アパッチ蹴球団-高校サッカー篇:project“N”- 

しばらく自分のサッカー観や指導を見つめなおしていきたいと思っています。

育成年代のサッカーの指導において忘れてはいけないこと

2020年08月27日 04時13分24秒 | 指導記録
高校サッカーの監督だった頃、いつも意識していたのはなかなか公式戦に出るチャンスがない選手たちのことだった。サッカーではうまい選手、強い選手、速い選手が正義みたいな部分は正直あるし、それはある意味、サッカーにおける真実の一部なのかもしれない。ただ、こういったチームの中で目立つ選手たちと対極にいる選手達は「そもそも自分がこのチームにいる価値があるのだろうか」そう自問自答するようになっていく。サッカーは嫌いじゃない、仲間や友達だっている。でも、自分はこのチームに何ができるのか…、何か貢献できることはあるのだろうか…、そう考えれば考えるほど自分自身がチームに存在する意味が見えなくなっていく。好きで始めたサッカーであるにもかかわらず、誰にもジャッジされたわけでもないのに自分勝手に決めつけて、一方的にフェードアウトしようとする選手を一人でも減らしたかった。できれば辞めずになんとか留まって、チームの中に自分がいる意味を見つけてほしかった。

もしかしたら、彼らの姿は、社会人チームにいた頃の自分自身の姿と重なっていたのかもしれない。
体力が落ちつつあることを自覚しながらも「もう一度挑戦してみたい」という気持ちだけで知り合いを頼りに社会人チームに参加させてもらったが、チームにおける自分の状況はある意味、不幸な予感が的中したものだった。正直、自分はいてもいなくてもいいメンバー。完全な紅白戦要員。公式戦は単なる応援。でもチームにいた方々は熱い気持ちをもったいい方々ばかりだったこともあって、「こんな自分でもチームの為に何かできることはないか」常に自分にそう言い聞かせて、自分のできることを探し続けていた。

社会人チームにいた頃の最後のほうは、既に高校サッカーの監督を始めていたが、ある意味それは貴重な経験だった。高校サッカー部では監督であると同時に、社会人チームにおいては自分がチームの底辺にいるという現実。でもその状況は、指導者として大切なことを教えてくれた。社会人チームにおける自分のような立場の選手はどのチームにもいる。そして、そういった立場の選手達はほとんど例外なく自分がチームにいる意味やチーム内における自分の価値について悩む。もっと言えば、「自分にとってこのチームは場違いな場所なのではないだろうか…」「自分は本当にここに居ていいのだろうか…」そう考えるようにさえなっていく。もちろん、それは自意識過剰な部分があったのかもしれないし、勝手に決めつける前にすることがたくさんあったのかもしれない。ただ、それだけでは説明しきれないような、そんな言葉だけでは納得しきれないような、その選手にしかわからない数えきれない重たい現実の積み重ねがそこにはある。

サッカーは判断のスポーツ。自らの判断でプレーを選び、責任を持ってプレーを実行していく。確かに、理論的にはそうではあるし、そうあるべきだとも思う。ただ、自分が「チームから受け入れられていないのではないか…」「そもそも自分は本当の意味でチームの一員として認められていないのではないか…」そう感じている選手が、試合はもちろん練習において、どこまで自分の意思でプレーできるようになるのだろうか。仮に、自分で判断した、そう思えたとしても、その判断を仲間はどこまで受け入れ、認めてくれるのだろうか。正直そんな風に考えてしまってもおかしくないし、そんな疑心暗鬼は状態を内側に抱えた選手に自分の意思や判断というものがそもそも存在するのだろうか。選手としての立場ではもちろん、監督という立場でも疑問が残ると言わざるを得ない。

もしチームにいる意味や価値というものが存在するとしても、それは「サッカーが好き」で、「このチームが好き」で、「このチームの一員でいたい」それだけでいいはず。アマチュア、特に高校サッカー部なら、それ以上に必要なものなど何もないはず。自分が縁あって監督となったチームには、「自分がチームにいる価値」とか「自分が仲間からチームの一員として認められていない」そう考えて悩んでしまう選手を一人でも出したくなかった。「頑張れば自分でもなんとかなる」「自分にもチャンスがある」そう思ってほしかった。だからこそ戦術はシンプルなものにしたし、技術練習も単純なものにこだわった。何よりフィジカルトレーニング、特に素走りにこだわった。「それはサッカーのトレーニングと言えるのか」そういう批判があることは百も承知の上で学年によっては1000本という数を課したこともある。

選手達にとっては過酷な時間だったかもしれない。ただ、走りに関してなら、どんな選手でも自分の持っているものを出し切れる。最後は根性とか精神論みたいなものが必要になってしまうかもしれないけど、自分次第で最後までやりきれる。「自分は何も持っていない」そう悩む選手が走りきることで得られるものは必ずある。自分の持っているものを出し切ることで「初めて自分がチームの一員になれた気がした」「初めて仲間から認めれたような気がした」リアルな実感として、胸を張ってそう思えるようになる。一人ひとりのそういう意識が仲間同士でお互いを認める空気に繋がっていくし、仲間として認められれば、自然と意見も言いやすくなっていく。最終的には、自分たちの意思で行動し、必要なタイミングで自ら修正できるようになっていく。

確かに、どんなに走っても技術や戦術的判断の問題は残るかもしれない。でも、一人ひとりが自分の考えていることを仲間にちゃんと伝え、その積み重ねとしてチームが本当の意味での「チーム」になっていく為、もっと言えば仲間が仲間の為に自分ができることを探すようになる為に絶対に必要なステップだと信じている。最終的には試合に出ている選手が応援してくれている「伝わる試合」ができるように、外から応援している選手がグランドの中で戦っている選手達に「気持ちを託せるような試合」ができるように、その為の一つの確実な道だと、高校サッカーの監督を卒業した今でもそう信じている。

東京なら西が丘や全国に出るようなチームなら応援していること自体に意味を見出すこともできるかもしれないが、地区レベルのチームだとそういう感覚を見出し難い。だからこそ、フィジカルや素走りの他にもサッカーノートにこだわった。自分の睡眠時間や、ときには仕事の時間を削っても、選手達の言葉と向き合いたかった。好きで始めたサッカーで、プロのようにチームからゼロ円提示をされたわけでもないのに、選手達には自分自身に絶望してほしくなかった。最後までやりきって「自分は逃げずにやりきったんだ」心からそう思ってほしかった。その記憶こそが、その選手をその後の人生で自らを支えていく力になるはず。

自分のプレーヤーとしての最後はあまり明るいものではなかったけど、その経験があったからこそ自分が指導者として軸とすべきものに気づくことができた。何より監督を卒業して随分経った今でも、自分のしてきたことに他ならない自分自身が納得できている。20年以上にわたる高校サッカーでの指導を最後まで自分の信念に基づいてやりきれた、今でもそう言い切れる。そう言い切ることができるような指導の場を作ってくれた選手達に改めて感謝したい。

願わくば彼らが今いる場所で、周囲にいる方々とお互いに認め合えていますように。自分の意思で必要なコミュニケーションをとれていますように。「ここが自分の居場所なんだ」と心から思えていますように。何より、その場所で彼ら自身が納得できる時間をこれからも積み重ねて続けられますように。

(今回の投稿は、私自身のFacebookでの投稿をもとに書かせていただきました。facebookの投稿とかなり重なる部分がありますが、御了承いただければ幸いです。)