アパッチ蹴球団-高校サッカー篇:project“N”- 

しばらく自分のサッカー観や指導を見つめなおしていきたいと思っています。

不作為という甘え

2008年10月14日 16時27分49秒 | メンタルの謎
先日、キャプテンと上級生の2人から
「話があるんですが・・・」と言われ、
練習をトレーナーの方と若いコーチにお願いして、
選手2人といろいろと話をした。



選手からの主張の中心は
『新人戦に向けてのメンバーの選考方法』についてだった。
それと関連して、
夏の選手権地区予選の練習内容やメンバー選考、
関連してインターハイ地区予選での闘い方についても
選手からは言いたいことがあったようだった。



選手からのアプローチで話し合いをセッティングするということは
選手側にしてみると言いたいことがかなりある状態か、
かなり切羽詰っている状態であることが多いので、
練習と平行した話し合いだったが、
時間を気にせず、選手と話し合った。



まずは、選手側の意見を聞き、
それに対して、こちら側の意見や考え方を伝える、
という形で話し合いは進行していった。



基本的には、
『なぜ、監督がこういう選手を選ぶのか?』
『なぜ、この選手を使わないのか?』
『なぜ、こういう練習なのか?』
『自分達はこう考えるが、どうか?』
という質問が多かった。



質問の根底には
『監督の真意や意図が見えにくい』
という点にあったようだった。



その話し合いでは
1つ1つの質問に監督としての自分の考えを説明した。



選手からの意図も自分には伝わってきたし、
自分の考えや根拠も選手には伝えた。



最後に選手の1人が
『監督はもっと今回の話し合いのようなことを選手全員に伝えるべきだと思う』
という直球を投げてくれた。



春休みやインターハイの予選前には
戦術的な説明を練習時や練習前に
詳しく説明していた。



その結果かどうかわからないが、
インターハイ予選ではリトリートという守備戦術を中心に
地区予選の決勝までいくことができた。



ただ、インターハイ後のある選手のサッカーノート上で
『話が長すぎる』
『もっと簡潔に話しをしてほしい』
という意見があった。



こちらとしては
できていないからこそ、
何度も話しているつもりだったが、
できていないということは単に今できていないことであって、
頭の中では十分過ぎるほど理解している、
ということなのかもしれない・・・と解釈し、
進学校の選手達は1回もしくは一言いえば、
理解するのかもしれない・・・、
サッカーにおいても一言えば十理解するのかもしれない、
そう考えて、
戦術的なテーマや自分の考えは簡単に一言だけ簡潔に伝え、
繰り返さないようにした。



その結果、
今回のような選手とのコミュニケーションが
機能不全に陥ってしまうような結果になってしまった。



インターハイ後の選手権予選までは
テーマの中心が攻撃の部分にあったこともあり、
チームとして1つの絵を共有しにくかった、
ということもあるのかもしれない。



また、私自身は選手と直接話し合うことを嫌だと感じたことは一度もない。
直接口頭で話し合うのでも、電話やメール等でも。



直接言いにくい場合でもサッカーノートや携帯メールを通じて、
言いたいことを伝えてくれれば、
その都度、自分の考えを伝えるつもりだったし、
悩んでいる選手や言いたいことのある選手の話は
どんな時でも聞きたいと思う。
話し合いたいと思っている。



選手と戦術的な話やサッカーの話をするのは
私自身まったく抵抗がない。



選手とプライベートな話をするつもりはないが、
サッカーの話やチームをもっと良くしていこう
という建設的な話し合いは
時間の許す限りやりたいと考えている。



友人だけでなく、選手やいろいろな人達と
サッカーの話し合いをするのは
本当に愉しい時間。



たとえ、意見が衝突したとしても
お互いに何も言わずに不信感が増幅していくことに比べたら
よっぽどいい。



選手には
「しゃべらなければ、伝わらないだろう!」
「伝えようとしなければ、何も伝わらない!」
と言って、
コミュニケーションの必要性を
何度も何度も伝えてきたつもりだったし、
試合中や練習中にコミュニケーションの取れない選手には
厳しく伝えてきたし、
どんなに実力があってもあえて試合に出さない、
ということも時にはしてきた。



そういった選手に物足りなさも感じてきたし、
何とかコミュニケーションによって
“チーム”として戦ってほしい
チームが本当の意味で“チーム”として機能してほしい、
味方との関係が単なる足し算ではなく、掛け算になるように、
少なくとも引き算にならないように
味方同士でコミュニケーションをとってほしい、
そう思って選手に伝えてきたつもりだった。



それでも選手はなかなか変わらない様子を感じながら、
選手の姿勢を受身に感じ、
苛立つこともあった。



『言わなくてもわかるだろう・・・?』と
言わんばかりの選手達の姿に
自己中心的な甘えを感じ、
希望を失いそうにもなった。



それでも、選手が変わることへの可能性を信じ、
自分なりに我慢してきたつもりだった。



でも、もしかしたら、
一番甘えていたのは自分自身だったのかもしれない。



「言わなくてもわかるだろう・・・」
「一度言えばわかるだろう・・・」
「何度も言っているから伝わっているよな・・・」
「俺は言っている。後は選手が変わるのを待つしかない・・・」



どこかで、選手に期待し過ぎていたのかもしれない。
選手の成長を受身で待っていただけなのかもしれない。



本当に、選手に伝えようとしてきたのか?
選手になんと思われても、伝えるべきことを
しつこく何度でも伝える勇気を持ち続けていたか?
伝えているつもりになっていなかったか?



振り返ると自分自身が一番受身だったのかもしれない。



自分自身の理想のチーム像は
指導者と選手がぶつかり合いながら、少しずつ作られていく・・・。
指導者主導でもなく、選手主導でもない。



お互いが言いたいことを言い合ってこそ、
チームは本当の意味で“チーム”になっていく・・・。



そう思っていたはずなのに・・・
監督である自分自身が
一番壁を作っていたのだろうか?



監督という立場を利用した不作為によって、
選手とチームが
自然といい方向に変わっていくとでも思っていたのだろうか?



やるべきことをやるべき人間がやらなければ、
時として作為によるよりも酷い結果になることも多い。



不作為はやらないのと同じ。
言わないのは、言うつもりがないのと同じ。
そういう場合も少なくない。



もちろん、
選手は監督のロボットではないし、
一から十までを常に伝えるつもりもないが、
伝えるべきことは選手からなんと思われようとも
何度でも伝えたい。



また、サッカーにおいてプレーするのは選手なので、
選手の閃きや柔軟な判断、考えてプレーする習慣を奪うことがないように
選手に何かを伝える時は言葉を選びたいが、
選手に一方的に期待して、
何も言わないでおくということは
できるだけ避けたいと思う。



また、選手からのパスをいつでも受ける、
窓はいつでも開いている、
というメッセージは常に発信していきたい。



選手と適切な距離感は保ちつつも
選手からの話はいつでも聞き、
それに対して監督としての意見を投げ返したい。



選手達とサッカーについての建設的な話をするのは何の問題もない、
というメッセージは伝え続けたい。



今は試験期間中ということもあって、
新人戦(兼関東大会予選)まで話し合いや練習は数える位しかできないが、
少しでも選手と言葉のやり取りや
サッカーについての意見を交わしながら、
スタッフと選手とが少しでも同じ絵を共有した状態で、
新人戦を迎えたいと思う。