アパッチ蹴球団-高校サッカー篇:project“N”- 

しばらく自分のサッカー観や指導を見つめなおしていきたいと思っています。

サッカーにおける思考・判断とは?

2008年10月27日 14時20分59秒 | サッカーの謎
サッカーの指導者用のテキストなどに
最高の練習は『笑いながら、ぶっ倒れるような練習』
と書いてあることがある。



『笑いながら・・・(しかも)ぶっ倒れる・・・』
どんな練習をすれば、そのような状態になるのか?
そのテキストを読んだ当時もわからなかったし、
正直、今でもよくわからない。



ただ、最近おぼろげながら感じるようになってきたのは
やはり、考えながらプレーするような内容の練習の方が
サッカーの本質に近いのではないか、ということだった。



【考える】というのは
【状況判断】という場合もあるし、
【狙いをもってプレーする】という場合もある。
また、【相手との駆け引き】という場合もあるだろうし、
【気持ちを入れてプレーする】ということも
広義では【考える】という範疇に含むことも可能だと思う。



時間があれば、散歩がてらに
いろいろなカテゴリーのチームの練習や試合を見に行くが、
練習や試合の中で
『【考えて】プレーしてんの?』という指導者の声を聞くことが多い。



確かに、外から見ていても、意図がよくわからない・・・
プレーヤーの意図が見えにくい・・・
ということは間々ある。



小学生の指導現場ですら
『なんで~』
『どうして~』
『何考えてんの~』
といった声を指導者や保護者の方々が
発していることは少なくない。



小学生でも低学年や高学年によって
指導者の方や選手達の求めるものも違ってくるとは思うが、
ただ、感じてプレーすればいいような場合や
自分の中の本能に従ってプレーすればいい場合も
あるのではないか・・・そう思ったりもするが、
部外者が意見を言えるはずもなく、
チームの過程や事情も知らないので
見学させていただいた時間や経験を
自分の指導を振り返るいい機会にさせていただくことにしている。



小学生の指導は最も困難であり、最も奥が深いと
常々感じている。



小学生の指導現場を見た後で時々考える。
自分が小学生を指導していたら、
小学生に「考えろ」と言うだろうか?
もし、言うとしても、
小学生から『何をどう考えればいいんですか?』
と言われたら、どう答えるだろうか?
『「考えろ」って言われても、どう考えていいかわかんない』
と言われたら、どう対応するだろうか?



「サッカーにおける【考える】ということの意味を“考えろ”」という台詞で
大人のあざとい循環論法に逃げ込んでしまうのかもしれない。



そもそも、サッカーにおいて【考える】ということは
どういう意味なのだろうか?



もちろん、ヘディングという意味ではなく、
頭の中身を使うという意味には間違いないと思うが、
どういう頭の中身の使い方なのだろうか?



たぶん、頭の中身を使うからこそ、
おちゃらけるという意味ではない笑いが練習中に存在し、
『笑いながら、ぶっ倒れる練習』が最高の練習といわれるのだと思う。



『笑い』というのは、極めて主観的なものであり、
頭を使う行為でもある。



小学生こそ、頭を使って、笑いながら、
ぶっ倒れるくらいまで真剣に身体を動かすことができたら、
それこそ最高だと思う。



どうしたら、
練習中に『笑える』のか?
そもそも、サッカーにおいては
どうやったら頭を使ってプレーできるようになるのだろうか?



これはあくまでも自分の個人的な解釈であるが、
サッカーにおける頭の使い方は
【予測】にかなりの比重があると考えている。



“つまり、これから自分が何をすべきなのか?”
ということをいかに考えられるか?
いかに【予測】という作業を続けられるか?
ということこそ、
サッカーにおける頭の使い方だと考えている。



サッカーにおける思考の本質は【予測】にあると思う。



サッカーの場合、同じフィールドに敵と味方が基本的に同人数存在し、
攻撃と守備が流動的に入れ替わる。
守備時でも攻撃時でも、
相手の動きを如何に【予測】するか?
ということが
相手からボールを奪う、という守備の目的や
相手からゴールを奪う、という攻撃の目的につながっていく。



ただ、相手選手も自分達と同じように
常に【予測】しているので、
時には、敵の【予測】の逆を突くことも必要になってくる。
つまり、相手を騙す、ということが効果的になってくる。



主観的にはまったく逆のことを考えながら、
客観的には「次はこうするよ」と見せておく。



相手は騙された瞬間に
相手はくるっと回っていたり、
完全に足が止まってしまうことになる。



たぶん、これが最高の練習における『笑い』の正体ではないだろうか?
そんな気がしている。



お互いに【予測】をし合う、という意味での
頭の使い方や『笑い』のある練習は
それがゲームである場合があるだろうし、
グリッドを使った練習形式の場合もあると思う。



様々な形で【予測】という行為は可能であるが、
どんな練習形態を採るにしても
【予測】するためには
ボールの行方や
ボールの状態(ボールがどのような状態で保持されているのか?)、
敵のポジショニングや目線、
味方の位置などを見ておくことが必要になってくる。



さらに、ボール、敵、味方、という常に動くものを
何時見ておくべきなのか?
そのことも
【予測】という判断や頭の使い方をするためには
極めて重要な要素になってくる。



“何を見るのか?”
“何時見るのか?”
この判断や行為こそ、
【予測】や頭の使い方にとって、
重要な要素。



最も頻繁に動くボールだけを見てしまうと
味方の位置を確認するどころか、
敵を見ることすらできない。



かといって、
敵ばかり見ていると
ボールの行方を【予測】できない。



悲しいが、スタンドに居ない限り、
プレーヤーは
すべての敵とボールを同一視することはできない。



では、どうすべきか?



極めて、現実的な1つの方法として、
味方同士で見えにくい部分を
チーム全体の判断と声で補っていく、
という方法はある。



ただ、より本質的な方法としては
1人の選手が可能な限り、
ボールと敵の動きの予測をするために
どのような目の動かし方をすべきか?
ということも考えるべき。



レベルの高い選手やチームこそ、
ボールが蹴られた瞬間やボールが動いている間に
如何にボールから目を切って、
敵や味方を見ることができるか、
ということにこだわっている。
1人1人の選手の目線がすごい速さで動いている。
視線が飛び交っている。



ボールは絶対に直角には動かない、
ボールは自らの意思で方向を変えることはない。
ほとんどの場合、直線的に動き、
多少、曲がる程度。
蹴る直前の選手のボールへの入り方や蹴り方で
ボールの行き先は予測できる。



ただ、ボールばかり見ていると
敵の動きを見ることができないので
少しずつ対応が遅れてしまう。



特に疲れてくると
人間も動物なので
動くものを反射的に見る、
という習性に支配されてしまう。



そういう時こそ、
いかにボールから目を切れるか?



特に、ボールが蹴られた直後に
ボールから目を切って、
ボールの行き先を【予測】できるか?



敵を動きを見ながら、
1つ先、2つ先、3つ先の動きを予測できるか?
先回りしたり、
相手の逆を突くことができるか?



相手にボールを繋がられている時間において
完全なボールウォッチャーになっていては
相手のミスがない限りは相手からボールを奪えない。



予測して相手からボールを奪うためには
相手よりも速く考えるためには
ボールが“キックされた瞬間”にこそ、
自らの意思でボールから目を離せるか、
ということこそが大きな分かれ目になる。



この行為こそが
【予測】という判断において、
極めて重要な分岐点だと思う。



相手よりも速く【予測】ができれば
フィジカルの差はどんどん小さなものになる。



フィジカルのない選手の多い今指導しているチームでこそ、
サッカーで頭を使うこと、【予測】すること、
そのために正しいタイミングで
ボールから目を切ることにこだわっていきたいと思う。



不作為という甘え

2008年10月14日 16時27分49秒 | メンタルの謎
先日、キャプテンと上級生の2人から
「話があるんですが・・・」と言われ、
練習をトレーナーの方と若いコーチにお願いして、
選手2人といろいろと話をした。



選手からの主張の中心は
『新人戦に向けてのメンバーの選考方法』についてだった。
それと関連して、
夏の選手権地区予選の練習内容やメンバー選考、
関連してインターハイ地区予選での闘い方についても
選手からは言いたいことがあったようだった。



選手からのアプローチで話し合いをセッティングするということは
選手側にしてみると言いたいことがかなりある状態か、
かなり切羽詰っている状態であることが多いので、
練習と平行した話し合いだったが、
時間を気にせず、選手と話し合った。



まずは、選手側の意見を聞き、
それに対して、こちら側の意見や考え方を伝える、
という形で話し合いは進行していった。



基本的には、
『なぜ、監督がこういう選手を選ぶのか?』
『なぜ、この選手を使わないのか?』
『なぜ、こういう練習なのか?』
『自分達はこう考えるが、どうか?』
という質問が多かった。



質問の根底には
『監督の真意や意図が見えにくい』
という点にあったようだった。



その話し合いでは
1つ1つの質問に監督としての自分の考えを説明した。



選手からの意図も自分には伝わってきたし、
自分の考えや根拠も選手には伝えた。



最後に選手の1人が
『監督はもっと今回の話し合いのようなことを選手全員に伝えるべきだと思う』
という直球を投げてくれた。



春休みやインターハイの予選前には
戦術的な説明を練習時や練習前に
詳しく説明していた。



その結果かどうかわからないが、
インターハイ予選ではリトリートという守備戦術を中心に
地区予選の決勝までいくことができた。



ただ、インターハイ後のある選手のサッカーノート上で
『話が長すぎる』
『もっと簡潔に話しをしてほしい』
という意見があった。



こちらとしては
できていないからこそ、
何度も話しているつもりだったが、
できていないということは単に今できていないことであって、
頭の中では十分過ぎるほど理解している、
ということなのかもしれない・・・と解釈し、
進学校の選手達は1回もしくは一言いえば、
理解するのかもしれない・・・、
サッカーにおいても一言えば十理解するのかもしれない、
そう考えて、
戦術的なテーマや自分の考えは簡単に一言だけ簡潔に伝え、
繰り返さないようにした。



その結果、
今回のような選手とのコミュニケーションが
機能不全に陥ってしまうような結果になってしまった。



インターハイ後の選手権予選までは
テーマの中心が攻撃の部分にあったこともあり、
チームとして1つの絵を共有しにくかった、
ということもあるのかもしれない。



また、私自身は選手と直接話し合うことを嫌だと感じたことは一度もない。
直接口頭で話し合うのでも、電話やメール等でも。



直接言いにくい場合でもサッカーノートや携帯メールを通じて、
言いたいことを伝えてくれれば、
その都度、自分の考えを伝えるつもりだったし、
悩んでいる選手や言いたいことのある選手の話は
どんな時でも聞きたいと思う。
話し合いたいと思っている。



選手と戦術的な話やサッカーの話をするのは
私自身まったく抵抗がない。



選手とプライベートな話をするつもりはないが、
サッカーの話やチームをもっと良くしていこう
という建設的な話し合いは
時間の許す限りやりたいと考えている。



友人だけでなく、選手やいろいろな人達と
サッカーの話し合いをするのは
本当に愉しい時間。



たとえ、意見が衝突したとしても
お互いに何も言わずに不信感が増幅していくことに比べたら
よっぽどいい。



選手には
「しゃべらなければ、伝わらないだろう!」
「伝えようとしなければ、何も伝わらない!」
と言って、
コミュニケーションの必要性を
何度も何度も伝えてきたつもりだったし、
試合中や練習中にコミュニケーションの取れない選手には
厳しく伝えてきたし、
どんなに実力があってもあえて試合に出さない、
ということも時にはしてきた。



そういった選手に物足りなさも感じてきたし、
何とかコミュニケーションによって
“チーム”として戦ってほしい
チームが本当の意味で“チーム”として機能してほしい、
味方との関係が単なる足し算ではなく、掛け算になるように、
少なくとも引き算にならないように
味方同士でコミュニケーションをとってほしい、
そう思って選手に伝えてきたつもりだった。



それでも選手はなかなか変わらない様子を感じながら、
選手の姿勢を受身に感じ、
苛立つこともあった。



『言わなくてもわかるだろう・・・?』と
言わんばかりの選手達の姿に
自己中心的な甘えを感じ、
希望を失いそうにもなった。



それでも、選手が変わることへの可能性を信じ、
自分なりに我慢してきたつもりだった。



でも、もしかしたら、
一番甘えていたのは自分自身だったのかもしれない。



「言わなくてもわかるだろう・・・」
「一度言えばわかるだろう・・・」
「何度も言っているから伝わっているよな・・・」
「俺は言っている。後は選手が変わるのを待つしかない・・・」



どこかで、選手に期待し過ぎていたのかもしれない。
選手の成長を受身で待っていただけなのかもしれない。



本当に、選手に伝えようとしてきたのか?
選手になんと思われても、伝えるべきことを
しつこく何度でも伝える勇気を持ち続けていたか?
伝えているつもりになっていなかったか?



振り返ると自分自身が一番受身だったのかもしれない。



自分自身の理想のチーム像は
指導者と選手がぶつかり合いながら、少しずつ作られていく・・・。
指導者主導でもなく、選手主導でもない。



お互いが言いたいことを言い合ってこそ、
チームは本当の意味で“チーム”になっていく・・・。



そう思っていたはずなのに・・・
監督である自分自身が
一番壁を作っていたのだろうか?



監督という立場を利用した不作為によって、
選手とチームが
自然といい方向に変わっていくとでも思っていたのだろうか?



やるべきことをやるべき人間がやらなければ、
時として作為によるよりも酷い結果になることも多い。



不作為はやらないのと同じ。
言わないのは、言うつもりがないのと同じ。
そういう場合も少なくない。



もちろん、
選手は監督のロボットではないし、
一から十までを常に伝えるつもりもないが、
伝えるべきことは選手からなんと思われようとも
何度でも伝えたい。



また、サッカーにおいてプレーするのは選手なので、
選手の閃きや柔軟な判断、考えてプレーする習慣を奪うことがないように
選手に何かを伝える時は言葉を選びたいが、
選手に一方的に期待して、
何も言わないでおくということは
できるだけ避けたいと思う。



また、選手からのパスをいつでも受ける、
窓はいつでも開いている、
というメッセージは常に発信していきたい。



選手と適切な距離感は保ちつつも
選手からの話はいつでも聞き、
それに対して監督としての意見を投げ返したい。



選手達とサッカーについての建設的な話をするのは何の問題もない、
というメッセージは伝え続けたい。



今は試験期間中ということもあって、
新人戦(兼関東大会予選)まで話し合いや練習は数える位しかできないが、
少しでも選手と言葉のやり取りや
サッカーについての意見を交わしながら、
スタッフと選手とが少しでも同じ絵を共有した状態で、
新人戦を迎えたいと思う。

練習の先に、どんな景色が見えるのか?

2008年10月13日 21時32分24秒 | メンタルの謎
地上波のNHK総合テレビで
北京オリンピックの柔道(JUDO)で
100キロ超級で優勝した石井慧選手の特集をやっていた。



石井選手が国技ともいえる日本の柔道界に身を置きながらも
ヨーロッパや世界で意識されている「JUDO」を意識しながら
練習と研究を重ねた結果、金メダルを手にした過程が、
本人のインタビューと合わせる内容で、
番組が構成されていた。



石井選手が勝利にこだわり、
負けない柔道を常に意識していたことや
5分という時間の幅で最終的に試合に勝つ為の戦術や作戦というものを
考えていたというのはとても勉強になった。



日本の柔道界においては
礼儀に始まり、
相手としっかり組み合って、
技を競い合う、
というのが通例になっていたようだったが、
世界の「JUDO」は相手に組ませずに
いかにポイントを重ね、
試合に勝利するか、
ということを考えるようになってきているとのこと。



もちろん、日本の「柔道」においても、
勝つ為には守備や作戦も必要だろうし、
そのために真摯なトレーニングを選手の方々は
積み重ねているのだとは思う。



石井選手も自分自身のしっかりとした考えに基づいて
斉藤監督とハードな練習を重ねられていた。



映像の中における石井選手自身の言葉で印象的だったのは
『オーバーワークが奇跡を生む』というフレーズ。



練習の過程で追い込んで、追い込んで、追い込むことでこそ、
試合の中で『奇跡』に近いものが生まれる、
ということなのだろうか?



石井選手の言葉を聞きながら、
昔、聞いたプロゴルファーの小林浩美選手の言葉を思い出した。



小林選手は今は選手を引退されて、
協会の仕事をされているようだが、
選手としてアメリカツアーに挑戦されている当時、
なかなか結果が出ず、
精神的にも落ち込んだことが少なくなかったとのこと。



小林選手がゴルフという競技そのものを辞めようと思った時、
ゴルフ以外の世界でとことん自分を追い込んで頑張っている人のことを知り、
『本当に自分は全てやりきったのだろうか?』
『やれることを全部やったといえるのだろうか?』
その都度、何度も自問自答したのだという。



その結果、『まだまだ自分はやりきっていない』と感じ、
競技を辞めずに、アメリカでの挑戦を続けた・・・とのこと。



石井選手も小林選手も
世界という舞台で自分の限界に挑んでいた。



石井選手の金メダルはその過程の先にあった。
石井選手の番組を見た後に、ふと考える。
自分はやりきっているのだろうか?



指導者として。
今、指導している環境は
世界相手に戦う、という場所ではない。



それでも、今いる場所で
限界に挑戦することで
何かが生まれるはず。
何かが変わるはず。
何かが残るはず。
自分は指導者として
自らの限界に挑戦しているのだろうか?



指導者としての未熟さに
原因があるのだと思うが、
今、指導しているチームでは
全力を出し切っている雰囲気にはなっていないのが現実。



練習が始まる前にチーム全体で集合して
その日のテーマを説明したり、
テンションを上げようとしている時に
下を向いている選手、
ニヤニヤしている選手、
あくびをしている選手がいることが時としてある。



もちろん、そういった選手は少数なのだが、
まだまだ、自分の準備の甘さやモチベーションの上げ方に
問題があるのかもしれない。



練習における効率の良さは
選手の集中力につながるとは思うが、
形の上だけで練習の効率の良さを満足していても、
何か足りない気がする。



特に、練習への入り方と練習の終わり方は
その日の練習の成果に大きく影響してくる
と考えている。



今、指導しているチームはプロを養成する場所ではない。
誰一人、プロを目指している選手はいない。
意識が高くないのが普通なのかもしれない。



また、練習も週3回だけなので、
今、指導しているチームの練習においては
石井選手の練習のように
『オーバーワーク』にする所までは行けないかもしれない。



それでも、練習に対する考え方次第では
試合で『奇跡』を起こせるはず。



短い時間でも、選手の気持ちの中に
『やりきる』『追い込む』『出し切る』
という気持ちを持たせることができれば、
選手もチームも少しずつ変わっていく、と信じたい。



新人戦は目の前の試合に集中しながらも、
最終的には地区予選突破というところまでなんとか辿り着きたい、
と考えている。



夏の選手権地区予選で都大会出場チームに
大敗した現状を考えると
新人戦で都大会出場というのは
『奇跡』に近い目標設定だが、
「練習をやりきる」
「自分を出し切る」
「自らを追い込む」
といった意識をもってチームとして練習を重ねていきたい。



足りない部分は選手の自主練で補えることを信じ、
大会を迎えたい。



大会に向けて、
試合に繋がるような練習をしていきたい。
試合での勝ちが見えるような練習をしていきたい。


フィジカルコンタクトというスキル

2008年10月12日 14時34分00秒 | 技術の謎
サッカーにおいて、
【アーリーヒット】という言葉がある。
プレーしている方や指導者の方にはなじみの言葉。



現役を引退した中田英寿選手のプレーを取り上げて、
『中田選手はアーリーヒットが上手い』という解説者の言葉を
記憶している方も少なくないと思う。
他にも、アントラーズやヴェルディにいたビスマルク選手は
【アーリーヒット】や身体の使い方が上手い選手として
印象に残っている。



【アーリーヒット】とは
「出されたパスに対して、
 まずボールを触りに行かず、
 自らボールに寄りながらも、
 相手選手にパスコースに対して身体を入れさせず、
 相手を自分の身体でブロックしつつ、
 ファーストタッチをする」
そんなイメージ。



いきなり相手の存在を意識せずにファーストタッチすると
ファーストタッチしたする直前の不安定な状態でチャージされ、
バランスを崩して、ファーストタッチがぶれてしまう。
なんとか相手のチャージを堪えたとしても、
ファーストタッチの瞬間を相手は狙ってくる。
少しでも、ファーストタッチがぶれたら、
そこに身体を入れてくる。



そうさせない為にも、
ボールに触る前にも、注意深く相手の存在を意識し、
相手に自分の身体を当ててから、
ファーストタッチする。



もちろん、タイミングを間違えると
オブストラクションになってしまうので、
ある程度、練習が必要になってくる。



今、指導しているチームでは
FWやMFの選手達は
正直なところ、
【アーリーヒット】ができていない。



それどころか、
「相手に身体を当てる」という意識そのものが
まだまだ低いよう印象を持っている。



具体的には
攻撃における【アーリーヒット】が出来ていないだけでなく、
守備の場面で身体を当てる意識の低さが目に付くことが
その根拠になっている。



相手が前を向いて、
利き足でボールを持っていたり、
利き足側のいい場所にボールを置いている状態で
相手にしっかりとヘッドアップされていては
足を出しにくかったり、
身体を当てられないということもあるかもしれない。



しかし、
それ以外の悪い持ち方をしている時や後を向いている時など、
身体を当てることが出来る時や身体を当てるべき時などに
身体を当てにいかないことが多い。



相手と接触せずに足だけをボールに伸ばし、
身体を当てることはほとんどない。



もちろん、それでボール奪取できれば問題ないが、
悲しいかな相手が都大会クラスのチームだと
ほとんどボールは奪えない。
もちろん、スライディングするわけでもない。
これでは、相手のイージーミス以外ではボール奪取できるはずもない。



実際、今まで大会でもリーグ戦でも、練習試合でも
相手がある程度のレベルだと
ボール奪取回数は極端に下がってしまう。
高い位置でのボール奪取となると、
片手で十分カウントできる回数になってしまう。



サッカーというスポーツは様々な要素を持つが
格闘技というか接触プレーを前提とする部分は確実に存在する。
表現を変えると
接触プレーがないのはサッカーではない。



今、フットサルのワールドカップが行われているが、
フットサルでさえ、レベルが高くなると
激しい接触プレーは多い。
直接的なタックルやショルダーチャージはなくとも
球際での攻防は激しい身体のぶつけ合いになっている。



フィジカルコンタクトがサッカーの本質的な要素だとしても
守備における身体の当て方は
フィジカル云々の問題ではなく、
あくまでも技術や意識の問題だと捉えている。



身体的な強さが
【アーリーヒット】という技術や球際の強さを
裏付けることはあるかもしれないが、
接触プレーはファールでない限り、
本質的に技術の問題であり、
意識の問題だと解釈している。
そうでないとサッカーは完全にプロレスになってしまう。



過去に守備におけるフィジカルコンタクトで
強く記憶に残っている選手がいる。
Jリーグがが始まった頃のヴェルディ川崎に所属していた
カピトン選手(本名:オレウデ・ホセ・リベイロ)。



優勝を決めるサンフレッチェ広島との試合で
広島のハシェック選手やノ・ジュンユン選手が
前を向いていいボールの持ち方をしていても、
スーと身体を寄せて、
相手のスピードを減速させて、
横を向かせる。
相手が横を向いた瞬間に腰を中心とした身体の軸を
相手に絡ませるようにしながら、
ボールを奪う。
ボールを奪えなくても、
相手の足から悪い形でボールを出させる。
いいパスの出させ方をしない。



カピトン選手は決してフィジカルに優れた選手ではなかったが
その身体の寄せ方の上手さ、
フィジカルコンタクトにおける身体の使い方の上手さは
本当に玄人好みな選手だった。
守備における身体の入れ方のお手本となるような選手だった。



ノ・ジュンユン選手のようなスピードのある選手も
ステップワークで相手のスピードを吸収し、
まるで蛇が自身の身体を獲物に絡めて捕らえるように、
相手がスピードを緩めた瞬間に
腰や腕を相手に絡めてボールと相手の間に身体を入れてしまう。
こんなボールの奪い方もあるのか?
とある意味、衝撃を受けた選手だった。



それまでの自分は
しっかりと寄せて、
いいアプローチで相手よりも先に止まり、
相手のコントロールミスを狙ったり、
または、
極端にインターセプトを狙う、
というイメージでのボール奪取が多かった。



もちろん、接触プレーは嫌いどころか、
どちらかというと好きだったし、
抵抗など全くなかった。
相手が後向きでボールを持とうものなら、
絶対に前を向かせないように
思いっきり身体を当てていくのが好きだった。



ただ、相手に前を向かれた時には
テクニックのある選手には苦労していた。
フィジカル勝負で相手からボールを奪いたいのに
相手がそうさせてくれない、
飛び込めない、
そんな選手は本当にやりにくかった。



当時のカピトン選手のプレーから
前を向いている選手からボールを奪うのは
フィジカルが足りないからではなく、
技術が足りないからなのだ、
ということを間接的に教えてもらった気がする。



同じようなことを
自分が今、指導している選手に
直接的に伝えていきたいと思う。



接触プレーがないのはサッカーではない。
接触プレーを怖がらず、
接触プレーのあるのが大前提なのだ。
ということを。



その中で、何ができるのか?
また、局面局面で何をすべきなのか?
どのようなフィジカルコンタクトをすべきなのか?



「無駄な接触プレーをすべきではない」という人もいるが、
それは、接触プレーをすることが当たり前になって
初めて言うべきことであって、
フィジカルコンタクトそのものが
習慣化されていない選手に言うべきことではない。



理想はフィジカルコンタクトなしに
ボールを奪い、攻撃することなのかもしれないが、
たぶん、サッカーでその理想は存在しない。
フィジカルコンタクトのないサッカーは手の届かない理想であって、
現実ではない。



理想と現実との妥協点として
「守備ではフィジカルコンタクトを厭わず、
 反対に攻撃の時には相手にフィジカルコンタクトさせない」
というのはありうるのかもしれない。



ただ、今は指導しているチームで
選手達がフィジカルコンタクトを厭わなくなること、
フィジカルコンタクトは技術であること、
フィジカルコンタクトがある中で
相手と駆け引きをしていくことを伝えていきたい。



もちろん、インターセプトが守備の最優先であることは否定しないし、
そういったプレーは積極的に褒めたいと思う。



ただ、
「プレーが軽い・・・」
「優しい(緩い)プレーが多い・・・」
「球際がぬるい・・・」
といった評価を試合後にされることが多いチームの現状においては
球際の厳しさを強化することをまず考えていきたい。



そのために、しっかりとしたマークをすることや
予測を前提にいいアプローチをすることも大切だが、
大切なのは相手からボールを奪うことであって、
そのためには相手が上手くなればなるほど
フィジカルコンタクトという技術が絶対に必要になる、
ということを伝え続けたい。



また、フィジカルコンタクトだけでも
見ている人や応援してくれている人、
試合に出れない選手にも
何かが伝わる試合が
これから始まる新人戦(兼関東大会予選)においても
できればと思う。

歌うのは誰?

2008年10月09日 14時03分34秒 | コーチングの謎
指導者の仕事は何なのだろうか?
時々、考える。



教師・医者・カウンセラー・親・兄弟・・・
様々な面を持っているとは思う。
もちろん、監督とコーチ、トレーナーなどでは若干違うが
重なり合っている部分もある。



その時々でどんな顔を持つべきか?
考えながら、感じながら、
様々な役割を演じている。
自然と様々な顔で選手と対応している。



でも、最近、
一人の〝大人〟として、選手達にどう対応すべきか?
ということを考えることが多い。



『オーバーコーチング』の弊害については言われて久しいが、
自分の場合、どちらかと言えば、
選手と距離を取る方なので
『オーバーコーチング』になることは
あまり無いように感じているが、
常に悩み迷う部分ではある。



指導者としての仕事は何なのか?
選手に何をすべきなのか?
今指導している高校生の将来を考えて、
今、自分のできることは何なのか?


また、そもそも、サッカーとは何なのか?
サッカーをどのようなものとして捉え、
指導者は選手に何ができるのか?
選手に何をして、何をすべきではないのか?
常に、悩む部分ではあるし、
指導者である以上、
常に考え続けなければならない。



日本サッカー協会に指導者登録していると
定期的に『Technical news』という冊子が送られてくる。
最新刊の『vol.27』に興味深いインタビュー記事があった。
『特別対談「世界で戦える選手を育てるために」
 岡田武史(日本代表監督)×布啓一郎(JFAユースダイレクター)』
(JFA技術委員長の小野剛氏が司会進行役)
仲間内のざっくばらんな会話という感じで記事は進行していくが、
本音に近いものも感じられ、
とても面白かった。
その中で、印象的だったフレーズが幾つかあった。



このブログを目にしていただいている方々の中には
『Technical news』というマニアックな冊子を目にする機会のない方も
いらっしゃると思うので、
今回は少し長くなるが、一部を抜粋してみたい。



『布:選手が「答え」を求めないということですよね。
   よく言われるように、コーチの思う「答え」を選手が求めてやると
   結局コーチのやりたいようなサッカーしかやらなくなってしまう
   ということだと思います。
   サッカーというのは自分で考えてやらなくてはいけないスポーツなのに。

岡田:対戦相手の分析でも同じことが言えますね。
   日本は分析がすごく発達しています。
   かつて、ジーコ(元日本代表監督)がテクニカルスタッフに
   こう言ったそうです。
   「すごい分析だ。
   こういう分析をブラジルがやったら絶対に世界で負けない。
   でも、サッカーはストレスになってはいけないんだ」と。
   要するに、彼らにとってサッカーというのは
   そういうものではないんですね。
   それができればそれはそれですばらしいのだろうけど、
   それをやるとああいう閃きがある意味なくなるのかもしれない。』



ジーコ氏の言いたいことも、
布・岡田両氏の言いたいことは
本当によくわかる。



個人的には、日本サッカーも今、自分が指導しているチームも
組織的なサッカーを指向すべきだと思うし、
勝つためには絶対に必要な部分だと考えている。



どの国でも、どのチームでも監督や指導者が悩んでいるように
組織と個人のバランスはサッカーにおける永遠の課題。



サッカーの本質は何か?
サッカーをどう捉えるのか?
それによって、バランスの取り方は微妙に変わってくるし、
普段の練習や試合においても、
指導者のスタンスやコーチング、声掛け、選手のプレーの捉え方が
変わってくるはず。



ただ、ここでも【オーバーコーチング】という言葉の影が頭をちらつく。



組織や約束事を積み重ねていくにつれて、
選手の能動性を奪ってしまうのではないか?
守備では組織的なものを強化していきつつも、
攻撃においては守備とは異なった組織と個人のバランスの取り方が
必要なのではないか?



自分自身の過去を振り返ると
遊びだった小学校時代とはうって変わって、
中学校は殴られ走らされるサッカー・・・
センターリングをミスすれば殴られ、
自分の意見が先生の意見と違えば殴られ、
とにかく走らされ、1日10キロ以上走った日も少なくなかった。



何のために、誰のためにサッカーをやっているのか
冷静に考えるとよくわからなかった気もするが、
それすらも考えられずにただ走っていた。



組織も戦術もない、身体能力に頼った速いだけのサッカー。
組織も戦術もない。
負けると先生に怒られるので、
試合中はとにかく勝つ、どんな手を使ってでも勝つ、
たぶん、対戦チームからすると
喧嘩みたいなサッカーだったと思う。
ただ、やっている側としては
失敗を恐れて、シュートを怖がり、
先生の方を試合中も見てしまう・・・そんなサッカーだった。
【オーバーコーチング】とは異なるが
間接的な強制サッカーだったの気がする。



自分自身の経験もあって、
指導者になってからは戦術や組織を重視するようになった。



もちろん、戦術を組織的に実行するために
必要な走りやフィジカルの強化をすることはやってきたが
基本的には一定の目的のために
走ってきたとは思う。



自分なりに自分の過去の経験や失敗と向き合いながら
手探りで指導者というものを模索してきた。



20年近く指導者をやってきた今でも、
指導者とは何か?
組織と個人のバランスをどう取るべきか?
悩み続けている。



例えば、
いくら組織プレーを重視しても
シュートのタイミングやシュートのコースといった場面においては
組織ではなく、個人の判断に委ねられる。
シュートという行為は100%個人の判断に委ねられるべきもの。
シュートを打つタイミングはシュートする本人以外が決めるべきではないし、
ゴールできるタイミングを誰かが教えてくれるわけではない。
また、誰かに言われてシュートを打ったり、
誰かに強制されてシュートを打つものでもない。



シュートの場面に代表されるように
組織や戦術は大切な場面での個人の判断を助けるためのものであり、
個人の判断を促すために組織プレーが存在するともいえる。
個人の意思の存在しないプレーには違和感を感じる。
プレーの全てが組織や戦術で完結するわけではない。



もちろん、個人のプレーと組織のプレーを厳密に分けることはできないし、
自分のためにもチームのためにもプレーする、
という価値観のは一人の大人として選手に指導者として伝えたいと思う。



しかし、サッカーというのは本質的に
やらされてやるものではない。
自分でやるもの、自分で答えを出すもの、
自分で答えを見つけるもの。



好きで始めたサッカーだからこそ、
そうあってほしいし、そうあるべきだと思う。



どんな選手でも、勝ちたいし、負けたくない。
いいプレーをしたいし、自分自身のプレーに納得したい。
そのために、フォーメーションに頼り、戦術に依存したくなる。
しかし、悲しいかな
完璧な組織は存在しないし、
完璧なフォーメーションも完璧な戦術も存在しない。



また、完璧なフォーメーションや戦術は
あるべきものではない。
あくまでも、戦術やフォーメーションは
個人の判断を助けるものであって、
戦術が個人の閃きを制限するものであってはならない。



もちろん、
戦術がなければ、チームとしての形すら見えにくいが
戦術が全てではない。



ゴール前に代表されるように
戦術でカバーしきれない部分は個人の判断で補うべきだし、
戦術よりも個人の判断が優先される場面も少なくない。



サッカーはやらされてやるものではない。
自分自身の意思でスパイクを履き、
自分自身の足でグランドに入り、
試合の中で自分で答えを見つける。
味方同士で声を掛け合い、助け合い、
自分達の意思と気力で困難な状況を打開していく。
そういった過程こそ、選手を成長させていくはず。



戦術や組織の構築も指導者の役割だと考えているが、
選手個人の閃きや自主性を失わせないように
指導者の役割について模索していきたい。



音楽が好きになって、
自分も歌いたいと思ったなら、
自分の声で思いっきり歌えばいい。



チームとしてこの歌を歌おうと決めたとしても、
アドリブがあっていい。
歌詞を間違えてもいい。
自分の声で歌えばいい。



下手でもいい。
綺麗な声でなくてもいい。
味方と相手と向き合いながら、
真剣に歌を歌う。



本当に、歌いたいのであれば、
自分達の声で歌うのだ。
伝わればそれでいい。



歌が完成しなくてもいい。
自分達で何とかすればいい。
味方と助け合いばいい。
それでいい。



好きで始めた歌ならば、
後悔しないように。
歌いきって終わって欲しい。



選手達が自分達の意思で歌い続けられるために、
頑張ってきた味方と一緒に歌い続けられるように、
応援してくれている人達に伝わるように、
自分自身で納得してステージを降りられるように、
監督として何ができるのか?
考え続けたい。

メンバー選定の基準と判断方法

2008年10月07日 12時29分48秒 | コーチングの謎
新人戦(兼関東大会予選)が今月末から始まるが、
試験準備期間と重なることもあり、
思ったような練習はできなくなる。
その分、選手に自主トレを促したり、
試験期間中も何日か校庭で1時間位は練習できるように
顧問の先生にお願いしている。



もちろん、学生である以上、
勉強が最優先であるので
試験勉強と新人戦への準備とそのバランスについては
悩むところではあるが、
落しどころとして
試験期間終了まで約1時間の学校練習を何日か行うことで
対応したいと考えている。



個人的には
チームの一体感を常に意識しながら
練習も試合も行いたいと考えているので、
試験準備期間中もチーム全員で練習したいとは思っている。



ただ、チーム全員で約1時間の練習を行うにしても
大会まではグループを分けて練習するつもりではいる。
一方のグループは大会エントリー予定のメンバーを中心にし、
もう一方のグループは万が一に備えたバックアップメンバー
ということになる。



試験準備期間中の練習はエントリーメンバーだけでもいいのでは?
という考えも当然あり得るが、
「チームの〝一体感〟の確保」と
ウイルス性の疾患等、何らかの事情で
エントリーメンバーの多くが出場困難になった場合のことも想定して
変わりに出場したメンバーのコンディション不良ということのないように
全員で練習していきたいと考えている。



そのグループ分けは大会の抽選も終わったので
対戦相手を想定しながら
自分達が練習でやってきた戦術を軸にしつつも
予想される展開を考慮した上で
様々な状況に対応できるように
エントリーメンバーを選ぶつもりでいる。



攻撃的に戦うのか?守備的に戦うのか?
先制された場合、先制した場合、
それぞれの場合でどのいう現象が想定されるのか?
残り5分で先制された場合、
残り10分で同点に追いつかれた場合、
残り5分で先制した場合など
様々な状況を想定した上で
選手を選びたい。



また、選定の基準は選手の〝実力〟で判断したいと思っているが
何をもって選手の実力を判定するのか?
その判断基準は?



自分の場合、
①メンタリティー
②戦術的な理解力判断力
③コンディション
④技術
⑤フィジカル
⑥ポテンシャル
という6つの基準で選ぶようにしている。



ただ、この判断は簡単ではない。



①の「メンタリティー」1つ取ってみても
簡単に判断できるものではない。
苦しい状況で頑張れるのか?
集中は切れやすくないか?
冷静にプレーできるか?・・・
など色々な面でのメンタリティーの判断基準というか要素がある。



②の「戦術的理解判断」においても、
攻撃における判断、守備における判断、
局面における個人での判断、
グランド全体を俯瞰したチームとしての判断、
それぞれの判断が適切にできているか?
また、そういった判断を冷静にしようとしているかどうか?



また、自分は自分は指導者として監督として
コミュニケーション能力やコーチングする能力、味方に伝わる声、
といったものを重視しているが、
この部分は戦術的な判断と同時にメンタリティーにも跨ってくる部分なので
純粋に客観的に評価するのは困難な部分ではある。



また、③の「コンディション」と⑤の「フィジカル」は
ある意味、重複しているようにも感じられるかもしれないが、
例えば、ある選手の運動能力が最大で90あったとしても、
現段階ではその50%も出せない状態であれば
コンスタントに60の実力を100%出せる選手の方が
計算できるということになる。
ただ、この部分も①の「メンタリティー」という部分とも
深くかかわってくる可能性があるので
簡単に数値化できるものでもない。



④の「技術」にしても、
攻撃的な場面だけでなく
守備的な場面でも求められるものだと考えている。
例えば、
ヘディングやタックル、スライディングやボールへの身体の入れ方、
守備においてはフィジカル勝負と勘違いしている選手も多いが
技術無くして、レベルの高い選手からボールを奪うことはできない。
また、攻撃面において、
フリーであれば冷静にプレーできる選手であっても
プレッシャーがきつい状態で何もできないようだと
持っている技術も絵に描いた餅になってしまう。
なかなか今のチームの選手には居ないが・・・
修羅場で使える技術こそ、本当の技術だと思っている。



⑥の「ポテンシャル」というのは
最も客観的に判断しにくいものだとは思う。
その選手がどんな意識で普段から練習に取り組んでいるのか?
実際に練習中から自分の実力を出し切っているのか?
自らを追い込んで、ギリギリまで自分の実力を引き出そうとしているのか?
そういったことを続けている選手には
ものすごく〝可能性〟を感じるし、
いわゆる〝化ける〟選手は
普段の練習の様子で高い「ポテンシャル」を感じることができる。



もちろん、実際に出場してみると
雰囲気にのまれたり、周囲や相手との関係で
自分の有している「ポテンシャル」の半分も出せない選手も少なくない。



これは代表レベルでも同じようなことがある。
ジーコ元監督、オシム前監督、岡田現監督にしても
時として、
『何故この選手を交代で使うのか?』
『何故、この選手を交代させないのか?』
といった批判を事後的に評論家から浴びせられることが多い。
例えば、オシム前監督時代もアジアカップにおいて
『何故、羽生を使うのか?使い続けるのか?』
という批判を浴び続けたが
推測するに、
後半の残り時間の少ない一番疲れてくる時間帯こそ、
羽生の運動量が活きて来るはず・・・
そういった羽生の運動量や走りに
オシム前監督は「ポテンシャル」や〝可能性〟を見出したのだと
個人的には解釈している。



また、個人的には選手の実力を評価する際に
その選手個人を単体で評価するのは極めて危険だと考えている。
その選手が個人としては能力が高くても
周囲との関係でその能力を活かしきれない・・・
というのはよくあること。
選手は機械ではないし、機械の部品のように扱えるものではない。
プロの世界では
実力が金銭で評価され、
あたかも機械の部品のように扱われるが
チーム内における実際の物事はそんなに単純ではない。
いいFWが来たら、
得点を量産し、チームも連勝街道まっしぐら・・・
というのは幻想だと思う。



究極の機械部品の集合体であるフォーミュラーカーであっても
同じようなことが言える。
車のスピードを上げるには単純にエンジンを載せかえればいい、
というものではない。
タイヤやシャーシとのバランスなど
何かを1つ変えることで
全体からバランスを見直さなければならない場合がほとんどだと思う。



サッカーのチームにおいても
F1の場合と同じように考えることはできる。
組み合わせで活きて来る選手もいるし、
組み合わせで能力を出し切れない選手もいる。



ただ、サッカーの場合に面白いのは
予想外の化学反応が選手の組み合わせや選手交代で生まれることが
時としてありうること。



「ポテンシャル」という部分と重複するが、
客観的に数値化できない〝可能性〟という要素が
その選手のみに留まらず、
チーム全体に、いい効果を与えていくこともある。



もちろん、反対の場合もある。
一時のレアルマドリーや野球の人気チームにおいても
選手一人一人の能力は高いが
チームという単位で考えた場合、
一人一人の能力がチーム内で相殺されてしまっているということも
十分ありえる。



ただ、チームという枠組みの中で
「周囲も活かし、自分も活きて行く」
「周囲によって自分は活かされている」
「自分の為だけでなく、チームの為に何ができるか」
といったことを考えられる選手は
11人の中で活きることができることが多い。



自分が監督として指導者として
コミュニケーション能力やコーチング能力、
味方への声掛けや声による反応、
といったことを重視するのは
そういったサッカープレーヤーとしては
副次的に思える能力が
チーム全体として選手一人一人がどのように機能し、
また個々の選手の組み合わせによって
どのような化学反応が引き出されるか、
という面において、
極めて重要な役割を担っている、
と考えるからこそ。



自分勝手にプレーする選手やチームで考え行動できない選手は
どんなに実力があっても
その実力の半分も表現できない、
というのが自分の持論。



逆に言えば、
一人一人がスーパーな実力を持って無くても、
お互いに短所をカバーし合える能力と意識と声があれば
なんとかなる。



この点と関連するが、
「このポジションしかできない」
「1つのポジションしかできない」
という選手は何らかの明確な特徴や長所が無い限り、
出場の機会はどんどん制約されてしまう。



また、自分のやりたいポジション以外を任された時に
「こんなポジションはできない」と考えてしまうのか、
なんとかそのポジションで
自分の色を出しながらも
なんとかやろうとするのか。
例えば、
練習試合やリーグ戦でも
意図的にやり慣れていないポジションをやらせることもあるが、
実際に選手がチームの中でどう機能するのかということを判断する、
という側面と同時に、
選手がどのような「メンタリティー」を持っているのか?
状況に合わせて柔軟かつ冷静に判断・行動できるのか?
といった選手の「メンタリティー」を判断する、
という意図もある。



自分さえ良ければいい、という選手は使えない。
常に、チームに為に何ができるのか?
ということを考えられる選手を使っていきたい。



ただ、この点でも
〝可能性〟ということを考えると
判断はかなり困難なものになる。



大会のエントリーメンバーを選定する作業自体、
簡単ではないし、頭を使う作業。
同時に、選ばれなかった選手の気持ちを考えると
辛い作業でもある。



それでも、
エントリーメンバーに残った選手が
助け合い声を掛け合いながら
真剣勝負の中で
出れない選手や応援しれくれている人達に
何かが伝わる試合がしてくれることを信じ、
また、いい意味で想定外の化学反応が起きてくるような試合ができるような
メンバーを選べればと思う。



最後は自分が監督として最終的な責任を負うためにも
客観的に判断できる部分を
自分自身の主観と経験知で補いながら、
総合的に判断し、
自分の決断で
選手を選んでいきたいと思う。