アパッチ蹴球団-高校サッカー篇:project“N”- 

しばらく自分のサッカー観や指導を見つめなおしていきたいと思っています。

伝えられないもの

2017年05月27日 15時49分11秒 | コーチングの謎
先日、NHK「奇跡のレッスン」という番組を見た。この番組は毎回レジェンドと呼べる選手や指導者を呼んで、子供を指導している様子を伝えるというもの。今回は以前日本にもいたことのあるボビー・バレンタインだった。もちろん、指導のすべては映されていないだろうし、意図的な編集もあったとは思う。それでも印象に残る言葉はいくつかあった。

その中でも最も印象的だったのは「経験は伝えられない」という彼の言葉だった。なんだか自分が指導をしていたときに、意識してはいても言葉にはしきれなかった考えだった。自分が意識してきたことを違った角度で言葉にしてくれた、という表現の方が正確かもしれない。「経験は教えられない」ボビーがどのような意図でこの言葉を使ったのか。それは自分の感覚や考えと同じなのか。それは本人と話さない限りわからない。

ただ自分の解釈によれば、この「経験」という言葉には「受け身」というニュアンスは含まれない。間違ってもチーム戦術の一部として極めて限定された役割を実行することによって得られるものではない。あくまでも能動的に、自らの判断によって行動したときだけをこの場合の「経験」と呼ぶ。経験のある人間が客観的に状況を把握できるような状態で指示を出し、その指示通りに動いても、能動的な意味においての「経験」はほとんど得られない。仮に何らかの結果が得られたとしても、それは自らの血肉となるような「経験」と呼べるものではない。

あくまでも自らの判断で状況を分析し、解釈の糸口を見つけ出し、実行、検証し、修正するという能動的な問題解決のプロセスこそが、自らの能力に自信を持つことができるような「経験」となる。自分で選んだからこそ、いろいろなことがわかる。何にも守られていない剥き出しの自分の身体一つで目の前の問題に向き合うからこそ、様々なものを感じることができる。仮に、求める結果が得られなかったとしても、自らの意思や選択によって得ることのできた失敗は、それこそ貴重な「経験」になる。反対に、誰かの指示によって行ったことが失敗という結果に終わったとき、得られるのは「自分は悪くない」「ただ言われた通りにやっただけ」という言い訳や自己保身の虚しさのみ。やはり、自らの意思と判断で行動した場合に限り、その「経験」はその本人の掛けがえのない財産になる。仮に、痛みを伴うことがあったとしても、その痛みがいつかその人を支える力になる。

また、自分以外の誰かと、お互いに自主的に関わり合いながらも、同じ「経験」を共有できたとしたら、こんなに素晴らしいことはない。

指導者がすべきなことは、自らの「経験」を伝えることではない。あくまでも選手が能動的に「経験」しようとするような環境を整えること。可能であれば、その一人ひとりの「経験」をチーム全体で共有できるようにすること。

選手一人ひとりが自らの意思で行った経験は、いつか自分自身や血肉や背骨となって、未来の自分自身を支える力になる。必ずなる。

そう信じている。