アパッチ蹴球団-高校サッカー篇:project“N”- 

しばらく自分のサッカー観や指導を見つめなおしていきたいと思っています。

組織と個人

2014年08月26日 02時52分01秒 | NOTE
辞任したザッケローニの後任として
ハビエル・アギーレ新監督が日本代表監督に就任した。

原委員長の責任問題には結局何ら言及されることなく
アギーレ氏の就任が決まった。

アギーレ氏が誰を選ぶのか?
ジャーナリズムの論点も完全にそちらの方に移っている。

サポーターの多くも、原委員長の責任を追及したところで
ただの「トカゲの尻尾切り」だと考えているのかもしれない。

アギーレ氏が初のメキシコ人の日本代表監督
ということでもの珍しさもあり、
原委員長の批判や更迭議論よりも
選手選考から透けて見えてくる
アギーレ氏のサッカー観のようなものに
サポーターの興味が完全に移ってしまっている。

Jリーグの試合でも
若手や代表を狙う選手達が
就任会見や過去の実績などから
アギーレ監督の求めるものを推測しながら
結果を出そうとしているのがよくわかる。

サポーターも選手も
アギーレ監督が何を考え、何を求めているのか、
そのことに関心が向かってしまっている。



もちろん、個人的にアギーレ監督がどんな選手を選び、
どんなサッカーをするのかということについて
関心がないわけではないが、
こういう発想がブラジル大会での敗戦に繋がっていたような気もする。

確かに、監督がどういうサッカーを目指しているのか、
ということをまず理解しようとするのは
選手として当然だとは思うし、サポーターも関心があるところだとは思う。

実際ザッケローニ前監督も自分の追い求めるサッカーを
表現できるような選手を4年間かけて選考し、
ワールドカップ予選やテストマッチなどで結果を残すことで
選手もサポーターも自信を持ち、
その積み重ねが大会前や大会期間中の
「自分たちのサッカー」という表現に至ったのかもしれない。

「自分たちの形」を持つのが悪いとは思わないが
「ただ言われたことだけ」「積み重ねてきたことだけ」を淡々と表現することは
戦い方としても、組織のあり方としても、組織に属する個人の考えとしても
違和感を感じざるを得ない。

監督が求めること、チームとしての約束事や戦術、
こういったことをあくまでもベースに過ぎない。

大事なのは、一人ひとりがそのベースの上に
個人のアイデアや閃き、アドリブや駆け引きをのせていくこと。

言われたことをやっている限りは
組織としてチームとして前に進んでは行かない。

ザッケローニやアギーレの求めるものに加えて
「俺はこんなプラスアルファがある」
「自分だったら、こんな色をつけられる」
こういう発想が組織とチームを前に進めていく。

ただ、ザッケローニも本当はワールドカップという真剣勝負の場でこそ、
選手達にプラスアルファを表現してもらいたかったのかもしれないし、
それだけの能力とアイデアが日本代表にはあると考えていたのかもしれない。

日本代表の選手達が無責任にプレーしているとは思わないが、
自分の色をのせることにより発生する責任から
無意識的に逃れようとしているように感じることは少なくない。

元日本代表監督のイビチャ・オシム氏が指摘した
日本代表選手の中に無意識的に存在している責任回避の傾向は
未だに改善されていないのかもしれない。

約束事にしたがってプレーするのは
フィジカル的にはきついときもあるかもしれないが
責任が均等に分割され、最終的な責任が監督に集約されるという意味では
選手の精神的負担はかなり軽減される。

これが日本の目指す方向なら、それでいいのかもしれない。

ただ、本当にこれでいいのだろうか。

ザッケローニの求めるものだけを求める。
アギーレの求めるものだけを忠実に求める。
本当にそれが日本の目指す方向性なのだろうか。

やはり、個人的には
一人ひとりがチームに依存せず、
個人個人のアイデアや閃き、本質的なアドリブや魂で
チームにプラスアルファを加えていくべきだと思う。

試合中の起こる様々な状況に柔軟に対応できるように
むしろ約束事はシンプルの方がいい。

シンプルな約束事を個人のアドリブと魂、
即興的なコンビネーションで膨らませていく。

それらが、ゴールを奪い、ゴールを守るという
本質的観点に基づくものであれば何の問題もない。

サッカーはそれができるスポーツだし、
個人がプラスアルファを組織に加えていくという意識は
サッカー以外の場面でも極めて重要なことではないだろうか。

組織に属することだけで満足するのではなく、
さらに自分の力で組織を引っ張っていく。
組織を変えていく。
少なくとも、何らかのプラスアルファを加えていく。

こうした一人ひとりの意識と行動がチームのあり方に幅と深み、奥行きを与えていく。
そういった個人の意識とチームのあり方の方が魅力的だと思う。

日本代表が目指すのはそういうチームであってほしい。

もちろん、それは簡単なことではないし、
こういう考えが当たり前になってくれば
選手一人ひとりの責任も個人のアイデアや発想に比例して大きくはなる。

それでも、日本代表と日本選手、ひいては日本の社会には
まだまだそういう組織のあり方、組織に対する個人のかかわり方ができるはず。
それだけの能力とアイデアがあるはず。

日本代表というチームに入ったことだけで満足するのではなく、
日本の代表であるからこそ、
高い意識と自己表現の責任が求められるはず。

いやむしろ、チームの為に行う個人のプラスアルファこそ、
サッカーというスポーツにおいて求められるべきもの。
それは日本代表であっても、草サッカーであっても
まったく変わりはない。
むしろ、変わってはいけない。

もし、草サッカーでそれを求めなかったら、
日本の代表ができるはずがない。

そのためには、草サッカーでも日本代表でも
お互いを認め合うこと。
声を掛け合い、常に反応し合い、そして励ましあうこと。

これであれば、草サッカーでも絶対にできるし、
底辺からこういった意識でプレーしていけば
日本代表も一人ひとりの意識と行動が変わってくるはず。
単なる約束事だけを表現するチームからは卒業できるはず。

「チームの為に何ができるのか」
という意識に加えて、
「俺はチームにこういった色を付け加えていく」
「チームのオプションを自分が作っていく」
こういった意識がチームを必ず成長させるはず。

日本代表と日本サッカーの未来を信じたい。