いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

千鳥足でつぶやく『映画ばなし』その2:天国からのエールに涙する

2011-10-11 23:45:24 | いろいろ
だれが監督をしたか、脚本はだれが書いたか、主演は・・・。
このような順をたどって観る映画を選択していますが、『天国からのエール』は、主演の阿部 寛(写真)が決め手になりました。

彼の愛称、阿部ちゃんを借用して本稿を書き進めますので、ご容赦願います。

『チームバチスターの栄光』で阿部ちゃんが演じた白鳥 圭輔が最初の出会い、『ジェネラール・ルージュの凱旋』で記憶に留まり、TBSが放映したテレビ・ドラマ『新参者』を観てからは、阿部ちゃんが主演する映画は「観たい映画」の選択肢に加わっていたから。

そんな背景があって、阿部ちゃんが秋山 好古を好演している『坂の上の雲』(NHK総合)を見る羽目に陥っている次第。役者もどき主演者が「セリフが難しい」と弱音を吐くので脚本家が書き改めた、時代物では時代考証が疎かである、などなどの噂を小耳に挟んでいたので、かの局の大河ドラマはこれまでに観たことがなかった。阿部ちゃんは、かの局の視聴率アップの功労者になっている訳ですね。

周りを海と山に囲まれ、「太陽と海と緑」をキャッチフレーズにしている沖縄県北部の国頭郡(くにがみぐん)にある小さな町、本部町(もとぶちょう)がこの映画の舞台。

ところで、この町は「琉球三山時代」から「第2尚氏王朝時代」を経て現在に至っているようですが、昭和20(1945)年の大東亜戦争において沖縄戦の戦場となり、町全体が壊滅的な打撃を被ったとも、町のWebサイトに掲載されています。また、昭和50(1975)年に開催された「沖縄国際海洋博覧会」の会場となっているから、全国的になじみ深く、足を運んだ方も多いでしょう。

沖縄県立本部高等学校と通信制の八州(やしま)学園大学国際高等学校、小学校3校、中学校2校、3校の小中学校があるこの町に、おおよそ1万3千人が生活しています。

さて、阿部ちゃん演じるところの大城 陽(おおしろ・あきら)は、学生たちから「ニイニイ」の愛称で呼ばれている「あじさい音楽村」の創始者。かつ、稽古演奏でロックバンドが弾くエレキ・ギターやドラムの音が大きく、周りから「うるさい!他でやれ!!」と苦情の矢が放たれ、行き場を失っている高校生たちの打ち拉がれる境遇に居ても立ってもいられなくなったニイニイは、若者が夢を追いかける環境を作る決意を固めます。銀行から建設資金の融資を断られても、自前で音楽スタジオを建ててしまう。

高校を自主退学して海上自衛隊に入隊。退官後の18歳で上京して起こした運送会社も10年で畳み、本部町に帰ってきた「ニイニイ」ならではの決断だった。

「このスタジオと機材は、自由に使っていい。お金はいらない」

若者が抱く夢も実現させない環境に陥れる世間常識に憤慨する半面、ニイニイもそのひとりであるとの自省から、音楽スタジオ「あじさい音楽村」を無料開放にしたのです。このスタジオの名を「AJISAI STUDIO」とニイニイが命名するシーンから、若者達の本格的な音楽活動が始まります。

ちいちゃな弁当屋「あじさい弁当」を営みながらニイニイは、スタジオを利用しているグループの中に将来性を見込めるそれには、献身的な支援を惜しみません。彼等にプロとして欠かせない自立の心構えを会得させるために、町で開催するイベントに参加させて、そのことを実体験させます。
その一方で、彼等のスタジオ演奏を録音しテープを作って、地元放送局のディスクジョッキーを友人の誼で訪ね、そのテープを番組で流すように平身低頭して頼み込む苦労人でもあります。

この映画では、陽が弁当屋を開いた平成8年から、腎臓がんで亡くなる平成13年の出来事を芯にして描いている。実在したニイニイを演じる阿部ちゃんには、かなりプレッシャーがあったようですが、頑固一徹のなかにも、人として失ってはならない徳目溢れる人物像を創り好演している。

まず、ニイニイはAJISAI STUDIOを無料で利用する条件を守れない者は、即時、使用禁止にすることを告知し厳守させるのです。

   あじさい10か条
 1.あいさつしましょう!
 2.赤点は絶対ダメです!!
 3.機材の取扱いに注意!
 4.線を越えない!
 5.イベント全員協力!
 6.後輩には優しくおしえましょう!
 7.9時以降の音出しやめましょう!
 8.勉強andバイト優先しよう!
 9.カギの管理はリーダーがしっかり!
 10.人の痛みのわかる人間になれ!

この掟の中でニイニイが特に気を配っていた1.4.10。
話の転換などで他の掟も描かれていますが、やはり、ニイニイが本心で狙っていたのは、この3っつを厳守させることでしょう。それらが厳守できれば、残りの掟は自ずと身に付く。

 「それは、観る人の主観によりますよ、元気印さん」
 「ボケ封じ観音さまは、どうなんですか?」
 「さあ、どうなんでしょう」

比嘉(ひが)アヤを演じた桜庭 ななみとは、『最後の忠臣蔵』の可音(かね)以来の再会でした。
大石家の用心・瀬尾 孫左衛門(役所 宏司)に預けられ養育された大石 内蔵助の隠し子・可音。
彼女に一目惚れした茶屋 修一郎(山本 耕史)のもとへ嫁ぐ役柄でした。

「通常は役柄に合うか合わないかが選考のポイントになるんですが、今回は素材が持つエネルギーによって選んだ。役所宏司さんが平伏しても成立する、位負けしないエネルギーが欲しかった。彼女(桜庭 ななみ)が持っている品の美しさ、それと都会の匂いを背負っていない感じがよかった」

この作品の要となる可音役を選ぶのに一番気を使った杉田 茂道監督の桜庭 ななみ評は続きます。

「ただし、演技的には、初歩から訓練する必要がありましたけれども。桜庭君はいい意味で不器用なので、言われたことを一所懸命やろうとする。撮影に入った最初の頃には、大石家のお姫様として上からものを言う感じを出すのに緊張していたところがありましたが徐々に自信をつけて、泣き言一つ言わずによくやってくれたと思います」(最後の忠臣蔵プログラム)。

その甲斐あって、第35回報知新聞映画新人賞、第84回キネマ旬報ベスト・テン新人女優賞、第53回ブルーリボン賞新人賞などを受賞した桜庭 ななみは、これからが楽しみな若手です。
受賞歴は『天国からのエール』プログラムからの受け売りですが、監督のしごきに耐えながら役に没頭できるのは、才能だと思っているから、期待している訳です。

『天国からのエール』では、エレキ・ギターを弾く女子高生・アヤ役。
あじさい音楽村で成長していく4人組バンド「ハイド・ランジア」を引っ張るアヤには、天性の明るさと無意識のうちに人を魅了する輝きを放つ桜庭 ななみ、とプログラムに記載されていますが、監督の熊沢 誓人(くまざわ・まこと)のアヤ役の評価は見当たらず、脚本の尾崎 将也、うえの きみこと共に、初対面の映画でした。

ハイド・ランジアでエレキ・ギターを担当する真喜志(まきし) ユウヤ役の矢野 聖人(やの・まさと)が醸しだす存在感には、圧倒されたよ。蜷川 幸雄が演出する「身毒丸」( しんとくまる )の主役オーデイションでグランプリを受賞してからは、蜷川演出のしごきに耐え抜いた賜物でしょう。いわくありげな高校生を見事に演じています。平成2(1991)年12月生まれの若者です。今後の躍進を見守りたくなりました。

人の痛みのわかる人間になれ!
映画を観終わり劇場を出てからも、天国から送ってくるニイニイのエールが聴こえてきます。
ニイニイとハイド・ランジ [メンバー:アヤ、ユウヤ、カイ(森崎 ウイン)、キヨシ(野村 周平)]が一本立ちするまでの交流を通して描かれているのは、

 人に優しくなれるのも、人に嫌われるもの、すべて自分自身だよ

「挨拶が出来ないようであれば誰にも相手にされませんね。自分がやらなければならないことには無頓着なのに、他人の領域に口を出しても相手を傷つけるだけで、無益なことです。天に向かって唾を吐くようなもの。人の痛みがわかるようになれば、一回り大きくなり、人望も備わってきます」

ボケ封じ観音さまは、ニイニイが定めた掟の心を噛み砕いてくれました。

ここから、千鳥足の映画ばなしは横道に入ります。
昨夜、『幸せの黄色いハンカチ』現代版が日本テレビで放映されました!!
阿部 寛と夏川 結衣が島夫婦、カップルは堀北 真希と濱田 岳。岩本 仁志監督の主な作品に、20数本のテレビ・ドラマと2本の映画があります(ウイキベデイア)。脚本は、『天国のエール』を書いた尾崎 将也(まさや)です。
山田 洋次監督は監修・脚本で全面協力し、倍賞 千恵子、武田 鉄矢も脇を固めていました。

山田監督の『幸せの黄色いハンカチ』は、網走から夕張へ車で向かうロードムービーでしたが、テレビ版は網走から現在の羽幌町へ舞台を移し、羽幌へは列車で向かいます。
島 勇作が住んでいた夕張の炭住は、焼尻島(やぎしりとう)にある漁師の住居になっているので、勇作との再会を待つ光枝が掲げた黄色いハンカチを、若いカップルが発見するまでの演出は見所でした。

結論を言いますと、テレビを観終わった感想は、残念ですが、高倉 健、倍賞 千恵子の夫婦、桃井 かおり、武田 鉄矢のカップルに軍配を挙げざるを得ません。
勇作役は、枯れた渋さが持ち味の高倉 健のイメージが強く残っているので・・・。
とはいいながら、実在したニイニイや名作と言われている映画の主役・勇作に挑戦した、脂が乗っている阿部 寛の役者魂に拍手を送って、本稿の終りにします。
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コスモスの慕情:太陽君、お疲れさまでした

2011-10-09 17:10:37 | いろいろ
ヒマワリ(向日葵)と聞けば、ビンセント・ファン・ゴッホの描いた絵しか思い浮かびません。

拙宅近くにある野菜畑の一角に花を植えている花好さんのお陰で、チャッピー(8歳のシーズ犬・メス)との散歩や家庭菜園に行く際など、四季折々の風情を楽しんでいます。

9月末頃になって、花の中心部が黒紫色をした「太陽」は殆ど散ってしまい、花頭部だけを茎に乗っけて畑に突っ立っている(写真の手前)。
ところが、コスモスの写真を撮りに出掛けた折に、時期はずれとしか思えない「バレンタイン」が2輪だけ咲いていたのです(同中央左下)。



 ♪♪
 うす紅色の秋桜が 秋の日の
 何気ない日溜りに 揺れている

 こんな小春日和の 穏やかな日は
 あなたの優しさが しみてくる

この向日葵を「バレンタイン」としたのは、花の中心部が黒っぽいので、黄色の「ビッグスマイル」ではないと判断したから。
手元にある花の事典などをひっくり返して、今日出会った向日葵の名前に辿りついた次第です。しかし、素人判断は間違っている可能性がある事をお断りしておきます。

一方のコスモス(秋桜)は、枯れ果てた太陽君に向かって「お疲れさん」と言葉を掛け、初秋の陽光を満面に浴び、乙女の真心をもって慰労しています(写真)。



 ♪♪
 ありがとうの言葉を かみしめながら
 生きてみます 私なりに
 こんな小春日和の 穏やかな日は
 もう少し あなたのそばに
 咲かせてください


さて、メキシコ原産のコスモス、北アメリカ原産のヒマワリ。
東京美術学校の講師として赴任したラグーザ(イタリアの彫刻家。明治政府に招かれたお雇い外国人の一人で、彫刻指導にあたる)が明治12(1879)年にイタリアから種子を持ち込んだとされるコスモスは、幕末、あるいは明治29(1896)年頃に渡来したとする説もある。いずれにしても、明治末期(明治45年)には全国に波及、各地で栽培されるようになった(図説・花と樹の事典)。

他方、ヒマワリは中国を経て寛文6(1666)年に渡来した、とされている。
太陽信仰が盛んなぺルーでは、ヒマワリが尊重され神聖な花として崇められ、国の花に指定している。また、アメリカ・カンサス州では、州花にしている。ゴッホが描いたヒマワリの絵は13枚もあるようです(同上他)。

ヒマワリに纏わるギリシャ神話があったので、引用します。

「池にニンフ(精霊:せいれい<草木・動物・人・無生物などの個々に宿っているとされる超自然的な存在>)の姉妹が住んでいた。姉はクリュティエといい、妹はレウコティエといった。
水の精の掟では、水の上で遊ぶのは東の空が白むまでと定められているのに、この姉妹はある日、遊びに夢中になっているうちに時間を忘れ、夜が明けるのを忘れてしまって、天に駈け昇る太陽神のアポロンの姿を見てしまった。姉妹はアポロンにうっとりと見とれてしまい、アポロンも姉妹を見て微笑んだ。

 恋のとりこになってしまった姉は、妹を出し抜いてアポロンに近づこうとしたが、アポロンが愛したのは妹のほうだった。切ない思いを胸に抱いてクリュティエは野原に立ち尽くし、太陽神に哀れみを乞うた。九日間も立ち続けているうちに痩せ細り、足に根が生えだし、とうとうヒマワリの花になってしまった。そうして今も、太陽の姿を追い求めているという」(伊宮 伶編著:花ことばと神話・伝説)。

ところで、コスモスの姉妹(写真)は、ギリシャ神話を知っているのか、知らないのか。



コスモスには、ヒマワリのような神話や伝説は見当たりません。

「というより、手がかりがない。何かを見つけた時に書くことにしたら、如何ですか・・・」

今日のボケ封じ観音さまでは、乗り乗りです。
山口百恵のヒットナンバー「秋桜」をもじって、バレンタインに寄せるコスモス姉妹の慕情を口ずさんでいる。

この姉妹のアポロンは、初秋にうららかな日和(ひより)をもたらす「お天道さま」で、ギリシャ神話の太陽神とは違うし、花畑に精霊など棲んでいません。だから、バレンタイン君は、ちゃんと2輪咲いているでしょう。
コスモス妹の恋敵は、どこにもいない。クリュティエの片想いなど、妹にはどこ吹く風。

 ♪♪
 笑い話に 時が変えるよ
 心配いらないと 笑ってね





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春を告げてくれた、縁起のいい老いた浮目(うきめ)の最後

2011-09-24 21:58:55 | いろいろ
家庭菜園畑に沿った路の対面に植えられていた梅の老木が、9月21日に関東地方を襲った台風15号の強風に耐え切れず、倒木となっているのを見付けたのは、9月22日早朝です(写真)。

本題に入る前にお断りしておきます。
タイトルの「浮目」は、和名となった梅の由来のひとつで、冬を忘れて浮き浮きして見える花の意味を表す(木村陽二郎監修:図説 花と樹の事典)。本文は梅に統一して書きます。

さて、路の右は、元気印が家庭菜園をしている40坪の畑。
緑色の小山のように観えるのはゴーヤで、収穫時期を過ぎて刈り取る積りだった茄子は、ゴーヤの手前にそのまま残っています。

チャッピーとの散歩にこの路を通っているので、22日の早朝散歩時、この光景に出会ったのです。夕方の散歩時には、折れた幹は切断されて根元だけを残す無残な姿になっていました。

それまでは、この周辺に1本しかないこの老梅の紅赤の花が開花すると、春の訪れを感じていたのです。
地中深く根を張って、自重を支える大事な幹の根元部分を半分も欠損していても、時期になると可憐な紅花を咲かせていたのに。この老梅の開花は、桜の季節が間近に迫って来る予告であり、毎年胸が躍るのでしたが、来年からは、その楽しみもなくなりました。

この梅木を植えている方は、鉄骨の小屋を自作する職人さん。
畑作業をしている時に世間話をするくらいですが、畑作業で顔を合わせる機会が少なくて・・・。
今度、お逢いした時に、大事に育てていた老梅木のことを伺ってみたい。おそらく、余計なお世話になるでしょうが。

「元気印さんにとっては、冬を忘れさせてくれる梅でしたね。季節の移り変わりを予感して、心浮き浮きする紅梅だった。どのように処分されたのかを知っておくことは、余計なお世話ではない。違いますか?」

ボケ封じ観音さまは、元気印の心中を察してくれた様子。

 「そうそう、紅梅を詠んだ小林一茶の句があります。

  紅梅に ほしておくなり あらひ猫

  チャッピーはシーズ犬でしょう。あらひ猫をチャッピーに置き換えて、浮目を偲ぶ手立てにしては・・・。心が和みます、元気印さん」

老いた梅木の幹は無くなっても根元だけは残っている。
散歩するチャッピーは、この老梅の根元に自己主張を示す「臭いつけ」をするし、今日の散歩でもそれを忘れてはいなかった。
また、散歩路脇に茂る雑草のなかに踏み込むチャッピーの脚、胸や腹には、葉の上に溜まっている朝露で濡れてしまう。散歩から帰っても毎日洗っているんですよ。

  赤日(せきじつ)に 干して置くなり あらい犬

ボケ封じ観音さまの提言は、丸ごと拝借することにしょう。

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ノシメトンボ:もたもた台風を尻目に、一休み

2011-09-22 23:54:57 | いろいろ
猛暑に襲われた今夏は、6歳になるシーズ犬・チャッピーとの散歩時間を早朝に変更して熱中症防止対策にしています。
盛夏のころ、早朝5時には散歩に行こう、と誘いに来るので、その習慣が地に着き、日の出が5時20分になっても、そのペースを崩してはいないのです。

さて、15号台風の中心が関東近辺を通過した9月21日夕方は、総武線が運休になり帰宅困難者が出るほどの豪雨を残しても北上したので、22日早朝は快晴に恵まれました。

今朝のチャッピーとの散歩で、拙宅の近くにある家庭菜園畑に放ったままにしておいた、茄などの支えに使う支柱に羽根を休めているノシメトンボのメスがいたのです。早速、散歩から帰宅した後、畑に戻ってシャッターを切った次第(写真)。

畑からほど遠くない処にある小さい池で羽化し、畑隣のこじんまりとした林で摂食しながら成虫になったのでしょう。
今年は、姿を現す時期が例年より遅く、その数も少ないように感じながら支柱の先端に止まっているノシメトンボを横目に眺めてはいたのですが、台風一過の翌朝に出会ったノシメトンボ。何時もとは少し違う生命感に溢れているのです。

ちなみに、未熟なノシメトンボは雌雄ともに黄褐色で、成熟するとオスの腹部背面色が暗赤色に変わり、メスのそれは赤色が濃くなるようです。この違いが判ったので、写真のノシメトンボがメスであると識別できました。
これまで、矢車トンボと覚え、アキアカネと誤認していた元気印に、私はノシメトンボですよ、と、自己紹介をした根拠は、翅(はね)の先端にある褐色斑でした。また、ノシメトンボは人に対して警戒心が薄いとされ、元気印は彼女の尻尾を簡単に掴まえましたよ。それも束の間、直ぐ空に向け放しましたが。

いずれにしても、水辺で縄張りを形成しているオスに出会うと、子孫を残す行動に移行するでしょう。
池畔の草原などの上に、連結打空産卵を済ませます。それから先には、短い生涯を閉じる運命が待ち構えています。

何はともあれ、9月13日に発生したアジア名「Roke(ロウキー)」、我らが台風15号は、日本列島を縦断する進路を北上して、北海道の東方近辺を通過してから、熱帯低気圧になり消滅しました。
その間、広範囲に亘って、1時間当り雨量が50ミリ以上にも及んだ豪雨水害と最大瞬間風速50メートルを計測した強風被害を日本各地に残し、かつ、諸種交通手段に悪影響を与え、交通渋滞を惹起(じゃっき)し、千葉市内においてもゲリラ豪雨を見舞い、帰宅困難者が出たほどです。
また、元気印が借用している畑の脇に沿った道路の対面に植えてある老木梅を強風で煽って、倒木梅にしたのですよ。

台風の影響を受けて四苦八苦している人達の混乱をよそに、早朝の陽光を浴びて日向ぼっこをしているように映る、のんびり容姿のノシメトンボは、あの豪雨と強風から避難する知恵、つまり、どのような方策で、か弱い身の安全を守ったのでしょうか・・。

何事も、考え過ぎは眠られない夜を招きます。即刻、思考停止釦の作動開始です。
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澆季(ぎょうき)に蘇る書 番外編 その3:鉄舟に、必殺の極意を問うた島田一良

2010-10-08 12:35:59 | いろいろ
その男、島田一良(いちろう)は、市ヶ谷監獄の牢内から刑場に引き出されて、死刑執行人・山田吉亮(よしふさ・第九代山田浅衛門)に斬首され刑場の露と消えました。
それは、明治11(1878)年7月27日のことです。明治の元勲・大久保利通を5月14日に暗殺し、警察に自首してから3か月を経ていましたが、同日10時頃に死刑を宣告されてから、おおよそ90分後には死刑が執行されました。

この日、長連豪(ちょう・つらひで)、杉本乙菊(おとぎく)、脇田巧一、杉村文一、酒井寿篤(としあつ)も「紀尾井坂の変」の咎により斬首刑に処せられました。

ちなみに、伝馬町牢屋敷に代わって、明治8(1875)年に設立された市ヶ谷監獄(東京都新宿区市谷台町)は、昭和12 (1937)年に閉鎖するまで、現在で言う拘置所の役割を果たしています。刑場跡地は、冨久町児童公園になっており、その一角には刑死者慰霊の石碑が建てられているようです。ようです、というのは現地を訪れずに、情報だけを頼りに書いている為です。

ところで、明治政府に反対する士族は「不平士族」と呼ばれ、明治初期に一連の反政府運動を起こしています。士族反乱の中で、西南戦争が最大規模であり最後の内戦とされています。

不平士族の一派である三光寺派(さんこうじは・石川県金沢市にある三光寺を談合場所にしていたのでこの名で呼ばれる)のリーダー島田一良は、西南戦争に呼応すべく仲間を説得している間に、西郷隆盛は敗軍の将となり城山で自刃してしまう。島田の志は敢え無い最期を遂げ、断念します。
それからの島田は、三光寺派の行動方針を要人暗殺に切り代え、志士5人と結束し、大久保利通を紀尾井坂(きおいざか・東京都千代田区)で襲撃し斬殺したのです。

他方では、島田らの暗殺計画が警察のトップである大警視(現在の警視総監)に複数のルートを経て知らされていたのですが、「石川県人に何が出来るか」と相手にしないまま、放置した、との説があります。
島田、長、杉本、脇田らは石川県士族で、加賀藩士の家に生まれ育ち、杉村は石川県士族。浅井は島根県士族ですから、石川県人に何が・・・との判断を下されてもおかしくはありません。

さて、当時の大警視・川路利良(かわじ・としよし)は、西郷隆盛や大久保利通の信頼を得た人物で、薩摩藩与力の長男として生まれた薩摩人。日本警察の父とも言われています。
また、川路は、西南戦争において西郷を暗殺する密偵を薩摩軍に送り込んでいる人物でもあり、田原坂の激戦で薩摩軍を退けるなど、九州を転戦し武勲を挙げています。
自分に課せられた責務を忠実に果たした川路も、不平士族の間では大久保と共に憎悪の対象にされていたことは、彼の情報網が得ていたはずですし、熟知していたでしょう。元気印の独断と偏見では、この辺りに、大久保暗殺情報を握り潰したひとつの遠因がありそうです。
黒田清隆(くろだ・きよたか:第2代内閣総理大臣)の妻が病死した際、川路が執った処置に対する反発が大久保暗殺の遠因である、とする説があることを知りましたが、その詮索は専門家の分野です。素人が云々する事柄ではありません。

島田、長、脇田が目論んだ大久保暗殺の企てを実行する同志を募るために、他の3人は、この人(大久保)を除くことが御国のためである、と島田に説得されて犯行に及んでいたことが、彼らを裁いた裁判官の記録に残されているようです。

彼ら6人の暗殺犯は、大審院に臨時裁判所を開設して「国事犯」として裁判を行い、太政官は司法省から提出された判決伺を7月25日に決済、27日に判決を言い渡され、即日斬罪されています。
死刑執行から11年後の明治22(1889)年2月11日に明治憲法(大日本帝国憲法)が発布され、その大赦の対象者に杉本ら3人も選ばれたのは、罪を憎んで人を憎まず。気配りの行き届いた行政がもたらした結果であろう、と元気印は推測しています。

 かねてより 今日のある日を知りながら 今は別れとなるぞ悲しき

島田が残した有名な辞世の句として紹介されています。

必殺の極意を鉄舟に質した島田には、今日のある日をかねてより覚悟していた逸話があるので、鉄舟の人物像を記してから話を先に進めます。

『 山岡鉄舟 天保7(1836)年~明治21(1888)年
幕末・明治の政治家。無刀流の創始者。前名、小野高歩(たかゆき)。通称、鉄太郎。江戸生まれの幕臣。剣道に達し、禅を修行、書を良くした。戊辰戦争の祭、西郷隆盛を説き、勝海舟との会談を成立させた。のち、明治天皇の侍従などをつとめる。子爵』(広辞苑第5版)。

西郷が鉄舟に突きつけた江戸城無血開城の条件の中で、徳川家に安泰を得させるために、最後まで忠義を貫き説得する鉄舟に感嘆し、西郷の一存で徳川家の存続を鉄舟に約束した史実に、この説明は触れていないけれども、鉄舟を簡潔に紹介しているので引用します。

『おれの師匠』(小倉鉄樹著)には、島田が鉄舟宅に訪れた日のことが記されています。

「ある日、島田一良が來邸して、直紀(なおき・鉄舟の嫡子)さんを連れ出して四谷の大通りで玩具等を買ってやり、帰ってから師匠(鉄舟)と対談していた。撃剣の話しや真剣勝負の話などをしている時、

人を殺すことは難しいことでしょうか、と突然島田が質問した。

別段難しいことではない。人だけ殺して自分が生きようとするから難しくなるので、命を捨てる覚悟ならなんでもない。

と師匠が答えると、大変感心して島田は帰っていった」

その翌日、島田らは紀尾井坂で大久保利通を刺殺したのです。
剣の奥義を極めた鉄舟にしても、島田の本心は見抜けなかったのでしょうか。
島田は、フランス式兵学を修め陸軍中尉にまで昇進した軍人。おおよそ半年かけて企んだ暗殺計画で大久保を斬殺した後、警察に自首します。
そのように冷静な行動を取れる島田は、事前に同志の誰かを鉄舟宅に行かせていたのですが、その正体を見破られ埒があきません。それで、島田自ら鉄舟との面談に踏み切ったのです。このときの島田は、晴天白日の心境を乱すこと無く、撃剣や真剣勝負の話題に、さり気なく必殺の極意を忍ばせて聴きだす才覚はあったでしょうし、鉄舟の嫡子・直紀を味方につけているところが心憎い。島田の作戦勝ち。これは、元気印の独断判断です。

島田が帰ってから鉄舟は、

「今日は島田にうっかり悪いことを教えてしまったが、何か間違いがなければよいが・・・。と非常に心配しておられた」

禅僧としての鉄舟は、晴天白日の如く振舞う島田に、何か悪い虫の知らせを察知した・・・?

「すると、その翌日、四谷の食違い見附で、彼(島田)は長連豪と共に大久保利通を刺し殺してしまった。

師匠は幾度か超嘆息して、嗚呼(ああ)、馬鹿野郎共が、徒(いたずら)に地下の西郷を困らせるのみだ、と嘆かれていた」

当の島田は西郷の征韓論に共鳴し、「明治六年政変」により、江藤新平、板垣退助らと共に下野した西郷を鹿児島に戻るまでに追い込んだ明治政府に憤慨しています。西郷を尊敬している長と共に、政府の中枢を仕切っている大久保暗殺を企てたのは、西郷が鹿児島に下野してからなのです。

このように西郷と因縁の深い二人が、明治の元勲・大久保利通を暗殺した罪で斬首刑に処せられ、刑場の露となって地下の西郷の下へ行く訳ですから、鉄舟が西郷の気持ちを忖度するのは自然の成り行きですね。

話は前後しますが、小倉鉄樹は、

師匠は幾度か超嘆息して・・・と『おれの師匠』に記しています。

超嘆息の「超」は、どのように解釈すれば、鉄舟の気持ちを実感できるのか。気になるところです。そこで、広辞苑に再登場願います。

 超とは、
1. とびこえること、程度を超えること(超越、超過)
2. ぬきんでること、かけ離れてすぐれていること(超人、超然)
3. 接頭語句的に ①程度一杯をさらにこえる意を表す(超満員、超特急) ②ウルトラ、スーパー等の訳語(超国家主義、超現実主義、超閑散)
4. 俗に、その語の内容をはるかにこえていること(超忙しい、超愉快)

今風の意味は、4でしょう。流行の発端は、「超いい気持」からのように記憶していますが、同義語として、それ以前から使われていたかどうかは定かではありません。

「師匠は幾度か超嘆息して、嗚呼、馬鹿野郎共が、徒に地下の西郷を困らせるのみだ、と嘆かれていた」

この文の「超」は、1の意味でしょう。

「人だけ殺して自分が生きようとするから難しくなるので、命を捨てる覚悟ならなんでもない」

島田に語ったこの一言に、嘆息を通り越して慙愧に堪えている鉄舟の心理を強調する意図で、小倉は「超」をつけているように感じます。とすれば、嗚呼、馬鹿野郎共が、の「共」に、鉄舟自身を加えても不思議ではないし、徒に地下の西郷を困らせるのみだ、の意味がより鮮明になります。

剣の奥義を極めて無刀流を創始し、日本の禅僧として名を残すまでに禅を修めた鉄舟は賢人です。うっかり悪いことを教えてしまったが、何か間違いがなければよいが、一粒万倍(いちりゅう・まんばい)の心境で島田の行動を案じた、西郷の気持ちまで忖度している鉄舟には、自分の言動に対する人としての煩悩を強く感じます。

つまり、明治政府の重鎮・大久保利通を失わせた起因が、自分の一言にあったことへ嘆息しきれず、嘆いている。そのような意味で鉄舟の一言を捉えると、必殺の極意を鉄舟から授かった島田が大久保の暗殺に到る経緯は、鉄舟との貴重な逸話だと思います。

鉄舟の書「信」(写真)を見ていて、その動機はなんであれ、相談にきた相手の本心を見抜く難しさより、その相手を信頼することの方がより困難である。しかし、自分の眼鏡にかなった相手とは刎頚の交(ふんけいのこう)を結んで面倒をみた鉄舟の生き様を思い出しながら筆を進めている内に、こんな拙文になってしまいました。長々のお付き合い、有難うございます。
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澆季(ぎょうき)に蘇る書 番外編 その2:同床異夢の同志を手厚く葬った鉄舟

2010-04-23 22:21:01 | いろいろ
NHK大河ドラマ「龍馬伝」での龍馬は、人間的に成長する糧として、平井収二郎の妹・可尾と交わした結婚の約束が反故にされてしまい、その対応に苦悩するエピソードがありました。
幕末の三舟と言われる、高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟、維新の三傑とされる大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允らに出会い、人間的、思想的にも成長するのは、これからのようです。

しかしです、竜馬が海舟と対面する場面には、違和感がありました。
竜馬の台詞と海舟のそれが逆のように感じられたから・・・。

文久2(1862)年12月28日、海舟と面識のある千葉重太郎と共に海舟を訪ねた竜馬が、松平春嶽(しゅんがく)の紹介状を持参していたことは、良く知られています。
この頃の竜馬が抱いていた尊皇攘夷論は素朴なものであり、天誅を旗印にして海舟を斬りに行き、逆に折伏(しゃくぶく:迷ったり疑ったり攻撃したりして、自分の考えに従わない人を説法して屈服させること)されて海舟の弟子になった、とする説もあります。

このような史実を「竜馬伝」では、竜馬が海舟と面談する手筈を春嶽に嘆願するシーンで表したのは竜馬の熱気が伝わってきて迫力があったのですが、海舟との面談は竜馬単独で、千葉重太郎は現れないのです。
「竜馬伝」の主人公は竜馬ですから、歴史の素人がめくじら立てて敷衍することではないことで、フィクションと割り切れば、それはそれで済むことなのでしょう。

さて、その竜馬と千葉周作の道場で手合わせをした一人に清川八郎がいます。
八郎が入門した周作の「玄武館」、通称、神田お玉が池道場なのか、竜馬が入門した周作の弟・定吉の「小千葉道場」なのかは定かでありませんが、その記録が残っているそうです。
八郎の剣法に圧倒され一本も取れなかった竜馬は、「巨岩」「巨虎」と比喩して敬意を払ったとのことです。

この八郎の剣捌きを、鉄舟は目の当たりに見ています。

職人風の若い男が、棒をもって執拗に八郎にまつわりつくので押しのけると、その男がいきなり八郎の肩を打ってきます。

「無言の気合とともに、八郎は腰をひねっていた。八郎の腰はわずかに沈み、刀が走って、すっと鞘の中に消えた。男の首が宙を飛んだ。(中略)。そばにいた山岡にも見えなかったほどの、八郎の一瞬の居合業だった。八郎が腰に帯びている刀は、備州住三原正家の作である。八郎の腕も尋常でないが、正家もすさまじい切れ味を示したのであった」(藤沢周平著・回天の門)。
そして、八郎は、職人風の若い男が振り下ろした棒に肩の骨を粉砕するだけの殺気を感じたので刀を抜いた、と鉄舟に告白させてもいます。

文久元(1861)年5月20日、八郎がとある書画会に出席した帰途に起こしたこの殺人事件で、公衆が行き交う路上で職人を惨殺した殺人犯を捕らえるという大義名分を得た幕府、八郎を牢獄に押し込めたいと狙っていた幕府の目論見が成功し、逃避行する境遇に八郎は追い込まれていくのです。

『おれの師匠』(小倉鉄樹著)には、鉄舟との係わりで興味深い事件があります。
鉄舟が信念とした「尊皇攘夷」を志した二人の人物です。今回は、その一人、清川八郎にまつわる話です。

「不意に畑田は、この若者が持つある悲劇的な性格に思いあったような気がした。いいにつけ、悪いにつけ、元司は徹底しなければやめないところがある。その中で最後には、自分自身押し流されるまで集中して行くのだ。それが学問にもあらわれ、遊蕩にもあらわれる。その性向を、彼自身どうしようもなくしている」(同上)。

畑田は、八郎が師事した畑田安右衛門。元治は、江戸詰めとなった畑田に、出羽国庄内藩領清川村(山形県東田川郡庄内町)から出て、江戸に遊学したいという願望を成就するために、一緒に江戸へ行きたい、と嘆願する17歳の八郎の幼名。

「昌義(元治の父親)は、ど不敵という土地の言葉を思い出していた。自我をおし立て、貫き通すためには、何者も恐れない性格のことである。その性格は、どのような権威も、平然と黙殺して、自分の主張を曲げないことでは、一種の勇気とみなされるものである。しかし半面自己を恃(たの)む気持ちが強すぎて、周囲の思惑をかえりみない点で、ひとには傲慢と受けとられがちな欠点を持つ。(中略)。ど不敵の勇気は、底にいかなる権威、権力をも愚弄してかかる反抗心を含むために、人に憚れるのである」(同上)。

『おれの師匠』では、「尊皇攘夷党」の結成は安政6(1859)年ですが、八郎の年譜にある「虎尾の会」(こびのかい)は、万延元(1860)年、盟主八郎、鉄舟他15人の発起人が立ち上げたとなっており、双方に共通する志士が連なっていますから、同じ徒党かも知れません。

嘉永6(1853)年6月3日、江戸湾入口にペリー率いる4隻の艦船が姿を現します。
この黒船来襲を契機に、外国の勢力に対抗する幕藩体制に改革しなくては日本が侵略されてしまう、とする考えが諸藩に芽生え、急速に成育し始めます。
そんな混沌とした時代背景を背負った八郎は、自身の持つ人脈をフル回転させて、改革策を朝廷や幕府に建言し、許諾された諸政策を具体化するのですが、ど不敵な性格が災いして関係者達の反感を買います。
幕府からは倒幕派のレッテルを貼られた挙句、幕府の暗殺令により惨殺されたことも、よく知られていますね。

「外国勢力に対抗できる強力な幕藩体制に改革しよう」とする尊皇攘夷思想は、「日米修好通称条約」が安政5(1858)年に調印された後、「天皇の勅許を得ずに、撃ち払うべき外国に開国を認めた幕府を倒せ」と変質します。
その結果、安政7(1860)年3月3日、水戸藩浪士・関鉄之介らが江戸城桜田門外で、時の大老・井伊直弼を襲い刺殺した「桜田門外の変」は、何方もご存知でしょう。

八郎の尊皇攘夷は、天皇があって幕府があり、双方を敬いつつ国力を高める意味合いを持っている、という指摘があります。

鉄舟と八郎とは、弘化4(1847)年ころに玄武館で出会い、鉄舟は義兄・泥舟を八郎に紹介しています。鉄舟は、八郎のど不敵な性格を見抜くのですが、類は友を呼んだのでしょう。

「虎尾の会は、尊皇攘夷で結びついた徒党だ。君(鉄舟)はそれに賛同して同志となった。しかしいま、私(八郎)の考えは変わって、虎尾の会は倒幕の尖兵であるべきだと考えている。私は、幕府は内側から自然に潰れるだろうと見ていたが、実際にはそういうものではない。いずれは倒幕尖兵が必要になるという見通しは、そこから来ています。幕臣の君に、これに加われということは出来ない、どうなさる?」(同上)。

こんな遣り取りをした二人は、長い睨み合いを続けます。
そして、軽く瞬きをした鉄舟は、きっぱりと言い放ちます。

「それがしは、徳川に弓ひくことは出来ません」
「わかった、さもあらんですな。いま言った事は、全部忘れていただきたい」

二人は、虎尾の会が密会の場所としていた土蔵に向かい、一献を交わすのです。
このとき、八郎と鉄舟の親交は、同床異夢の同志の結びつきに替わったのです。

「文久3(1863)年4月13日、清川八郎が暗殺された時、山岡はその善後策を指示し、尊皇攘夷党に被害が及ばないようにしている。鉄舟は石坂周造に命じて、尊皇攘夷党の連判状と八郎の首を回収させている。石坂は八郎の首を垣根越しに投げ込み、それを拾ってごみ溜めの中へ隠した鉄舟は、謹慎が許されてから伝通院へ埋葬している。明治12年かに、清川の弟が奥州から出て来て山岡を尋ね、清川の遺骨を伝通院から受け取って郷里へ葬った。その時に、清川の碑を山岡が書いたのが未だに存している」(おれの師匠)。

八郎の性格をど不敵と見抜きながらも、わが身に共通する資質を敏感に受け止め容認し、その性格をお互いに共有する同志としての礼節を最後まで貫いた鉄舟の度量の大きさに感銘するくだりです。
ちなみに、鉄舟が回収させた尊皇攘夷党の連判状には、竜馬が名を連ねていることは前に書きました。

写真は、鉄舟の書が観たくなり全生庵(ぜんしょうあん:幕末と明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔うため明治16年に鉄舟が建立)を訪れた際購入した「山岡鐵舟」に清川八郎書として収録されているものです。
鐵舟と共に尊皇攘夷党を結成す。文久3年4月13日、赤羽橋で暗殺せられる。享年34歳、との添え書きがあります。

「兵講書讀」
易、礼記、経書などを読み解き、兵学を教授する、と解釈しています。
八郎がこれを書いた時期は、昌平黌(しょうへいこう)を経て自分の塾「清河塾」を開設した安政元年も年の瀬が押し迫ったころであった、と勝手に決め込んでいます。
ただし、清河塾は、看板を掲げて半月にも満たない12月29日に火事で焼失していますから、八朗が塾開設直後に、周作道場では鬼鉄と呼ばれていた鉄舟のために揮毫したものを、鉄舟が後生大事に守ってきたのでしょう。
多分、当たるも八卦、当たらずも・・・ですね。

「竜馬は、姉に宛てた手紙の中で八郎を、一人の力で天下を動かす、と記しており、徒手空拳、恃むはおのれ一人といった型の志士だった。権力を利用はしたが、その内側に組みこまれることを嫌った。幕府という権力機構に憎まれたのは、当然である」

これは、藤沢周平氏が自著のあとがきに記していることです。

「八郎の悲劇は、八郎が草莽(そうもう:草むらが転じて民間にいること)の志士であった事実そのもの中に、すでに胚胎(はいたい:物事が始まる原因が生じること)していたのではないか。明治維新は、草莽からあますところなく奪ったが、報いることは誠に少なかった」

との考えも併記しています。

八郎と同じ志を持ち、幕府から倒幕派として睨まれ、暗殺される境遇に陥った鉄舟が、明治天皇、岩倉具視などから信頼を得て人生を全うさせたのは、幕臣であったことが大きく影響しているようです。
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澆季(ぎょうき)に蘇る書 番外編:幕末三舟の書風と人柄

2010-01-18 00:13:46 | いろいろ
高橋泥舟(でいしゅう)、勝海舟、山岡鉄舟は、幕末の三舟(さんしゅう)と称され、その謂れについても、先刻ご存知のことでしょう。

鉄舟の内弟子から高弟となり、晩年の鉄舟を熟知している小倉鉄樹の語った炉話を、鉄舟門下の石津寛が纏めた『おれの師匠』を読んでいると、鉄舟の生き様が鮮明に蘇ってきます。その一端は元旦に書きました。

「海舟は智の人、鉄舟は情の人、泥舟に至っては、それ意の人か」

これは、大森曹玄が『幕末三舟伝』(頭山満:とうやま・みつる述、武劉生:ぶ・りゅうせい筆)から引用して自著『山岡鉄舟』の中で紹介し、三舟の書と人柄を自ら比較評価しています。

「泥舟の草書は、まるで枯れ木を思わせるその線は、まことに異常の人であることを示している(写真左)。それが、楷書になるとガラリと趣が変って線は軟らかく、気品すこぶる高く、しかも並々ならぬ力量が窺える」

「海舟は、智者は水を愛す、といった趣がある(同中央)。水の流れるような機略の人であるが、拮屈(きっくつ:文章が滑らかでなく読みづらい)ともいうべき書体からは、あまり素直でないものを感じさせる」

「鉄舟は、その墨跡も若書きのものは意気にまかせて書きなぐったような、やや上滑りのものもあるが、晩作のものになると情味の濃さや心境の深さを示すものが多い(同右)。その傑作のものになると、三舟中の随一といってよい」

「鉄舟の傑作とされる書に匹敵するのは、西郷南州のそれであろう・・・。
両人は、体格もよく似て鉄舟の方が3寸ばかり長身であるが、その書風の筆力雄勁(ゆうけい:おおしく力強い)、気迫充実といったところも両者は実によく似ている」

と解説されても、三舟書の現物は拝見するチャンスがありません。そこは、ネット社会です。ウィキペディアで三舟の書を見つけました(写真)。大森曹玄の書評と無関係とはいえ、三舟の人物評を彷彿とさせますね。
ちなみに、この掛軸は、元々一枚の寄せ書きであったものを三分割して表装したものです。一枚に書かれている三舟の寄せ書きは、『幕末三舟伝』に写真が掲載されていますから。

さて、鉄舟と西郷が会談をした時の政治情勢は、鳥羽・伏見の戦いで公武合体(朝廷と幕府、諸藩が一致協力して国政を運営しようとする考え方)派に勝利した倒幕派が、新政府内の指導権を確立した時期です。
鳥羽・伏見の戦いに破れ朝敵となった徳川慶喜は上野寛永寺に閉門しますが、恭順の意を新政府に訴える工作がなんら成果を挙げなられない状況に陥っていたのです。それを打破する策として、自分の意思を東征大総督府参謀であった西郷隆盛に伝える使者に泥舟を指名します。しかし、自分が江戸を離れると慶喜の身辺に危険が及ぶと判断した泥舟は、義弟・鉄舟を勅使の代役に推薦し、慶喜と協議の末、鉄舟は慶喜の勅命を受けます。

このような経過を経て、鉄舟は西郷との駿府会議を成功裏に導き、江戸に於ける西郷・海舟会談の下地を創ります。その結果、明治元年4月11日、江戸城は平和的に明け渡されたのです。
そして、7月に江戸は東京となり、明治天皇の東京行幸が3ヶ月後の10月に実現します。

ところが、戊辰戦争(ぼしんせんそう)で東征大総督を務めていた西郷は、大政奉還(たいせいほうかん)が成功しようがしまいが、幕府を激怒させ立ち上がらせて倒幕の大義名分を作る路線を動かし、倒幕劇は慶喜の首を取らないと大団円にならない。そのための基本シナリオを書いた。
武略は西郷、朝廷工作は大久保利通と岩倉具視という役割分担がキチンと出来ていた。そこに、暴力革命を実践しながらも、ちょっと距離を置いて、大政奉還を眺めている西郷の凄さがある(中央公論・幕末史探訪)。

一方、鉄舟の考えは『おれの師匠』から引用します。

「徳川幕府を滅ぼしたのは、一つには3百年の泰平に慣れた士気の頽廃(たいはい)にも因るが、大きな原因は、国体(こくたい:国家を成り立たせる根本原理)に醒めた勤王論の勃興(ぼっこう)である。
これは、幕府建設以来最も警戒してきた所なのだが、時運の趨勢(すうせい)は止むを得ないもので、また、強弩の末勢(きょうどのまつすえ:昔強かったものも衰えてからは無力になる)にも等しい幕末の勢力を以ってしては、とても抑制し難いことでもあった。
運の尽きる時は総てがいけない。折から襲来した諸外国からの交渉は、勤王論者をして朝命(ちょうめい)を楯に盛んに攘夷(じょうい)を主張して、幕府に迫ったものだから、幕府は益々窮地(きゅうち)に陥った。
 山岡は内外の事情を察し、徳川の運命の到底挽回(ばんかい)すべからざるを知り、また、開国は畢竟(ひっきょう)止むを得ない趨勢であることを観て取った。けれども、身は祖先・小野高寛(たかひろ)以来粟(ぞく)食み、譜代恩顧(おんこ)を蒙っているのに、駄目な主家だからといって放擲(ほう)つちゃ置けない。たとへ、滅びるにしても北条、足利の如きみじめな末路を見るのはいやだ。立派に花を咲かせて終わりを全うしなくちゃならないと考えた。それには、天地の正道に基き朝命を奉じて攘夷を断行し、幕府の采配の下に諸藩を糾合(きゅうごう)し挙国一致に当たったら、徳川の面目も保たれ最後を飾ることが出来ると考えた」

 慶応3(1867)年12月9日の午後6時頃から、明治天皇御臨席の下に京都の小御所内において、新政府最初の国政会議(小御所会議:こごしょかいぎ)が開かれます。
公武政体派は、慶喜の出席を許さないことを非難し、慶喜を議長とする諸侯会議の政体を主張。他方、倒幕派は、徳川政権の失政を並べ立て、慶喜の内大臣辞任と幕府領の放棄(辞官納地)を主張。両者共に譲らないので会議は休憩とされ、岩下方平は西郷に助言を求めます。

「短刀1本あれば事は足りる」

と西郷は言い放ち、再会された会議は討幕派のペースで進められたのです。
大政奉還が行われ政治運営の権力から遠ざかった武力討幕派は、兵力によって幕府勢力を一掃する裏面工作を画策していたのです。西郷の本音を知った公武合体派はおとなしくなり、武討派は、この機を捉え辞官納地を朝議決定します。王政復古の大命令を発して「天皇親政」の宣言です。ここに、公武合体派を一掃する武討派グループのクーデータは成功したのです。

このような暴力革命を厭わない西郷に、鉄舟は自分の信念を披瀝して駿府会議を成功させていることを、『おれの師匠』から読み取れます。

しかし、

「海舟は、事実の正確さよりも、そのとき自分が言いたいことを優先させる。過去の自身の言動と矛盾するのはお構いなしだった。この癖は生涯を貫いている(同上・幕末探訪)」

慶喜から西郷に恭順の意を伝えるように命令を受けた泥舟は、鉄舟を代役に推薦し慶喜は了解します。鉄舟は、軍事総裁・海舟のところへ出向きその旨報告し、駿府へ発ちます。
鉄舟が西郷に会うように指示したのは海舟であるかのような説明を散見します。それは海舟の記録を根拠にしているからのようです。海舟の書体から、あまり素直でないものを感じた大森曹玄の書評とも重なりますね。

大森曹玄は、『山岡鉄舟』でこのあたりの検証をした後に、
「鉄舟ひとりで幕府の方針一決には至らなかったであろうし、海舟一人でも基礎工事が進まず、舞台は回転しなかったであろう。両者が一体となり、おのおの天賦の性能を発揮したお陰で、この難件の処理が出来たのである」

として、次のように結んでいます。

「何も目くじら立てて攻撃しなければならないほど、海舟に野心があったとは到底おもわれない」

明治元年3月8日、駿府会議で鉄舟と初対面の西郷は、その時の鉄舟を評して海舟に漏らしています。

「山岡さんは、どうの、こうのと、言葉では尽くせぬが、何分にも腑の抜けた人でござる。あの人は、生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、といった始末に困る人ですが、あんな始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如き人でしょう」

これは、3月13日、西郷と海舟が江戸で会談後、鉄舟と相談の上、西郷を愛宕山に誘い出し、山の上から一望できる江戸の町を指しながら説明していた海舟が、
 
「明後日は、これが焼け野原になってしまうかも知れんな」

と、江戸城攻撃の決意の程を確かめる海舟の謎賭けを黙って聴いていた西郷が、ため息をついて言った言葉だけに重みを感じます。

「西郷と鉄舟は、体格もよく似て鉄舟の方が3寸ばかり長身であるが、その書風の筆力雄勁、気迫充実といったところも両者は実によく似ている」

何事にも命がけで臨む鉄舟の人柄とその主張は、「敬天愛人(けいてんあいじん):天を敬い、人を愛する」を信奉する西郷の琴線に触れ、鉄舟と天下の大事を誓ったのでしょう。
その誓いとは、駿府会談において鉄舟が頑として拒否したことを、西郷が一身を賭して守ったことです。江戸城を明け渡す条件として5ヶ条の条件を突きつけられた鉄舟が、命がけで撥ね付けた条件が1ヶ条だけあったのです。

「徳川慶喜を備前へ預けること」

「これは、朝命じゃ!」と断固と言い放ち後へ引かない西郷に対して、君臣の理をもって説き伏せてくる鉄舟の人としての迫力に魅せられたので、西郷は徳川家の存続を鉄舟に誓った、と思うのです。

「あなたの云われるところ如何にもご尤もである。よって、徳川慶喜の一条については吉之助きっと引き受け、貴意の通り取り計らうことと致そう。決して、ご心配めさるるな」

3月15日に決行する倒幕軍の江戸城攻撃は回避され、江戸の町が火の海になる無駄な犠牲を回避し、兵士達の生命が保証される江戸城無血開城が行われる下準備は、このようにして整えられたのです。

三舟の人物評価を書いて終わりにします。
維新の三傑と言っても、政治的才能とか、知識とかいう点ではいざ知らず、人物ということになれば、西郷○○○○、大久保○○○○、木戸ということになるのではないかと思う。
それと同じように、幕末三舟といっても決して同じ地平に並列しているのではない。西郷と大久保・木戸ほどの差はないにしても、鉄舟○○、泥舟○○、海舟ということになる(大森曹玄)。

余談になります。
NHKの大河ドラマ「龍馬伝」が始まりましたが、天誅(てんちゅう)の嵐が吹いていた文久2(1862)年、攘夷論者の龍馬は海舟を斬りに行きますが、逆に折伏(しゃくぶく)されてしまい弟子になります。そして、軍艦奉行並(ぐんかんぶぎょうなみ:海軍次官)・海舟が進めている神戸海軍操錬所の建設に奔走しています。
他方、鉄舟と龍馬の接点は、清川八郎や鉄舟らが安政6(1859)年に結成した「尊皇攘夷党」の幹事として、龍馬は連判状の末尾に名を連ねています。

なにはともあれ、歴史に興味をもち史実を調べていくと、歴史の表舞台に登場している幕末の志士たちの絡み合いが、どのように描かれるかに興味が湧いてきます。
そして、ドラマに込められている歴史観などを読む楽しみが増してくるようです。

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澆季(ぎょうき)に蘇る書 その2:速筆多作の山岡鉄舟20歳頃の書

2010-01-01 22:18:04 | いろいろ
古知谷阿弥陀寺(京都市左京区大原)に遺体が安置されている弾誓(たんぜい)上人は、生涯に400万枚の「名号書:みょうごうしょ」書いたことは前回書きました。

一方、「万治の石仏」を揮毫した岡本太郎画伯、廃寺寸前の寺が復興資金不足に喘いることを見かねて、その寺の再興資金を調達するために揮毫した山岡鉄舟のことにも触れてきました。

僧侶の書く「名号書」と書家や著名人などの「揮毫」とは、その趣旨が違うと思っていましたが、山岡鉄舟の揮毫には、仏道を志し大願成就の誓願(せいがん)が込められているようです。
それは、菩薩か仏道を求める時に立てる四つの誓願(四弘請願:しぐせいがん)のひとつである「衆生無辺誓願度:しゅじょうむへん・せいがんど」との深い関わりがあったからです。

さて、徳川幕府の倒幕と明治維新の成就に尽力した木戸考允、西郷隆盛、大久保利通は「維新の三傑」と呼ばれていることは、どなたもご存知でしょうし、「幕末の三舟」が高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟であることも。

この呼び名に相応しい人物をひと括りにした経緯は知りませんが、歴史研究者などが史実を基にして括ったのでしょう。幕末から維新にかけて時の政府の政策面に影響を与えた人物で、名前に舟のついた3人が「幕末の三舟」とされ、山岡鉄舟は名を連ねています。

ところが、板垣退助の言を借りると、

「維新の三傑といって、西郷、木戸、大久保と3人を並べていうが、なかなかどうしてそんなものではない。西郷と木戸・大久保の間には、零がいくつあるかわからぬ。西郷その次に○○○○○○○○と、いくら零があるか知れないので、木戸や大久保とは、まるで算盤のケタが違う、といったものじゃ」

このことは、大森曹玄が著した『山岡鉄舟』(春秋社刊)の中で、『大西郷遺訓講評』(頭山満翁)から引用して紹介しています。そして、

「政治的才能とか、知識とかいう点ではいざ知らず、人物ということになれば板垣伯の言われたように、西郷○○、大久保○○、木戸ということになるのではないかと思う」

と著者は三傑の人物評価をしています。

維新三傑の中では、けた違いに大きくて奥深い器とされた西郷隆盛は、初対面の山岡鉄舟をどのように見極めていたのでしょうか。

江戸の無血開城による明治維新の成就と、それによる主家徳川氏の保全を全うしたのは鉄舟であり、鉄舟一代の大仕事であった(同書)。

この西郷・山岡会見の一部始終は、多くが語られておりますので、ここでは省きます。
勝海舟が勲章局に提出した自らの勲功禄などに重きを置いた話しになっているように憶測していることだけを書いておきます。
ちなみに、大森曹玄氏によれば、山岡鉄舟に関する書物で信頼のおけるものは、『全生庵記録抜粋』と『おれの師匠』(小倉鉄樹)で、この両書を出るものはないようです。

鉄舟との会談に臨んだ西郷は、海舟に鉄舟の人物像を語っています。

『さすがは徳川公だけあって、エライ宝をお持ちだ。山岡と言う人は、どうの、こうのと、言葉では尽くせぬが、何分にも腑の抜けた人でござる。命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬと言ったような始末に困る人ですが、但し、あんな始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。本当に無我無私の忠胆(ちゅうたん::忠義の心)なる人とは、山岡さんの如き人でしょう、と西郷は驚いておったよ』

このように、西郷を驚かせた鉄舟の揮毫数は、明治19年5月から7月31日までに3万枚を書いています。他には、8ヶ月間に10万1,380枚、松平子爵家の危急の際は屏風千双(せんそう)、剣道場建設のために扇子4万本などの揮毫をしていますが、このようなことは枚挙に暇がない(おれの師匠)。

しかも、幕末三舟である海舟、泥舟(でいしゅう)は自重して揮毫しているが、鉄舟のように無造作に揮毫していると、書の値打ちがなくなるから自重するように忠告を受けています。

『俺みたいな者に頼む人があるので、断るのも申し訳ないから書いているまでで、書を売るんじゃないから値打ちがあろうがあるまいが構ったもんじゃない。また、俺に書いて貰った人が、それで鼻をかもうが、尻を拭こうがそりゃ俺の知ったことじゃない』

このように、平然と答えた鉄舟は、未だ3千5百万人に一枚ずつ行き渡っていない、とも言っています。当時の人口数だけ書く心積りでいたのです。

それだから、速筆多作にもかかわらず、一枚ことに必ず心の中で「衆生無辺誓願度」と唱えながら揮毫しているのです。鉄舟が書に揮毫するのは、衆生救済の方便であったのです。僧侶の書く「名号書」と書家や著名人などの「揮毫」とは、その趣旨が本質的に違うと思います。
しかし、弾誓の名号と鉄舟の揮毫には、その本質に共通するものがあると考えられる理由がありますね。
鉄舟の心境は、地上にいるあらゆる生き物をすべて救済するという請願を唱えながら揮毫する姿勢に顕れています。

しかも、鉄舟の書は斯道(しどう)の大家・成瀬大域(なるせ・だいいき)氏に問い質しています。つまり、篆書(てんしょ)、隷書(れいしょ)、楷書(かいしょ)、行書(ぎょうしょ)の各書体とも一点一画も揺るがせにしていないのです。誤字などある訳がありません。

鉄舟の書を拝見したくなり全生庵(ぜんしょうあん:東京都台東区谷中)へ行ってきました。
幕末から明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔い、在家の人々の座禅道場として建立された全生庵に、鉄舟の書は展示されていませんでしたが、同庵所蔵文化財図録『鐡舟』に鉄舟の書が掲載されていますので、今回はそれで代行し、『おれの師匠』もあったので併せて購入してきました。

写真は、図録『鐡舟』に掲載されていたものを転載したものです。
鉄舟が20歳頃の書ですから、鉄舟書の基本をなすものではないでしょうか。

全生庵の近くにある台東区立「書道博物館」に寄ると、鉄舟が書の師とした王義之(おう・ぎし)に繋がる史料があり、鉄舟の書を理解する触媒になりました。



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なまら面白い体験 その1 二条市場で買い得・花咲ガニ

2008-12-07 23:14:03 | いろいろ
家内の身内に不幸があり11月22日、エアードウ便で北海道へびました。
千歳空港から葬儀が執り行われる砂川市へ直行します。
道内でも豪雪地域とされる砂川市周辺は、想像していたより積雪が少なく、防寒靴は不要なくらいです。
告別式、忌中引き、初七日、四十九日法要を済ませ、千葉へ帰る25日まで、岩見沢市の義姉の家に滞在することに。
これが、なまら面白い体験をするキッカケになったのですから、布衣之交(ふいのこう)は絶やせません。

道産子画家の記念館があると義姉に紹介され、義兄に案内をしてもらう。
車で7~9分で到着したそこは、休館日でした。
水曜日と祝祭日の翌日が休館日になっており、11月24日は振替休日に当たっていたのです。
義兄の話では、歴史的文化遺産として保存されている建物で、昭和7
(1932)年、道内で3番目に建てられた鉄筋コンクリート造りの旧岩見沢警察所を、絵画ホール・松島正幸記念館にしているとのこと。

休館日では、どうしょうもない。
JR生鮮市場へ寄ってから帰宅することにする。
なまら面白い体験の始まりになります。

狙いの品は、カニ、鮭トバ、カンカイ(こまい・氷下魚)。
市場内を一回りします。
開きコマイのパックしかないカンカイは、1パック198円でも諦めです。
日干しにしたカンカイをハンマーで叩いて軟らかくし、マヨネーズで味付けして酒の肴にする楽しみが消えました。
透明のビニール袋に5~6本入っている鮭トバ、細長い棒状に鮭を切った皮付きの身・トバが一袋680円。市販価格より格安の値段に引かれて買物籠へ。

さて、北海道名物の毛ガニはあったのか?
どこにも見当たりません。あるのは、ロシア産の毛ガニだけ。
しかも、400g680円の安値で。
買う踏ん切りがつかないのは、ロシア産と680円の価格です。
暫し、400g680円の値札と睨めっこ。

 「やけのやんぱち 日焼けのなすび
  色は黒くて食いつきたいが
  わたしゃ入れ歯で歯が立たない」

大人7人で5~6尾、子供が1人。少なくとも、7尾なければ喧嘩になる。
義兄は他で自分の買い物をしているし、もう、やけのやんぱち。
2尾詰1,360円を2パック買物籠に押し込みレジへ向かう。

結果オーライ、鮭トバは軟らかくて美味なのです。
身が締まっている毛ガニのミソ味は、国産毛ガニと比べても遜色がなく、黙々と食べる始末です。
やけのやんぱち ロシアの毛ガニではなかった。4尾を7人で食べて、皆満足顔なのです。
なまら面白い最初の体験でした。

北海道に行くと道産子は、先ず、ジンギスカン。
生ビールを飲みながら札幌ビール園で食べるジンギスカンは、堪えられません。
翌日、札幌まで足を延ばすことに・・・。

テレビ塔の電光時計は、16時48分を示していますが、大通公園は真っ暗闇の中で沈黙。
大通り公園のライトアップを期待していた家内は、ライトアップで夜の帳に浮かび上がる時計台の光景を観て気分転換です。

時計台の近くにある二条市場周辺は、札幌市の都市計画として「創生1.1.1.区」(そうせいさんく)が進められており工事中でした。
午後5時過ぎの二条市場でしたが、南2条通りに面した店の殆どはシャッターが下りています。
市場を独占した客、私達3人は営業している奥の店から創生川へ向かって品定めです。
気に入ったホタテの貝柱を見付けた義姉は、店員の話に耳を傾けています。

毛ガニ、タラバガニ、ズワイガニ、花咲きガ二は北海道の名物ですから、どの店頭にも所狭しと並んでいます。
ロシア産毛ガニと同じ甲羅(大きさ)の枝幸産毛ガニが4,700円では、3人とも意気消沈です。
毛ガニの漁獲高が日本一の枝幸町(えさしちょう)の毛ガニの強敵は、ロシアガニでした。

ふたつ目のなまら面白い体験は、花咲ガニがもたらしてくれます。
2kg弱のオス花咲ガニ(写真)の値札には、8,600円。
店先を素通りしようとすると、値引き価格を提示されたのですが、予算に合わないので断ります。
先に進んでいた義姉と家内は、折半して10,000円のホタテの貝柱を別の店で買うことに決めたようでした。
定価18,000円を、10,000円に値引きしたのが、購入の動機です。

コリコリして軟らかいホタテの貝柱は買得したと大喜びで札幌ビール園へ向かおうとした時、長男が呟くのです。

「さっきの花咲ガニ、上物だが・・・」

素通りした店へ、3人は逆戻り。
花咲ガニをダンボールへ入れようとしている店主へ、長男は、

「郵送料、箱代込みで、2尾、10,000円になりませんか」

店主の手が止まります。

「奥へどうぞ。送り先を書いてください」

根室市の通販店で販売している茹で花咲ガニは、1尾800gで4,700円はしています。
2kg弱の花咲ガニ2尾、箱代や千葉への送料を含めて10,000円ですから、長男の買い物はなまら旨いものです。
2日後、二条市場の店が発送した花咲ガニが自宅へ届き、その日の夕食は花咲ガニが主役です。

それにつけても、資源の枯渇を防ぐため漁期が決められている花咲ガニ。
日本の漁場は根室近海で、根室管内における漁期の水揚高は150トンと規制されています。
全道の漁獲量を5年毎の統計で比較すると、最高は昭和45(1970)年の
1,437トン、昭和55(1980)年の71トンが最低です(北海道庁水産部統計)。
花咲ガニを獲っているのは根室管内と釧路管内の漁協で、道庁の統計はこの管内の漁獲量をまとめたものです。
根室管内では、花咲ガニの水揚げが最低になった翌年、昭和56(1981)年から59(1984)年まで禁漁、昭和60(1985)年には漁獲量の上限を150トンに規制、平成2(1990)年から漁期を設け、花咲ガニの資源確保に尽力しています。
禁漁が明けた昭和60年、全道の漁獲量は121トンでした。

ところで、ロシア産毛ガニの価格を書きましたが、生(なま)花咲ガニで漁師が手にする収入は、1kg当たり500円とのこと。
平成20年の漁獲量が113トン、売上高(収入)は5,500万円です。
そして、生を茹でると歩留80%になるようですから、市場へ出る加工花咲ガニは90トン(地元関係者の情報)。
漁師から1kg500円で仕入れた生花咲ガニは、800gだと400円です。加工歩留80%を加味しても480円。
不勉強で加工手間賃は確かではありませんが、市販価格は、ほぼ10倍になっています。

生産者が苦しい生活を強いられ、販売者が利益を確保している厳しい現実が、花咲ガニ漁にもあったのです。
我が家のカニ談義に花を咲かせてくれた花咲ガニは、我が身を犠牲にしても、なまら厳しい漁師の厳しい生活現況を消費者へ知らせているようです。

  「やけのやんぱち 茹で花咲ガニ
   色が赤くて食いつきたいが
   わたしゃ入れ歯で歯が立たない」

ボケ封じ観音さまは、花咲ガニが苦手のようです。

「あなたが二条市場で仕入れた花咲ガニは、5歳くらいのオスです。
根室市役所・水産研究所が実施していた事業に、タラバガニ類の養殖技術研究があります。
それによれば、花咲ガニの卵は、ゾエアで孵化し、グロコトエに変態してから最初の脱皮で稚ガニになります。稚ガニは0.02g程度の体重ですが、脱皮を重ねる毎に成長します。脱皮の回数は齢で表し、5歳のオス花咲ガニが22~23齢。
つまり、5歳になるまでに22~23回脱皮して、体重は、1,030~1,870gに増えます」

「驚き、桃の木、山椒の木。観音さまの世界には、インターネットが繋がっているの」

「ご想像にお任せ。兎に角、花咲ガニが2kgの大きさに成長するまでには、約6年の歳月が必要なのです。元気印の初孫が小学校に入学するまでの期間に相当するのですよ。それが過ぎてから脱皮したオスは同齢のメスと交尾し、メスは産卵した、と報告されています」

「花咲ガニのメスが獲れなくなったのは25年以上も前からの話。繁殖能力を持たない花咲ガニを獲ってしまうことが原因だと、観音さまは言いたいのでしょう」

「ですから、花咲ガニの資源枯渇を防止する対策を、関係者は必死に模索し続けているのです。子孫を残す使命を果たした2kgの花咲ガニを購入したのですからそれは容認しましょう。しかし、400gの毛ガニは如何なものでしょうか。甲羅の大きさが、飯椀(直径13cm)程度しかない子ガニを食べたんですよ」

なにはともあれ、食べ応えがあった花咲ガニとロシア産毛ガニなのです。
国産ガニに食用の許可を下しても、輸入毛ガニを食べることを咎める観音さま。
 
ボケ封じ観音さまの警告が心に突き刺さって眠れない夜が続く、札幌土産になりました。






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鬼灯(ほおずき)の思い出話 その1:ほおずき笛と音楽堂

2008-10-15 04:17:08 | いろいろ
暑さ寒さも彼岸まで。
今年の猛暑は、この諺が的中した夏でした。彼岸を過ぎると一気に秋。

猛暑にも負げず真っ赤な実をつけたほおずきも、赤い皮が朽ちて葉脈だけが網目状に残り、透けて見える赤い実に出遭うと、ほおずきをブゥ~、ブゥ~と鳴らして遊んだ夕張(ゆうばり:北海道夕張市)を思い出し懐かしくなりました。

赤い実をやわらかく揉み解し、小さく開いている口穴を破らないようにして種を抜くと「ほおずき笛」の出来上がりです。
苦味があったかどうか、口に含んで鳴らした記憶だけはあります。実は、ほおずき笛と呼ばれていることを、この年になって知りました。

口に含んだ袋の口穴を外側に向けて空気を吸い込むと、袋状のほおずきに空気が充満します。
ほほをつぼめると袋の空気が外へ押し出されます。このとき、ブゥ~と音がでます。ただの袋が笛に早替わりします。
ほほの中は音響効果のよい音楽堂ですから、吹き手ごとに笛の音色を楽しんでいました。

ほおずき笛の音の記憶が曖昧なので、愚妻と夕食のおかずにします。

「ほおずきを鳴らすと、どんな音がしたか覚えている」

ほほに空気を吸って吐き出す格好を2回繰り返します。
口をへの字に曲げて袋の空気を押し出す仕草が、ほおずきを鳴らす時の顔でしたが、鳴らせなかったので、笛の音は覚えていないとのこと。
結局、未確認のまま夕食を終えました。

50数年前、小学校低学年時代を思い出させてくれたほおずき(写真)。
チャッピー(シーズ)とミミ(シエットランド)との散歩道に咲いているほおずきは、提灯に見えます。
提灯の大きさに比べて大き過ぎる灯を燈しているほおずきの別称、灯篭草、金灯篭に因んだ句が浮かびました。

 灯篭草 今朝も出迎え 散歩道
 初秋の陽 耀きともす 金灯篭

ほおずきを詠んだ芭蕉の句があります。
 
鬼灯は 実も葉もからも 紅葉哉    

赤い実を顔に見立てたほおずき人形も作られていますが、道産子の元気印は知りません。
ほおずきを見つけると鳴らしあっていたので、笛の作り方は遊びの中で覚え、年をとるにつれ忘れてしまいました。

このように、古くから子供の遊びに使われていたほおずき。
ほおずき笛の作り方を思い起こして、孫達の音楽堂で吹かさせてみよう。

 ほおずきを 鏡にむかい 鳴らし見る  山田 土偶



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