アパッチ蹴球団-高校サッカー篇:project“N”- 

しばらく自分のサッカー観や指導を見つめなおしていきたいと思っています。

歌うのは誰?

2008年10月09日 14時03分34秒 | コーチングの謎
指導者の仕事は何なのだろうか?
時々、考える。



教師・医者・カウンセラー・親・兄弟・・・
様々な面を持っているとは思う。
もちろん、監督とコーチ、トレーナーなどでは若干違うが
重なり合っている部分もある。



その時々でどんな顔を持つべきか?
考えながら、感じながら、
様々な役割を演じている。
自然と様々な顔で選手と対応している。



でも、最近、
一人の〝大人〟として、選手達にどう対応すべきか?
ということを考えることが多い。



『オーバーコーチング』の弊害については言われて久しいが、
自分の場合、どちらかと言えば、
選手と距離を取る方なので
『オーバーコーチング』になることは
あまり無いように感じているが、
常に悩み迷う部分ではある。



指導者としての仕事は何なのか?
選手に何をすべきなのか?
今指導している高校生の将来を考えて、
今、自分のできることは何なのか?


また、そもそも、サッカーとは何なのか?
サッカーをどのようなものとして捉え、
指導者は選手に何ができるのか?
選手に何をして、何をすべきではないのか?
常に、悩む部分ではあるし、
指導者である以上、
常に考え続けなければならない。



日本サッカー協会に指導者登録していると
定期的に『Technical news』という冊子が送られてくる。
最新刊の『vol.27』に興味深いインタビュー記事があった。
『特別対談「世界で戦える選手を育てるために」
 岡田武史(日本代表監督)×布啓一郎(JFAユースダイレクター)』
(JFA技術委員長の小野剛氏が司会進行役)
仲間内のざっくばらんな会話という感じで記事は進行していくが、
本音に近いものも感じられ、
とても面白かった。
その中で、印象的だったフレーズが幾つかあった。



このブログを目にしていただいている方々の中には
『Technical news』というマニアックな冊子を目にする機会のない方も
いらっしゃると思うので、
今回は少し長くなるが、一部を抜粋してみたい。



『布:選手が「答え」を求めないということですよね。
   よく言われるように、コーチの思う「答え」を選手が求めてやると
   結局コーチのやりたいようなサッカーしかやらなくなってしまう
   ということだと思います。
   サッカーというのは自分で考えてやらなくてはいけないスポーツなのに。

岡田:対戦相手の分析でも同じことが言えますね。
   日本は分析がすごく発達しています。
   かつて、ジーコ(元日本代表監督)がテクニカルスタッフに
   こう言ったそうです。
   「すごい分析だ。
   こういう分析をブラジルがやったら絶対に世界で負けない。
   でも、サッカーはストレスになってはいけないんだ」と。
   要するに、彼らにとってサッカーというのは
   そういうものではないんですね。
   それができればそれはそれですばらしいのだろうけど、
   それをやるとああいう閃きがある意味なくなるのかもしれない。』



ジーコ氏の言いたいことも、
布・岡田両氏の言いたいことは
本当によくわかる。



個人的には、日本サッカーも今、自分が指導しているチームも
組織的なサッカーを指向すべきだと思うし、
勝つためには絶対に必要な部分だと考えている。



どの国でも、どのチームでも監督や指導者が悩んでいるように
組織と個人のバランスはサッカーにおける永遠の課題。



サッカーの本質は何か?
サッカーをどう捉えるのか?
それによって、バランスの取り方は微妙に変わってくるし、
普段の練習や試合においても、
指導者のスタンスやコーチング、声掛け、選手のプレーの捉え方が
変わってくるはず。



ただ、ここでも【オーバーコーチング】という言葉の影が頭をちらつく。



組織や約束事を積み重ねていくにつれて、
選手の能動性を奪ってしまうのではないか?
守備では組織的なものを強化していきつつも、
攻撃においては守備とは異なった組織と個人のバランスの取り方が
必要なのではないか?



自分自身の過去を振り返ると
遊びだった小学校時代とはうって変わって、
中学校は殴られ走らされるサッカー・・・
センターリングをミスすれば殴られ、
自分の意見が先生の意見と違えば殴られ、
とにかく走らされ、1日10キロ以上走った日も少なくなかった。



何のために、誰のためにサッカーをやっているのか
冷静に考えるとよくわからなかった気もするが、
それすらも考えられずにただ走っていた。



組織も戦術もない、身体能力に頼った速いだけのサッカー。
組織も戦術もない。
負けると先生に怒られるので、
試合中はとにかく勝つ、どんな手を使ってでも勝つ、
たぶん、対戦チームからすると
喧嘩みたいなサッカーだったと思う。
ただ、やっている側としては
失敗を恐れて、シュートを怖がり、
先生の方を試合中も見てしまう・・・そんなサッカーだった。
【オーバーコーチング】とは異なるが
間接的な強制サッカーだったの気がする。



自分自身の経験もあって、
指導者になってからは戦術や組織を重視するようになった。



もちろん、戦術を組織的に実行するために
必要な走りやフィジカルの強化をすることはやってきたが
基本的には一定の目的のために
走ってきたとは思う。



自分なりに自分の過去の経験や失敗と向き合いながら
手探りで指導者というものを模索してきた。



20年近く指導者をやってきた今でも、
指導者とは何か?
組織と個人のバランスをどう取るべきか?
悩み続けている。



例えば、
いくら組織プレーを重視しても
シュートのタイミングやシュートのコースといった場面においては
組織ではなく、個人の判断に委ねられる。
シュートという行為は100%個人の判断に委ねられるべきもの。
シュートを打つタイミングはシュートする本人以外が決めるべきではないし、
ゴールできるタイミングを誰かが教えてくれるわけではない。
また、誰かに言われてシュートを打ったり、
誰かに強制されてシュートを打つものでもない。



シュートの場面に代表されるように
組織や戦術は大切な場面での個人の判断を助けるためのものであり、
個人の判断を促すために組織プレーが存在するともいえる。
個人の意思の存在しないプレーには違和感を感じる。
プレーの全てが組織や戦術で完結するわけではない。



もちろん、個人のプレーと組織のプレーを厳密に分けることはできないし、
自分のためにもチームのためにもプレーする、
という価値観のは一人の大人として選手に指導者として伝えたいと思う。



しかし、サッカーというのは本質的に
やらされてやるものではない。
自分でやるもの、自分で答えを出すもの、
自分で答えを見つけるもの。



好きで始めたサッカーだからこそ、
そうあってほしいし、そうあるべきだと思う。



どんな選手でも、勝ちたいし、負けたくない。
いいプレーをしたいし、自分自身のプレーに納得したい。
そのために、フォーメーションに頼り、戦術に依存したくなる。
しかし、悲しいかな
完璧な組織は存在しないし、
完璧なフォーメーションも完璧な戦術も存在しない。



また、完璧なフォーメーションや戦術は
あるべきものではない。
あくまでも、戦術やフォーメーションは
個人の判断を助けるものであって、
戦術が個人の閃きを制限するものであってはならない。



もちろん、
戦術がなければ、チームとしての形すら見えにくいが
戦術が全てではない。



ゴール前に代表されるように
戦術でカバーしきれない部分は個人の判断で補うべきだし、
戦術よりも個人の判断が優先される場面も少なくない。



サッカーはやらされてやるものではない。
自分自身の意思でスパイクを履き、
自分自身の足でグランドに入り、
試合の中で自分で答えを見つける。
味方同士で声を掛け合い、助け合い、
自分達の意思と気力で困難な状況を打開していく。
そういった過程こそ、選手を成長させていくはず。



戦術や組織の構築も指導者の役割だと考えているが、
選手個人の閃きや自主性を失わせないように
指導者の役割について模索していきたい。



音楽が好きになって、
自分も歌いたいと思ったなら、
自分の声で思いっきり歌えばいい。



チームとしてこの歌を歌おうと決めたとしても、
アドリブがあっていい。
歌詞を間違えてもいい。
自分の声で歌えばいい。



下手でもいい。
綺麗な声でなくてもいい。
味方と相手と向き合いながら、
真剣に歌を歌う。



本当に、歌いたいのであれば、
自分達の声で歌うのだ。
伝わればそれでいい。



歌が完成しなくてもいい。
自分達で何とかすればいい。
味方と助け合いばいい。
それでいい。



好きで始めた歌ならば、
後悔しないように。
歌いきって終わって欲しい。



選手達が自分達の意思で歌い続けられるために、
頑張ってきた味方と一緒に歌い続けられるように、
応援してくれている人達に伝わるように、
自分自身で納得してステージを降りられるように、
監督として何ができるのか?
考え続けたい。


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