いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

佐原のはす祭り ハスは朝ひらく

2007-07-26 06:37:58 | 散策
7月15日(日)、22日(日)佐原市水生植物園の『はす祭り』で「ハナハス解説会」が行われ、22日に参加し、ショックを受けて帰宅しました。
15日は大暴れした梅雨前線が通過したので中止されたが、暴風に倒されたハス、花の散ったハスも多かった。22日も小雨模様で葉の底に溜まったそら豆大の水滴が白く反射していた。花弁に留まっている水滴はハスの花をより美しくしていた。
6時から始まる早朝関蓮会(かんれんかい)から雨が小降りになり、シャッターを切りながら園内を1周し終えた90分後には、ずぶぬれになっていた。

関蓮会の受付と一緒の場所に設けられた休憩所で象鼻杯(ぞうびはい)を振舞っていたので、早速ご馳走になる。長さ30~40cmを残して切った葉柄(ようへい:ハス茎)の切り口をくわえて息を吸い込むと、葉身(はしん:葉)との付け根にある茎の空洞から空気が流れ込んでくる。この原理を利用したのが象鼻杯。お椀状にしたハスの葉に注いだ地酒を飲む、象が水を飲むカッコウに似ているから象鼻杯と名づけている。簡単に飲めると思ったが、予想に反してかなりの吸引力を要した。関蓮会の応対をしてくれた年配の女性が、ハス茶と象鼻杯を勧めながら色々説明してくれた。

ひらいた ひらいた ♪ 
なんの花が ひらいた ♪
レンゲの花が ひらいた ♪♪
ひらいたと思ったら ♪
いつのまにか つぼんだ ♪♪

ハスの根茎(こんけい:れんこん)は春先から働き始め、夏に青春時代を迎え、晩秋に枯れて休眠しますが、人がハスを楽しみ、心を癒す花の寿命は4日間しかない限られた命なのです。
セミが鳴いている時間より、同期の桜が咲いて散るまでの時間よりよりも短かい。最初に受けたショックでした。

写真は昨年の七夕に千葉公園で撮ったハスで、「親子三代」のタイトルをつけて保存していたものですが、花の生涯を説明するのにぴったりなので使いました。
佐原のハスは引っ張って撮った花写真なので、4日間の生涯を説明するには枚数を要します。千葉公園のものを代用して説明します。   

初 日:朝4時~5時からつぼみ状態の外側の花弁がゆるみ出し、「とっくり型」まで開くと8時頃から閉じ始めます。完全に閉じたハスでも「つぼみ」に見えます。

2日目:草木も眠る深夜1時頃から開き始め、朝7~9時頃に満開になり、昼ごろには完全に閉じます。写真右手前のハスは、満開になる30分ほど前の状態です。閉じると「つぼみ」状態ですから、午後に見ても「これから咲くハス」です。香りが最も良く、姿が美しいのは2日目のハスです。

3日目:深夜1時頃から開き始め、朝7~9時頃に開き切り花径は最大になります。「さら型」まで開き、一時ころには半閉じになります。写真右上の花弁が水平状態になるまで開き、半閉じ状態まで閉じる。写真左の状態からもう少し閉じた状態になって3日目は終わります。

つぼんだ つぼんだ ♪
なんの花が つぼんだ ♪
レンゲの花が つぼんだ ♪♪
つぼんだと思ったら ♪
いつのまにか ひらいた ♪♪

4日目:半閉じに近い状態から僅かに開き、午後にはひとひらもなくなり、花拓(かたく)だけになります。そして、花拓は果拓(かたく)に変身して種の保存に専念します。写真左の状態から散り始めるので、それを見た人は具合が悪いのではないかと思うかも・・・。
    
写真は「親子三代」のタイトルをつけて保存していたことは上述しました。花の寿命を説明するのに好都合なので使いましたが、ハス解説会に参加するまでの元気印は、2日目が親、3日目が祖父母、息子・娘が4日目のイメージで「親子三代」のタイトルにしました。自然のハスとは乖離したタイトルです。元気印が受けた最初のショックです。   

「ひらいた ひらいた」を歌って遊ぶ子供達の姿が公園や路上から消えたのは何時ごろからだろう。
誰が作詞をしたのか不詳の明治時代の遊び歌ですが、ハスの一日の動きを的確に表現しています。

ハスが開花する時に「ポン」と音がする話を聞いていた元気印は、観蓮するたびに確認してきましたが、何方からも明確な回答を貰えませんでした。しかし、解説会の説明者は、ハスの花は音がでるような構造になっていません。また、大賀一郎博士も古くからある伝承を証明すべく努力をした結果、鯉が水面近くを飛び回る蚊を捕らえる時に発する水音をハスの開花する音と勘違いしたと、報告しています。このような、明確な回答を得たのです。これもショック、違います。

ハスの葉柄に、くもの糸のような極細の藕絲(ぐうし)という植物繊維があり、絹糸の太さに紡いで曼荼羅(まんだら)を織った、藕絲織(ぐうしおり)の曼荼羅が奈良県葛城市の当麻寺(當麻寺:たいまでら)に残されていると聴いてダブル・ショックを受けたのです。大賀一郎博士の調査で藕絲織ではなく絹糸の綴織(つづれおり)の曼荼羅と判明したとのことです。
ハスに終生拘り続けた大賀博士には、改めて感服しました。

花の色は 移りにけりな いたづらに
わが身世にふる ながめせし間に

『わが身世にふる ながめせし間に、は、元気印でしょう』

ボケ封じ観音さまは、油断がならない。

※藕絲を中心にした障害福祉サービス事業をしている「町田市大賀藕絲館(まちだしおおがぐうしかん)」には、藕絲に関連する豊富な情報があります。

※水生植物園の「はす祭り」は8月5日(日)まで開催しています。早朝観蓮会、はす茶、象鼻杯があるのは7月29日、8月5日の日曜日のみです。

はす博士のハナハス解説会は終わりましたが、早朝観蓮会は開園時間を2時間早めた6時から、無料のはす茶、象鼻杯の応対もあります。車を利用しても無料駐車場があります。但し、入園料700円は必要です。

300種類のハナハス、30種類(5,000株)のスイレンがあり、はすの七変化を楽しむのであれば早朝観蓮会です。

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日本寺(にほんじ)にある日本一  番外編 3 十八名勝縁起の今昔

2007-07-23 07:42:28 | 散策
日本寺に残されていた古文書類は、昭和14(1939)年11月26日の火災で焼失しましたが、古刹・名刹だけあって、様々な記録類が残っているようです。

鋸南町史(昭和44年7月発行)を閲覧すると、日本寺名勝と由来などが記載されており、散策実踏で見逃していることが沢山ありました。

日本寺縁起(以下縁起)で推奨している十八名勝では、昭和43年(1968)年頃に把握していた記録と当時の現況とを比較して説明しています。現在、境内に設けられている名勝立札の解説と違うものがあるようです。40年という歳月の重みなのでしょうか?

鋸南町史・通史偏(改訂版)は平成7(1995)2月発行で、一番新しい町史です。時勢でしょうか、内容は昭和44年版より簡単になっていますので、十八名勝縁起の話は後者を主体にしてあります。

縁起による十八名勝を、元気印が実踏で訪れた名勝とを比べてみました。
  
1.無漏窟(むろうくつ):無常法王の奥、十万の緒仏集まる(写真)

立札の名称は、奥の院無漏窟。解説は縁起と同じです。
大きい石仏坐像は、ご本尊の釈迦牟尼如来(しゃかむに にょらい:釈迦の正式名に称号の如来を付した名)です。前の立像は文殊・普賢菩薩(もんじゅ・ふげんぼさつ)、ご本尊の周りには十大神将が安置されています。境内第一の霊跡です。
静寂に包まれた釈迦牟尼如来の坐像がなんとも言えず、元気印が一番気に入ったポイントです。

2.閼伽井(あかい):良弁手穿の泉、薬水目を洗えば明らかなり

元気印が出会った立札は、『弘法井:弘法大師手穿の井、千年未だ絶えず』ですから、閼伽井は別にあるのかもしれません。良弁(ろうべん)は宝亀(ほうき)4(773)年、閏11月24日に85歳で没しています。弘法大師(こうぼうだいし)が生まれたのは宝亀5(774)年6月15日ですから別人でしょう。

閼伽(あか)は、価値のあるものが本来の意味で、仏に供える供物をいう。仏に供える水、また、その水を入れる器や、仏に供える物を入れる容器を表す。漢字源(新版2色刷)で調べた成果です。

3.薜蘿洞(へいらどう):薜蘿掛かって錦の如く、洞中竜の蟠(わだかま)るに似たり。

立札の説明は縁起と同じです。薜蘿の意味を漢字源(新版2色刷)で調べる。
薜(へい):①地をはって山野・道ばたに自生する、かずらの類の総称。②薬用植物の名前で香りがよい。薜蘿(へいら):かづらと、つた。つる状にのびてまつわりつく植物の総称。
洞の周辺にまつわりつく薜蘿は、今日も錦織のようです。
   
4.呑海楼(どんかいろう):北岸二重桜、南海一と口に呑む

江戸蔵前の札差(ふださし)・大口野平兵衛が天明8(1788)年10月に寄進した僧坊。宝筐印塔(ほうきょういんとう)も大口野が寄進しています。呑海楼の庭前には宝蔵院流(ほうぞういんりゅう)槍の遣手・新当斎の試技碑、三芳村(千葉県)生まれの詩人・鱸松塘(すずきしょうとう)の詩碑、法(のり)の松などがあるようですが、元気印は茶菓子を食べるのに忙しくて・・・。

法の松は、庭の地表にせりだすほど太い根を張り、踏みつけられていましたが、老衰には勝てず枯れてしまいました、と、女将に聴いたのは覚えています。水量豊かな湧水が竹樋を伝い小さな池に流れ落ちる音、そこで泳ぐ大きな錦鯉には気付きましたが、立札、試技碑、詩碑などは見落としています。楼前庭からの展望は、あたかも、東京湾をひとくちで呑み込む絶景でした。

5.達磨石(だるまいし):広庭松下、四方面壁の相

日本寺仮法堂前の広場にあります。立札の説明は縁起と同じです。頼朝(よりとも)手植えの蘇鉄(そてつ)と伝えのある大蘇鉄が並んでいます。立札には、大蘇鉄。源頼朝公御手植、樹齢約八百余年 と書かれています。広場の片隅には、佐野市の天宝寺から鎌倉の浄妙寺を経て日本寺へ渡ってきた鐘(つりがね)があります。
 
6.護摩壇(ごまだん):弘法の護摩窟、千歳香烟薫る

立札は、護摩窟。弘法の護摩窟、千歳香烟薫る。末尾の壇が窟になっています。
弘法大師の石像が安置されており、大師が護摩を焚いて修行した窟(いわや)なのでしょう。
 
7.通天関:巌狭く関(かん)を通るが如く、仰面すれば天に登るに似たり

立札の説明は縁起と同じです。通行手形を持たない者は何人(なんぴと)も関所は通過できません。
弁慶が安宅関(あたかのせき)で一世一代の賭けを打って、頼朝の追っ手から奥州へ逃れる「勧進帳」では、関守(せきもり)の富樫(とがし)は主君の義経を金剛杖でさんざん打ち据える弁慶の姿に事情を察して関所を通します。
通行手形を持たないのは関所破りで、ご法度でした。立札の寸評を読むと、入口が狭い関所を無事に通過した直後の旅人の安堵感を感じます。
 
8.石 橋:天台山上にあり、五百と尊者の梯(かけはし)

鋸山日本寺案内図(以下案内図)には、天台石橋とあります。維摩窟(ゆいまくつ)を経て聖徳太子を巡り、石橋を渡ると不動の滝です。この橋は、羅漢から尊者に変身する大事なところだと、元気印は考えています。羅漢は地獄へ堕ちず。成仏も出来ないとする説(日本一・その3)に囚われていた羅漢もどき元気印は、「五百と尊者の梯」があったので一安心です。
   
日本寺には五百羅漢像が千五百十三体安置されており日本一です(日本一・その3)。五十三体は既に安置されていた羅漢、千百五十三体が安永9(1780)年から寛政10(1798)年にかけて作られています。その数は、1353,1253、1053体とも伝えられ、その羅漢を寄付した人の名前を一体ごとに記名して奉納したと、鋸南町史には記載されています。その後も羅漢を奉納する信者等によって千五百十三体まで作られています。

9.白布泉:三峯従(よ)りの滝水、水声無きこと布の如し

案内図の不動の滝を指しているのでしょか。立札や書き込みは記憶していません。水枯れのせいか「水声無きこと布の如し」でした。石橋の立札の記憶も曖昧です。
   
10.座禅石:仰観祖徳を大とし、登座天下を小とす

大仏広場と千五百羅漢道(以下羅漢道)との分岐点に安置されており、立札があったのは覚えていますが、姿なき仲間達は左右の道をどちらに向かったのか、順路の選択に追われていた元気印は、肝心の書き込みが思い出せません。右の羅漢道を急ぐと維摩窟の前で仲間達は待っていました。

これ以降は、縁起名勝や立札の写真を撮りそこなったところで、縁起と案内図を見比べながら推測する話です。

11.三峯門:日月瑠璃の峯、石門一観の帷(とばり)

案内図の二天門とすれば、座禅石を登った所、或いは西国観音を巡って下りた所にあります。

12.瑠璃峰:中峰瑠璃の壷、甘露の法雨を澍(そそ)ぐ
13.日輪山:朝朝初照赫(かがや)き、日光菩薩陽(あらわ)る
14.月輪山:夜夜半円懸かり、月光菩薩陰(かく)る

12~14は個別ではなく、薬師三尊を構成している菩薩と考えられます。薬師如来には脇侍(きょうじ)がいます。日光菩薩・月光菩薩、無漏窟に安置されていた文殊・普賢菩薩、十二神将がそうです。
鋸山の山姿は、中央に瑠璃山(本尊ヶ岳)、東は、日輪山(獅子の前)、西を月輪山(護摩堂ヶ岳)の三峰に分かれていて、三尊来迎の形をしている。瑠璃山は本尊薬師如来、日輪山は日光菩薩(にっこうぼさつ)、月輪山は月光菩薩(がっこうぼさつ)を象徴し、薬師三尊を構成しています。

具体的な場所は未確認ですが、元気印は次のように考えています。
鋸山を表参道(保田)方面から眺めて、瑠璃山は、本尊ヶ岳とあるので日本寺仮本堂、月輪山は、護摩堂ヶ岳ですから弘法大師護摩窟のある場所を指している。では、獅子の前とされる日輪山はどこなのだろう? 

縁起名勝散策は、御影石を敷いた日本一の階段(日本一・その1)全部に足跡を残すまで終わらない?!
   
次の4縁起名勝は、予備知識を持たないで実行した散策の実踏では手がかりを得られなかったところ、案内図を睨みつけても見当がつかないところです。

15.黄金石:聖帝の寄付金、舟に積みて海岸に到る
16.仙掌巌:不死不老の相、仙人天を撑(ささ)うるの勢い
17.獅子巌:狂猿野干(かん)等しく、此に到りて恐伏し去る
18.鷲翼山:緒鳥来たれども険峻、避けて去る、鷲を怖るるに似たり
 
『日本寺の散策は未だ終わっていませんね。
 おん ころころ せんだり まとうぎ そわか 』

ボケ封じ観音さまは元気印に時限爆弾を仕掛け終えると、薬師如来の守護を願う真言を唱えながら薬師瑠璃光如来の主宰する国へ飛び去った。
ボケ封じ観音さまがボケない秘訣は、薬師如来の脇侍に納まることに違いない。


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日本寺(にほんじ)にある日本一  番外編2 アサギマダラとの出会い

2007-07-15 14:53:01 | 散策
鋸山山頂の展望を満喫してカメラのシャッターを切っていると現役の仲間が戻ってきた。
「写真を撮って、早く」
百尺観音参道入り口へ急いで行くようにと、元気印シニアを催促する。

「うわあ~、きれい。なんという蝶だろう」。

シニア姉さんの歓声が聞こえ、彼女の右手人指し指の先に野草にとまったアキザマダラが見える。
羽根を開いて休んでいた。元気印がそこへ着くと羽根を閉じてしまった(写真:蝶の名は帰宅後に調べる)。

羽根を広げた姿を撮りたくて、羽根を広げるように触れても逃げようとしない。家庭菜園の野菜に集まるモンシロチョウは近寄ると直ぐに飛び去ってしまう。警戒心がなく元気印の気配を殺して休んでいる。
鋸山で修行をして悟りを開いているから、元気印を羅漢と見做し相手にしないのだろうか。

それにしても、肝の据わったアキザマダラなんだろう、と感心しながら羽根を広げるチャンスを待つ羅漢もどき元気印。そんな気持ちを察知した仲間3人は、シャッターチャンスを狙うカメラマンは羅漢と同じ性格をしているのだろうと、思いを巡らしながら百尺観音への参道を下りて行く。撮影好き羅漢であれば、誰もがお気に入りの写真を撮ることに没頭してしまうのに。

しかし、今日は日本寺散策実踏の真っ最中です。羽根を8割程度開いたアキザマダラを撮り終えると、仲間の後を追ったのです。他の羅漢はもう少し、2~5枚ゲットするまで粘るだろう、と、後ろ髪を引かれながら。 

『紫色の桔梗が咲いていましたね。紫に混じって白い桔梗が一輪咲いている、薬師本堂跡を巡る参道あたりに。昭和14(1939)年11月14日、そこにあった薬師本堂を含め、僅かに残っていた建物と貴重な下賜品、仏像などの寺宝を火災で焼失しました。その日は※千葉県の座禅会が行われました。その時の火の不始末が原因の火事でしたから、県は復旧計画を決めましたが、日中戦争の影響を受けて挫折してしまいます。そんな逆境にも負けず、境内の桔梗は、清楚な気品を備えて昔と変わらない花を咲かせているでしょう』(※失火原因は登山者の不始末とする話もあります)。

『それ以前にも、不運に見舞われています』 

『そうでしたね。日本寺の堂塔、伽藍も度重なる合戦の兵火で衰微しました。それを、源頼朝、足利尊氏は修復していますが、時の流れには逆らえませんでした。修復された後も荒廃は進行していました。明治維新が行った廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)で致命的な打撃を受けたのです』

『そんな日本寺の惨状を嘆いた人物がひとり現れた。たしか、ごとう・・?』

『後藤新平男爵でした。全国の有志に呼びかけ60万円の設計書を完成しています。大正時代ですから、現在の6億円に相当する復興計画です。この計画は男爵の逝去[昭和4(1929)年4月13日]により実現しませんでした』。(鋸南町史通史偏・改訂版)

歴史に“もし”はありませんが、後藤新平のような気宇壮大な人物を失わなければ、また、日中戦争が勃発していなければ、鋸山の風景は一変していたでしょう。

時代の荒波にもみくちゃに揉まれながらも、日本寺の仏像達は生き残ってきました。
桔梗とアキザマダラは、風雨の激しい台風に襲われても黙々と耐え続けます。
そして、明日も明後日も、桔梗は日本寺境内に咲き、アキザマダラは鋸山を自由自在に舞います。
日本寺の完全復興を薬師瑠璃光如来、百尺観音、千五百羅漢に発願して。

『お疲れさま。散策実踏後にメール送信した写真、仲間みんなが喜んでいましたね』

ボケ封じ観音さまの励ましだ。元気印のやる気が出てくる。





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日本寺(にほんじ)にある日本一  番外編1 百尺観音

2007-07-14 11:41:49 | 散策
日本寺参拝のスタートになるのが、日本寺・奥の院にある百尺観音(写真)で、多くの参拝者が巡っています。

ロープウエイの鋸山山頂駅を降り、山頂で360度の展望を堪能してから西口管理事務所で拝観料を払い境内に入ります。
ここから参道は①十州一展望台②百尺観音③千五百羅漢道へ至る3方向に分かれ、真ん中に伸びている②の御影石階段を上り詰めると百尺観音前の広場です。
一方、鋸山裏登山道を使うと北口管理事務所を経て広場へ辿り着きます。

広場から見上げる地獄のぞきの突起、断壁から突き出た房州石の片持梁に乗ると根元からポッキリ折れそうに見えます。

百尺観音の立像は百尺(30.1m)。では、石窟の大きさは? 元気印の情報収集アンテナから探索電波を発信しました。

昔、鋸山は房州石の産地で石切場でした。百尺観音が安置されている石窟は、石を切り出してできた石窟跡です。

そして、百尺観音の建立は日本寺二十世:良碩祖関和尚(先々代住職)の発願(ほつがん)で始まり、同二十一世:宏嶺徳禅和尚(先代住職)の時に完成しました。八柳恭次(二期会審査員)が昭和35(1960)年春に起工し7年後の春に完成させました。

さらに、祖関和尚は、大東亜戦争の犠牲者供養を祈願する思いが強く、世界平和の到来を百尺観音に発願した。そんな折、海難事故、航空機墜落事故が相次いで起こり、航空・航海・陸上交通の安全を併願して百尺観音を建立しています。

しかし、残念ではありますが、房州石を切り出した石切場の跡なので、石窟の幅、奥行き、高さを実測しておらず、その記録もありません。

石窟の大きさに関する探索発信への返信には、百尺観音にまつわることが述べられていました。

房州石を切り出した石窟の背壁に立像を浮き彫りしたのが百尺観音。観音立像を彫るために石窟を掘ったのではなかった。放置しておけばただの石窟を有効に活用した。投資額に対する費用効果を考えると、祖関和尚のアイデアは抜群です。

薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)の背丈は31.05m(9丈2尺)ですから、30.3m(100尺)の百尺観音は及びません。薬師瑠璃光如来が日本一の大仏たる所以です。

参拝スタートを仁王門にすると百尺観音がゴールです。JRによる日本寺への交通アクセスでは、ロープウエイを利用する参拝が最適です。日本寺・奥の院にある百尺観音にご対面をしてから地獄のぞきをする。
そして、日本寺にある日本一その3、2,1の順に巡る。その1からの参拝は体力に自信のある方は一度試される事をお勧めします。この参道は静寂に包まれ、古刹(こさつ)の佇まいがあります。



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日本寺(にほんじ)にある日本一 その3 千五百羅漢

2007-07-12 17:10:45 | 散策
日本一の大仏さまを拝み、いよいよ、奥の院へ向かいます。
御影石に残した足跡はまだ4分の1位、大仏前参道を大仏口管理事務所方向へ向かうと弘法大師護魔窟(こうぼうだいし・ごまくつ)へ登る階段です。ここから千五百羅漢道が始まります。

一方、大仏広場売店横から大仏前参道をスキップして座禅岩へ直行する階段を登り二天門を経て、西国観音を巡り山頂展望台へ。そこで地獄のぞきをして、百尺観音まで一気に降りるでしょう。ここまでくると散策の疲れがドォ~ッと噴出し、北口管理事務所からロープウエイで浜金谷へ。我が家が懐かしくなります。

地獄のぞきをして、百尺観音まで一気に降りるでしょう。
でしょう、と書いたのは、7月8日に元気印の仲間4人が散策したのは逆コースだったからです。

そうなんです。JR浜金谷駅から鋸山ロープウエイを利用して北口管理事務所で拝観料を払い、その2、その1を巡っているからです。

『講釈師見てきたような・・・ですか。でも、参拝の作法通りに巡っていますね』
 ボケ封じ観音さまの助け舟に乗っちゃおう。
『人さまの情けの有難味を味わえないようでは、元気印の立つ瀬がないですね。ついでだから、阿羅漢(あらかん)の話もします』
『誰からも尊敬されるべき修行者が羅漢さまで、尊敬や施しを受けるに相応しい功徳を積んでいる。仏陀の尊称にもなっているんでしょう』

にわか仕込みの豆知識で、元気印はボケ封じ観音さまの話の腰を折る。

『羅漢は阿羅漢の略称ですね。仏法を護持するために貢献したお釈迦さまの弟子16人を十六羅漢として尊崇しています。五百羅漢は、各寺に散在している膨大な仏典を整理・整頓して宗派共通の経典を編集するために集まった弟子500人に敬意を表したものです。宗派の標準経典を造ったのです』
『そうだったのか。だから、五百羅漢図には、お釈迦さまの弟子が修行する姿が描かれているんだ』

日本寺の奥の院には、弘法大師護摩窟、維摩窟、奥の院無漏窟(むりょうくつ)、日牌堂(にっぱいどう)、百躰観音(写真は1部分)、あせかき不動、西国観音があります。ここを巡る参道がアップ・ダウンの激しい御影石階段のある千五百羅漢道です。

2,639段の御影石の3分の2はこの参道にありそうです。実測していないので断言できません。
大仏広場から座禅石に登る近道を前に紹介しましたが、近道参道にある階段も含んでいますので、御影石2,639段全部に足跡を印すのは一仕事になります。元気印は途中で引き返しました。

兎に角、参道の階段を駆け上がります。千五百羅漢道の中間あたりが日牌堂です。石仏を刻んだ27人の門弟を21年間指揮して、千五百五十三体の羅漢を刻んだ石工の棟梁・大野甚五郎英令を祀った洞窟が隣にあります。案内図では甚五郎の墓と表記されています。江戸蔵前の大口屋平兵衛が寄進した宝筐印塔(ほうきょういんとう)が苔むして建っているので、直ぐ判ります。

旗本が寄進した源氏不動の板碑(いたび)、蔵前の札差(ふださし)が寄進した宝筐印塔を見ていると、江戸時代に生きる人が持っていた信仰の篤さを感じます。古刹(こさつ)としての日本寺が本領を発揮しています。

話は、羅漢の石像数に移ります。
羅漢が五百体祀られている寺院は、五百羅漢寺(東京都)など、国内に結構あります。千二百羅漢の寺と別名のある愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ:京都府)の羅漢は、参拝者が自分で彫って奉納する『昭和の羅漢彫り』運動により、平成5(1993)年に千二百体に達したものです。
日本寺の洞窟に安置されている羅漢の容貌は修行僧(写真)、観音像を連想させます。地蔵に似た羅漢を探すのに苦労する位です。同じ時期に、同一石工が一人の門頭の下で彫った羅漢像とは性格が違います。千五百羅漢には、大野甚五郎英令の思想・意図が隠されています。しかし、信仰心の篤さは共通していますので、千五百一体になる日を待ちましょう。

日本寺の案内書には中華民国にある八百羅漢との比較が書かれています。
懐安大中寺(かいあんだいちゅうじ)の八百羅漢を凌ぎ、世界一の羅漢霊場として知られている、と。
日本寺の千五百羅漢を巡る散策は、世界一の羅漢霊場の巡礼でもあったのです。

『親が見たけりゃ北条の西の五百羅漢の堂に御座れ。知っていますね。北栄山・羅漢寺(兵庫県)に祀られている四百五十体の羅漢には、親や知人、自分自身に似た顔を持つ羅漢さまが必ずいる、と昔から謳われています。元気印はお逢いしましたか』

『ふっくらとした丸顔で、つぶらな瞳を細くして微笑んでいた。サッチョン(札幌のチョンガー:独身者)を卒業した頃の雰囲気に包まれた羅漢さま。石像の丈40~50cm位、法衣を纏って座っていました』


『それは結構なことです。阿羅漢は仏になれないから天国へ行けないし、地獄へも堕ちられない。地獄へ堕ちない者は再び仏の教えにで逢うことがないから成仏することはないのです。
 阿羅漢は、現世に対して執着を絶っているので、自己中心的である、仏の教えから外れていると見做されています。
 仏法の理法を悟るには、師について修行をします。それをせずに仲間を作って修行する、または、それも拒否して独りで仏道を悟る修行があって、独覚(どくがく)と言っています。
独覚も羅漢と同じ宿命を与えられています。だから、日本寺で幸せに包まれた羅漢さまにお逢いできた元気印は満足したでしょう。大変結構なことです』

大黒さまの色に話は飛びます。
大黒堂に祀られている大黒さまは、藍色をしていた(小さなガラス窓を通した拝謁だったので、印象判断です)。日本寺のご本尊は薬師瑠璃光如来でした。病気の平癒(へいゆ)を司るお釈迦さまで、藍色=瑠璃色をしています。
弘法大師は、瑠璃光如来にあやかって、一夜で彫刻した大黒さまを瑠璃色にしたのだろ。
没後、生前の事績を高く評価した醍醐天皇(だいごてんのう)から空海の諡号(しごう)を贈られた弘法大師といえども、薬師如来に仕える修行者であった。元気印にとっては大発見です。

『いいところに気がつきました。透明な瑠璃を清浄(しょうじょう)、そして、薬師如来の仏国土を仏教では浄瑠璃(じょうるり)と云います。ツタンカーメン王のマスクの装飾に使われている、濃い青色をした宝石がラピスラズリ。和名で瑠璃ですね。薬師如来が司っている仏の世界は深い青色に覆われているのです』

ボケ封じ観音さまは、瑠璃色の光を浴びてボケ防止をしているのだろう。
元気印もあやかりたい。

ボケ封じ観音さまの呟きか聴こえてきた。

『御影石の階段踏破は、何時やるのですか。5分の1は残っていますよ』






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日本寺(にほんじ)にある日本一  その2:大仏さんの背丈

2007-07-11 21:53:26 | 散策
房総の観光名所として鋸山(のこぎりやま)はよく知られています。
日本寺境内の参道に敷かれた御影石の階段の総数は2,639段、日本一でした(詳細は前のページ)。

お馴染みの大仏さまです。
石造大仏では日本一の大きさ、背丈は31.05mあります。東大寺(奈良)大仏(18.18m)、鎌倉高徳院(13.35m)がこれに続いています。
しかし、奈良の大仏、鎌倉の大仏、兵庫の大仏が、大東亜戦争前まで日本の三大大仏でした。ところが、兵器製造用鉄材不足のため兵庫の大仏が、金属回収令で戦時供出となり、溶解されて兵器に転用されてからは3つ目をどこにするかで自薦他薦が続いているようです。

それで、「タモリ倶楽部」(テレビ朝日)は、3つ目の大仏をどこにするかの特集をやり、日本寺の大仏も取り上げていた。平成19年5月4日に放映されたようですが、元気印は見ていません。

通称、巨大な仏像を表す大仏は、朝廷がその威力を顕示するために仏教を利用して、東大寺に大仏を造立したのが始まり。今も、願い主が大きな功徳を求めて大きな仏像を各地に建立しています。三浦半島に建立された三浦大仏が鋸山山頂から遠望できます。

乾坤山・日本寺(けんこんざん・にほんじ)の本尊は、薬師瑠璃光如来(やくし・るりこうにょらい)、薬師如来を別の呼び方をすると薬師瑠璃光如来です。毎月8日が縁日になっています。

さて、日本寺は神亀(じんき・しんき)2(725)年、行基(ぎょうき)が開き、大仏は天明3(1783)年に作造されています。建立当時の背丈は約37.7m(9丈2尺)ありましたが、200年以上も風雪に晒され侵食が進んで崩壊した部分もあり、6mも背丈が縮んでしまいました。岩を彫刻して作った石仏の宿命でしょうか。

でも、大仏さまは今日も呪文を唱えているのです。疫病を運んでくる女神・チャンダーリ・マータンギに向かって。
 
「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」

ボケ封じ観音さまの声が聴こえてくる。

「おお、疫病を取り除きたまへ 疫病の女神よ。疫病を取り除きたまへ」

だから、病を治癒するために、参拝者は薬師瑠璃光如来に手を合わせて拝むんだ。
大仏さまの微笑には、疫病女神との厄払合戦で負傷して背丈が低くなった苦労も隠されている。

「そこに気がつくと、大願成就ですね」
そう言い残すと、ボケ封じ観音さまは、瑠璃光を放なって姿を消した。

仁王門を経て大仏広場へ来る時は、仁王門の横にある表参道管理事務所で拝観料を払って境内へ入ります。仁王門、観音堂のある境内は無料です。




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日本寺(にほんじ)の日本一  その1:御影石段の総数

2007-07-10 16:14:33 | 散策
房総の観光名所として鋸山(のこぎりやま)はよく知られています。
鋸山にある乾坤山日本寺(けんこんざん・にほんじ)の敷地面積は33万平方米(10万余坪)あり、山全体が寺の境内になっています。

JR内房線保田(ほた)駅から鋸山遊歩道の標識に従って20分ほど歩くと無学門の石碑が立つ表参道へ入ります。蝸牛(かたつむり)岩から御影石の石段を登り切り、左にまがると正面に仁王門が眼に飛び込んできます(写真)。

日本寺境内の参道に敷かれた御影石の石段の総数は2,639段、日本一です。
参道の階段数が多いことでも知られている金比羅さんの石段は、奥社まで登っても1,368段ですから、地元民として踏破してみたくなります。しかし、足跡を全部の石段に残す、つまり境内をくまなく参拝することは難しいようです。

これは、日本寺を参拝する道順が奥の院から始まっていることに関係があります。
鋸山の山頂にロープウエイの駅が設けられているので、奥の院にある百尺観音が参拝の出発点になり、本尊の大仏が終点になっているからです。さらに、大仏広場まで行ける近道もありますので、昇り降りする御影石の石段数は俄然少なくなります。多分、半分位ではないでしょうか。参拝した機会に数えて教えてください。

さて、仁王門を潜りぬけると観音堂が正面に控えています。右側には行基椎(ぎょうきしい)の遺跡があります。ここから大仏広場までの参道には、日本寺仮法堂を背景にした達磨石(だるまいし)、頼朝蘇鉄(よりともそてつ)があり、乾坤稲荷、薬師堂跡、大黒堂などが点在しています。大黒堂に祀られている大黒像と、近くに建立されている板碑(いたび)、行もまた禅、坐もまた禅、を表す板碑に浮き彫りされている源氏不動は見ごたえがあります。

仁王門と大仏広場の中間辺りに、「呑海楼(どんかいろう)」があります。
江戸時代には隠居した住職の、昨年まで現役住職の僧房(そうぼう)をリニューアルした茶屋です。和服の似合う物静かな女将の話では、築200年の僧房とのことでした。仁王門から大仏広場へ行く途中にありますので、一服するには好都合の場所にあります。見通しのきく茶屋の椅子に座って抹茶を飲み、茶菓子を口にしていると呑海した気持ちに襲われます。

海を呑み込んだ余韻に浸って参道を巡ると、日本寺のご本尊「薬師瑠璃光如来(やくし・るりこう・にょらい)」が鎮座している広場まではルン・ルン気分で石段を登れます。


1.呑海楼の公開は土、日のみ。茶菓子代は700円です。
2.仁王門にある仁王は慈覚大師(じかくたいし)作です[八脚門(はっきゃくもん)の両脇に阿吽(あうん)の仁王像が設けられた場合、仁王門と呼ばれることが多い⇒元気印追加]。
3.観音堂には、安房国札第八番・十一面千手観音菩薩が祀られています。
4.頼朝が鎌倉から安房へ逃がれている時、手植をしたのが頼朝蘇鉄、樹齢800余年です。
5.大黒堂には、弘法大師が一夜彫りした大黒様が祀られています。
6.源氏不動は、旗本・曽根懶斎が寄進しています。
 (2~6は境内の案内板から引用したものです)



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千葉公園の大賀ハス

2007-07-07 15:41:20 | 散策
七夕の朝7時半ころ千葉公園に立ち寄りました。
梅雨の晴れ間の曇天でしたが、5~60人の見学者が大賀ハスを堪能していました。
カメラを抱えたおじさん、おばさんたちが好みのアングルを探しシャッターをきっていました。

昭和26(1951)年3月30日夕方にひと粒のハスの実、4月6日にふた粒の実が出土し発芽したのですが、育成に成功したのは最初に出土したひと粒だけでした。それから根分けして成長させたハスは、翌年7月7日に最初のつぼみ、14日に第2のつぼみがつき、18日早朝に2,000年の眠りから目覚め全世界に衝撃を与えました。これが「大賀蓮」のルーツになり今日に及んでいることは、皆さん、ご存知と思います。

 『縄文 徳川 大正と
  私の人生 暗かった
  過去はどんなに 暗くとも
  ハスは今日も咲く♪♪』

『圭子の夢は夜ひらく』をもじって、ボケ封じ観音さまが口ずさんでいる。

今日も咲いている「はすの実」は検見川東大厚生農場の谷間にあった泥炭層から出土したものです。
昭和17(1947)年、3隻の丸木舟と舟をこぐカイ6本、多量のハスの実が泥炭採掘作業中に出土したのですが、ハスの実は全部棄てられました。

この話を知っていた大賀一郎博士(生物学者)が、昭和26年に発掘調査を行った成果を、千葉市民に限らず、世界の人々が毎年味わっている訳です。

 『昨日長崎 今日房総
  明日は秋田か 函館か
  恋ははかなく 過ぎて行き
  ハスは明日も咲く♪♪♪』

大賀博士は、植物細胞学を専攻して東京帝国大学で理学博士の学位を取得しています。南満州に生存している古蓮実の研究から「南満州フランテン産の古ハスの実は、過去において100~500年の寿命を持っている世界最長寿の実であり、将来なお2,500年は生存する」と予言しています。
このような信念があったから、検見川の泥炭層から出土して放棄されたはすの実を発掘調査する決断を下せたのだと思います。

『うす桃いろの ハスの花
  赤く咲くのも ハスの花
  どう咲きやいいのさ この私
  ハスは永久に咲く♪♪♪♪♪♪』

ちなみに、検見川の古ハスの実は、ラジオ・カーボンテストによる年代測定では、3,075±180年以前のものと結果がでています(岡山県総合文化ホームセンターニュース:No.438号)。

七夕に咲いているハスは、大賀一郎博士との良縁を無言に語っているようですね。
ハスの花は朝咲いて夜閉じることは出来ません。咲いて散ってしまう。
いち度咲くと散りゆく花だけに、愛おしい。
大賀ハスの憑神(つきがみ)は恋する神・彦星に違いない。






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日本一長い寺の名前 その2

2007-07-05 21:45:51 | 散策
三途台長福寿寺(さんずだい・ちょうふくじゅじ)は長南町(千葉県長生郡)にあります。本邦最長の名前を賜ったことなどは前のページにありますので、立ち寄って見てください。

赤い欄干の橋(写真)を渡り山門を潜り抜けると正面に本堂、右手には人形供養堂などを配置する三途台長福寿寺があります。

この寺を示す看板が国道沿いにあり、車止めを撤去した山門が真横にあります。下車をしないでそのまま境内に入られるようになっています。
通常は、参拝する寺の道標が道路沿いにあり、そこから参道を通って境内へ向かいますが、ここは、国道を挟んで山門の正面(写真左へ進行して左側)に赤い欄干の橋があっても素通りしてしまう。

素通りしないで橋を渡り10m程の場所に寺の入口を示す石碑が建立されています。長福寿寺への参道がありました。そこへ入って直ぐ眼に入るのが写真の景観です。

参道の途中には小川が流れ、その橋を渡ると山門があります。山門を潜り抜けると正面に本堂が配置されています。小川は長南川、橋の名前は三途橋(さんずばし)となっています。

「三途河頭・極楽東門・蓮華台上・阿弥陀坊・太平楚山・本実成院・長福寿寺」
が日本一長い長福寿寺の正式名称です。

そうです、もう気がつかれたと思います。
寺の名前の一部になっている「三途河頭・極楽東門」の「三途河頭」を長南川、山門を「極楽東門」に見立てると、写真の景観が参道から見える?

そして、「三途の河を渡って悩みのない彼岸へ、黄泉の国へ行く」が寺の名前の大意と前のページに書きました。「極楽東門」を潜り抜けて「蓮華台上・阿弥陀坊」に浮世の苦悩を忘れるように祈願してから「太平楚山・本実成院・長福寿寺」に参拝すると「黄泉の国」へ迎えられる。これが、元気印が理解した、日本で最長の寺名の意味でした。

それにしても、桓武天皇[かんむ・てんのう:第50代天皇、天平9(737)年~延歴25(806)年]はややこしい勅号を与えたものですね。今でこそワビ・サビの風情になっていますが、天平(てんぴよう)の頃、長福寿寺は房総の森のなかできらびやかな耀きを放っていたでしょう。

年輪が650年以上もある長福寿寺で生きている、僅か40歳の「けむりの木」の話です。
「極楽東門」を抜けて正面にある本堂の左側、参道を挟んで人形供養堂の向かい側にある紅花(べにばな)園に隣接して「けむりの木」がありますが、知名度の軍配は紅花に挙がっています。
だから、元気印は花見シーズン(6月)が終わっても、若輩木(じゃくはいぼく)の「けむりの木」を、これからの主役にするために応援します。関東屈指の古刹(こさつ)復活のためにも。

ドライブ情報
子授け楠のある笠森寺(かさもりじ:笠森観音)、初代伊八作の「龍三体の図」で知られる称念寺(しょうねんじ)が近くにあります。


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日本一長い名前の寺院とけむりの木

2007-07-04 00:54:11 | 散策
7月1日、長南町(千葉県)にある名前が日本一長い寺を訪ねました。
寺院の名前は、
「三途河頭・極楽東門・蓮華台上・阿弥陀坊・太平楚山・本実成院・長福寿寺」

天皇から賜った勅号(ちょくごう)で、漢字は28文字あります。

「さんずがとう・ごくらくとうもん・れんげだいじょう・あみだぼう・たいやさん・ほんじつじゅいん・ちょうふくじゅじ」

「三途の河を渡って悩みのない彼岸へ、黄泉の国へ行く」が大意で、「三途台長福寿寺」「太平楚山福寿寺」と省略して表記しているようです。

え!?『けむりの木』!?
A3位の看板に書かれているキヤッチフレーズが眼に入ったのですが、一瞥しただけで本堂に参拝し、人形供養堂前で本堂を撮影していると、『けむりの木があった』と話し合う参拝者の声が聴こえたので、『この木ですか』『今日の東京新聞で紹介されていたので、見学に来たんです』、と予想外の答え。予備知識のない元気印には大ショックでした。

日本一長い寺名の読みを電話で伺った時の説明では、けむりの木は植樹してから30~40年経っており、6月が観頃とのこと。紅花と時期が重なっているようです。

え!?『けむりの木』!?
モクモクと煙のように繁るこの不思議な木は、正式名称「スモークツリー」・・・けむりの木です。ウルシ科の落葉低木で、中国が原産地です。中国からヒマラヤにかけての岩山にはえていますが、まだまだ謎の多い木のようです。6月末から7月初めには“真っ白”になります。
 最近でこそ有名になりましたが、これだけ大きいものはとっても珍しいんですよ。記念に写真でもどうぞ!!

この説明を改めて読み終えてシャッターを押したのが写真です。真っ白には未だ間がありそうですが、初対面の挨拶だけは済ませてきました。

余談を2題。
ひとつは、地獄の石戸を打ち破って精霊が出てくる日が7月1日(日)、お盆の準備を始める日でもある、とあとで知りました。
そして、「ハグマノキ」は、開花後の花序(かじょ)が羽毛状になると白熊の尻尾に似ていることからくる和名で、南ヨーロッパから中国南部が原産地になっているようです。白熊をハクグマと読み、ちじめてハグマになったのでしょうか。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
花序(かじょ)とは枝上における花の配列状態のことである。チューリップのように茎の先端に単独で花をつけるもの(こうしたものを単頂花序という)もあるが、ヒマワリやアジサイのように花が集団で咲くものもある。このような花の集団を花序という。

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