去年の大掃除をもって、上級生はクラブを卒業し、
下級生と中3で新チームが指導することになった。
中学3年生は、まだまだ高校サッカー部に慣れる段階であり、
高校サッカーに慣れていく段階。
今、チームとしては基本的な部分の見直しとともに
選手の能力や個性を慎重に見極めようとしている。
リトリートディフェンスを中心に
まずは守備のチーム戦術を構築していこうと考えてはいるが、
ディテールは選手の個性をベースにして決めていかなくてはいけない。
選手の能力の見極めはチーム戦術に大きな影響を及ぼすものである以上、
その見極めはどうしても慎重になる。
選手の能力を前提に、どういう形なら構築していくことが可能なのか?
さらにプラスアルファとしてどれぐらいなら青写真として描けそうなのか?
この新チームの武器や強みはどこにあるのか?
自分たちが決めた目標から逆算して
どのような枠組みを作っていくべきか?
監督としての経験とイマジネーションが問われる場面ではあるが
形式的に判断するのではなく、具体的な思考で判断していきたい。
山に登るルートはいくつもあり、
また目的地に向かう航路もいくつもあるが
どのルート、どの航路を取るかは
急激な方向転換ができるものではないので
冷静かつ慎重に判断したい。
チームミーティングを行って
「リトリートディフェンスの構築からスタートする」
という方向性だけは選手たちに示したが、
ディテールについてはまだ詰められない。
先日、新チームとして初めての練習試合があったので
その時の情報を前提にこれから少しずつディテールを積み重ね、
チームとしての枠組みをより明確にしていきたいと考えている。
ただ、その練習試合で気になることがあった。
チームの完成度や勝敗については全く気にしていないが、
試合中に声を掛け合う回数が極端に少ないことは
非常に気になった。
失点しても何らの修正し合う声もなし。
ミーティングで決めたリトリートのイメージを共有化しようとする掛け声もない。
「繋がり」どころか「繋がろうとする意識」もない。
「11人」が総和の「11」にすらならない典型的な事例。
このチームの将来に希望が見えるような試合ではなかった。
お互いがお互いに依存し、
一人ひとりが自分から積極的に声を出すことはなかった。
選手たちの動きから「チーム」を感じることはなかった。
まるで体育の授業や個人参加のフットサルのような試合だった。
もちろん、1試合で全てを見極め判断できる訳などないが、
初めての試合だからこそ、
そのチームの深い部分が見えることもある。
そのチームが抱えている課題は
立ち上げの時だからこそ
より明確にわかる。
自分がチームの監督として感じたのは
このチームの一人ひとりがもっている、
また持とうとしているサッカーに対する気持ちの部分。
サッカーをやらされているのだとしたら
自分から声を出すことも自分から動くこともない。
サッカーが「つながり」を意識しないものであると考えているならば、
当然「チーム」というものを意識することなどないし、
「つながる」ために声を出したり、
修正の声を出す必要性など感じることはない。
新チームの選手たちにとって
「サッカー」や「高校サッカー」
「チーム」や「仲間」というのは
どういう存在なのだろうか・・・?
義務?
それとも「やっぱり俺たちはダメなんだ」という絶望を感じるための道具?・・・
正直、そういうことを考えてしまう試合だった。
サッカーに関わってもう40年以上経つが
自分にとってサッカーというものはどういうものなのだろうか?
なぜ、40年もサッカーに関わっているのだろうか?
もちろん、40年以上サッカーに関わっている人間など
東京、日本という狭い地域にも星の数ほどいるし、
世界に目を向ければ数え切れない人間がいるはず。
一言でサッカーに関わり続けている理由を説明するのは簡単ではないが、
単に利益になるとかならないとか打算的なものではないはず。
もっと根源的で情緒的なものだと思うし、
感情的で衝動的なものなのかもしれない。
「サッカーのことをつい考えてしまったり」
「気がつくとサッカーのことを考えていたり」
「サッカーへの気持ちがなんとなく湧き上がってくるもの」であり
「突然やりたくなるもの」なのかもしれない。
選手一人ひとりがどういう気持ちでサッカーと関わろうとしているのか?
それは選手によって違うかもしれない。
個人差があって当然だが、
計算や建前であってほしくない。
もしかしたら、新チームの立ち上げというのは
自分がどいう気持ちでサッカーをしようとしているのか、
自分の中でサッカーがどういう存在なのか、
確認するいい機会なのかもしれない。
新チームの始動が自分の深い部分を確認する機会というのは
なんだか矛盾しているようであるが、
正直そう思う。
私自身も高校サッカー部の監督として、
またサッカーに関わる一人の人間として
サッカーに対する自分自身の気持ちを問い掛け続けたい。
下級生と中3で新チームが指導することになった。
中学3年生は、まだまだ高校サッカー部に慣れる段階であり、
高校サッカーに慣れていく段階。
今、チームとしては基本的な部分の見直しとともに
選手の能力や個性を慎重に見極めようとしている。
リトリートディフェンスを中心に
まずは守備のチーム戦術を構築していこうと考えてはいるが、
ディテールは選手の個性をベースにして決めていかなくてはいけない。
選手の能力の見極めはチーム戦術に大きな影響を及ぼすものである以上、
その見極めはどうしても慎重になる。
選手の能力を前提に、どういう形なら構築していくことが可能なのか?
さらにプラスアルファとしてどれぐらいなら青写真として描けそうなのか?
この新チームの武器や強みはどこにあるのか?
自分たちが決めた目標から逆算して
どのような枠組みを作っていくべきか?
監督としての経験とイマジネーションが問われる場面ではあるが
形式的に判断するのではなく、具体的な思考で判断していきたい。
山に登るルートはいくつもあり、
また目的地に向かう航路もいくつもあるが
どのルート、どの航路を取るかは
急激な方向転換ができるものではないので
冷静かつ慎重に判断したい。
チームミーティングを行って
「リトリートディフェンスの構築からスタートする」
という方向性だけは選手たちに示したが、
ディテールについてはまだ詰められない。
先日、新チームとして初めての練習試合があったので
その時の情報を前提にこれから少しずつディテールを積み重ね、
チームとしての枠組みをより明確にしていきたいと考えている。
ただ、その練習試合で気になることがあった。
チームの完成度や勝敗については全く気にしていないが、
試合中に声を掛け合う回数が極端に少ないことは
非常に気になった。
失点しても何らの修正し合う声もなし。
ミーティングで決めたリトリートのイメージを共有化しようとする掛け声もない。
「繋がり」どころか「繋がろうとする意識」もない。
「11人」が総和の「11」にすらならない典型的な事例。
このチームの将来に希望が見えるような試合ではなかった。
お互いがお互いに依存し、
一人ひとりが自分から積極的に声を出すことはなかった。
選手たちの動きから「チーム」を感じることはなかった。
まるで体育の授業や個人参加のフットサルのような試合だった。
もちろん、1試合で全てを見極め判断できる訳などないが、
初めての試合だからこそ、
そのチームの深い部分が見えることもある。
そのチームが抱えている課題は
立ち上げの時だからこそ
より明確にわかる。
自分がチームの監督として感じたのは
このチームの一人ひとりがもっている、
また持とうとしているサッカーに対する気持ちの部分。
サッカーをやらされているのだとしたら
自分から声を出すことも自分から動くこともない。
サッカーが「つながり」を意識しないものであると考えているならば、
当然「チーム」というものを意識することなどないし、
「つながる」ために声を出したり、
修正の声を出す必要性など感じることはない。
新チームの選手たちにとって
「サッカー」や「高校サッカー」
「チーム」や「仲間」というのは
どういう存在なのだろうか・・・?
義務?
それとも「やっぱり俺たちはダメなんだ」という絶望を感じるための道具?・・・
正直、そういうことを考えてしまう試合だった。
サッカーに関わってもう40年以上経つが
自分にとってサッカーというものはどういうものなのだろうか?
なぜ、40年もサッカーに関わっているのだろうか?
もちろん、40年以上サッカーに関わっている人間など
東京、日本という狭い地域にも星の数ほどいるし、
世界に目を向ければ数え切れない人間がいるはず。
一言でサッカーに関わり続けている理由を説明するのは簡単ではないが、
単に利益になるとかならないとか打算的なものではないはず。
もっと根源的で情緒的なものだと思うし、
感情的で衝動的なものなのかもしれない。
「サッカーのことをつい考えてしまったり」
「気がつくとサッカーのことを考えていたり」
「サッカーへの気持ちがなんとなく湧き上がってくるもの」であり
「突然やりたくなるもの」なのかもしれない。
選手一人ひとりがどういう気持ちでサッカーと関わろうとしているのか?
それは選手によって違うかもしれない。
個人差があって当然だが、
計算や建前であってほしくない。
もしかしたら、新チームの立ち上げというのは
自分がどいう気持ちでサッカーをしようとしているのか、
自分の中でサッカーがどういう存在なのか、
確認するいい機会なのかもしれない。
新チームの始動が自分の深い部分を確認する機会というのは
なんだか矛盾しているようであるが、
正直そう思う。
私自身も高校サッカー部の監督として、
またサッカーに関わる一人の人間として
サッカーに対する自分自身の気持ちを問い掛け続けたい。