いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

トルコ10日間のたび その11:スルタンハヌ町のキャラバン・サライ

2011-11-12 17:45:55 | Weblog
5日目に入ったトルコ10日間のたび。
コンヤのリクソス・ホテルを7時30分に発ったバスは、220km先のカッパドキアへ向かいます。
おおよそ3時間バスに閉じ込められる今日のバス旅も、参加者は5日目になると慣れてしまい、昨夜泊まってもコンヤ、などの冗談が車中で飛び交います。

長距離バスでトルコを巡るツアーですから、その日の行程の途中に必ずトイレ休憩があって、それも無料で利用できる所、日本のドライブ・インのようなところが選択されています。今日は、カフエ・レストランとお土産屋を営む「緑の庭:GREEN GARDEN」で休憩です。結果として、キャラバン・サライの撮影に時間ばかり取られてしまい、店内には入らずじまいでした。



さて、ユーラシア大陸の東西交通の一大ターミナルであった国際都市・イスタンブールは、中国やインドから入ってくるさまざまな物資の集散地の役割を果たしていた。イスタンブールに集められたそれらの豊富な物資は、陸と海のシルクロードを通ってローマ帝国へ運ばれていた。イスタンブールを紹介している書籍などには、このような記述があります。

また、トルコの古代キャラバン・ルートを記載しているWEBサイトには、ラクダのために造られた路線・キャラバン・ルートは、舗装された路面が必要とされており、主要な軸をなす東西軸ルートと南北軸ルートの他に、アクサライ・ニーデ・アダナ街道と、ベイチュヒル・アランヤ間の街道との2ルートがあり、両街道を合わせて、おおよそ100棟のキャラバン・サライが設けられた、と紹介されています。

アンカラ県アクサライから1日の行程にある町名スルタンハヌを冠した「スルタンハヌ・キャラバン・サライ」は、アダナ街道沿いにあります。アクサライの西から42km、コンヤの東から110kmの位置関係です。
スルタン(君主)が造営した「王立隊商宿」、セルジューク建築様式で建立されたこのキャラバン・サライは、ルーム・セルジューク朝(1077年~1308年)の最盛期を築いたアラーウッディーン・カイクバード1世の命令で、キャラバン隊商宿(キャラバン・サライ)、あるいは、隊商が交易の際、中間駅として使用する目的で1228年、工事に着工して、1236年に竣功しているようです。



セルジューク朝のアナトリアでは、テユルベと呼ばれる墓塔やキャラバン・サライに関連する建築が発達した。キャラバン・サライは、一見砦を思わせるような強固な壁と堂々たる門を備え、アナトリアのイスラム建築史上、重要な形式に数えられている。
また、中東で石造建築を発展させていたシリアとアルメニア。戦乱で祖国を失い、離散の民となって中東に流亡していたアルメニア人が、セルジューク朝の建設活動を担っていた。
アルメニアは、キリスト教を世界で最初に国教とした国で、高度な教会建築を発展させていたので、アナトリア各地に建てられたセルジューク朝のキャラバン・サライは、アルメニア聖堂のようなデザインになっている(万有百科大事典4哲学・宗教 他)。

上記説明のあるWEBサイトなどから、スルタンハヌ・キャラバン・サライの正門は、ギョクメドレセ・モスクのそれに酷似したデザインになっている背景が見えてきたのです。

その後、キャラバン・サライの周辺にあった小さな村は、スルタンハヌの町に発展したのでしょう。建設当初、ここは隊商の中間駅として機能していたことが推察され、隊商の交易が盛んになるにつれ中間駅機能よりも商業施設的な機能が重要視されるようになった。隊商交易から得られる経済的な恩恵を受けた集落が町へと発展し、キャラバン・サライとして定着して今に至っている。

ところで、キャラバン・サライは商業機能上の観点から二つのタイプがあるようです。
先ず、街道沿いに建てられた純然たる隊商宿。商人、巡礼者、旅人を宿泊させることを基本としているタイプ。
政府・王侯貴族・商人のワクフ(寄進財産)によって建てられた場合には、無料で泊ることができた。スルタンハヌ・キャラバン・サライは、カイクバード1世が寄進した、との情報も見受けられましたので、おそらく、宿泊は無料ですよ。
もう一つのタイプは、卸商人の事務所として使われるもので、都市のバザールに隣接して建てられ、カイサリーヤなどと呼ばれているもの。

さらに、キャラバン・サライは、卸売り業務を執り行う大規模な商業施設でもありました。
それは、2階建ての小部屋に区分された建物がぐるりと中庭を取り囲む方形の建築構造を採っている。1階部分は商品を保管する倉庫、事務所、時には厩舎として使われ、2階部分は旅行者や移動商人用の宿泊施設に当てられた。中庭とバザールを結ぶ細長い通路は、卸売商人が小売商に品物を卸す取引場としての機能を有していたのです。

アナトリアを領土とするカイクバード1世は、スルタンハヌ・キャラバン・サライを寄進(慈善ワクフ)していることは既に書きましたが、イスラム法では自ら管理者になるか、あるいはこのキャラバン・サライの管理者を任命して、有給の管理者を置くように規定しています。モスク・ワクフの管理権限を与えられた裁判官(カーディー:イスラム法に基づき、民事・刑事の訴訟に判決を下す)に、ここの管理者を選任する指令を出している筈です。

他方のキャラバン・サライを利用する商人は、商いをする地域の市況に疎い旅商人が一般的でしたので、地元に強い仲買人の斡旋で益のある商取引を行っていたのです。そして、キャラバン・サライの宿泊部屋は、同国・同郷、宗教・人種を同じくする者が部屋ごとに共同賃借する便宜を計る管理人が多かった(世界大百科事典)。

カイクバード1世が、スルタンハヌ・キャラバン・サライをワクフに指定した時点で、このサライの用益権と交易がもたらす収益の処分権とを放棄したことになります。土地・建物の所有権の移転は永久に停止されますので、サライが最初に設定された目的に使用されている限り、このサライは存続できたのです。収益は免税ですから、サライの維持・管理に要する諸費用を賄う資金源になっていたことでしょう。

サライ周辺の小さな村に在住しているイスラム法学に造形が深く、信仰の厚いムスリム(イスラム教徒)から選任されるであろうスルタンハヌ・キャラバン・サライの管理人は、、サライの経営権も与えられ、重責を負っていたことは推察できます。
そして、21世紀に入った今日、トルコに現存している保存状態のよいキャラバン・サライは数えるほどしかない状況の中にあって、保存状態が優れているスルタンハヌ・キャラバン・サライは、セルジューク朝の建築様式を持つ遺跡として評価されています。
現在も、サライ周辺には町が形成されて住民が生活しています。サライの奥にはモスクのミナレット(尖塔)が見えます。かってのサライ管理人の力量を示す証かも知れません。800年以上も前の集落に住んでいた人達の末裔かも・・・。想像するだけで、胸がワク、ワク踊り始めます。

これまで書いてきたことは、元気印の勝手気侭な推測が多分に含まれていますので、その信憑性はあてにしないで下さい。

スルタンハヌ・キャラバン・サライを背にした右側にスルタンハヌ町の一端が窺え、建設中のビルがありました。建築中のビルや家をバスの窓から眺めているうちに、その構造に興味が湧き目に留まるたびにシャッターを切って撮り溜めしていたのです。このような形で写真を掲載するなんてことは、肩身が狭い次第です。

角の店舗は鉄骨構造で建てられているようですが、写真中央の建物は「その8」「その9」に書いた建物と同じ構造のような印象を受けます。



冒頭に紹介した「緑の庭」は、この写真を撮った位置で90度右回転した場所、サライの左横にあります。

10月23日に起きたトルコの地震で被災者となられた人達への支援活動に携わっていた日本人のボランテイア男性が、11月9日の地震で亡くなり、それも、日本へ帰国する前日に遭遇した事故でしたから、心が痛みます。合掌。

ビルが倒壊する理由はさまざま潜在するでしょう。でも、今にして、この写真を眺めていると、どこからともなく不安感が襲ってきます。元気印の杞憂に終われば、それに越したことはありません。

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1 コメント

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建築構造 (Ohwaki)
2011-11-16 15:41:41
地震情報を耳にするにつけ、何か弱そうな構造が気掛かりです。
有り難う御座いました。
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