アパッチ蹴球団-高校サッカー篇:project“N”- 

しばらく自分のサッカー観や指導を見つめなおしていきたいと思っています。

誰の為にプレーするのか?

2010年02月05日 12時11分29秒 | サッカーの謎
先日の練習試合で、無断で遅刻してきた選手がいた。
その選手は、冬休み中も無断で遅刻してきたことがあった。
その選手のサッカーノートには、
冬休み中に無断で遅刻したことについて、
反省する内容の記述もあった。
にもかかわらず、冬休みが明けて、一ヶ月も経たないうちに、
再び無断で遅刻。
監督である自分にはもちろん、キャプテンに対しても、
連絡はなかった。

こういうことがあると、
指導者として色々と考えさせられる。
その選手に「ちゃんとやれ!」と怒るのは簡単だが、
なぜ「その選手は無断遅刻してしまう」のか?
その理由は何なのか?
どうすれば、その選手が無断で遅刻をしないようになるのか?

今までの指導経験から
自分が当たり前と思っている感覚を改めてしっかり考えることで
新たな気づきがあったことは少なくない。

今までも選手の身勝手な振る舞いに対して、
瞬間的に怒鳴ってしまうことはあったが、
練習後は、なぜ自分が怒鳴ってしまったのか?
少しずつ自分なりに検証する作業をするようになっていった。

今回も、なぜ「無断で遅刻」しては“ダメ”なのか?
「無断で遅刻・欠席してしまう」ことで、どのようなデメリットが発生するのか?
「しっかりと連絡する」ことで、何が得られるのか?
自分なりの感覚ではあるが、指導者として考えを整理しておく必要性を感じていた。

自分は指導者として、
その選手が「遅刻や欠席は必ず連絡する」というチームの約束を守らなかったことに対して
怒っているのだろうか。
怒りの矛先は、選手個人の“だらしなさ”に対してなのか?
それとも、それ以外の何かに対してなのだろうか?

そもそも「無断遅刻・欠席」というルールは何のために存在しているのか?
そのルールを支える理念は何なのか?
ルールを守ることで何が得られるのか?
ルールを破ることで何を失うのか?
「無断で遅刻・欠席をしない!」というルールを支えている理念は何なのか?
指導者自身がその理念の中身を常に検証しなければならない。

ルールを支える根拠や理念に説得力があってこそ、
ルールそのものが存在価値を有するし、
選手に対して「ルールを守れ」という言葉自体も説得力を持つ。



最近、自分が指導者として強く感じるのは
「無断遅刻・欠席」によって、味方同士の信頼が失われる可能性がある、ということ。
個人的には、無断欠席や無断遅刻によって、
チームの中に小さな“不信感”が生まれると思っている。

『あいつ、何考えてんだ?・・・』
という小さな不信感はチームの中から味方を信じる気持ちを奪い始める。

もちろん、誰にでも、失敗はある。
それはわかっている。
無断遅刻したことで、
罰則としての走りを行ったり、試合に出れなかった、
という不利益を受けたのであれば、
もうそれでいい・・という考え方もある。

しかし、当の本人が罰として走れば、それでいいのか?
無断遅刻や欠席をする度に試合に出れなかったという不利益を受ければいい・・
本当にそうなのだろうか?

確かに、その何回も無断遅刻している選手が
『俺は自分の為だけにプレーしている』と考えているのであれば、
論理的にはそのような帰結になってもおかしくない。
『自分はルールを破り、その都度、罰を受けた・・もうそれで十分でしょう。』
“自分の為だけにプレーする”という前提に立てば、
そのような考えに至ることは十分に予想できるし、
ある意味、筋も通っているのかもしれない。

でも、そのような考え方はある意味、公平なのかもしれないが、
正直、自己中心的な考え方には強い違和感を覚える。
そのような“自分の為だけにプレーする”選手が
苦しい時間帯や状況で頑張れるのだろうか?
困難な状況を自らの頑張りで打開できるのだろうか?
一部のトップアスリートを除き、
答は「NO」だと思う。

“自分が楽しみたいからプレーする”と声高に主張する選手に限って、
苦しい状況では『俺は、苦しむためにプレーしているわけではない』
という論理のすり替えを行うが如く、
走らず、足が止まる。
守らず、声も出さない。

味方が必死で頑張っているのに、
自分も苦しいからと言って、「自分のためにプレーする」という前提があれば、
傍観することが正当化されるのか。
それでいいのだろうか。
それがチームとしてのプレーといえるのか?
それがチームなのだろうか。



そもそも、「チーム」とは何なのだろうか?
『俺は自分の為だけにプレーしている』という選手が集まっただけで、
その集まりを「チーム」と呼んでいいのだろうか。
“自分の楽しみの為だけにプレーする”という個人の集まりが
時間の経過とともに自然と「チーム」になるのだろうか。

今までの指導経験からすると、
『俺は自分が楽しむ為だけにプレーしている』という意識の強い選手が多かったチームは
苦しい試合や難しい試合で、ほとんど勝てなかった。
もっと具体的に言うと、守備の面で綻びが出てしまうことが多かった。
最後の最後で守りきれずに勝ちきれなかった。
いくら個人の能力が高くても、守り切れなかった。

反対に、個人の能力が低くても、
勝ちきれることもあった。
一人一人のフィジカルや技術が低くても勝てた時は
「チーム」としてのまとまりがあった時だった。
みんなで助け合って、支えあって、励ましあった「チーム」の方が
難しい、と思われる試合で簡単には負けなかった。

指導者を始めた頃は
個人の能力の総和が「チーム」全体の力だと思っていた。
でも、そうではなかった。
そのことを選手から教えられた。

サッカーは手以外の部分でボールを扱うという特殊性を有している。
そして、その特殊性はプレーヤーから完全性を奪う。
つまり、完璧なプレーヤーは存在しない。

だからこそ、お互いの足りない部分を補い合うことが必要なのだ。
完璧でないからこそ、助け合うのだ。
一緒に頑張るのだ。

助け合う気持ちがあれば、チーム全体の力は
個人の総和を簡単に超えていく。



今回、無断遅刻をした選手は
試合後、謝罪の言葉を全員の前で口にした。
その選手の中には、確実に「チーム」のことを考える部分が出てきている。

一人一人が弱くてもいい。強くなくてもいい。
一人一人が味方と向き合い、お互いに大切な存在だと認め、
励ましあって、助けあえれば、
それでいい。

「自分のためだけにプレーする」のではない。
サッカーは一人でするものではない。
一人では完結しない。
だからこそ、「チーム」でプレーするのだ。

サッカーはパズルではない。
選手はパズルのピースではないし、
チームはピースの当てはめではない。

「“自分”の為にも、“大切な仲間”の為にもプレーする」気持ちこそが、
大切なのだ。

人間は大切な人の為にこそ、頑張れる。
そう信じている。

一緒だからこそ、頑張れる。
一緒に頑張るからこそ、自分の能力を出し切れる。

お互いを大切に思い、
どんなに苦しくても味方の為に走り、声を出す。
向き合って、関わりあって、一緒に頑張っていく。

チームのルールも
一緒に頑張る為のもの。
ルールを破ることで不信感を生むことが強調されてしまうのではなく、
ルールを守ることで味方を信頼するようになるものでなければならない。
チームのルールを守ることがお互いを大切にする気持ちを育てていく。
チームのルールというのはそうあるべきもの。

チームのルールは
「チームのためにプレーする」「味方のためにプレーする」
という気持ちを一人一人の中に生み出さなければならない。

完璧な選手など存在しないし、今のチームには完璧な選手などいない。
でも、それでいい。
一人一人が味方と向き合い、助け合い、一緒に頑張ろうとすれば、
それでいい。

無断遅刻した選手も味方と向き合おうとしている。
彼にもまだまだ可能性は残っている。
その可能性を信じ、チーム全員の可能性を信じ、
自分もチームの一人として選手と一緒に頑張っていきたい。

決して簡単なことではないが、
仲間の喜びが、自分の喜びになるようなチームになれるように
監督として自分の出来ることを探していきたいと思う。