魂魄の狐神

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日本経済の破綻への私見 第十四回(国家の存在意義)

2007-11-02 01:04:33 | 憲法考

 国家とは『一定の領域に定住する人々が作る政治的共同体』と言う定義がある。では政治とは『国家およびその権力作用にかかわる人間の諸活動』と言う定義がある。

 これ等両定義から国家の存在意義を簡潔に纏める挙げると、国家の存在意義は、『一定の領域に住む人の為の福祉向上の役割を担う活動を行うことにある』となろう。

 新自由主義は行き過ぎた福祉国家への反省から、アダムス・スミスの『見えざる手』を信じたオーストリアの経済学者フリードリッヒ・ハイエクが経済活動への政府の関与を排除し、自由闊達な経済活動を奨励することで経済を活性化させ、国民全体への福祉の向上を図れると主張するものであり、必然として競争原理を是認するものとは言え、社会に行き過ぎた格差を是認するものでは無いのだ。言い方を変えれば新自由主義とは、福祉国家そのものの全面的否定を以って新自由主義を唱えたものでは無く、福祉を金科玉条として闊達な経済活動によって生まれる幸福への原資まで潰して仕舞った政府の規制への否定を論じたものと言えよう。

こうした新自由主義の基本理念を無視し、あたかも弱肉強食的競争こそ『國家』を繁栄させる唯一無為の手段だとし、自己の権益や利益の誘導に都合良く利用しようとする輩が新自由主義を盾に凶暴なまでの貪りを始めた結果、故無く窮乏生活を強いられた人々を創り出して仕舞ったのだ。枉った新自由主義者は『國家』の存在意義を曖昧にし、『國家』の繁栄を言うのだ。『国家』の存在とはある意味形の無い抽象的なもので、「国家の為などと言うこと」も極めて物事の本質を歪め、都合良く人を納得させる為に使われ続けてこられた言葉なのである。

国民の福祉向上を目指したとしても、その目的を枉げて仕舞って展開されれば、福祉国家論も新自由主義も国民の利益を生み出すものどころか、失政の付けを国民に回すだけの愚策に成り下がって仕舞うのだ。

どんな施策もそれを施行する者達の資質が悪ければ、国民の疲弊を生み出すものなのだ。逆に、国民が同じ価値観を持つものであり、為政者が彼らの意を汲み誠実にことを為すものであるならば、如何なる手法を使おうとも、国民の福祉は必ず向上するものであるのだ。


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