫁いでいた女性で、彼女は年老いた両親が心配でもあり、思慕を持っていたのだが、一方、多芸多才でもあり、詩も作り、彼女には王安石に送った詩もあるのだ:
 西風は小窓の紗に阻まれて入らずとも、秋の気配が私を擽って家を思い起させるのだ。
目の届く限り遠くを眺め江南の千里を恨み、従う前にはと涙で菊を見る。
 王安石は娘を非常に心配していたのだが、互いに慰め合うように娘に託した詩が何編もあって、其の中には《次呉氏女子韻二首》があって、其の二で曰く:
 秋灯が目隠しの紗に微かに写り、家への心配する気持ちを無くすように縁厳莫を好んで読みなさい。
 諸縁は夢のようなことだと割り切れば、世の中に見事な蓮の花が見ることが出来よう。
 仏教では「人生は苦しみである」と言われる一つの理由は、人の世の離合は予測が出来ず、愛にも別離があり、最も近い親しい間柄でも此れだけは如何しようも無く、高い位の宰相の王安石の一家でさえも此れに苦しむのだ。家を離れて遠くに嫁いだ娘が切なく家を慕って、辛さや悔やみは何時迄も終わること無く、秋の気配がする日に高い所に登って、遙か彼方を見渡し、白い雲に誘われて思い慕っていると、親を思っても会えないので、菊が目に入っただけで心が揺れて、眼に一杯涙が溢れた。王安石とて感傷的になるのだが、然し、彼は達観しているように装って娘を宥めて来なければなら無いのだが、彼女が何度も《縁厳経》を読めるかと期待もし、中でも諸縁は夢のようで、道理に執着すべきで無く、身は是幻で、親の情はまた然り、世の中一切、全て名残惜しがるべきで無く、唯仏法の殊更の妙があるだけで、仏土を清めて、絶妙な蓮の花だけとも、常に開いて衰え無いで、清々しい香りは永遠にあって、色まるごと見事に咲かせているのだ。察するに晩年の王安石は全部の望みと興味すべてを仏教の上に集中させていたのだ。
 王安石には《華厳経解》があるが、蘇軾の《跋王氏華厳経解》に拠れば、王安石が仏陀の言葉を絶妙に語ったのは八十巻の《華厳経》に対して此の書只一巻だけであると感想を述べられており、残りは全て菩薩の言葉の解釈が道理に不足を感じるものであると説明されていた。此の書は、今は散逸して仕舞った。
 王安石には多種の経についての多種の注釈があるが、然し、今日には最早残っていず、僅かに残った関連する言葉の中からは、漸く彼の経義の理解への僅かな手掛かりが得られるに留るばかりなのだ。

 「五、高僧との付き合い」に続く


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