アパッチ蹴球団-高校サッカー篇:project“N”- 

しばらく自分のサッカー観や指導を見つめなおしていきたいと思っています。

育成年代の指導における本質

2019年12月31日 23時19分19秒 | コーチングの謎
久しぶりの投稿になります。よろしくお願いします。

今年も高校サッカー選手権が始まった。指導の内容や練習方法なども、少しずつ変わってきているのかもしれない。ただ、どんな練習をするにしても、基本的な部分、本質的な部分は変わらないとも思う。本質は選手が自ら考えるような習慣をつけられるようにすること。自ら考えることが納得できるプレーに繋がるようにすること。

指導者は自分の経験からなかなか出ることができない。自分が言われた通りにやるような指導を受けてきた場合、どうしても自分が指導する際もそういう方向性になってしまう。そして、それは基本的には単純で、選手も肉体的にはきついけど、頭ではほとんど何も考えていない状態に近いので、ある意味楽な部分もあるとは思う。その楽な部分に選手も指導者もどっぷり浸かってしまい、判断に柔軟性が全くなくなるようなプレーが多くなる。

また、「指導者は指導に威厳みたいなものを持たせる為、無意識的な場合も含めて、選手に自分を超えさせないように“呪いの言葉”を掛ける」ということは、指導の現場に起こりうるよくある問題として挙げられる。自分の考えでは、指導者の役割は、選手自らに判断させて、結果として選手が指導者を超えるような判断とプレーをできるようにしていくことだと思う。自分が指導の現場で意識していたのは、選手が自らの判断でプレーしたときには、それがどんな判断、どんなプレーであったとしても、それを認める、ということ。指導者が選手の判断を認めなかったら、選手は自分の判断に自信を持てるようにはならないし、結果として自ら判断することを放棄してしまう。さらには、指導者の考えていることを探し始め、自らそれに迎合していこうとする。依存に近い関係がそこには存在してしまう。

誰がそういったプレーに納得できるのだろうか。選手達は10年後20年後に当時を振り返ったとき、自らのプレーに納得できるのだろうか。サッカーにかかわった時間が、自らを律するような部分に繋がるのだろうか。もちろん、偉そうに言っている自分が指導者として、高校サッカーの指導者として、どこまで出来たかは自信はない。ただ、選手が自ら判断し、結果として自分が批判されるようなことになったとしても、それは受け入れていた。選手からどんな批判を受けてきても、まずはそれを受け止めることからは絶対に逃げなかった。選手たちからのダメ出しが、辛辣な言葉で何人からも続いたことだってある。でも、それを受け入れず、ただ感情的に拒絶してしまったら、選手は絶対に自分で判断しなくなる。そう思っていた。自分で判断しようとするからこそ、周囲を見るし、現象を観察しようとする。自分の判断がミスした場合でも、自分で考えたからこそ、受け入れることもできる。そもそも高校サッカーの監督という仕事、育成年代の指導者という仕事自体、正解なんてどこにもない。自分で判断するしかない。もがきながら自分で判断しようとし続けたからこそ、選手が自分で判断しようとするようになったとき、心から喜べる。選手達にも、同じような経験をさせたいし、それを積み重ねていったら、サッカーを卒業した後も、きっと自分の判断で、自分の足で進んでいける。そう信じたいし、今でもそう信じている。

指導を卒業した後も、ときどき以前かかわることのできた選手達を会うことがあるが、悩みながら、ときには迷いながらも自分の足で自分の心が求める方へ進もうとしている。その姿を見て、自分の指導も少なくとも方向性は間違ってはいなかったのだと思えた。指導を卒業した今も、言い訳せず、指導でかかわった選手達のように、自分の心が求める方へ進んでいきたいと思う。

更新が滞ってしまっているにもかかわらず、自分のこのつたないブログを読んでくださっている方がいてくれること、本当に有難く思っています。
多少短い文章になってしまったとしても、今後はもう少し更新の頻度を上げていくつもりです。今後ともよろしくお願い致します。

2020年が、すべての育成年代の指導者と、若い選手達にとって、最高の一年になりますように。