いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

「柴安」鬼瓦と山本亭・旧東棟の「造家」

2006-11-12 09:39:42 | Weblog
南葛飾 鈴木安五郎製造 □又邸 の刻印がある鬼瓦。(写真共かつしかの文化財から引用)
明治11年7月に郡区町村編成法が制定された時、葛飾郡が南北に二分
されたので、この鬼瓦はそれ以降に製造されている。この頃は「柴安」も三代目・百三の時代になっている。
彼は、二代目・安五郎の三男であるが家督を継ぎ、俳号を百尺(ひゃくせき)と称した
俳諧人で、安五郎(松什・じょうじゅう)、二代目・安五郎(完鴎)と続く俳諧の道を歩ん
でいる。

二代目・安五郎の次男が真之助。彼の次男に啓造がいる。鈴木家(山本亭旧東棟な
ど)を設計した人物と云われている。彼は、明治12年生まれだから、百三の住む家を
設計し百三の子供(啓造の従兄弟)が家を建てたと考える。

家を設計する技術を、啓造は何処で覚えたのだろうか。
明治18年頃の小学校課程は、初等科、中等科各三年、高等科二年となっていたので、
この課程を彼は卒業している。大学へ行くなら上等中学校へ進み、理科を選択すると
「造家」、今の「建築学」を修得できる。大工の棟梁に弟子入りして家造技術を身につけ
る道もあるが、どちらを選択したのかは、資料不足で判断できない。

工部省に工学寮が明治4年に設置されて、6年後に工部大学校(東京大学工学部の
前身)に改称している。修業年限は6年。8科構成で造家(建築)科がある。ここの卒
業生を中心にして、明治19年に「造家学会」(今の建築学会)が設立されている。
明治20年に14歳になった啓造は、工部大学校や造家学会のことを知っていただろう。

啓造の育った家族環境から俳諧人が傑出し、東京府との行き来や人付き合いも多く、
世相の動きに敏感であった。大工の棟梁に任されていた家の設計と施工を分離して
「造家」が設計した図面で大工が施工するように激変する動きは、生活に密着した
我が家に係わることであるから、世間の関心も高くなる。

金町、柴又は、東京府に限らず、近郊からの人が往来する恵まれた環境にある。
江戸時代の長唄で唄われ、歌舞伎で演じられた『半田稲荷』が東金町にある。半田
稲荷を演じた歌舞伎役者が浮世絵になるくらい知名度があった。柴又は、帝釈天の
庚申詣で賑わっている。

どちらも、江戸川を刀弥川、柴又村を芝股村と表記している「江戸近郊道しるべ」に載
っている観光名所だから、街道筋もしっかり整っていた。金町や柴又には口コミ情報が
密集していただろう。関東一の生産量と云われる「柴安」瓦を製造する工場も人の動き
を活発にして、情報を吸引し交換の場にもなる。

鈴木家は、時代の旬情報や動きを、俳諧人との交流や瓦工場へ出入りする人たちか
ら得ていたとしても不思議ではない。
ちなみに、半田稲荷の近くに鈴木家の菩提寺・光増寺があり、松什が静かに眠って
いる。

啓造は、熱海で病気療養中に26歳で他界している。
この仮説は、工部大学校造家科で建築を習得したとしているので、23歳で卒業となる。
学生時代に百三の家を設計したのか、病気静養中なのか。どちらも可能だろうが、時期
は跨っているのではないだろうか。
百三の家を新築する構想を学生時代にまとめ、病気静養しながら細部を詰めて設計を
完成させた。建築設計を進める段階から判断すると妥当な線で、納得がいく。

建築の基礎を習得する予科と専門科を終え、実地科で家を建てるための建築図を引き、
卒業する。それまでに、家を新築することを話し合っていたか、江戸時代から住んでい
る当時の家は建替の時期に来ていた。だから、啓造は百三の家を新築する計画を設計
図にした。

鈴木宅のデザインの良さ、建築材料の品質の高さなどは、山本栄之助が鈴木宅の原型
を残したまま西棟を増築していることからも判る。鈴木家は関東大震災まで瓦製造をして
いたので、生活の場であったことは間違いない。

では、鈴木宅は何時ころ建てられたのだろう。
関東大震災は大正12年9月1日に起こっている。栄之助はその直後に鈴木宅を購入した。

啓造が他界したのは明治37年3月。敷地内に設けるものの全体配置、その中身の概要
を決めた基本設計、その内容が現実的かどうかを検証して基本設計を担保する実施設
計は学生時代、実施設計に従って大工が現場で間違いなく工事を進める指示をした施
工図は、病気静養中に完成させたとする、と着工は3年後あたりか。明治40年に着工・
完成だから、栄之助が購入した鈴木宅は16年経過している。震災で破損したり、経年
変化で傷んでいる箇所を改修・補修した後、浅草から移り住んできた。

震災にあった鈴木宅を改修・補修で済ませ解体しなかったのは、栄之助がそれだけの
価値を鈴木宅に認めたから。六櫻社のシャッター製造工場を新設するため、瓦製造をし
ていた鈴木家の広大な敷地を購入している。自宅を新築する資金より工場建設が先と
判断したのかも知れない。

いずれにしても、山本亭は素晴らしい和風建築だと思う。栄之助や弟・栄蔵によって造り
上げられた今の山本亭は、調和の取れた和洋折衷の代表とされている。
それは、「鬼瓦」の血筋を受け継いだ啓造の「造家」に対する思いと、そこに流れている
俳人・松什の粋を踏襲した栄之助や栄蔵の人柄と豊かな教養が染み込んでいる粋の
表れだろう。

※ 松什と「柴安」瓦の話は、前のページにあります。

























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山本亭と江戸川提の道しるべ

2006-11-05 16:38:17 | Weblog
矢切の渡しから階段を上がり、江戸川土手を左へ向かうと吾妻やが建っている。
寅さん記念館に直行する場合はエレベーターを利用する。山本亭を見学する時
は、山本亭を俯瞰しながら階段を下りると正面が長屋門になっているので、徒歩
で行ける。

休憩所になっている吾妻やは丘の上に建てられている。この辺りは瓦を作る工場の跡地を
堤防にしたところで、関東一と云われた「柴安」銘の瓦を関東大震災(大正2年)まで生産し
ていた。

「柴安」は千代田区飯田町遺跡、関宿町関宿城跡、土浦市土浦城、流山市旧秋本家などに
現存し、江戸城の瓦葺きにも使用され、明治元年には菊の御紋の鬼瓦を作ったと云われて
いる。

柴又の瓦には、「柴又村鈴木安五郎製造」や「柴安」の印が押され、世間では後者の名で通
用した。当時の消費者は、産地と製造者が明記されているブランドとして認知した。

鈴木家は代々農家であったが、農業のかたわらで瓦の製造を始めたようで、何時ごろ創め
たのかは不詳だが、寛政後期から文化初期(1800年前後)と推測されている(柴又郷土史研
究会)。
瓦を制作する仕事場、野外には粘土や薪の置き場、天日干しにする干場、瓦を焼く窯など瓦
製造に要する敷地面積はかなり広大なものになる。

江戸川土手から吾妻やに入る道の入り口に竹柵に囲まれた「道しるべ」(写真)がある。

「金町へ十五丁、松戸へ一里、下矢切渡しへ一丁半、市川渡場へ三十丁」と書かれ、天明
3年(1783)の銘がある。(葛飾柴又展解説書より引用)

享和(1801~1803年)の頃6歳位になる武家の男の子がすらすら読んだといわれている道し
るべが、天明3年の銘があるものではないかと推測している。
200年以上も風雪に耐えた道しるべも、建てられて20年を経ても文字ははっきりしていただ
ろう。
「市川渡場へ三十丁」は今でも判読できるが、6歳位ですらすら読めるようになるには、日
常生活で育まれる本人の意識とも関係が深いが、しっかりした家庭教育がなされていないと
難しいのではないだろうか。

「大昔(享和の頃か)、奥州に落ちのびる一人の武士が、6歳位の子供を伴って柴又の矢切
の渡しに差しかかり、渡し場の茶屋で、足まどいになる子をかこちついている時、茶屋の主
人が、この先の瓦やには子供がいないので、どうかと話し、その子供を連れて瓦やの見える
土手上に立ち、この家はどうかと聞いたところ、子供は『この家なら貰われてもよい』と、父親
へ立派な返事、そして傍にあった道しるべの石の文字をすらすらと読んだと云う。
瓦や(私の本家)の夫婦も大いに喜び、貰い受けたとのこと。ところがこの子供、顔色も変え
ず、父に対して立派に別れの言葉を述べて父を見送ったという。
この道しるべの石は、現在、帝釈天境内にある。この子供こそ後の鈴木松什であった。
かくして松什は俳諧の宗匠となり、各地に多くの門弟があったが、嘉永六年四月十八日、
自宅で病没した。享年五十六歳」

山本亭の設計者を探す旅で巡り合った鈴木こと。
俳諧を嗜む家系に生まれ育った俳人の歌文集『ちどり橋』(昭和49年出版)の随筆「松什
(しょうじゅう)のこと―祖父百尺から聞いた話」に山本亭のルーツがあった。

子供に恵まれない鈴木英珍の養子となった6歳くらいの男の子安五郎(松什)は家督を継
ぎ、生業である瓦作りを、関東一と呼ばれる事業にまで発展させた。
ちなみに、百尺は松什の孫にあたる。ことは百尺の孫にあたり、昭和54年9月23日82歳
で没している。松什の人となりは孫から孫へと語り継がれている。

現在の山本亭の基となった東棟と土蔵などを設計したのは、松什の孫真之介の次男啓造。
家系図の説明には「建築家。後に山本邸を設計す」とあるので信頼すべき情報である。
(鈴木松什展解説書)
山本亭は、関東大震災直後に鈴木邸を取得した山本栄之助の名を採っているが、それまで
「柴安」を製造していた鈴木邸(山本亭旧東棟)の設計思想を受け継いでいる。これは、鈴木
邸を取得してから山本亭西棟を増築しているが、東棟(鈴木邸)を解体せずに原型を生かし
た二世帯住宅に増改築している点からも分る。

山本栄之助については、今の山本亭が完成するまでの経緯を通じてイメージを膨らませて
いるが、粋な経営者である。

松什は「柴安」ブランドを確立しているが、余技の俳句で、江戸の俳諧人として名をなした
粋人。
栄之助は純日本家屋に流行の最先端を走るデザインの応接間を増設する、ハイカラを理解
し生活に取り入れるほど進取の気取り旺盛な人物で、時代の先を読める粋な経営者だった。

安五郎の父は、無事に奥州に落ちのびたのだろうか。江戸川を渡るには金町の関所を通ら
なければならない。矢切の渡しは農産物の運搬や、農民が仕事の往来に使うもので、落
武者風情では乗せてもらえない。
安五郎を不憫に思った父は、鈴木英珍夫妻に一人息子を託して関所へ向かったのか、矢切
の渡しから松戸へ向かったのだろうか。父一人子一人の親子の心情は、言葉に表せない。
子宝に巡り合った英珍夫婦の喜びと感謝の念、瓦やを勧めた茶屋の主人、柴又村の人達が
善後策を話し合い、知恵を出し合い、一丸となって落武者の望みを叶えたと思う。

※ 山本亭の旧東棟を設計した鈴木啓造の話は次にあります。




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