いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

東京大衆歌謡楽団 その2:路上ライブを盛り上げる仲間たち

2010-12-23 09:41:40 | 散策
東京大衆歌謡楽団は、自前のバンド演奏で懐かしい昭和の流行歌を高島孝太郎が歌っています。バンドメンバーは、前々回に紹介しましたので、ここでは省きます。

ところで、最前列に陣取って楽器を奏でるメンバーが4人います(写真)。

最初のスナップは、バンジョー奏者の左後ろ側から撮ったのですが、アコーデオンの横でギターを奏でているギタリストが気にかかります。他の3人にしても、ドラマーになりきっている様子なのですが・・・。

純粋だが呑んだくれの初老の開業医・真田(志村喬)と闇市に君臨するヤクザ・松永(三船敏郎)を対置させて描いた映画、「酔いどれ天使」(黒澤明監督)があります。
昭和23(1948)年度のキネマ旬報ベストテンで第1位をもたらした、黒澤監督が日本を代表する監督に成長させた映画です(都築政昭著:黒澤明『一作一生』全三十作品)。

ドブ沼の端に立っている薄暗い街燈下のベンチに腰掛け、夜になると下手なギターを弾いている若者がいます。それが、ある夜、沼を流れてくる下手くそなギターの調子が変わるのです。
映画では、和服姿の男が、若者からギターを借りて弾き出すと、それまでの迷調子が名調子に変わって、地元を取仕切っていた岡田(山本礼次郎)の出所を暗示します。
松永の兄貴分岡田が刑務所に入所している間、弟分の松永が代役で仕切っていた縄張りの主導権をめぐって、この二人の葛藤が始まる伏線シーンなので、記憶している黒澤フアンは少なくないでしょう。

アコーデオン奏者の横に座りギターを弾いている寡黙なおじさんが写るスナップの構図をファインダー越しに考えていると、岡田を演じた山本礼次郎が思い浮かんだのです。換言すれば、この思い起こしが本文を書く強い動機になっています。

さて、楽団の最前列に陣取ってライブを盛り上げている4人は、

「いつの間にか、集まるようになった」

との説明を小耳に挟んだだけです。

そんな4人組ですから、ライブに参加する動機や名前、自作楽器などに関しては、一切わからずじまいのまま帰宅したのです。後悔、先に何とかですね。
従って、これから書くことは4人の了解を得ておらず、元気印の独断で想像・推察したフイクションになります。ここで、そのことをお断りして本文を書き進めます。

まず、白い発泡スチロールの箱をひっくり返してスネア・ドラムの代用にし、丸棒の先端に切込みを入れてチップ状にしたドラム・スティックを使って箱の底を叩くおばさんは、本物のドラム・ブラシも持っていたのです。発泡スチロール箱の底は、スティックで叩かれるところが凹んでいたから、かなり使い込んでいるのでしょう。

次に、タンバリンを横にして両足に挟んでいる、マスクをしたおじさん。
このタンバリンの中央には、薄青色の帯がみえたのです。普通のタンバリンにはないものですから、早速、情報収集癖がうごめき始めます。

青い帯は、スネア・ドラム独特の響きを得るために、その裏皮にあてるスナッピーを模しているのでは・・・。とすれば、スネア・ドラムの代用がタンバリンになる。これが、元気印の集めた情報からの結論です。そこには、発泡スチロール箱をスネア・ドラム代わりにしているおばさんと共通する思の丈があるのでしょう。

そして、マスクをしたドラマーとバンジョー奏者との間に見えるおじさんも、両手にドラム・スティクを持ち、プラスチック製品を代用した「ドラムもどき」を叩いています。
A4用紙くらいの大きさがある黒色のそれは、お椀状になった部分と、四角にくり抜いた枠が一体になったものでしたが、商品名は解りません。

その商品を裏返しにすると、お椀の底がドラムに早や変わりし、大き目の空缶の底を上にして四角い枠に入れます。お椀と空缶の底が並んだ状態の「ドラムもどき」は、あたかも、オクトパンを連想させます。
先程までこのおじさんは、手作りスティックを片手に持ち、お椀の底と空缶の底を歌のリズムに合わせて叩き分けていたのですが、写真では両手にスティックを持っています。
元気印の勝手な解釈では、筒型の太鼓、オクトパンをイメージして叩いているのはないか・・・。

「ドラム」をキーワードにして3人組の心意気を類推してきました。
東京大衆歌謡楽団の前に陣取っていたのは、スネア・ドラムを叩くおばさんとマスクおじさん、オクトパンを叩くおじさんであり、「ドラム」を合言葉にして集い合った様子が窺えます。そこにギタリストが加わっていた。それが、12月18日のライブであったと。

このように、ライブを観ている人達には得体の知れない4人組が参加しても、一緒になって路上ライブを進めていく東京大衆歌謡楽団には、おばさんとおじさん達が楽団のライブに飛び入り参加したい気持ちを惹起する何かが潜んでいるのでしょう。それを敏感に感じ取ったおばさん、おじさんが、自作楽器を持ち寄って集まったでしょう。

オクトパンおじさんは、ラジカセを持っていましたから、路上ライブがない時は、スネア・ドラム組との合奏を愉しんでいるのかも知れないし、楽団の路上ライブを契機に知り合い仲間になった可能性も否定できないでしょう。

「足袋を履いた足に下駄を引っ掛けて歌う孝太郎、背広にネクタイを締め、長い足には革靴の雄次郎、ハンチングを被った玲、雄次郎と同じ格好の普宣。元気印の感覚では、このようにアンバランスで、芸能人の臭いがしない東京大衆歌謡楽団だから、魅力が湧くのです」

その1には、上記のように書きました。
おそらく、路上ライブに飛び入り参加している4人組は、東京大衆歌謡楽団に元気印と同じような感情を抱いているのではないか、と憶測しています。昨今、歌われなくなった昭和の流行歌には、市井の人々に行動を起こさせるだけのネルギーが秘められているのでしょう。

 ♪♪
  山の寂しい みず湖に
  ひとり来たのも 悲しい心
  胸の痛みに たえかねて
  昨日の夢と 焚きすてる
  古い手紙の うすけむり

 「この歌を口ずさむ機会が多いですね、元気印さん。今年、あなたと同じ古稀を迎えたからですか」

ボケ封じ観音さまは、痛いところをついてきますよ、何時もながら・・・。

「湖畔の宿」を何時覚えたのか記憶にないのですが、自然に口ずさんでいたのです。
その昔、蓄音機が我が家にあったので、無意識のうちに幼心に染み付いていたのでは?
市井の人々が愛唱する、心を鷲づかみにするだけの力を秘めている流行歌は、時代がどのように変わろうとも、世間の片隅で歌い継がれて蘇える。そんなことを暗示している東京大衆歌謡楽団の路上ライブ、そして4人組の飛び入りでした。

3人のドラマーとギタリストに再会する機会がある筈です。その時は、4人に話を伺って、改めてここで紹介したいと考えています。
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東京大衆歌謡楽団 その1:直立不動で下駄を履いて歌う孝太郎

2010-12-21 23:42:29 | 散策
バンジョーの向井普宣の加わった現在の楽団は前回紹介しました。

足袋(たび)を履き下駄を引っ掛けて歌っている高島孝太郎が28歳であることは、ネットサーフインによって知りました。

 ♪♪
  泣くなよしよし ねんねしな
  山の鴉が 啼いたとて
  泣いちゃいけない ねんねしな
  泣けば鴉が また騒ぐ

2歳年下の弟、アコーデオン奏者・雄次郎は、自分の横に置いたペットボトルの水で孝太郎が喉を潤すのを見計らって、「大利根月夜にしよう」と次の曲をメンバーに提案します。同意を得た雄次郎は、右足で音頭をとりアコーデオンを弾き始めると、ウッドベース・高島玲、バンジョーが加わり、孝太郎が歌いだします。

 ♪♪
  もとをただせば 侍育ち
  腕は自慢の 千葉仕込み
  何が不足で 大利根ぐらし
  故郷じゃ 故郷じゃ妹が待つものを

孝太郎の歌が終わると、ペットボトルが再登場し、「上海帰りのリル」が始まります。

 ♪♪
  黒いドレスを見た
  泣いているのを見た 
  もどれこの手に リル
  上海帰りの リル リル
  
  暗い運命(さだめ)は ふたりでわけて
  ともに暮らそう 昔のままで
  リル リル きょうも逢えない リル
  だれかリルを 知らないか

「人生劇場」はどうだろう、うん、いいね。

 ♪♪
  あんな女に 未練はないが
  なぜか涙が 流れてならぬ
  男ごころは 男でなけりゃ
  解るものかと 諦めた

この楽団の路上ライブは、予め決めた選曲に従って進行するのではなく、その場の雰囲気と言おうか、雄次郎の気分とでも表したら良いのかは判断できませんが、一曲歌い終えてから次の歌を選ぶライブ運びには、新鮮味がありました。

元気印が路上ライブに出会った時、駒形橋の西詰には既に人溜まりが出来ていましたから、それまでの進行も同じだったと推測しています。
東京スカイツリー見学を兼ねて浅草散策に訪れた人、浅草寺近辺の住人、隅田川の遊覧観光船から降りた人、作業服姿のおじさんなどが、楽団の演奏に耳を傾けていたのです。

駒形橋西詰路上ライブでは、「憧れのハワイ航路」が最終曲に選ばれました。
楽団活動を賄う資金集めの帽子が路上に置かれ、見学者の心付けが終わるまで孝太郎の歌は続くのでした。

それにしても、足袋に下駄を履いて歌う孝太郎、背広にネクタイを締めて、長い足には革靴の雄次郎、ハンチングを被った玲、雄次郎と同じ格好の普宣。元気印の感覚では、このようにアンバランスで、芸能人の臭いがしない東京大衆歌謡楽団だから、魅力が湧くのです。

  浮気な人気に 未練はないが
  なぜか涙が 流れてならぬ
  芸のこころは 芸人でなけりゃ
  解るものかと 諦めた
 
人気に押し流されずに、これからも、今のアンバランスを継続して欲しいのです。
僭越とは思うのですが、昭和の流行歌を歌う人が少なくなった風潮に鑑み、昨年4月、花見の頃に楽団を結成し路上ライブを開始した初志を忘れないように、と願っている次第です。
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憧れの東京スカイツリー散策:東京大衆歌謡楽団と出会う

2010-12-19 01:18:59 | 散策
さわやか散策と寺小屋を開催しているシニアジュク(ボランティア・グループ)のスタッフは12月18日、忘年会を兼ねた東京スカイツリー・津軽三味線・浅草寺散策の実踏をしました。

来年2月に企画している散策の実施要領などを協議するワイガヤ(定例会)を、津軽三味線の生演奏を聴きながら吉幸(きっこう)で行いました。それから浅草寺の参拝を終えて解散し駒形橋へ戻ると、橋の西詰(浅草寺側)に人溜まりが出来ています。

 ♪♪
 晴れた空 そよぐ風
 港 出船の ドラの音(ね)愉し
 別れテープを 笑顔で切れば

東京スカイツリーを背にして直立不動の姿勢で歌っているのは、高島孝太郎、右でアコーデオンを抱えている高島雄次郎は孝太郎の弟、ウッドベースを弾いている高鳥玲(あきら)との3人で結成したのが、東京大衆歌謡楽団です。
その後、左端でバンジョーを奏でている向井普宣が、何時頃から楽団に参加したかは聞き損じてしまい。ここで、紹介できないのが残念です。

駒形橋路上ライブが終わった際、写真を撮らせてもらった謝礼に、ブログへ公開する可否を雄次郎に確認して了解を得たので、本文書いています。

昨今の歌謡界の風潮では、昭和歌謡を歌う歌手が少なくっている、と感じたことが楽団を結成した動機のようです。
そこで、昭和時代の流行歌に魅了された3人は、

「戦前の流行歌は歌謡文化ですし、その時代の歴史が築き挙げてきたものです。よりたくさんの人に聴いてもらえるよう、がんばっていきたい」

この孝太郎の意気込みに後押されて、今日も路上ライブで熱演していたのです。

帰宅してから、東京大衆歌謡楽団をキーワドにしてネットサーフインすると、かなりの情報が検索されたので、その中の一端を借用します。

第37回日本歌手協会歌謡祭に出演した東京大衆歌謡楽団は、青木光一、宇崎竜童、菅原洋一、平尾昌晃らが出演する10月27日夜の部で、2010年度奨励賞・歌唱賞にノミネートされていたのです。第二次審査は、2011年4月5日、古賀政男音楽博物館「けやきホール」(渋谷区代々木上原)で開催する予定になっています。
また、大晦日のNHKラジオ第一「思い出の昭和歌謡」の17.07~18.50に出演することが決まっていました。

この楽団の主なレパートリーも挙げられています。

啼くな小鳩よ・青い山脈・緑の地平線・東京ラプソディー・誰か故郷を想わざる・二人は若い・上海帰りのリル・森の小径・流転など。

シニア・エイジにとって、懐かしいメロデイーばかりですよ。
おそらく、その歌が流行った頃に自分は何をしていたのか、新婚ホヤホヤの人、仕事人間に没頭していたサラリーマン、おじいちゃん、おばあちゃんからピッカピッカのランドセルを息子や娘にプレゼントされた人、学徒出陣でわが子を戦場へ送った人など、など。

この楽団の前には、4人の演奏者がいたのです。
ギタリストと3人のドラマーが、孝太郎の歌に合わせて楽器らしきものを奏でます。
本物のギター以外は、自作のオリジナル楽器。
発泡スチロールをドラムにしているおばさん、タンバリンをドラムに準(なぞら)えているおじさん、プラスチック容器と空き缶を組み合わせて木製の棒をスティク代わりにして叩くおじさんの3人はドラマーでした。
その仕草は、孝太郎の歌うメロデイーにちゃんと乗っているのには驚きでしたし、楽団の路上ライブには協力しているようで、楽団も温かい気持ちで接している雰囲気でした。

 ♪♪
 波の背を ばら色に
 染めて真赤な 夕日が沈む
 一人デッキで ウクレレ弾けば
 歌も懐かし あのアロハオエ
 ああ 憧れの ハワイ航路

激動した昭和時代は、喜怒哀楽に満ちています。
昭和の喜びと悲しみのひとつ、ひとつを筆に込めた作詞家の歌詞に、オタマジャクシを躍らせた作曲家のメロデイーに、十人十色の喜怒哀楽が重なり合い、一喜一憂の想いが瞼に浮かび上がってくるのでしょう。東京大衆歌謡楽団の歌を聴いて目頭を潤ませる人もいたとのこと。

楽団を結成した2009年4月から路上ライブを始めて1年8ヶ月。
そんな楽団が、日本歌手協会歌謡祭で奨励賞にノミネートされ、大晦日のラジオで「思い出の昭和歌謡」を担うのです。

活動資金は、路上ライブでの心づけのようでした。
写真を撮らせて貰った謝礼に小額ですが帽子に入れて、楽団のHP,ブログを公開しているかを訊ねると、いずれもやっていないとの返答でした。
そこで、楽団の写真と団員名、活動状況などを紹介して、敬意を表することにしました。

 「その心掛けを忘れないことです、元気印さん」

ボケ封じ観音さまは、どこにいるのだろう。
いつも声はするのですが、お姿は見えないのです。

 「今日は、納めの観音ご縁日ですよ、浅草寺に羽子板市が立っていたでしょう。江戸時代の商人は、この日を境にして、新年の日用品などを売る市を立てたのです。そして、正月には女子の誕生した家へ羽子板を贈る習慣があったので、浅草寺境内に羽子板市が立つようになったのです。その習慣は、江戸後期から現在まで継承されているんですよ」

 ♪♪
 とこ夏の 黄金月(こがねづき)
 夜のキャビンの 小窓を照らす
 夢も通うよ あのホノルルの
 椰子の並木路 ホワイトホテル
 ああ 憧れの ハワイ航路

明日もどこかで、東京大衆歌謡楽団は路上ライブを行っているでしょう。
これからも公演に出会う機会はあります。温かい支援と声援を贈って励まそう、と気持ちを引締めて筆を置きます。

気分が悪くなる余談です。
東京大衆歌謡楽団には、西詰でのライブを中止するよう警察官が行っていました。関係者の話では、場所使用の申請をしても許可が下りないようでした。その理由は、通行人の邪魔になるから。
たしかに、西詰周辺は、東京スカイツリーの写真撮影に絶好のポジションなので、俄かカメラマンで混雑します。それを警察官は、通行の邪魔になるから撮影のために立ち止まらないように警告を発していましたから、路上ライブで場所を占拠する許可は出さないでしょう。

このとき、東京スカイツリーの全体と朝日ビールのシンボルが見える側にある駒形橋の歩道は、大勢の歩行者で溢れてはいましたが・・・。
しかし、路上ライブの継続、カメラマンの撮影と歩行者の便宜を図って円滑にすることが警察官の仕事、と考えている元気印は、非常識なのでしょうか。歩行者を優先させることだけに専念するだけで、果たして、宜しいのでしょうか?

※ 本文中の敬称は省略しました。
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トルコ10日間のたび イスタンブール その2:新市街でひっそり佇む小粒なモスク

2010-12-15 16:01:26 | 散策
イスタンブール新市街(ギリシャ、ブルガリアと陸続きのヨーロッパ側)で、ビルの谷間に佇む小粒なモスク(写真)は、宿泊したホテルの窓から展望したものです。詳細はその1に書きましたので、ここでは省きます。

旭が射してくる方向に、上り・下り各3車線の自動車道があり、陽光を遮るものはないので、寺院全体が明るく耀いています。

このモスクは、イスタンブールで見受けたモスク(イスラム寺院)でも知名度が少ないし、地元の人達やその周辺で仕事をしているイスラム教徒のために建てられたもの、と勝手に考えています。

つまり、新市街には、聖ソフィア大聖堂(アヤソフィア博物館)、ブルーモスクと呼ばれているスルタンアフメット・モスクなど由緒あるモスクが現存しているし、観光の名所としても紹介されているので、高い知名度を持っています。
街の中にひっそりと佇んでいるこのようなモスクには、観光に訪れる人もおらず、関心も湧かないでしょう。

トルコ国内には、6万7000のモスクがあるとガイドブックにありますが、その中にはこのようなモスクも含まれているはずです。
また、イスタンブールからアナトリア高原の中央地域へ入る長旅で、バスの車窓から眺めていた町や村に建っていたものとは違う印象を感じる、このモスクに興味が湧いたのです。

イスラム教の寺院であるモスクには、必ず尖塔(せんとう)があり、ミナレットと呼ばれています。
ここから、1日5回、礼拝の時刻をアラビア語で告げて、お祈りを呼びかけているようです。

そのエザーンを初めて聞いたのは、イスタンブールからトロイに入る手前で休憩したドライブインでした。
レストランを兼ねたドライブインの前は、右から左へ一直線に走っている自動車道、その先に展開するだだっ広い草原、はるか彼方には茜色に染まった山並みが横たわっており絵になります。
そのスナップを撮っている時、17時過ぎだったように記憶しています。それが、スピーカーで礼拝を呼びかけていることは、帰国後に知りました。現地では、祈りそのものと思い込んでいたのです。

2回目に聞いたのは、カッパドキアに泊った洞窟ホテルで5時20分から5分間の呼びかけ、アンカラから「アンカラ・エキスプレス」の一等寝台でイスタンブールへ戻った際、イスタンブール郊外辺りで3回目の呼びかけを列車内で聞いたのは、6時ころでした。

余談になります。
アンカラ・エキスプレスの食堂車で朝食に出たパンは、ツアーの中で出されて食したパンでは、最も美味でした。
60名の参加者をバス2台でトルコ巡りをする今回のツアーは、1号車、2号車にグループ分けして編成され、元気印夫妻は後者に編入されました。家内の話から推察すると、2号車グループの女性たちも同じ感想の様子でした。

さて、イスタンブールから世界遺産を巡ってイスタンブールへ戻る5日間のバス旅行は、1,828kmにも及ぶ長旅でした。ホテルで4泊し、昼食はレストランを兼ねたドライブイン、革製品や絨毯、陶磁器を製造・販売する会社の工場を見学しているので、息抜きにはなりましたが、よく我慢したものだと、帰国してから実感しています。しかし、財布は我慢できなかったようですから、本当の我慢比べはこれからになりますね。
そう、そう、周遊中に立ち寄ったドライブインは、どこもレストランを兼ねていましたよ。

ところで、トルコでは国民の98%がイスラム教徒であることは、ガイドブックなどに紹介されています。
1928(昭和3)年にトルコ共和国が誕生した時に制定された新憲法から「イスラム教を国教とする」条文を削除し宗教改革を行った初代大統領・ケルマは、信仰の自由を認めています。
2号車の現地ガイドA(名刺交換して名前は知っています)さんは、お祈りをしない人、断食をしない人もいると、率直に説明してくれました。このAさんは、熱烈なイスラム教徒であり愛国心に燃えるトルコ人。10日間の付き合いで、しみじみ、そのことを実感したAさんでした。
ツアー初日から2号車の誰からも親近感をもって迎えられ、お互いに抱き合い肩を叩いて「さよなら」するアタテュルク空港での別れは、トルコツアーの宝物になりました。

Aさんが嘆く背景には、トルコの近代化や農村の都市化が影響しているようでした。
反面、自分の宗派で故人を弔う時以外は無宗教で暮らしている元気印にとって、その理由は何であれ、耳の痛くなる指摘でありました。
日本へ帰っても、トルコのことをアピールするように繰り返し訴えていたAさんの情熱心を思い起こしながら、これを書いています。

Aさんが信仰しているイスラム教の聖典コーランでは、イスラム教徒が行わなければならない六信五行(ろくしん・ごぎょう)と呼ばれる六つの信仰と五つの実践が規定されているようです。

五つの実践とは、次の内容です。
 1.信仰の告白
 2.礼拝(1日5回の祈り)
 3.喜捨(寄付や施し)
 4.断食
 5.巡礼(メッカへの巡礼)

2.と4.についてAさんは心を痛めていたのです。
コーランに六信五行の規定があることを知るまでは、1日5回も祈る根拠がわからなかったのですが、その規律を忠実に実践するイスラム信徒の行為でした。

また、礼拝の時刻は日の出に合わせているので、毎日少しずつづれる、とのこと。
礼拝の時刻、断食開始時刻を示す時計板があるようですが、名の知れたモスクを見学するのに追われ、その上に時間制約があるから、現地では時計板を見落としていた・・・。
いや、どこかで目に留まった記憶があります。しかし、それが何を表しているのかを認識していないから、通り過ぎたようです。

礼拝開始時刻を日の出に合わせる伝統は、信州善光寺にも継承されています。
時計のない時代に生活していた人々が、自然と融合して生き抜いた知恵をそのまま今に伝承しているのは、世界共通のようです。
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トルコ、10日間のたび イスタンブール その1:旭がもたらすホテルの影

2010-12-13 22:51:54 | 散策
イスタンブール、トロイ、アイワルク、パムッカレ、コンヤ、カッパドキアからアンカラを経て再びイスタンブールへ戻るツアーは、12月1日に成田を出発してモスクワ経由でイスタンブールへ入るトルコツアーの一般的なコースでした。

それは、10日後に帰国する世界遺産を巡る旅・トルコ周遊でしたが、初めてツアーに応募した海外旅行になりました。
と言うのは、次男が宇宙物理学系の仕事でロンドンにいた頃、通訳を兼ねたガイドをしてくれたので、現地行動に制約がなく、見学したい所は自由に選べたので、行動に制約の多いツアーを初体験したわけです。
それまでは、パリ、ローマ、ニューヨークなど、次男と家内とで自由行動を満喫しました。

さて、ツアーの最終旅程では、イスタンブールに2泊しました。
シエラトン・イスタンブール・マスラックの部屋は、コンビニで昼弁当を買っている元気印にとって、日本での日常生活感覚を忘れさせるものがあります。
それくらい広く感じたんです。本当に。

今回のツアーでは、バイキングスタイルでの朝食時間は6時30分からです。
ホテルのレストランは、7時30分ごろになると、日本からのツアー客だけでなく、他国の旅行者やビジネス関係者の宿泊もありますから、宿泊客で混雑しだします。どこのホテルでも7時前後、いつも早めに朝食を済ませていました。

イスタンブール新市街(ヨーロッパ側)の宿泊ホテル8階811号室の窓から、ポスフォオラス海峡に面した新市街の一角、その向こうには旧市街(アジア側)が一望できます。

写真は7時20分ごろに撮ったものです。10分ほど前は、中央に見える建物の側面にある3柱の右柱が影を割っていたのですが、太陽が昇ったので右側に移動しています。
朝食を済ませオプショナルツアー「ポスフォオラス海峡とリュステムパシャモスク観光」へ出発する10時までに、ホテル周辺の散策に出かけるときに出会った光景です。

右が宿泊したホテルの影、左はBeybi GIZ ビルのそれとします。
この文字がビルのテッペンに表示されていたのですが、企業名かビル名かについて判断できないので、仮にビル名にします。

建物の高さは、ほぼ同じであることが二つの影で判ります。
影の間に見える地上部の先は、マルマラ海のようです。
この立位置を軸にして左側に回ると、ポスフォオラス海峡と新市街と旧市街をつなぐ交通要路のガラタ橋が展望され、ポスフォオラス海峡は金角湾の奥方向を経て、黒海とつながっていますが、ここからは見えません。ここでは、ポスフォオラス海峡は、黒海からエーゲ海へ抜ける唯一の海路であることだけを書いておきます。

なにはともあれ、建物の長い影から推測すると、トルコの太陽の位置は、低いのでしょうか。
元気印の住んでいる千葉で、我が家の愛犬・ミミとチャツピーに連れられて7時前後に散歩をしていても、元気印の影が足元に少し生じるくらいですから。

Beybi GIZ ビルの奥に佇むモスク(イスラム教寺院)も旭を浴びていました。
モスクの左右と後ろにもビルが立ち並び、「おれはモスクだ!!」とがんばっている小粒な姿は、都市と農村との人口比率が9:11(1985年比)となったトルコの都市化を象徴し、農村部における生活水準の向上を表す半面、零細農民を離村させ、都市化の肥大化や郊外地区のスラム化を促進しているトルコの現状を、ビルの谷間で踏ん張っているモスクは語りかけてきます(世界大百科事典)。

早起きは・・・。
けだし名言でした。
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