アパッチ蹴球団-高校サッカー篇:project“N”- 

しばらく自分のサッカー観や指導を見つめなおしていきたいと思っています。

チームはどのようにして、チームになっていくのか?

2009年04月24日 14時50分41秒 | メンタルの謎
最近は区のグランドを借りて練習している。
校庭よりも、使える面積が広いので、
チームとしてはとても助かっている。
ただ、タバコの吸殻や飲み物の容器が散乱しているのだけが
非常に気になっている。
この点については、また機会を改めて、
ブログで書きたいと思う。



チームはこの時期、運動会という学校行事があるために
練習開始時には半分も揃わない。
前回の練習において、
ある程度人数が揃うまで、
選手と一緒にゴミ拾いをしていた。

遅れてきた選手の一部が
各自の練習開始準備が終わっているにもかかわらず、
何もせずに談笑。
上級生やスタッフがゴミ拾いや水分補給用のボトルを準備していても
特に気にすることもなく、
談笑を続けている。

指示を出さずに、何も言わずに、
どんな対応をするのか?
何に気づくのか?
様子を見ていたが、
5分近く何もする気配も動く気配もなし。
個人的にある結論に達し、
該当選手達に、大声でゴミ拾いを指示した。

ゴミ拾いや準備が一段落したタイミングで
「全員集合!」
挨拶をした後、
選手達に問いかける。
「チームはどうやって作られる?」
「単なる人の集まりが、どうやったらチームになる?」



「監督はなんでこんなことを聞くのだろうか?」
「あんまり考えたこともないし、監督はどんな答を求めているのだろうか?」
選手達の戸惑った表情からはそんな気持ちが読み取れた。

人間の行動は意識無意識に関わらず、
何らかの動機や目的に支配されていると考えている。
〝何かをする〟という行為は
「何かをしたい」「何かをしなければならない」
という目的や動機(時には義務といった意識かもしれないが)が
根底にあるはず。

反対に、〝何もしないという行為(不作為)〟は
「したくない」「する必要がない」「あえてしない」
といった意識を表している。



選手達は今まで「チーム」ということについて
深く考えたことなどないのかもしれない。
今まで自分が監督として
「チームのために・・・」と言っても
選手達はピンとこなかったのかもしれない。

自分が考える「チーム」とは
助け合い、励ましあい、競い合える〝人の集まり〟。

もちろん、選手達もそのような漠然としたイメージを持っていたとは思う。
では、どうしたら、そのようなチームになれるのか?
ある選手は「規律を守る」と答えた。
確かに、それも「チーム」になるためも1つの方法かもしれない。



でも、自分が考える「チーム」の大前提は
一人一人の〝チーム〟になろうとする意識。

一人一人が、
この集まりを「チーム」にしていこうと考え、行動し続けることで、
単なる人の集まりが、少しずつ「チーム」になっていく。

その「チーム」に入れば、だれでもチームの一員になる訳ではない。
チームを支える意識、お互いに励ましあい、助け合う意識があってこそ、
選手は「チーム」の一員になっていく。

ただ居るだけで、自分のことしか考えない、
自分のことしかやらない、チームの為に何もせずにいる選手を
チームの一員と認めることは絶対にできない。

プレーにおいても、プレー以外の場面においても、
「チーム」のために、何ができるのか?を常に考え、
実際に行動し、声を出す、味方と言葉を交わす。

その積み重ねこそが、より強い「チーム」を作っていく。

世の中には「いいチーム」は少なくないが、
世界中の「いいチーム」は関わる人々の
積極的な意識と行動に支えられている。

「チーム」に関わる一人一人が受身だったら、
その「チーム」は自然に消滅する。



これはサッカーチームだけの話ではない。

親子にしても、家族にしても、友達にしても、恋人にしても、
お互いを大切に思い、この関係を維持したいと思い、
その努力を続けることで少しずついい関係になっていく。

初めから何もせずに、いい関係になるはずがない。

家族になろうとして、親子になろうとして、
友達になろうとして、恋人になろうとして、初めて
家族になれる、親子になれる。
友達になれる、恋人になれる。



関係を築こうとすれば、声を掛けるし、
一緒に何かをしようとする。
時には、それによって衝突することもあるかもしれない。
でも、それを怖がって近づかない、何もしない、
というのでは、関係は何も変わらないし、
関係が良くなることもない。

どんな人の集まりも関わる人達の
良くしていこうという意識と行動、努力に支えられていることを
忘れてはいけないし、
いい「チーム」ほど、一人一人の
日々の意識と努力に支えられている。

正直、今自分が指導している高校サッカー部は
まだまだ本当の意味で「チーム」になりきれていない。

悲しいがそれが現実。

それでも諦めずに、
自分も監督として高校サッカー部が
「いいチーム」に少しでも近づけるように、
日々、選手達と共に努力していきたい。

監督として、
どうしたら、高校サッカー部が「いいチーム」になれるのかを考え、
失敗を恐れずに行動し続けたい。

衝突を恐れずに、選手に言葉を投げかけたい。

感謝を忘れない・・

2009年04月20日 14時14分13秒 | 人として
最近、家族との時間、子供との時間が少なくなっている。

もともと、指導を続けながらも、
家族との時間を大切にする・・と考えて
今の仕事に転職した。
仕事はある程度融通が利くので
子供の行事などはできるだけ参加してきた。

ただ、行事以外で子供と過ごす何気ない時間が
学校が始まってしまうと極端に少なくなっている。
朝ゴハンだけは毎日一緒に食べ、
週末に時間があれば子供の勉強を見たり、
週一回位で子供の塾帰りにゲームセンター一緒に行く。
正直、これ位の時間しか子供と過ごせていない。

以前は子供と一緒に自転車で水元公園まで行ったり、
夏は昆虫採集なども行ったりしたが、
最近はそういう時間が少なくなってきた。



自分が子供の頃、
親が自営業をしていて忙しそうにしていたこともあり、
親と遊んだ記憶はほとんどない。

そのことと関係あるかどうかは自分でもよくわからないが
自分はできるだけ子供と遊びたい、子供と一緒に時間を過ごしたい、
と思っている。

小さい頃から空いている時間はできるだけ一緒にいて、
一緒に公園に行ったり、
サッカーの試合や大会などにも連れて行ったりもした。



ただ、子供も成長するにつれ、
子供との距離ができるものであることは理解している。

親離れしたり、親への反抗もあるだろうから、
いつまでも小さい時のように一緒に遊ぶという機会や時間も
自然に少しずつ減っていくもの。
親よりも友達と一緒に遊ぶ、遊びたくなるという年代に
当然差し掛かっている。
実際、自分も小学校の高学年からそうだった。



一緒に過ごす時間が少なくなっていくとしても
仕事をやりながら指導を続けることで、
「お前のおやじは好きなことにこだわったよ。」
「お前も好きなことにこだわれ。」
「世間体など気にせずに、やりたいことをやれ。」
といったメッセージを子供に伝えたいと思っている。



でも、こういった親から子へ伝えたいメッセージが
仮に悪くないものだとしても
「自分の好きなことや自分のやりたいことを貫き、
 自分の夢を追い続けることで
 何か免罪符のようなものを得た気になってしまうのではないか」
「もし、そう思ってしまったとしたら、
 夢を追い続けることは本当に意味があることなのだろうか?」
そう思うことが最近少なくない。



自分は親として、子供に気の利いた表現で
ポジティブなメッセージを伝えたいと思っても
ボキャブラリーの少ない自分にはなかなかできない。

拙い言葉で子供に伝えつつも、
自分の生きる姿勢や生き様でも
伝えたいメッセージを伝えることができればと
思ってはいる。

「サッカーの指導を通じて、選手達と一緒に自分も成長したい」
「指導は自分にとっても意味のあること」
そう思って指導には取り組んでいる。

ただ、そのことで家族との時間、子供との時間が少なくなっているとしたら、
本当にそれでいいのだろうか。
最近、悩むことが多い。
自分が望み過ぎなのだろうか。



夢を追っている人ほど、
夢を追い求める気持ちが強いほど、
夢を追い求めることで
全てが正当化されるかのように思ってしまうもの。
人間は本質的に自分勝手で自己中心的な生き物であるが故に、
周囲が自分を助けてくれて、支えてくれて当たり前、
そう錯覚してしまう、そう勘違いしてしまうものかもしれない。



自分が今、指導に関わり続けることができているのは
あくまでも家族の理解があるからであって、
カミさんと子供の協力があるからこそ、
指導を続けられている。
その当たり前のことを忘れてはいけないし、
忘れかけていたとしたら猛省したいと思う。



また、自分は家族の理解と手助けがあって
20年近くも指導を続けられてきているが
反対に家族のために自分は何をしているのだろうか。
何ができているのだろうか。
これから何をしていけるのだろうか。



今すぐには答は見つけられないが、
日々探し続けたい。



ただ、
どんな時でも助けてくれた家族に対する感謝だけは忘れたくない。
もし、家族が苦しむような状況になったら、
家族のサポートを最優先したい。



今、幸せにも指導を続けられているが、
その中でも家族との時間を探し続けたい。
家族との何気ない時間を大切にしたい。



仕事と家族との時間、そして指導。
どのようにバランスをとっていくべきなのか、
悩み続けたい。



指導者である前に、一人の人間でいたい。
監督である前に、一人の親でいたい。
少なくとも、
周囲に対する感謝だけは忘れないようにしたい。

壊れる時は、いつでも静かに、そして小さなことから・・・

2009年04月16日 13時32分57秒 | 人として
先日、バックアップチームのリーグ戦があった。

前半は決定的なチャンスもあったが決めきれず、
後半に失点を重ね、
リーグ戦4試合目で初の敗戦だった。

優勝を目指していただけに、
とても悔しい敗戦だった。

ただ、後半は開き直って、
相手のプレッシャーを怖がらずに
ビルドアップしようとトライしていたので、
負けた試合でも後に繋がる試合内容だった。



バックアップチームのメンバー構成は
優勝を目指す上で
コミュニケーションを取りやすいように、
また出場機会や出場時間を少しでも多くするために
ギリギリの人数で登録している。

ギリギリの人数の中でも
お互いに話し合いながら、
ポジションをやりくりし、
お互いに助け合っていく。

優勝という目標を達成できたとしたら、
選手達には本当に自信になるだろうし、
実際、優勝は現実可能な目標として
選手も監督としての自分も捉えている。

勝つことで選手一人一人も大きく成長できる、
そう思って、リーグ戦を戦ってきた。



でも、
この日のリーグ戦で
無断で休んだ選手がいた。

試合自体はギリギリの人数ではあったが、
なんとか成立はしていたとはいえ、
監督である自分のところにも連絡はなかったし、
選手達のところにも連絡はなかったようだった。

何か事故か犯罪に巻き込まれたのでは・・?とも考えたが、
キックオフの時間が迫っていることもあり、
試合の準備に専念していた。

バックアップチームのリーグ戦が終わってからも
チャレンジャーズチームのリーグ戦が別の会場であり、
無断で欠席した選手のことも気になりながらも
チャレンジャーズチームのアップと試合に専念した。



チャレンジャーズチームの試合の後、
仕事に向かう途中で
その休んだ選手から連絡があった。

ひとまず事情を聞いた上で
電話を切った。

翌日の練習開始前に
無断欠席した選手には厳しく叱責した。

「あまりにも身勝手ではないか!」
「連絡位はしっかりするように!」



私自身、監督として、また一人の大人として
コミュニケーションにこだわりたいと考えている。

コミュニケーションが勝つ為に、
また納得できるプレーに繋げる為に
必要だと思っている。

人としても、コミュニケーションは
いい人間関係を作るためには必要。

人は人と関わることで、関わりあおうとすることで、
色々なことに気づき、成長していく。
そう思っている。



ただ、
「あいつ何、考えてんだ・・・」
「訳わかんねぇ・・・」
という人とは正直なかなかコミュニケーションを取りにくい。

こういう言葉がチーム内から出始めると
チームは少しずつ壊れる方向に進み始める。

こういった場合にどうすればいいのか?
指導を始めた頃は良くわからなかった。



強いチームやいいチームの監督は経験上知っている。
チームは静かに壊れていくことを。

いつでも壊れ始めるきっかけは
小さなこと。

経験のない指導者なら、
気にも留めないことや気づいても流してしまうことから
チームの崩壊は始まっている。



自分も昔は散々失敗した。
「そこまで言わなくてもいいか・・」
「あんまり言い過ぎても・・・」
と勝手に判断し、その結果、
チームが大会で力を出し切れずに空中分解して終わる、
チーム内もめちゃくちゃになってしまう、
という経験を何度もした。

その都度、
「どうしたらいいチームになるのか?」
「そもそもチームとは何か?」
「チームとして機能するための要件は何か?」
ということを模索していた。



悩んで答が見つけられない日々を続けている時、
突然、答らしいものが見えてくる。
「もしかしたら、こういうことかもしれない。」
「まずは、当たり前のことからやってみよう。」
「できる最低限のことからやってみよう。」

[①:チームで決めた最低限の規律は絶対に守る]
[②:挨拶をはじめとした最低限の声やコミュニケーションを大切にする]

少しずつではあるが、チームは確実に変わっていった。



いいチームを作るのは
難しい方法を探し、実践することではない。
まずは、簡単なこと単純なことを徹底すること。

初めのうちは、チーム内はバラバラで
簡単なことすら徹底できない。
指導者に根気と気力が、まず求められる。

粘り強く選手に問いかけ、
単純なことを徹底できてはじめて、
チームは次に段階に行くことができる。

また、次の段階に行ったと思っていても、
学年が入れ替わったりすると
もう一度、チーム内での規律を再徹底する必要がある。

ここで、指導者が
「前にやったからもういいか・・」
「言わなくても、たぶん大丈夫だよな・・」
とたかを括っていると
大抵、痛い目に合う。

それは選手の自主性を尊重するというのとは
全く別の次元の話。



「いつもチームは小さいことから壊れ始める」
「チームは静かに壊れていく」
ということを忘れてはいけないと自戒している。

大会前だからとか、大会後だから、
ということとは全く関係ない。

チームが本当の意味で、チームとして機能するためには
一人一人がお互いのことを考え、
同時にチーム全体のことを考える必要がある。

人間の内面など計りようもないが、
チームとしての約束事を守ることや
挨拶や必要なコミュニケーションを取り続けようとする行為によって、
チームを思う気持ちや味方を思う気持ちを表現できる。

一人一人のチームのことを考えた表現が
一人一人を繋いでいく。



もしかしたら、
「小さなことから壊れ始める・・」というのは
チームマネジメントに限ったことではなく、
サッカーの試合においても、
人間関係においても、
同じかもしれない。



どこまでできるかわからないが、
今のチームがもっといいチームになれるようにしていきたい。

そのために、
チームの雰囲気にこだわり、
チームのディテールにも注意深く目を配り続けたい。

自分はプロの指導者なのだろうか?

2009年04月07日 12時06分04秒 | NOTE
プロフェッショナルとは何なのだろうか?
最近、時々考える。
金をもらうこと?・・・それとも・・・?

機会があれば『プロフェッショナル 仕事の流儀』
という番組を見ている。
その番組で紹介される方々は
本当に凄い方ばかり。
プロ中のプロ、と言われる方ばかり。

ただ、世の中には、著名な方々でなくても、
プロフェッショナルと言われる人達はいる。

ボランティアでも、金銭の授受はある以上、
1円でもお金が動いたら、それはプロ・・・というのも
何か少し違う気がしている。

お金が1円も動いていない状況下であっても
真摯に現場に立っている方は少なくない。

ボランティアの中には使命感も含めて、
金銭の授受が一切なくても高い意識で取り組んでいる方々は多い。

お金だけが、プロとボランティアとを分ける基準ではない、
そう思っている。

個人的には、
「どれだけ〝高い意識〟で目の前の仕事に取り組んでいるか?」
によって、プロであるか?そうでないか、
が決まるのでは・・・そう考えている。



今、チームには前のチームでの教え子が
将来のプロフェッショナルな指導者を目指して、
同じ指導現場に立っている。

自分を慕ってくれて、
自分の下で『勉強したい』と言って、
一緒に高校生達を指導している。

彼の親御さんとは直接の面識はないが、
たぶん『息子の好きなことをやらせてやりたい』
という気持ちをもって息子の背中を押している、
のだと思う。

彼もその気持ちに応えるというか、
親父さんに背中を押してもらい、
日々、指導者としての勉強を続けている。

彼の親父さんの深い愛情に感動したし、
親としてのあり方を子供を持つ一人の親として
面識はなくても間接的に学ばせていただいている。

選手達と同じように
『親御さんから預かっている・・』
そんな認識をもって、
彼に色々なアドバイスをするようにしている。

教え子である若い指導者を自分の都合よく使うなんてことは出来ないし、
無責任なこともしたくない。

時には厳しいこともあえて言うべきだと考えている。

まだ20歳過ぎの若人とはいえ、
一人の人間として彼の人格を認めつつ、
良いところはしっかりと褒め、
反対に、ダメな所は「ダメ」と
はっきり伝えるようにしている。



でも、時々悩む。

どういったアドバイスが彼を
〝プロフェッショナル〟な指導者に導けるのか?
そもそも、「導く」という発想自体が
おこがましいのかもしれないが・・・。

お金や金銭の授受のみをもって、
「プロなのか?そうでないのか?」
を区別しようとすると、
色々なところで歪みのようなものを正直感じてしまう。

交通費位しか出ていないのに、
「少ないとはいえ、金もらってんだから〝プロとして〟の意識をもって・・」
というのも、その言葉を受け取る側からすると
『バイトの方がよっぽど金もらえるんですけど・・』
と言いたくなるはず。

今、自分が関わっている現場がプロを育成する現場であるなら、
『あえて今は無給で修行しろ』と言えるが、
自分の今の指導現場は
アマチュアの高校のサッカー部である以上、
そのような論理は正直、説得力を持ちにくい。

『プロフェッショナル 仕事の流儀』に出ておられた方々も
高いサラリーによって、
御自身の仕事の質を高めようとされたのではないと思う。



では、そもそも『プロフェッショナル』とは何なのだろうか?

アマチュアのボランティア監督に過ぎない自分に
『プロッフェッショナル』を語る資格があるのか?

矛盾しているようであるが、
それでも、教え子が〝プロの指導者〟を目指している以上、
彼の目指す未来に繋がるようなアドバイスをできればと思うし、
一緒に過ごした時間と経験が彼の将来への土台になってほしいとも思う。

そのためには
まずは自分自身が〝プロフェッショナル〟であろうとすることが
大切なのかもしれない。

自分自身が
〝プロ〟とは何か?その要件は?その資格は?
その答を探し続けなければならない。

『プロフェッショナル 仕事の流儀』という番組の中でも
番組の最後に『プロフェッショナルとは?』と聞く場面があるが、
その答は登場された方によって異なる。

ただ、自分の記憶では金銭のみを、その要件にされた方は一人もいない。

何をもって、〝プロ〟というか?
ということについては
その方の生き様みたいなものと結びつき、
人によってその定義が異なる、
というのが現状なのだと思う。



だとすれば、自分自身の〝プロフェッショナル〟の定義という
問いに対する金銭以外の答を
自分自身で探す作業こそ、
〝プロフェッショナル〟として大前提なのかもしれない。

交通費位しか出ていなくても、
金銭以外の部分で〝プロフェッショナル〟であろうと
しなければならない。

自分の目指す〝プロフェッショナル〟とは何なのだろうか?
未だに明確な答は見つかっていない。



ただ今は「チームにとってプラスを与えることのできる」指導者が
〝プロ〟としての最低限のラインなのだと、考えている。

たぶん「チームと選手を成長させることができない」指導者は
〝プロ〟とは言えないのではないか、そんな気がしている。

自分の技量や経験でチームや選手を成長させることができないなら、
選手やチームに対する愛情や愛着があったとしても、
チームを去る決断をするのが、
〝プロ〟ではないだろうか。

『プロフェッショナル 仕事の流儀』に出てくる方々は
形は違えど、関わる人々に何らかの「プラス」を与え続けている。



また同時に、〝プロフェッショナル〟の方々の仕事は
周囲に「プラス」を与え続けるだけでなく、
〝プロ〟としてのチャレンジが自分自身にとっても
「プラス」になっている。

それもまた〝プロフェッショナル〟としての条件だと思っている。



ただ、何が自分自身にとっての「プラス」になるのか?
それは人によって異なる。

<生きがい>や<自分自身の描いている夢に近づく1つの過程>
という場合もあるかもしれないし、
また、<必要とされること>や<金銭的に評価されること>で
<やりがい>を感じることがあるかもしれない。

チャレンジに<やりがい>や<生きがい>を感じることで
チャレンジが自分自身にとっても「プラス」になる。

反対に、周囲の期待を背負いながら、
身を削るような思いでやってきていても、
その日々のチャレンジが
自分にとって「プラス」に感じられないのであれば、
その現場を去るのも、
〝プロ〟としての1つの決断かもしれない。



教え子である駆け出しの指導者には
彼なりの<夢>や<やりがい>もあるはず。

できることなら、
今一緒に指導している時間が
選手達にとって「プラス」になるだけでなく、
彼にとっても「プラス」になるものであってほしい。

また、親御さんから若い指導者を預かっている以上、
教え子にとっても「プラス」になるような
背中の押し方をしていきたいし、
言葉を掛けていきたい。



もちろん、私自身も〝プロフェッショナル〟としての意識は
持ち続けたい。

私自身が〝プロ〟意識を持ち続けてこそ、
若い指導者にもいい影響を与えられる。

どうすれば、選手一人一人を、チームを
「成長」させることができるのか?
日々模索していきたい。

選手とチームに「プラス」を与える方法を
探し続けたい。



もし、選手を「成長」させることができず、
チームに「プラス」を与えることができなくなったら、
その時はチームを自分から去るつもりではいるし、
去らなければならない。

「ボランティアだから・・」
「別にサッカーで食わしてもらっている訳ではないから・・」
という言い訳をしながら、
現状に満足し、チャレンジする気持ちを失ったとしたら、
言われる前に辞めるべき。

また、自分の追い求める夢と現状が離れた始めたら、
決断をしなければならない。



たぶん、教え子である若い指導者と一緒にできるのは
早くてあと1年、長くても2年位。

身体の問題等もあり、
私自身もいつまで今のチームで指導できるかはわからない。

身体が言うことを聞かなくなったら、
自分と周囲に甘えずに、
現場を離れる決断をするつもりでいる。

かろうじて身体が言うことを聞いてくれている今は
〝プロフェッショナル〟としての意識を持ちながら、
選手を、チームを「成長」させられると信じ、
そして自分自身も「成長」できると信じ、
頑張りたいし、悩み続けたい。