アパッチ蹴球団-高校サッカー篇:project“N”- 

しばらく自分のサッカー観や指導を見つめなおしていきたいと思っています。

サッカーノートの意味

2015年09月24日 01時25分54秒 | 人として
高校生を指導していたとき、試合毎に選手達にサッカーノートを書かせていた。サッカーノートは指導を始めた当初からやっていたわけではなく、指導の途中から始めたものだった。おそらく指導を始めて4年目ぐらいからやり始めた気がする。サッカーノートを始める前は選手達に挨拶を強要することはあっても、選手達の意見を受け入れることはしなかった。サッカーに関する知識もプレーにおいても選手達に負ける気はしなかったし、「自分の言う通りにやっていれば勝てるんだ」という気持ちで指導していた。選手達の意見やアイデアからは何も得るものはない、そう考えていた勘違い野郎だった。

確かに、フィジカルを強化することだったり、ある程度の戦術を組み立て積み重ねていくなかで、少しずつ勝てるようにはなっていった。ただ、あくまでもそれは戦術が上手くはまった場合や相手の実力が明らかに下の場合でかつ相手が戦意喪失したような場合だった。相手が技術的に格上のチームのときはもちろん、粘り強くあきらめないチームだったり、想定外の展開になってしまった場合には全く修正が効かないチームになってしまっていた。要するに、自分達で修正ができないチームだった。もちろん、自分が監督としてベンチから戦術変更の指示を出したり、選手交代やフォーメーションの変更で対応はしていたが、時には選手たちよりも大きな声を出してゲームをコントロールしていた。キャプテンにさえも、監督の指示を伝える役割を担わせていた。

当然、こんなことを続けていては、選手達が自分達で考えて修正するはずもない。そもそも、自分たちで修正するどころか自分たちで考えることすらしなくなる。練習も言われたとおりにやるだけ、プレッシャーのかかる試合などでは特に依存度が高くなっていく。さらに悲しいかな、監督である自分がそんな選手からの依存を「自分の指示を選手たちが待っている」と勘違いしてしまっていた。特にこの弊害が顕著に現れたのは攻撃面だった。守備面ではある程度自分達の戦術通りに試合が進んでも、ボールを奪った後に全く応用が効かなくなっていった。ボールの動かし方を決めても、相手がそれを予測し始めると、選手たちがパニックになりかけるのがベンチから見ていても明らかにわかった。そこでさらに、練習を通じて、攻撃戦術をいくつかのパターンに分け、時間帯や状況に応じて選択できるようなものにしたが、結局、何を選択すべきかを決定したのは監督である自分だった。

監督である自分が指示を出している限り、選手達は自分達で状況に応じて臨機応変に判断し、選択し決定することはなかった。挨拶にしても、怒られるのが怖いから監督の目の前では挨拶はするが、それ以外の場所では全くしていない・・・そんな状態だった。結局、選手たちの頭の中にあったのは、「怒られたくない」というたった一つの物差しだけだった。どうサッカーを考えるか、どうゲームを組み立てるか、相手のどこを攻めるか、どう攻めるか、こういったサッカーの本質的な部分についての判断の物差しは選手たちの頭の中には全くなかった。

自分が監督として育てたいのは、こんな選手だったのだろうか。否、そもそもこの頃は「選手を育てる」という意識すらなかった気さえする。自分の思い通りに選手を動かし、それで試合に勝って自分が指導者として認められたい、そんな不純な動機だけで指導していたかもしれない。さらには、そんな指導で選手たちに何が残るのか、そんなことも考えもしていなかった。選手たちが意見を持つのを怖がっていたのだろうか。選手達が自分たちの意見を持ち、それによって監督である自分の意見や考えを否定されるのを怖がっていたのだろうか。でも、少しずつそして確実に、選手たちが自分自身の意見を持たずにプレーすることについての違和感がどんどん大きくなっていった。仮に監督としての自分の意見が否定されても、やはり選手には自分の意見や判断でプレーして欲しかったし、高校サッカーを通じて、自分達の判断と決断でプレーし、さらには仲間とコミュニケーションを取りながらプレーしていくことができれば、高校サッカーを卒業した後も、自分たちの判断で様々な局面を自分たちの力で乗り越えていけるのではないか。一人の指導者としてだけでなく、一人の大人として、強くそう思うようになっていった。

何をすれば、選手たちが自分たちの判断とコミュニケーションで、苦しい局面や想定外の状況を乗り越えていけるようになるかはわからなかったが、まずは選手たちが意見を言える場所を作ることから始めたかった。自分が選手と距離をとる強面の指導者だったこともあって、面と向かって何かを言ってくるということはなかったが、ノートであれば、文字であれば、もう少し言いたいことが言い易いのではないか、そんな気がしていた。サッカーノートを始めた直後は選手達も戸惑いもあったみたいだが、回数を重ねるうちに、「何を書いても大丈夫なんだ」ということを選手たちも理解し始めていき、少しずつ本音のようなものも出始めた。もちろん、選手による個人差も大きく、自分の意見をどんどん主張してくる選手もいれば、当たり障りのない意見を書いてくる選手も少なくなかった。

サッカーノートには、だんだんと辛辣な意見や鋭い意見も出始めたが、意外だったのは、レギュラーではない選手達の中にしっかりとした自分の意見を持っていることが多い、ということだった。練習や試合中には明確な自己主張がなくても、彼らはしっかりと自分の意見を持っていた。ただ、プレーに自信が無いが故に自己主張することを躊躇っていただけだった。そのことをまず知ることができただけでも、大きな収穫だった。さらに、チーム全体で少しずつではあるが、試合や練習の中でいい意味で感情が出るようになっていった。不平不満だけでなく、悔しさや自分達の気持ちが下がりかけていたときに自分達でチームを鼓舞する回数が少しずつではあるが、増えていった。

サッカーノートには、だいたい選手が書いたのと同じ分量のコメントを書いて選手たちに返却していた。すべての選手達のノートにコメントを書くのは簡単ではなかったが、選手達の率直な意見を読むのがとても楽しみだった。むしろ、汚い字で返却されたコメントを読む選手達の方が大変だったと思う。選手たちに自分たちで判断してコミュニケーションを取りながらプレーしろ、と言い続けた以上、自分も監督として選手一人ひとりとコミュニケーションを取らなければならない、そう考えていた。実際、選手からの意見で参考になる部分も多く、指導や指導計画の参考にすることは少なくなかった。

指導を卒業した今、選手たちのサッカーノートを読むことは永遠にないが、どんな人間にも意見があり、感情があるのだ、ということは忘れたくないし、もしそのことを忘れたら大きなしっぺ返しを食らう・・そんな気がする。