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いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

トルコ10日間のたび その10-4:イエニ・ジャミイとヴェネツィア展

2011-12-04 16:16:03 | トルコのたび
イエニ・ジャミイ建設の勅令を発したオスマン帝国第12代皇帝ムラト三世の寵姫サフィエ・スルタンの故郷が、ヴェネツイア共和国。
その共和国の豪族バッフオ家に生まれたサフィエ・スルタンは、オスマン帝国第13代皇帝メフメト三世の母后となり、彼女と同様にムラト三世に寵愛されたハンダンに暗殺されるまでの経緯は「その10-3」に書きましたので、省略します。

「トルコ10日間のたびその10-3」に書いたムラト三世后妃の生誕地ヴェネツィアを知るために、江戸東京博物館で開催されている『ヴェネツィア展』見学に出かけました。

展示会場内での撮影は禁止されているので、ガイドブックの写真を撮り掲載したことを、お断りしておきます。

会場へ入って最初に出会うのが『聖マルコのライオン』です。1490(延徳2:足利第10代将軍義稙・よしたね)年頃に制作された木彫りの彫像です。
迫力のある顔、バランスの取れた全身像に圧倒されてしまい、暫し見とれていました。黒ずんだ茶色で野生味が強調され、その躍動感を引き立てています。草原で狩をするライオンの凄みを醸し出す、なんとも言えない存在感に圧倒されます。



『貴族の家族』と題するピエトロ・ロギンの絵は、1750(徳川9代将軍・家重)年頃に流行した群像肖像画で、サン・マルコ財務官の家族を描いている。

この先も、ガイドブックの解説を引用します。

「小さな女児を胸に抱く後景のサン・マルコ財務官(プロクラトーレ)やビスケットをつまむ前景の女性が醸し出す情愛のこもった光景は、中央の背筋の正しい優雅な婦人が表す確固たる地位の主張へと移り変わっていく」



サフィエ・スルタンの父は、ヴェネツイア共和国コルフ島総裁に任命されていますから、彼女の家庭環境はマルコ財務長官のそれに酷似していた、と推察しています。

さて、オスマン帝国時代には、戦時の捕虜や、貧困家庭から奴隷商人に売却された女性はイスタンブールで購入された後、君主の宮殿にあるハレム(女性の居宅)へ配属される。そこには自由がなくても、保障された日常生活が送れます。その反面、皇帝の侍女として求められる礼儀作法を躾けられ、料理、裁縫をこなすための修練、歌舞音曲、アラビア文学の読み書きから詩などの文学に至るまでの教養を身につける指導・監督に耐え抜かねばなりません。それは、黒人の宦官(かんがん:去勢を施された官吏)によって実施され、皇帝の侍女として相応しいと認められた奴隷は、皇帝の住むトプカプ宮殿のハレムに移されていたようです。
しかし、サフィエ・スルタンと改名されても奴隷の身分のままであったソフィア・バッフオにとっては、皇帝の侍女に相応しい教育・監督など意に介さない類のことばかりであった。そのことを如時に語ってくれるサン・マルコ家の肖像画でした。

「色々な資料を読んでも掌握できなかったことが、『貴族の家族』を一見して理解できた。ヴェネツィア展を観に行って収穫ありでしたね、元気印さん」

「ボケ封じ観音さま、元気印が最も肩入れしたい絵があります。『貴族の家族』の作者が描いた『香水売り』です」

音声ガイドを聴きながら展示物を順次に巡り最後のガイド25『エピローグ』から15『香水売り』までUターンです。

画面の中央には仮面をつけた騎士と貴婦人が描かれ、画面左では香水売りの老女が品物を差し出していますが、仮面をつけた二人の人物には、仮面舞踏会とは違う雰囲気、元気印を引き戻した魔性があります。
では、どうして仮面をつけているのか?



「マントと三角帽子の黒色、そして仮面のまばゆい白色が織り成す中央部分の明暗対比が非常に美しい。とはいえ、貴婦人が身に着けている淡黄色のドレスこそ、本作品が真の傑作たるゆえんである。強い光沢を放つドレスには、細かな刺繍が施され、その裾から先の尖った可愛らしい靴がのぞいている」

さすがに、専門家の絵画鑑賞眼は、ずぶの素人を自認する元気印とは違います。

「本作品は18世紀ヴェネツイア-祝祭、カーニヴアル、神秘、誘惑、魅力-を象徴的に表した一場面となっている。これこそカサノヴア(ジャコモ:術策家、作家)、ゴルドーニ(カルロ・脚本のある喜劇の形式を確立した喜劇作家)、ヴィヴアルデイ(アントニオ・ルーチョ:カトリック司祭、作曲家)が生き、そして世界中が愛し、賞賛してやまないヴェネツイアなのである」

世界大百科事典の「ベネチア」を引用して、仮面の意味を探ります。
『ヴェネツイア展』が江戸東京博物館で開催されている展示会の名称ですが、辞書類では「ベネチア」です。後者からの引用は「ベネチア」と表記します。

「ベネチアの支配階級の経済的性格の変化に伴い、彼らに快適な生活を享受させるという役割が都市経済の重要な部分を占めるようになり、観光業の発展によって、それがさらに強まった。(中略)。享楽文化を生み出す場として賭博場が人気を呼び、仮面をつけた貴族でにぎわった。カーニバル(謝肉祭)も当時のベネチアを彩る重要な祭りだった。3万人もの人がベネチアを訪れ、サン・マルコ広場を舞台に、仮面をつけ黒マントをはおった人々は、階級を忘れ社会習慣からも解放されてばか騒ぎに興じた」

俄仕込みの元気印には、冒頭に記載されている「ベネチアの支配階級の経済的性格の変化に伴い・・・」の意味を書くだけの理解度がありませんが、それ以降の説明から、仮面を用いる貴族の心境は推察可能です。
つまり、賭博場に出入りする自分を隠蔽するための仮面。また、素顔のままカーニバルに加わるには、その階級意識が邪魔をする。ましてや、ばか騒ぎをして大衆に自分を晒すことは、自尊心が許さないでしょう。ここにも、仮面が登場する余地が残されています。

そして、元気印が感嘆する解説が末尾に記載されています。

「ピエトロ・ロンギは、ヴェネツイアの貴族からこよなく愛されたものの、当局による取り調べや呼び出しをうけるなど、度々貴族階級を烈しく風刺したのであった」

このような風刺精神が絵を描くエネルギー源となって、ロンギは数々の傑作を生み出したのでしょう。

ちなみに付記しますと、ピエトロ・ロンギは、ベネチア派(15~16世紀と18世紀の2度にわたって黄金期を迎えたベネチア絵画)の重要な画家の一人として名が挙がっています。

「へそ曲がりの元気印さんには、お似合いの解説ですね」

とは言うものの、ボケ封じ観音様のヘソと元気印のそれはすぐに絡み付いて解けなくなる。
それを承知の観音さまは、得意のアドリブで応酬してきます。

余談になります。
イスラム世界の歴史において、オスマンと名乗るトルコ族の人物が勢力を拡大して築き上げた帝国のように、オスマン一族による支配が6百数十年(1299~1922年)も続いた王朝はない。ビザンツ帝国(ローマ帝国)が1千年続いたとされるが、内部では多くの王朝が交替している(鈴木 董著:オスマン英国 イスラム世界の「柔らかい専制」他)。
日本では、徳川3百年と言われていますが、オスマン帝国第1代皇帝オスマン一世から第36代皇帝メフメト六世まで、徳川家の2倍強も国史を支配していたのは、オスマン一族なのです。

では、世界遺産に登録されているヴェネツイア共和国は・・・。
年表から解ることは、建国が697(文武天皇元)年、ナポレオン・ボナパルトに征服されたのが1797(寛政9:徳川第11代将軍・徳川家斉)年であること。
年表には共和国の存続は記されていますが、オスマン帝国のようなオスマン家が支配したか否かについては、これから情報を集めなければなりません。

いずれにしても、指導的役割を果たす商人や貴族が自ら艦隊を組んで東方の海に乗り出して、東地中海一帯に勢力を広げ、中世の興隆期には、独特の共和制民主主義のあり方を確立するなどの栄華を誇ったベネチア共和国も、ナポレオン一世に征服された後、オーストリアに併合されて千年以上続いた歴史の幕を下ろしたのです。

イエニ・ジャミイには、オスマン帝国第19代皇帝メフメト四世と母后トウルハン・ハティジエの霊廟があります。ムラト三世の寵姫ハンダンに暗殺されたサフィエ・スルタンの霊廟は、イスタンブールにはなさそうです。サフィエのモスクは新しいモスク:イエニ・ジャミイとして建設された記録が残されているだけです。

あき深し 祇園精舎の 鐘の音
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トルコ10日間のたび その10-3:不思議な由来を秘めているイエニ・ジャミイ

2011-11-19 17:41:57 | トルコのたび
ガラタ橋のたもとに位置しているYENICAMII(イエニ・ジャミイ)は、イスタンブールのEminonu(エミノニュ)地区にあります。このジャミイは1597年に工事着工して1663年に竣工するまで66年もの建設期間を費やしており、NEW MOSQUE(新しいモスク)との表示があります(写真)。



「イエニ」は「新しい」を意味しているので、YENICAMIIは「新しいジャミイ(トルコ寺院)」を強調しているようですし、最後にNEW MOSQUEと英語で明記してあります。
66年にも及んだ工期とNEW MOSQUEと表記された銘板は、へそ曲がり元気印の興味の炎にハイオク・ガソリンをぶっかけてきます。
では、この寺院建設を発起(ほっき)したのは誰か・・・。結論を先に書いておきます。
オスマン朝第13代皇帝ムラト三世の后・サフイエ・スルタンが発起人で、完成させた人物が、第19代皇帝メフメト四世の母トウルハン・ハティジエです。

本稿を書くための資料収集過程で、メフメト四世とその母の霊廟がイエニ・ジャミイの敷地内にあることを知りましたが、エジプシャン・バザール見学が目的のツアーの時は、写真撮影だけに終わってしまったのです。後悔しても後の祭りですね。

さて、オスマン朝では、兄から弟へそして最年長の甥へという「年長者相続制」の原理と、父から子への「父子相続制」の原理が並存していたが、後者が定着していた(鈴木董著:オスマン帝国-イスラム世界の柔らかい専制)。
第13代皇帝メフメト三世が崩御してメフメト四世が皇帝に即位するまでの45年間に、六代の皇帝が即位しています。父子相続制の原理に従えば、メフメト三世に繋がる人物が皇帝に即位するまでに45年の時間経過を経なければならなかった訳です。

このようなオスマン朝の時代背景が、イエニ・ジャミイの工期を延ばす要因になったのでしょう。
極く限られた史実しか把握していませんが、具体的な要因をその中から探る試みに挑戦します。

その一つは、メフメト三世の母后となり、その名声と権力を掌中にした証に、その威信を誇示するモスクの建設を発起したサフィエ・スルタンの波乱に満ちた生涯の中に潜在しています。
ヴェネツイア共和国領コルフ島総督として赴任する父が任地へ向かう船路の途中で、オスマン帝国の保護を受けて海賊行為を働いていたイスラム教徒の船乗りで構成するバルバリア海賊に襲われたサフィエ・スルタン家族は、海賊の捕虜となります。サフィエ・スルタンは、イスタンブールへ送られます。そこで、奴隷として売り飛ばされた後、オスマン朝のハレム(女性の居室)に入れられます。そこでは、オスマン朝第11代皇帝セリム二世の息子、第12代皇帝ムラト三世となる皇子の寵姫(ちょうき)となり、メフメト皇子を出産します。後の第13代皇帝メフメト三世です。

このメフメト三世が皇帝に即位した2年後の1597年、皇帝の母后になったサフィエ・スルタンは、その権力を発揮してモスク建設の勅令を出します。写真の1597は、この事実を表しています。
しかし、メフメト三世は1603年12月22日、崩御されます。同時に、サフィエ・スルタンは居住していた新宮殿(トプカプ宮殿)から旧宮殿へ転居させられ、サフィエのモスク建設工事も中断したようです。モスク建設が始まって6年目のことです。この間、設計・監督者のダウト・アーが1599年に処刑されていることもモスクの建設工期を長びかせた可能性もあります。

二つ目は、このような皇位継承の荒海に襲われていたオスマン朝の状勢以外にも悪条件が重なっていたことです。
サフィエのモスク建設の勅令が出された1597年当時、カラテイスと呼ばれるユダヤ人が集中居住している地域がモスクの建設候補地に選定されたのですが、金角湾の一等地でした。
そこは、住民が集会や礼拝に使用している会堂(シナゴーグ)や教会を撤去しなければならない地域なのですが、皇后の勅命には逆らえません。さらに、この地域は海水の侵入などがあり、モスクの建設工事はたびたび中断されたようです。
いずれにしろ、サフィエのモスク建設工事は、オスマン朝内部の皇位継承のあおりを受けて長期間中断したまま放置されていた。そのため、かって、この地域に住んでいた住民カライテスが工事現場周辺で再び暮らす模様に陥ります。

建設工事が再開された時期に関する資料等は手元にない現況ですが、1663年に竣工したことはイエニ・ジャミイ正門に掲げられている銘板(写真)により明白です。

釈迦に説法を承知の上で、モスクについて書きます。
都市の各街区、各村ごとに設けられるモスクの他に、金曜礼拝を行う金曜モスクと呼ばれる大きなモスクが都市の中心に置かれている。モスクの基本的な建築構造は、回廊に囲まれた四角形の広い中庭と礼拝堂を持ち、オスマン朝に至ってビザンツ朝の教会建築を取り入れ、大ドームを小ドームや半ドームで支えることで柱のない広大な礼拝堂空間を持つ様式が生み出された。

トルコ最高の建築家とされるコジャ・ミマール・スイナンは、モスク建設における大ドームを発展させると共に、鉛筆形の細長いミナレット(礼拝時刻の告知を行うモスクに付随する塔)を特色とするオスマン建築特有の様式を完成させている。先に書いたサフィエのモスクの設計・監督者に任命されたダウト・アーは、スイナンの後継者でした。

ここからは、元気印の乏しい想像力に委ねた話になります。
サフィエ・スルタンの夫・ムラト皇子が1574年、第12代皇帝ムラト三世として即位したこと、そのムラト三世が1595年に崩御して、サフィエの息子メフメト皇子が、第13代皇帝メフメト三世として即位し、彼女が皇帝の母大后となったことは、既に書きました。

サフィエ・スルタンは、皇子ムラトの寵姫として何人もの子供を出産しましたが、義母ヌール・バヌ同様に自分がヴェネツイア人であることを終生忘れていません。ヴェネツイア共和国の貴族の娘として生まれたとする彼女の自尊心は、ヴェネツイア大使マルコ・アントニオ・バルバロと秘密裏に交信する動機となり、母国の便宜を計る国家反逆罪にも相当する売国行為を実行している。1573年に締結していたヴェネツイア・オスマン条約を1575年に改定する会談に臨んだムラト三世や大宗相ソコルル・メフメト・パシャは、ヴェネツイア側に有利な条件で条約の改定をせざるを得なかった。会談前に、彼らの思惑はヴェネツイアに筒抜けとなっていたのです。

そのような行為をしていたサフィエ皇后は1618年に、寝室で不審な死を遂げます。ムラト三世の寵姫だったハンダンと彼女と結託した宦官による暗殺だと考えられているようです。

メフメト三世が即位した時、「帝国の掟」を実行に移しています。
この皇帝に関わりのある19人の異母兄弟達は、全て紐で絞殺され、且つ、ムラト三世の愛妾40人の内、妊娠していた7人は生きたまま袋詰めにされ、真夜中のボスボラス海峡に沈められている。

しかし、メフメト三世時代以降は、スルタン(皇帝)の兄弟達は「黄金の鳥籠」と呼ばれる幽閉所に幽門するように改められています。それは、王朝の血統を絶やさないための配慮からでした。
その反面、メフメト三世の母サフィエ・スルタンは、皇帝の母后の地位に昇格します。

残忍極まりのない「帝国の掟」を長々と書いたのは、サフィエ・スルタン暗殺の首謀者とされるハンダンも、ムラト三世に寵愛されていたからです。仮に、彼女が産んだ息子が皇子になり皇帝に即位した場合、サフィエはどのような処遇を受けるかは掟に定められています。運命の悪戯が2人の将来を按排(あんばい)した、と表すしかありません。

オスマン帝国に関する様々な資料を読み、一生を決める岐路を選択する局面に出逢った時、その先の進路は、その人自らの意思よりも、その人が持っている運命によって生涯が決定される。ムラト三世に寵愛されたサフィエとハンダンの生きざまを記した史実の断片から、そのことを教えられた次第です。

サフィエのモスク建設工事が長期に亘った最後の理由にも関係が深いので、もう少し書きます。
オスマン朝第10代皇帝スレイマン一世時代の首都イスタンブールには、「旧宮殿」と「新宮殿(トプカプ宮殿)」の二つの中心宮殿と、「ガラタ宮殿」と「イブラム・パシャ宮殿」の二つの補助宮殿があった。
これらのうち新旧両宮殿は、第7代皇帝メフメト二世の造営にかかるものだった。新宮殿はメフメト二世以来、スルタンの通常住居であり、国政の場でもあった。

スルタンの後宮(こうきゅう・后や女官達が住む宮殿)は、新宮殿内にはなく、旧宮殿に置かれていた。しかし、スレイマン一世の時代になって、後宮も新宮殿に移された。そして、旧宮殿は、前代以前のスルタンの後宮に属していた者たちの隠居所と化した。しかし、後宮から新宮殿に移されたことは、後宮がスルタンと国政に対し影響力を拡大するのを避けられないものとした(同前書)。

後宮に移居させられたサフィエ・スルタンは、スルタンに対する影響力を行使する前に暗殺されたので、サフィエのモスクは建設を中断し放置されてしまった。父から子へと皇位継承の原理が決められ、帝国の掟を遵守する以上、退位した皇帝に関連する事業を継承する皇帝が現われなくても、当たり前のことでしょう。

何とか、イエニ・ジャミイが完成に66年間も費やした事情が見えてきました。
トプカピ宮殿の建設期間は13年です。サフィエのモスク建設を再開する勅令が発せられたのは何時なのか。疑問に残っています。おそらく、この時点ではサフィエのモスクとする建設初期の目的は、メフメト四世のモスクに変換されていた。敷地内に設けられた霊廟がそれを物語っていますし、新しいモスクと表記してある銘板の意味も納得できます。

また、サフィエ・スルタンの波乱万丈の生涯に照らし合わせても、新しいモスクにする必要があった筈です。従って、新しいモスクは、設計をやり直して建設工事を再開したと、元気印は推察しています。

では、第19代皇帝メフメト四世の母トウルハン・ハティジエは、何時モスク建設の決断を下したのでしょうか。
新しいモスクの竣工は1663年ですから、トプカピ宮殿の工期13年と同じに仮定して、1650年とします。この年はメフメト四世が即位してから2年目に当たり、サフィエのモスク建設の勅令が出された時期、メフメト三世が皇帝に即位した2年後と一致します。偶然の一致かも知れませんが、皇后となった2年目には、その権力を発揮する仕組み、人脈などが把握できるのでしょう。

この仮定を基に推測した結果、サフィエのモスク建設工事は47年間中断したまま放置され、工事現場周辺に、この地域に住んでいた住民カライテスが再び暮らすようになっていた。新しいモスクを建設する邪魔物になる建設途中のサフィエのモスクは撤去した方が、すっきりします。

新しいモスクの設計者に任命されたムスタファ・アーは、トウルハン皇后の意向を汲んだ設計を行い、建設工事が再開された。

オスマン建築を紹介した記事に、

「イエニ・ジャミイはスイナンの後継者であるダウト・アーによって設計されたが、彼は1599年に処刑されてしまい、1663年に完成したこのモスクは、スイナンのものと比べると、その構成はかなり見劣りするものとなった」

このように記載されています。この記事から、トウルハンのモスクは、新設計されているとの想定をしています。

繰り返しになりますが、第13代皇帝后サフィエ・スルタンの生涯からは、その陰に潜む諸般の事柄が思い起こされてしまいます。凡人の元気印にオスマン朝の第19代皇帝后トウルハン・ハティジエの気持は忖度できませんが、心の片隅に引っかかっていたのかも知れません。

「それよりも、サフィエのモスクを工事中断したまま47年間も放置されたいたことが、新しいモスクを建設する動機になっていますよ。元気印さん」

ボケ封じ観音さまが、やっと登場です。

イスラム教の礼拝堂であるイエニ・ジャミイへの参拝は、部外者が興味本位で行う行為ではないとの思いが強く控えました。
その内部は分かりませんが、厳しい偶像否定があるイスラム教の礼拝堂には、一切の祭壇や像がないとされており、カーバ神殿の方向に当る側の壁に作ったくぼみ・ミフラーブとその脇に設けた説教壇・ミンバルがあるだけと考えています。

イエニ・ジャミイ礼拝堂の入口に、この地区のムスリムが参拝する姿があります。



礼拝堂の正面には浄めを行う水場があります。お釈迦さま、唯一神アツラーであっても、その信者が参拝前にお浄めをするのは、仏教徒もムスリムも同じ習慣です。第13代皇帝后サフィエ・スルタンと第19代皇帝后トウルハン・ハティジエとを繋いでいるイエニ・ジャミイの透明な糸に込められた縁の謎解きをする仲人になりました。

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トルコ10日間のたび その10-2:ガラタ塔からイエニ・ジャミイを展望する

2011-11-05 20:45:55 | トルコのたび
「トルコ10日間のたび」の最終日、アタチュルク空港へ発つ前の2時間を利用してガラタ塔へ単独行です。その顛末は「その3」に書いてありますので、本稿では省略します。宜しければ「ガラタ塔での諜報活動に敗北した黒海艦隊」まで、お立ち寄り下さい。

さて、アジア側のガラタ塔の展望台からヨーロッパ側のイスタンブール展望です。



ガラタ橋を渡った先に逆L字型の建物・エジプシャン・バザール、その左横に2基のミナーレ(尖塔)を配置したイエニ・ジャミイが見えます。
写真中央の奥に3基のミナーレに囲まれたシュレイマニエ・ジャミイが見えています。オスマン朝では最長の在位を誇り、オスマン帝国の黄金時代を現出させた第7代スルタンシュレイマンのモスクです。オスマン建築の巨匠と称されるミマル・スイナンの手になるジャミイで、幾たびかの地震に見舞われてもひび割れせずに現存している建築物のようです。

ちなみに書きますと、オスマン一世がビザンチン帝国の衰微に乗じてアナトリア西部に建設したイスラム国家が、オスマン帝国(1299年~1922年)です。
16世紀に最盛期を迎え、帝国の領土はアジア・アフリカ・ヨーロッパに跨がりました。17世紀末から衰退に向かい、第一次世界大戦で敗れた後、ムスタファ・ケマル・アタチュルクらの起こしたトルコ革命によって滅亡した(広辞苑第5版)。

ところで、オスマン帝国のメフメット二世は、イスラム法で定められていた宗教寄進財産制度を最大限に活用して、公共事業を支えていた(鈴木董著:オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」)。イエニ・ジャミイは、バザールから入る賃貸料をモスクの維持に充てるためにエジプシャン・バザールを建設したことは「その10」に書きました。

この建物を公共目的のための施設・ワクフに指定し、バザールを運営することから得られる収益によってモスク運営する方法を採っている。さらに、バザールの収益は免税ですから、イエニ・ジャミイの維持管理には、かなり貢献した筈です。
オスマン帝国の崩壊後、家族ワクフは禁止されたようですが、トルコ共和国初代大統領ムスタファ・ケマル・アタチュルクがこの制度の抜本改革にメスを入れたか否かについては未確認です。なお、アタチュルクのことはその5「M .K.アタチュルクが連合軍を撃退した激戦地ゲリボル」にも書きました。ご来店をお待ちしています。

実は、ブルー・モスク(スルタン・アフメット一世ジャミイ)、アヤソフィア大聖堂、シュレイマニエ・ジャミイなどには、それぞれの輝かしい由来が残っています。イスタンブール市内に数あるモスクの中で、このイエニ・ジャミイは、同じガイドブックにワクフとの係りで紹介されているだけです。それで、本稿を書きたくなったのです。


イスタンブールのヨーロッパ側からアジア側を眺めると空中に聳え立つガラタ塔が存在感を誇示しています。



ガラタ塔を撮った位置で、90度右回転します。



ガラタ塔から展望したイエニ・ジャミイと、その右側にエジプシャン・バザールの一部が目に留まります。そこに、「その10」に書いたシミットおじさんの移動店の屋根が写っています。
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トルコ10日間のたびその10:イスタンブールのシミットおじさん

2011-11-03 20:58:02 | トルコのたび
トルコでの10日間は快晴に恵まれた旅でした。
帰国前に2泊したホテルの前は、片道3車線の自動車道。日中は賑やかな通りでしたが、企業活動が始まる朝の一時は、車も少なく、多くの勤務者が行き交う信号の近くで、トルコ人が好んで食するシミット(ゴマ付のドーナツ型パン)を売っています。



朝食にするのか、軽食の昼食かは推し量るしかありません。働き者のシミットおじさんの移動店でパンを2~3個購入して勤務先へ急ぐのは、ほとんどが女性でした。




ガラタ橋のヨーロッパ側にあるエジプシャン・バザール前の広場でシミットを売っている移動店がありました。子供を抱きかかえている母親が、シミットおじさんと二言みこと言葉を交わしながらシミットを買っています。
移動パン屋の奥に見える建物は、イエニ・ジャニイです。



トルコ・ガイドブックなどに紹介されているエジプシャン・バザールは、イスラム独特のワクフ制度に従い、賃料でイエニ・ジャミイを維持するために建設されたもの。
現在は、みやげ物屋や貴金属店も増えているが、香辛料、チーズ、ナッツ、ピクルスからキャビア、カラスミまで食品の店がところ狭ましと軒をならべている。

観光客を対象にしているエジプシャン・バザール。そんな印象を受けたバザール内でしたが、建物に寄り添ってバザールの外で営業する小さな店々は、日常の食料品を求める人たちで賑わっていたのです。

ツアーバスが長距離たびをしている途中で、シミット売りに出会ったことがあります。撮影厳禁となっている軍事施設の前でしたから、写真を撮らなかった記憶があります。
シミットを並べた直径1mくらいのザル状の入れ物を頭の上にのせた小父さんが、バスに近寄って来ます。窓が開かない車中から「どうしょうかな」と思案しながら眺めている間に、バスは目的地に向かい発進してしまい、現地で人気抜群のシミットを食べるチャンスを逸してしまった。2年前に訪れた「トルコ10日間のたび」の懐かしい思い出です。
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