アパッチ蹴球団-高校サッカー篇:project“N”- 

しばらく自分のサッカー観や指導を見つめなおしていきたいと思っています。

紳士であることの意味

2014年02月10日 04時55分28秒 | サッカーの謎
サッカーは、子供を大人にし、大人を紳士にする、という。

耳に聞こえのいい言葉であったが、
とても深い言葉のように思えて、簡単には使えなかった。

でも、高校サッカーの指導をやって20年が過ぎ、
その言わんとしているところが
おぼろげながら見えてきた気がする。



サッカーはチーム戦術があるとはいえ、
最後の判断は個人個人がしなければならない。

自分のルールや感覚に従って、決断し、プレーする。

ただ、その判断や決断には必ず責任が伴う。
ミスをすれば、自分で奪い返さなければならない。

もちろん、ミスを怖がって、自分で判断せずに
プレーすることは本末転倒。

その責任から逃げるように、
自分のためだけに判断するというのも
個人的には違うと思う。

その責任から逃げずに、
失敗を恐れずに、
自分のために、仲間のために、
自分で判断し、決断する。

それが
「子供を大人にする」
という言葉の意味であり、
「大人」がすべき判断なのだと思う。



では、「大人を紳士にする」というのは
どういう意味なのだろうか。

ここ何年か、ずっとその意味を考えていた。

「大人」と「紳士」に大きな差があるからこそ、
この言葉があるのだとは思う。

特に精神面において大きな差があると感じている。

具体的に、その差は
愛情とプライドにある。
そう思っている。

大事な仲間や愛すべき者たちに対する愛情を根底に持つ、
それが「紳士」たるものの大前提。

守るべきもの、愛すべきもの、
その者たちに対する見返りを望まない愛情が
「紳士」の根底にはある。

見返りを求めない愛情は強さを必要とし、
それは簡単に出来るようになることではない。

自分以外の者の為に、強くなろうとする。
見返りも何もないが、それでも大切な者たちのために強くならんとする。

それが、自分の為だけでなく、「紳士」であろうとする者には
必要なのだ。

そして、その自分自身の「紳士」たらんとする決断に
微塵の悔いもない。

その覚悟こそが、そのプライドこそが
「紳士」の本質であり、「紳士」たることの所以。

「紳士」たらんとすること、「紳士」を目指さんとすること、
それは簡単なことではないし、
むしろ厳しい道かもしれない。

でも、大切な仲間や愛すべき者たちのために
あえてその細くて厳しい道を目指すという覚悟とプライドこそが「紳士」の背骨。

でも、その覚悟とプライドを背負わんとすることで
一人の人間として成長できる、必ず成長出来るはず。必ず強くなれるはず。

「大人を紳士にする」という言葉は
一人の人間として目指すべき方向とサッカーに関わる選手たちの可能性を示している。
そう信じている。