アパッチ蹴球団-高校サッカー篇:project“N”- 

しばらく自分のサッカー観や指導を見つめなおしていきたいと思っています。

本居宣長

2014年04月14日 03時47分25秒 | 指導記録
前田英樹氏の「独学の精神」という本を読んだ。

前田氏のことは全く知らなかったし、
もちろんその著作を読んだこともなかった。

でも、その内容は深く同意できる部分が多かった。

誤解を恐れずに言えば、私自身がサッカーの指導を通じて考えていたことや
20年間のサッカー指導を通じて自分自身で感じていたことが
この本には書かれていた・・・そう感じる位、
読んでいて納得できる部分が多かった。

もちろん、前田氏の緻密な論理展開や重厚な引用は
私などの及ぶところなどではないし、
「学ぶ」「教える」ということ以外の部分は
深く理解するところまではいかなかったが、
「人生において大切なことは教えられない」
という前田氏の主張はとても他人の主張とは思えなかった。

前田氏がどういう経緯でこの本を書くに至ったかはわからないが、
とても内容が伝わる著作だった。



続けて、塩田勉氏の「おじさん、語学する」という本を読んだ。

この本もまた「学ぶ」とは?「教える」とは?
ということを考え続けている方の本だった。

語学を習得するということは実際にはどういうことなのか?
また、それはどのように教えるべきものなのか?
そこに方法論はあるのか?
とりわけ一般化しうるような方法論が存在するのか?
という問題と真剣に向き合ってきた方の本だった。

私自身は語学の習得については全くの素人だが、
塩田氏のこの著作は
「人が人に何かを教える」
「人が何かを学ぶ」
ということについてとても示唆に富む言葉が多かった。



両氏とも、その著作の中で
本居宣長の引用していた。

これは偶然なのだろうか。
否、やはり宣長の言葉の中に
「学ぶこと」と「教えること」の関係を見出す考察が
あると考えるべき。

宣長は「教える側と学ぶ側の相克」とも言える部分を
自らの言葉で適切に表現していた。

「学ぶこと」そして「教えること」。

この2つはもしかしたら
長きに亘って人間にとって大きなテーマであり、
これからもテーマとしてあり続けるのかもしれない。

「教えること」と「学ぶこと」は他方の客体であり、
また同一でもあるのだろうか。

「教えること」は「学ぶこと」を対象としつつも、
両者は時として重なりながら、気がつくとまた離れていく。

また「学ぶこと」も「教えること」の対象になりきってしまうと自分が居なくなり、
最後は自分で学ぶ覚悟のようなものがないと結局は「学ぶこと」が出来ない。
「学ぶこと」は「教えること」に近づきつつも最後は離れていく。
そのようなものなのかもしれない。



「教えること」そして「学ぶこと」
それぞれについて、また両者の関係について
深く考えるきっかけを与えてくれた2冊の著作、
そして両氏に感謝したい。

近いうちに本居宣長の言葉にも直接触れてみたいと思う。