アパッチ蹴球団-高校サッカー篇:project“N”- 

しばらく自分のサッカー観や指導を見つめなおしていきたいと思っています。

空気

2007年12月31日 20時59分26秒 | コーチングの謎
12月29日、年内最後の練習を学校にて行った。
練習前に部室の掃除を練習に参加した全員で行った。
部室の掃除はかなりの年数していなかったらしく、
埃や土が部屋の中に少なからずあった。
使われていない備品も多かった。
部室の大掃除の後、校庭のゴミ拾いもしたかったが
時間がなかったので新年の練習で行いたいと考えている。



自分が今のチームに来てから、
約15ヶ月が経った。



自分が来る前は顧問の先生とトレーナーの方々が一緒になって、
中高合わせて約200人の選手達を指導していた。
正直、目が届く範囲を超えていたと思う。



顧問の先生も最低限の事、
純粋にサッカーの部分的なことしか指導できない、
規律や挨拶等は指導できない、
と言っていた。



ただ、自分が今のチームに来て
高校生を任せられた以上、
責任をもって選手を指導しなければならない。
特に、規律や挨拶もしくはコミュニケーションといった部分については
徹底的に指導したいと思っていた。
高校生が何人だろうと徹底しようと思っていた。



個人的には、
選手を成長させたい、チームを勝たせたい、
そのために、技術練習や戦術練習をするべき。
そう考えていた。



しかし、練習を見た初日に考えが変わった。
考えが変わったというよりも
すべきことの優先順位がはっきりした。



技術や戦術練習の前に
挨拶をはじめとするコミュニケーション、
チームをまとめるための規律、
人を思いやる気持ちといった人として大切なことを
伝えるべきではないか、
そう思った。



人によっては
軍隊みたいな挨拶や規律が必要あるのか?
そう言う人もいるのかもしれない。



現にそういう挨拶をしているチームがあるのも事実。
ただ、大きな声で挨拶をさせることが
“軍隊”と評価されることは
反対に違和感を感じざるを得ない。



サッカーでは105m×65mのグランドの中で
お互いにコミュニケーションを取ることが求められる。
伝わらなければコミュニケーションではない。
伝えようとすれば、
必然的に声は大きくなる。



挨拶もコミュニケーションである以上、
大きな声の方がいい。



これからも、
大きな声で挨拶すること、
大きな声でコミュニケーションをとることにこだわりたい。



同様に、チーム内のルールを守る、
無断欠席をしない、無断で遅刻はしない、
といった基本的なルールを守ることも徹底していきたい。



加えて、道具を大切にする、自分達でグランドをきれいにする、
といった部分も意識していきたい。



こう書いてくると
「挨拶や規律、道具を大切にするといったことが何になるの?」
「そんなことやって選手がうまくなるの?」
「選手はボールを触ることでこそ上手くなるんじゃないの?」
という批判を時にされてしまう。
特に、勝てない時はそう言われても仕方ないのかもしれない。



確かに、戦術練習や技術練習、ゲームやフィジカル練習といった
練習なしに試合に勝てるとは思わない。



でも、戦術や技術練習だけでも勝てるとも思わないし、
選手が成長するとも思わない。



実際、戦術練習や技術練習は
人間の身体に必要な“栄養素”だと思う。



ただ、“栄養素”だけで人間は選手は成長する訳ではない。
人間が生きていくためには“いい空気”が必要。



悪い“空気”の中で“栄養素”を摂っても
身体も心も成長しない。



練習における挨拶・コミュニケーション、規律、緊張感、集中力、
といったものこそが“いい空気”だと信じている。



道具を大切にする気持ちは
ボールを大切にする気持ちや
人の気持ちを思いやる部分に通じていくはず。



汚いグランドで練習するよりも、
きれいなグランドで練習する方が絶対に上手くなるはず。
そう信じている。



「それこそ非論理的だろ」
「なんの根拠もないだろ」
そう言われれば、返す言葉はない。



実際に、50メートルのキックは練習でしか身につかない。
ヘディングもそう。



自己矛盾かもしれないが、
今、チームでは試合毎にデータを採取している。

[誰から誰にパスが通ったのか?]
[誰がどこで相手からボールを奪ったのか?]
[誰がシュートを打ったのか?]



データを取るのは選手の狙いや気持ちは
プレーに現れるべき、
そう考えているからこそ。



それでも、目に見えないものを信じられない。
そういう理由で、データを取っているわけではない。
目に見えないものの価値を否定している訳ではない。



“空気”も“選手の内面”も目には見えない。



“挨拶”や“規律”、
“緊張感”や“道具を大切にする気持ち”
“人を思いやる気持ち”は、見えようがない。



ましてや、
それらが選手の内面にどのような影響を及ぼしているか等
知りようもない。



でも、今まで自分が生きてきた中で
大切だと信じてきた価値観にこだわりたい。
日本人が大切にしてきた価値観にこだわりたい。
日本人がこだわってきた価値観が“いい空気”だと信じたい。



もしかしたら、自分の価値観こそが“悪い空気”なのかもしれない。
自分こそが“澱んだ空気”なのかもしれない。



でも、まずは自分が信じる価値観を選手に投げかけたい。
選手から逃げずに、自分が信じる“いい空気”を作り続けたい。



選手達に“空気”を投げかけることで
反対に、選手からよりよい“空気”が来るかもしれない。



お互いによる、
いい“空気の流れ”の中でこそ、選手も指導者も成長できるはず。



また、1月4日の練習から“いい空気”の下で
新しい目標に向かって練習していきたい。

懐かしさとうれしさと・・・

2007年12月30日 21時45分54秒 | 指導記録
冬休みは高1だけで練習している。



人数は10人位。
練習の流れは基本的な技術練習を中心に
最後にゲームを行うという流れ。
技術練習は2種類のインステップキックとヘディングを中心に
胸トラップやドリブルを行った。



正直、インステップは基本的な部分ができていない、
という感じだった。
足の甲で蹴れない、立ち足の踏み込み方の甘さ、
腕をはじめ上半身の使い方が出来ていない・・・。
挙げればキリがないが、時間をかけて
とにかく数をこなしていった。
場合によっては、2時間近く
インステップキックの練習に費やすこともあった。



でも、選手達は少しずつではあるが、
変わってきた。



時々いいキックができるようになっていった。
納得できるキックを蹴れるようになっていった。



ゆっくりではあるが、
選手は確実に成長していった。



いつも最後に行うミニゲームも緊張感や気持ちの入ったものだった。



冬休み初日の練習後、
トレーナーの方が
『高1はこの冬休みで伸びるかもしれませんね・・・』
と言っていた。



少ない人数で練習する機会がこのチームに来てからほとんどなかったので
確かにいい機会だと思っていた。



アドバイスがしやすい技術練習をメインでやることで
選手達にいろいろな声を掛け、
特に技術的な部分を少しでも伸ばしてあげられれば、
そう思っていた。



ある意味、技術合宿のような感覚で
自分自身は冬休みの練習を考えていた。



ただ、冬休みの途中から不思議な感覚に捉われた。
以前指導していたチームに戻って指導している・・・
そんな感じがしていた。



前のチームではいつも人数が少なく
グランドもない中でよく練習していた。



10人いればいい方で
広いグランドに1人しかいない時もあった。



少ない人数でも頑張ってグランドに来る練習に来る選手達を
見捨てることなど絶対にできないし、
なんとかこの選手達を上手くさせたい、
チームを勝たせたい・・・
そう思いながら、選手と一緒に必死に練習してきた。



試行錯誤も少なくなかったが
真剣な時間を重ねてきた。
他に誰もいない江戸川の河川敷で、
真冬の駐車場で。



選手達は本当に伸びたし、
実際に地区予選を突破して都大会出場し
都大会でも勝つことができた。



勝つこともとても大切だが
何よりも選手達が上手くなっていくのを
目の当たりにできる喜びが本当に嬉しかった。
選手の成長が自分のことのように嬉しかった。



この冬休みの練習は
指導する選手達も
グランド環境も全く違うにもかかわらず、
前のチームを指導していた時を思い出した。



今、指導しているチームの高1の選手達は
短い期間だったが成長した。



やはり指導者の原点はここにあると思う。



選手を成長させること。
その過程で自分自身も指導者として成長すること。



私自身が指導者として勝つことにこだわるのは
勝つことを真剣に考えることで
選手も指導者も絶対に成長する、
そう考えているからこそ。



選手達がいくら成長しても
全国レベルのチームや都大会の常連高はもちろん、
地区の強豪高に勝つのは簡単ではないし、
むしろ、今のチームでは本当に難しい。



現実は時として人間に厳しさを垣間見せる。
試合に負けることで現実の厳しさを思い知らされる。
勝つことがどんな試合でも理想だが
なかなか理想には届かない。



でも、実際の社会でも
人間もしくは人間性に対する信頼が希望になるように
選手の成長こそがチームに指導者に選手自身に
希望を与える。



そして希望は明日への糧になる。
何よりも一番の動機になる。
モチベーションが上がる最大の要素になる。



少ない人数で練習するという冬休みの練習が懐かしかったし、
選手達が成長してくれたことが本当に嬉しかった。



自分の原点というか、立ち位置を思い出させてくれた選手達に
感謝したい。



また、選手を成長させること、
チームを強くすることに対する希望を持って
年明けからの練習に臨みたい。

大人になることの意味

2007年12月24日 01時25分47秒 | サッカーの謎
12月16日に1部リーグの最終節の試合があった。
相手は都立小岩高。
お互いに、気持ちのぶつかり合ったいい試合だった。



この日、メンバーに関しては
キャプテンを中心に選手だけで決めさせた。
この試合は自分がレフリーをすることもあって、
選手達が自ら話し合って、9人の交代枠を目一杯使い、
可能な限り選手を出場させる。



ただ、勝つことを放棄した訳ではない。
選手の判断の裁量の幅を広げることによって、
選手達の自主性や責任感、といったものを引き出したかった。



チーム全員でプレーし、
最終節を勝って、後期リーグを締めくくろう、
そう思っていた。



高1の選手は結局、アシスタントレフリーをしてもらったので、
試合には出場させられなかったが
側面からチームをサポートしてもらった。



実は高2は高体連の関東大会予選(新人戦)と
後期リバーサイドユースリーグの試合を目標に
練習を積み重ねてきた。



この日の試合をもって、
クラブを卒業する、高校サッカーを卒業する・・・
そういった思いを抱きながら、
試合に臨んでいた。
保護者の方々も多数、応援に来ていただいた。



前半は拮抗した展開が続いたが
緊張もあったのか、
所々で声などの連携ミスもあって失点してしまい、
0対1で前半終了。



ハーフタイムでは

「前半に失点し、後半に攻勢をかけるも
カウンターで失点し、結果的に負けてしまう・・・
そんな試合はサッカーではよくあること」

「そのような悪い流れに嵌ってしまうのか・・・」

「このままで行くと、悪い流れのまま試合が終わってしまうが
自分達の力で結果を変えられる試合もある」

「自分達の力で変えられる未来もあるはず・・・」

「自分達が納得できる試合、納得できる結果になるように
全員で声を掛け合いながら、後半頑張って行こう!」

そう話して選手達を送り出した。



後半もお互いに球際に厳しくいき、
気持ちを出し合った試合になったが
セットプレーを含めてタイミング良く得点することができ、
結局、4対1で逆転して、試合終了。



ただ、試合に出ていた選手達は
「勝って嬉しい」というよりも
『終わってしまった・・・』
そんな表情を浮かべていた。



少なくともこの試合に関しては
選手達が自らの力で勝利を勝ち取った。



自分達で考えて、自分達で声を出し合って、
前半に出場した選手も、後半に出場した選手も
自分達で頑張って、試合を勝ちきった。



このチームに登録していない高2の選手達も
応援に来てくれた。
精一杯応援してくれた。
レフリーをしてくれた高1の選手達も
しっかりとレフリーをしてくれた。



勝ち負けに関係なく、
とてもいい試合だったと思う。



『サッカーは子供を大人にし、大人を紳士にする』
ということが言われるが
『大人になる』ということはどういうことだろうか?
『紳士になる』ということはどういうことだろうか?
答はないのかもしれないし、
人それぞれ解釈が違っていいのかもしれない。



あくまでも私的な解釈ではあるが
『大人になる』というのは
「自分で判断すること」「その判断に責任をもつこと」
そう解釈している。



また、
『紳士になる』というのは
「人との関係を楽しみ、人との関係を大切にできること」
「他人の立場に立って考え行動することができること」
「他人の気持ちを思いやり、他人に気配りができること」
そう解釈している。



例えば、サッカーにおいて「判断」という要素は極めて重要。
サッカーでは同じ局面は存在しない、と言われている。



同じような状況は存在しないが
似たような状況は存在する。
似たような状況に対してどう考えるか?
以前に経験した状況を自分なりに類推し、
今の状況に対応することができるか?
だからこそ「自分で判断すること」が求められる。



「自分で判断する」ということは
「判断を他人に委ねない」ということ。
「自分で判断する」からこそ、
「判断に責任が求められる」。



でも、子供達・選手達はまだ高校生。
完全な判断基準を身に付けている訳ではない。



いろいろな人に会い、
いろいろな人とふれあい、
話し合い、ぶつかり合い、
同じ時間を過ごすことで
一人一人の価値観や判断基準に幅が出る。
奥行きや深みが出る。



サッカーの試合で
「こんなプレーもあるのか!」
「こんなサッカーがあるのか!」
「こんな戦術があるのか!」
という経験をすることで
選手達は多様なサッカー観を知る。



試合には負けたとしても、
価値観の多様性を知ることで
逞しくなり、柔軟な判断ができるようになる。
太く逞しい、また繊細で柔軟な判断基準を
持てるようになっていく。
狙いのあるプレーができるようになっていく。



そのことこそ、
『サッカーは子供を大人にする』ということの意味ではないか、
そう思っている。



ただ、『大人になる』のは〝グランドの中〟だけではない。



たとえ、選手達がサッカーを続けていかないとしても、
選手達がいろいろな人と出会い、
衝突しながらも、心が触れ合うような時間を重ね、
自分の中の価値観を
太く、幅の広いものにしていってほしい。



もし、大切な仲間なら、大切な友達なら、大切な人なら
その人との関係を大切にしてほしい。
どんな時でも話し合ってほしい。
逃げずにいてほしい。
相手がいるのに自分の世界に入らないでほしい。
相手を拒絶しないでいてほしい。
どんな時でも、挨拶を、なにげない会話を
大切にしてほしい。



私自身、指導者として選手から絶対に逃げずに向き合ってきた。
選手を拒絶しないできた。
どんなに時間がかかっても、
選手からのサッカーノートを読み、コメントを書いて選手に返し続けた。



選手達がサッカー部の活動を通じて
『大人になることの意味』を少しでも理解してくれたなら、
それは望外の喜び。



また、私自身も、指導者として
選手達が素直な感情をぶつけてくれたことに感謝したい。
お互いに感情がぶつかり合ったこともあったが
自分も選手達もお互いを拒絶しなかったと思う。



それが本当にうれしいし、ありがたかった。



もしかしたら
この日の試合、自分への対応を考えると
選手達はもう十分に『大人』なのかもしれない。



でも、これからもいろいろな出会いを重ね、
いろいろな価値観を知った上で
「自分で判断し、自分の判断に責任を持てるように」なってほしい。



いつでも「自分の足で立ち、自分の手で起き上がる」
ようになっていってほしい。



できることなら、
大切な人をその手で支えるようになっていってほしい。



最後に、
「またどこかで会いましょう」
「その時もお互いに挨拶からしっかりやりましょう」
と選手達に話した。

選手達は優しく笑っていた・・・。



一人じゃできないこと・・・

2007年12月23日 00時16分01秒 | 人として
12月15日、2部リーグAグループの後期最終節の試合があった。
対戦相手は同じグループで優勝争いをしている両国高。



勝った方が優勝・・・、という状況だった。
テスト明け直後というコンディションが整わない状況の中、
選手達は本当に頑張ったと思う。



前半は先に点を奪ったが、同点に追いつかれ、
その後もピンチが続いた。
何とか守りきり、1対1のまま、前半終了。



「相手はDFラインを上げてくるので、その裏を狙うこと」
「GK目掛けてクロスを上げること」
「クロスに対して、走りこんでシュートを狙うこと」
という後半に向けての修正点をハーフタイムに確認した。



後半は、ハーフタイムに確認した修正点を
チームとして上手く修正でき、
中盤の選手の飛び出しもあったので
後半に3点追加することができた。
最後は1失点したが
なんとか勝ちきって試合終了。



昨年度の後期リーグ戦で1試合しか勝てなかったチームが
無敗で優勝。
1部・2部通じて、初の優勝だった。



夏の合宿でベースになるチームを作り、
選手達は自分達で考えながら本当に頑張ってきた。



可能性は高くはなかったが
選手権予選や新人戦に対しても出場を目指して
懸命に練習してきた。



腐らずに、チームとしての一体感を意識しながら
リーグの最終節まで気持ちを切らさずにやってきた。



私自身が指導者としてこの選手を引っ張ってきた・・・
ということは全くない。



選手達はリーグ戦を通じて意地を見せた。
根性を見せた。



新人戦でかえつ有明高に負けた時も、
負けはしたが見ている人や応援してくれている人に
何かが伝わる試合だった。
この日の最終節のリーグ戦も
見にきた人に
選手達の気持ちが伝わる試合だった。



登録していない高2の選手達も応援に来てくれた。



高2の選手は後期のリーグ戦をもってクラブを卒業する。
高校サッカーから卒業していく。
進学校ならではの厳しい選択。
これから、彼らは〝受験〟という「試合」を戦っていく。



でも、受験という試合も
一人で戦ってほしくない。



受験勉強自体は一人でするものかもしれない。
でも、受験という試合を
ともに戦う仲間がいるのを忘れないでいてほしい。
後で支えてくれている家族や先生がいるのを忘れないでほしい。



同じ大学を目指すのでも
サッカー部で一緒に過ごしてきた選手達は
蹴落とすライバルではない。
お互いに励ましあって、一緒に合格してほしい。
支えてくれている家族や先生方への感謝を忘れないでいてほしい。



勉強自体一人で出来ても、
サッカーは一人じゃできない。



人生の中で一人でやるべきことも確かにあるが、
一人じゃできないことも少なくない。



例えば、普通の人間が「一人」で他人を感動させることは
極めて難しい。



でも、チームなら、
見ている人や応援してくれている人を
感動させることができる。
記憶に残る試合ができる。



チャンピオンスポーツとしての高校サッカーは卒業するが、
「人生の中には、一人じゃ出来ないこともある」
ということは忘れないでいてほしい。



一緒に何かを目指す仲間なら、
大切な人なら、
その人達との関係を大切にしてほしい。
会話を大切にしてほしい。



お互いに誤解や衝突もあるかもしれないが、
それでも相手を無視したり拒絶したりせずに
とことん話し合ってほしい。



自分がこのチームに来た時に選手達の前で
「サッカーは自分のためだけにするのではない」
「チームのためにもプレーするんだ」
「味方のためにもプレーするんだ」
ということを話した時、
選手達は、困惑というか不審そうな表情をしていた。



でも、ニュアンスだけかもしれないが
今なら、自分の言いたかったことが
多少なりとも伝わったような気がしている。



「一人じゃできない」リーグ優勝を
メンバー全員で成し遂げた。



お互いが仲間の意味を、味方の価値を
再確認できた試合だったと思う。



お互いに励ましあいながら、
時には衝突しながら、
選手達は頑張ってきた。



「相手の存在や考え方を尊重すること」は大切だが、
同じ位に
「励まし合いながら、一緒に何かを成し遂げること」や
「仲間との関係を楽しむ、会話を楽しむこと」も大切だと思う。



自己中心的な考えを隠すために
「俺は俺。あいつはあいつ、だから・・・」
という台詞を言う前に
友達に、仲間に、直球を投げてほしい。
仲間との関係を諦める前に
会話をしてほしい。
初めて会う人はもちろん、
面識のある人に対しても
挨拶から入ってほしい。
どんなに親しい間柄でも
挨拶を、当たり前の会話を、
大切にしてほしい。



時として、人生の厳しい場面で
一人で責任を負わなきゃならない場合もあるかもしれない。
一人で頑張らなきゃいけない場面もあるのかもしれない。



それでも、一人で生きている訳ではない。
自分の世界に入るのは
一人でいる時だけでいい。



もし、選手達が
サッカー部の活動を通じて、
他人の価値を、仲間を意味を、友達の大切さを
知ることができたなら、
リーグ優勝以上のものを得たと言えるのかもしれない。



「一人じゃできないこと」
「仲間がいたからこそできたこと」を
身をもって表現してくれた選手達に感謝したい。
応援してくれたサポーターである保護者の方々にも感謝したい。
もちろん、トレーナーや顧問の先生にも。



私自身も一人の大人として
これからも周囲の方々に対する感謝を忘れずにいたい。

コーチングはコミュニケーションか?それとも、短歌か?

2007年12月09日 16時55分52秒 | コーチングの謎
先日、短歌の番組をNHKラジオで聴いた。
短歌に関しては、
正直、[五七五七七]という形式を知っているだけで
全くの素人。
短歌を作ったこともない。



なにげなく聴き始めた番組だったが、
結構聞き入ってしまった。



その時番組構成は、歌人の方が番組に参加されて
投稿された短歌を添削する、という内容だった。



歌人の方の言葉で印象的だったのは
『詠み人の世界観を感じ、愉しむのが短歌の世界』
『凝縮された言葉の中に詰め込まれた思いを味わう』
『ただ、短歌は新たな解釈を否定するものではない』
『読んだ方の解釈で、その歌の世界を広げることもあっていい』
といったフレーズ。



『表現を受け取る側にも短歌の解釈が委ねられている・・・』
という発言は、驚きだった。



作者の思いを探すというか見つけるのが
短歌の世界という印象があった。



解釈は自由でもいいのか?
正直、意外な感じがした。



いろいろな宗教の経典のように
真理というか本当の意味を探し当てるのが
短歌や俳句の世界だと思っていた。



考えてみれば、
短歌や俳句は
あくまでも文学表現に過ぎず、
宗教とは違い、
真理を追究するものではないので、
短歌や俳句と宗教の経典を
同一上に論じるべきではないのは
当然かもしれない・・・。



サッカーの指導では
今、オーバーコーチングの危険性ということが
叫ばれている。



教え過ぎによる弊害があるのではないか、
教え過ぎにより、選手の判断力が育たないのではないか、
そのような危険性が指摘されている。



私自身は
オーバーコーチングにならないように
言葉の掛けすぎに注意すると同時に
選手とのコミュニケーションを取ることも
できるだけ意識するようにしてきた。



サッカーの練習においては
全体練習が多くなるが
その中でも
サッカーノートを通じて
選手と意見交換をしたり、
場合によっては
直接、口頭で話したりして、
気になることがあれば
できる限り選手個人と
コミュニケーションをとるようには、していた。



その中でも
コミュニケーションを取る際に注意していたのは
できる限り言いたいことをシンプルに伝えること。



論理的に伝える意識を持ちながら、
選手と話すようにはしている。



誰に、何を、いつ、どのように、等など。
出来る限りこちらの伝えたいことが伝わるように
口頭でも、サッカーノートのコメントでも
言葉を選んでいる。



ただ、チーム全体が緩いと感じた時などは
感情的な言葉を選ぶ時もあるが・・・。



論理的に話すことを原則にしつつ、
時々、感情をぶつけていく、
という感じだろうか。



でも、出来る限り、
ストレートに言いたいことを選手に伝えるようにしている。



トレーニングも勝つ為に、
必要な部分の修正と底上げを中心に行っている。



ただ、何をもって「修正」というかは
自分の今までの指導経験を基にして、
ある種、職業的な勘だったり、
過去の指導記録を参考にしながら「修正」したり、
場合によってはトレーナーの方々と話し合って「修正」していく。



トレーニング上の「修正」も
基本的には論理的な考え方がベースにしている。



なぜ、NHKラジオの短歌番組に聞き入ってしまったのか?
なぜ、『受け手が作り手の短歌の世界を自由に広げてもいい・・・』
という言葉が気になったのか?



どこか選手達が自分のコーチングの言葉を越えて
自分達でアドリブを入れながら
臨機応変にプレーして欲しい、
という気持ちが自分の中にあったのだろうか?



指導者であれば、
皆、自分のサッカー観を持ち、
そのサッカー観を実現するために
必要なトレーニングをし、
言葉を掛けていく。
選手を選んでいく。



そこに存在するのは
あくまでも論理的な思考。



歌人の『自由な解釈を容認するのが短歌・・・』
という言葉に惹かれたのは
選手達に論理的な状況判断を求めると同時に
チームとして構築してきた論理的な判断を飛び越えて
相手との駆け引きを楽しんでほしい、
そういう気持ちがあるということだろうか?



論理的であるということは
相手にとっても〝論理的〟であるということ。



試合に勝つには、
どこかで相手を騙したり、
相手の裏をかく必要がある。



そのような相手との駆け引きは
論理的思考からだけでは生まれて来ないのかもしれない。



チームの枠組みを作るのは論理的思考だが
枠を外すことで試合に勝つこともある。



例えば、チームとしてサイド攻撃を練習してきたとしても
相手の隙を見つけてミドルシュートを狙うのは
もちろんあるべき。



自分の感覚で『このタイミングでミドルを狙える』と感じたなら、
指導者として、その感覚を否定すべきではない。



一定のロジックがないと、
チームとしての共通理解が作れないのは間違いない。



ただ、選手達に自由な発想も失わせたくない。



自由な発想と自己中心的なプレーの境目は簡単ではないが、
チームとしての共通理解と論理的な状況判断をベースにしつつ、
選手には駆け引きとアドリブを忘れずにいてほしい。



そのためには、
まず指導者自身が論理と即興の間に居続けたい。
論理と即興のバランスや、その不安定さを楽しみたい、と思う。

修徳高校との試合で、太宰治を思い出す

2007年12月03日 01時35分27秒 | 戦術の謎
先日、修徳高校とのリーグ戦の後、
修徳高校の先生方の御理解と御協力の下、
2試合の練習試合を組んでいただくことができた。



東京を代表するようなチーム試合ができるのは
そうないことなので、
有難く胸をお貸りして、
選手ともども勉強させていただいた。



修徳高校のサッカーには
試合に勝つ為のリアリティーがあった。
技術はもちろん、判断の速さをベースに
動き出す速さ、ボールを動かす速さ、
ボールのないところでのランニング、
フィジカルコンタクトの強さ等・・・。



うちのチームとの一番の違いは
やはり[ボールを動かすスピード]にあったと思う。
典型的だったのは
自陣内でサイドを2回変えられたシーン。
相手の展開の速さについていけず、
結果的に球際に正しくアプローチできず、
カバーリングをはじめ、
守備において数的優位を適切なタイミングで作ることが
なかなかできなかった。



相手のミスからボールを奪い、
攻撃につなげることはできたが、
局面において数的優位を作り、
相手からいいボールの奪い方をすることができなかった。



ボールを早く動かすということは
ロングボール一辺倒でない限りは
必然的に人も動かざるを得ないが
修徳高はオフ・ザ・ボールのランニングも
うちの選手の運動量を圧倒していた。



ボールを奪ってから、
いわゆるアタッキングサードに入るスピードも
明らかに修徳高の方が優っていた。



リーグ戦の試合では
うちの選手達も負けてはいなかったが
リーグ戦以降の練習試合では
圧倒されていた。
修徳高のチームとしての選手層の厚さ、レベルの高さを感じた。



わかっていても止められないやられてしまう、
という修徳高の展開の速さは
見習うべきだし、吸収すべき。
対戦相手のいい部分は
正直、真似してもいいと思う。



技術的な底上げも継続して練習しつつ、
修徳高のボールを奪ってからのスピードの上げ方は
今後の練習内容の参考にさせていただきたいと考えている。



全国レベルの強豪チームとゲームする際に
ゲームを壊さずに、しっかりとゲームをするには
守備が極めて重要になる。



「自分達のサッカーができない時には、
 相手にもサッカーをさせない」
というのが自分の考え方。



守備で相手のサッカーを形にさせないことが
少しずつでもできてくれば、
流れは少しずつ変わってくる。



相手の攻撃の特徴が
スピードにあるならば、
スピードアップさせない。

上手さにあるなら、
球際の強さとアプローチのスピードで勝負する。

個人の強さにあるなら、
集団で勝負する。



いずれにせよ、
自分達よりレベルの高いチームと対戦する場合は
ボールのある局面でいかに数的優位を作れるかが、
需要なポイントになる。



数的優位を作るためには
相手のスピードを止めなければならないし、
カウンターを受けそうな状況では
相手のボールホルダーに正しくアプローチして
相手の展開を遅らせる必要がある。



中盤で数的優位を作るのか、
ゴール前で数的優位を作るのか、
相手に奪われた瞬間に数的優位を作るのか、
リトリートするのか、
数的優位の形成は中央かサイドか、
それはチーム戦術や状況によって異なってくる。



いずれにせよ、
攻撃から守備への切り替えの速さが極めて重要になる。
正直、この点でうちの選手達は修徳高の選手と差があった。



まず、攻撃から守備への切り替えが遅かったことは
一番の改善点ではあるが、
攻守の切り替えの意識自体は悪くない選手は居たにしても
何をすべきか、ということが整理されていない感じだった。



少なくとも、ボールのある局面で
数的優位を作って、相手を囲んでいくために何をすべきか、
ということが
プレーを見る限りは
整理されていなかった。



もしかしたら、
チームプレーの意識の欠如や人任せな受身の意識も
あったのかもしれない。

また、修徳高という全国大会に何度も出ているチームと対戦することで
平常心を失ってしまったのか。

修徳高の強さを目の当たりにして、
現実逃避してしまい、
どうすればいいのかすら整理できないような
パニック状態だったのだろうか。



一番気になったのは
[相手に抜かれても、追わないプレー]や、
シュートを打った訳でもないのに、
自分が〝ボールよりも高い位置にいる〟にもかかわらず、
 (※〝高い位置〟とは
  自分が相手ボールホルダーよりも
  守るべきゴールから遠い位置にいる状態を指す)
[ボールの高さまで戻ってこない]こと。



相手チームがボールを保持している状況において、
守備ですべきことは
【ボール】にいくか?
【人】をマークするか?
【スペース】を消すか?
この3つしかない。



[抜かれた後に追いかけない]、
[ボールの高さまで戻ってこない]のは
【ボール】にも【人】にもついていっていない、ということ。
もちろん、【スペース】も消していない。
味方のDFやGKがなんとかしてくれる、
という人任せで受身なプレーと言わざるを得ない。
怪我や足をつっていたりしていない限りは
「傍観」「サボリ」と
言われても仕方ないと思う。



極めて例外的ではあるが、
一人で点が取れるFWであれば
守備をしないという判断はありえるのかもしれない。



ただ、やはり、強いチームとやる場合には
守備の意識は絶対に必要。



相手が前から来る場合に
ボールに対して当たりに行くのは
誰でも、またどんなチームでもできる。



大切なのは
[抜かれた後]や[ボールより高い位置にいる場合]の対応。



場合によっては
味方と2人で相手ボールホルダーを囲んでもいいし、
ボールを追い越してきた相手選手や
オーバーラップしてきた相手選手をマークしてもいい。



[抜かれて]も[ボールより高い位置に入ってしまって]も、
その後の守備への切り替えを早くすれば、
すべきことやできることは少なくない。



むしろ、[抜かれた時]や[ボールより高い位置にいる時]こそ、
自分のできることやすべきことを探しながら、
足を止めずに、動き続ける、走り続けることを
習慣にしていくべきだと思う。



攻撃時に、わざと止まることも
駆け引きや判断の1つとして十分ありえるが、
守備においてはボールのない時こそ、
走るべき。



[抜かれた時][ボールより高い位置にいる時]こそ、
走るべき。



走るべき状況で足が止まってしまうのは
チームプレーとは言わない。



負けている試合で
走るべき時に走らないのは
勝つチャンスを自ら放棄しているのと同じ。


全国レベルのチームとの対戦において、
個人では勝てなくても、
コンビで、グループで、チームで戦い、
相手に相手のサッカーをさせないことには
トライすべき。



強いチームに勝つには
できることを最大限にやることが必要。



声を出すこと、走ること。



チームで戦う意識と
守備でやるべきことを当たり前のようにやる意識こそが
強いチームとしぶとく戦うことにつながってくる。



特に、[抜かれた後][ボールより高い位置にいる時]こそ、
幼い頃に読んだ太宰治の『走れメロス』の如く、
味方のために走ることを
忘れるべきでない。



走ることは、
例えどんなに遅くても
誰にでもできる。



味方のために、
チームのために、
試合に勝つ為に、
自分が納得するために、
走ること・声を出すこと、といった
自分のできることを最後までやりきる強い気持ちこそが
強いチームに勝つためには必要だということを
修徳高の先生や選手達から学ばせてもらった。



今後の指導でも忘れないようにしたい。

言葉を声にすることの意味

2007年12月02日 19時14分10秒 | NOTE
12月2日は柏市にある修徳高校の沼南町グランドにて、
リバーサイドユースリーグ1部リーグの試合があった。
リーグ戦後も、修徳高の先生方の協力で
練習試合を2試合組んでいただいた。



リーグ戦は先制されるものの、
後半立ち上がりに追いつき、
お互いに攻め合うも得点しきれず、
1対1のままタイムアップ。
お互いに勝ち点1を分け合う悔しい結果に終わった。



リーグ戦終了後予定通り、
練習試合をしていただいた。



その練習試合で気になるプレーが少なからずあった。
気になったのは、守備におけるシーンで多かった。



今、チームではヘディングする際に
「OK!」という声を出すように
指導している。



責任感をもって守備をしてほしい、
責任感をもって球際を頑張ってほしい、
責任感をもってヘディングしてほしい、
という理由から。



ハイボールをヘディングでクリアーというよくあるプレーでも
「俺が行くべきか・・・」
「それとも、他の味方がヘディングしたほうがいいのか」
わからないまま、なんとなくヘディングしても
相手との競り合いに勝てるはずもない。



たとえ、いわゆる〝かぶって〟しまった状態になったとしても
「俺が行く!」「OK!」という声を出して
ヘディングでしようとした方が
声を出さないでヘディングして
たまたま頭に当たった時よりもよっぽどいい。



自分が落下地点に一番近いと感じて
「OK!」という声を出すことによって、
【責任感】というものが生まれる、と考えている。



さらに、一人の選手の【責任感】が
味方の【責任感】につながっていく。
味方のカバーリングにつながっていく。



サッカーだけでないと思うが
言葉を意識すること、
言葉を口にすることで、
その言葉を自分の中でより深く意識できる。
より深くその言葉が自分の中に入ってくる。



今年の高円宮杯で優勝した流通経済大付属柏高では
毎日「日本一になる」ということを
ノートに書いたり、声に出しているという。



流通経済大付属柏高の試みはとてもよく理解できる。



言葉を頭の中で考えるだけでなく、
実際にその言葉を声にしてみると、
頭の中でなんとなく感じていたその言葉のイメージとは
また〝違ったもの〟が自分の中に生まれてくる。



確かに、言葉にしたことが全て実現する訳ではないし、
流通経済大付属柏高の場合も
今後日本一になり続ける、という保証はどこにもない。
ヘディングでも
「OK!」という声を出したからといって、
絶対に相手に競り勝てる保証はない。



それでも、「OK!」という声を出すことは
継続して徹底的に指導していきたいし、
流通経済大付属柏高の試みを否定する気にはなれない。



「OK!」という声が
「自分がいくんだ」「自分が競り合うんだ」
という気持ちを生み出すと思っている。
「OK!」という声が
【責任感】を生み出すと信じている。



【責任感】というものは目には見えないし、
人によっては
「OK!」という言葉と【責任感】という可視不能な観念との間には
何の論理的結合性はない、
というのかもしれない。



【友情】や【愛情】【信頼】といったものは
目には見えないがあると信じているし、
【責任感】というものもあると信じている。



味方のために、自分のために、
自分のできることを頑張る。
人任せにしないで、
自分のできることを最後までしっかりやる。



そういった意識を「OK!」という言葉にすることで
自分の中でより深く自覚する。



サッカーにおいても
感覚は大切だとは思う。
でも、言葉も同じくらいに大切。



人と人をつなぐのは
言葉。



阿吽の呼吸というものが存在するのは
言葉の積み重ねが前提になっているはず。



人の心に突き刺さるのも
人の心に沁み込むのも
言葉であり声。



人をやる気にさせるのも
言葉と声。



人間を癒すことは自然や動物にできたとしても
人間のモチベーションを上げることはできない。



味方や指導者からの言葉で、
モチベーションが上げられたり、
いろいろなことに気づくこともできる。
それは、自分自身による言葉でも同じ。



自分自身の声によっても
自覚していなかった自分自身の意識に気づけることができるし、
自分の中に、
何かが生まれ、何かが変わる。



自分自身、感情をコントロールできずに、
選手や家族を傷つけたこともある。



選手達に言葉の大切さや声の重要性を説くと同時に、
自分自身も常に言葉の重みも忘れないでいたい。



それでも、例え、誤解や衝突が生じたとしても
相手や味方、家族を拒絶せずに
どんな状況になっても話し合う土壌が存在する限りは
言葉を声にしていくことで
自分の中に新たな意識が生まれ、
周囲の人達とよりいい関係を築くことができると信じている。



言葉の怖さを意識しつつも
言葉を声にし続けたい。
もし、人を傷つけてしまったら、
まず言葉で謝り、
謝罪の気持ちや誠意を行動で裏づけしていく。
言葉が本意でない解釈や受け止め方をされたならば
何度でも話し合う。



選手達の成長だけでなく、
自分自身の成長のために、
そして人とよりいい関係になるために
言葉を大切にしたい。
言葉を声にして発し続けたい。