いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

信州善光寺 その3:善光寺如来を護持する院坊

2009-07-25 13:05:00 | 散策
女性救済が善光寺信仰の大きな特徴となっていますが、その根幹をなす浄土宗(じょうどしゅう)の本院である大本願(だいほんがん)は、参道の右側一帯を占めています。
尼上人(あましょうにん)が住職して、大勧進(だいかんじん)と共に善光寺の社務を分掌し、皇室ゆかりの女性が上人になっています(善光寺の不思議と伝説)。

大本願前の参道に沿って7院坊が並んでいますが、目隠しに植えられた樹木に隠れています(写真)。
「むじな地蔵」を観ている人が二人写ってい、その奥に白蓮坊(びやくれんぼう)があります。本堂の左脇にある経蔵(きょうぞう)前に、古風な「狢燈篭(むじなとうろう)」が1基ポツンと設置されています。

「むかし、下総(しもうさ)の国(千葉県)に棲んでいたむじなが人の姿となり、善光寺参りの講中にまじって善光寺におまいりしました。むじなは、殺生することなしに生きていけない自らの罪業(ざいごう)を恥じ、後生(ごしょう)を頼むため、善光寺に燈篭を寄進したいという願いをもっていました。
 白蓮坊を宿に定め、ようやく善光寺への参詣(さんけい)を果たしたむじなは、その晩、安堵して風呂につかりました。ところが、うっかりむじなの姿のままで湯をあびているところを見つかり、あわててどこかへ逃げ去りました。
姿を消したむじなを不憫に思った住職は、むじなが燈篭を寄進したいという願いを持っていたことを伝え聞いて、一基の常夜灯を建ててあげました。それが、今も経蔵北に残る「むじな燈篭」だといわれています」

善光寺如来の慈悲の世界を天真爛漫な童子形(どうしぎょう)の地蔵と、一途なむじなの姿で表したのが「むじな地蔵」とのこと(むじな地蔵の由来解説)。

さて、大本願前の参道とその奥を並行している法然小路沿いには、白蓮坊を含めて14坊5院が並んでいます。
信州善光寺には現在、大勧進(天台宗)が管轄する25院、大本願が管轄している14坊、合計39の院坊があります。
これらの院坊は、善光寺如来への奉仕・護持に勤めており、夫々の本尊を祀る御堂を有し、住職がいます。どこの院坊も全国から訪れる参詣者の世話をする宿坊を営んでいます。また、宿坊にいる専属の公証案内人は、善光寺参詣の真髄である「お朝事(あさじ)」への参拝、お数珠頂戴(じゅずちょうだい)、御戒壇(ごかいだん)めぐりなどや境内の建物・史跡・歴史などの詳しい説明をしています(信州善光寺案内)。

そんな中に、元気印の気に留まった院坊があります。
神仏習合を図った聖徳太子に縁を持つ浄願坊(じょうがんぼう)、親鸞上人が逗留したとされる堂照坊(どうしょうぼう)は、古刹といわれる寺院に伝承されている類の縁起でしょう。
浄瑠璃や歌舞伎に登場する人物、歴史の中に埋没しても逸話で語り伝えられている人物に出遇える院坊は、最高の舞台です。
ひとつは、父を参詣した熊谷直実の娘・鶴姫が乗る船の綱を引く網引阿弥陀仏を本尊とする徳行坊(とくぎょうぼう)、綱吉に赤穂浪士の切腹を命ずる決断を促したとの逸話をもつ公辨法親王(こうべん・ほっしんのう)と出遇える随行坊(ずいこうぼう)が二つ目です。

徳川5代将軍・綱吉と縁が深い関係にあった公辨法親王は、年上の綱吉から相談を受ける立場にあった上野寛永寺貫主、天台座主などを兼務した天台宗の僧侶です。
赤穂浪士の討ち入りを義挙と捉えていた親王から助命要請があれば浪士を赦免しようと考えていた綱吉の思惑に、浪士を褒める和歌を詠んでいた親王は明確な意思表示をしないので、綱吉は浪士切腹の断を下したのです。

実は、綱吉と公辨法親王、柳沢吉保は、信州善光寺の復興に尽力しています。
信州善光寺中興の祖とされる慶運は、元禄13(1700)年に信州善光寺別当に任命され、翌年から江戸の出開帳(でかいちょう)を皮切りに、上総(かずさ)、下総、安房(あわ)での回国開帳(かいこくかいちょう)を実行した行動力のある僧侶です。
ちなみに、慶運は、寛文4(1666)年に千葉県夷隅郡(いすみぐん)に生まれ、9歳で出家しています。38歳で信州善光寺別当職となり、戒善院室を賜っています。

回国開帳はその後、日本全国の寺225ヶ寺で5年に亘り行われ、宝永3(1706)年4月から本堂の再建に着手しています。翌年7月1日上棟、8月15日には洛慶供養を終えたのです。
本堂復興に費やした人工(にんく)は、延べ16万3600人余、総工費は2万584両余。
現在の本堂は、慶運が出開帳と回国開帳で信州善光寺復興のために調達した浄財によって再建されたものですが、慶運の足跡は、信州善光寺の建物などを造るための寄付行為を推し進めた大勧進の宝物館に飾られている「第七十三世慶運大僧正略年表」で知ることが出来るだけです。

それはさておき、綱吉の助命要請に応えなかった親王が、後にその理由を問われた時の返答は、

「本懐を遂げた浪士を生き永らえさせて世俗の塵に汚すよりも、切腹させることによって尽忠の志を後世に残すべきである」

世相に妥協することを許さない厳しい信条が、武士の情けのようです。
公辨法親王が自らの衷情を癒す含蓄のある言葉ですね。

終りに、浄願坊、随行坊などの院坊は、二人以上の参詣者がいないと宿泊できませんが、各院坊の伝承・由来は公表されていますので、おおよそのことは宿泊せずとも分かります。
「善光寺の不思議と伝説-信仰の歴史とその魅力-」から、その一端を紹介します。

・堂照坊(どうしょうぼう)
 庚申青面金剛(こうしん・しょうめんこんごう)を本尊とし、親鸞上人が100日逗留した遺跡とされる。
・法然堂
 法然上人が善光寺へ参詣された時、宿泊されたとの伝えがあり、法然が彫ったと伝えられる木像を安置
 している。正信坊(しょうしんぼう)の本尊・法然を祀る仏殿(小御堂)。
・浄願坊(じょうがんぼう)
 本尊の聖徳太子像は、太子が16歳の時に自ら彫った木像とされる。太子堂と呼ばれていた。
・淵之坊(ふちのぼう)
 阿弥陀如来が本尊。代々、善光寺縁起に関する職務を司っており、朝廷へ参内して善光寺縁起を進講
 したこともある元の縁起堂。
・向仏堂(こうぶつどう)
 大日如来が本尊。参道の敷石を寄進した香庄平兵衛の墓は、当坊の墓地にある。善導大師を安置して
 いた元の善導坊(ぜんどうぼう)。
・徳行坊(とくぎょうぼう)
 熊谷直実の娘・鶴姫が、父を訪れて善光寺参詣に来た時、犀川を渡る船の綱を引かれた阿弥陀仏の
 お姿を表した網引阿弥陀仏を本尊としている。
・随行坊(ずいこうぼう)
 阿弥陀如来が本尊。上野寛永寺貫首の公辨法親王が、赤穂浪士の冥福を祈って書いたとされる「六号
 名字」などの寺宝がある。

この6坊1堂は、浄土宗の大本願が管轄しており、大本願前にあります。
次の1院1堂は天台宗の大勧進の管轄です。
仁王門を潜って直進すると仲見世通りですが、その左側を並行している西院通り沿いにあります。

・本覚院(ほんがくいん)
 善光寺如来が本尊。本田善光(よしみつ)が最初に如来堂を建てた地とされ、別称は本善堂。
・本善堂
 本田善光が居宅の西に建立した芋井草堂の跡とする縁起がある本覚院の本尊を祀る仏殿(小御堂)。

信州善光寺縁起を司る淵之坊の存在には、本寺の伝統を継承しようとする意志が強く反映されています。


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信州善光寺 その2:6年後の御開帳まで休息する参道の石畳

2009-07-20 04:54:47 | 散策
過去最多の参拝者が訪れた信州善光寺の御開帳は5月31日に終りました。
軽井沢と須坂での仕事があり、6月17日に長野で一泊したのですが、翌朝4時半に眼が覚めてしまい善光寺参拝をすることに・・・。御開帳期間中は臨時運行していたバスもなく、徒歩で善光寺へ向かいます。
山門(三門)へ向かう仲見世通りは何時もの静けさを取り戻していました(写真)。
中央奥には、山門を通して、御開帳の主役を務めた回向柱(えこうばしら)が幽かに窺えます。

さて、明治15(1882)年から子(ね)と午(うま)年に行われるようになった6年毎の御開帳は、大東亜戦争(だいとうあせんそう)で中断されていたのですが、昭和24(1949)年から丑(うし)と未(ひつじ)の年に再開されます。6年毎に行われる御開帳を、敢えて数え年にして7年毎としているのは、北斗七星の「七」と縁が深いようです。

元気印が住む千葉市の千葉妙見宮(千葉神社)は、千葉常胤(つねたね)を宗家とした千葉氏(ちばうじ)一族の信仰が篤く、北極星を神格化した妙見菩薩(みようけん・ぼさつ)を本尊として祀り、一族の守護神としています。

治承(じしょう)4(1180)年、石橋山の戦に敗れた源頼朝の加勢要請に応え、頼朝が決起するまでを手助けし、鎌倉政権を支援した千葉常胤の城館は、千葉市郷土博物館が建っている亥鼻(いのはな)城跡にありました。
その領域は、現在の千葉大学亥鼻キャンパスやその周辺を含む範囲にまで広がっており、そこには七天王塚(しちてんのうずか)と呼ばれる7つの塚が現存しています。千葉氏城館の鬼門の方向に妙見信仰の信仰対象である北斗七星の形に塚を配置して祭ったもの、とする考えがあります。

余談はさておき、七年ごとの御開帳、七井(井戸)、七清水、七塚、七小路、七社(神社)、七印(寺院)など、信州善光寺は「七」を様々な風習に適用しています。
橋はあの世とこの世との結界(けっかい)であり、井戸や清水は魑魅魍魎(ちみもうりょう)が噴出す異界との出入口。塚は鎮魂の場であり、小路はあの世に繋がる冥道(みようどう)である。さらに、その他神社や寺は聖域として、どれをとってもあの世との接点である(宮元健次著:善光寺の謎)。

そうして、北斗七星形に神社を配することが、なぜ鎮魂の印とするのかは、「北斗七星護摩秘要儀軌(ごまひようぎき)」の中に、悪霊退散を行う法が記されており、天台宗神道論の根本は北斗七星に関係しているようです (同上)。

千葉常胤は北斗七星護摩秘要儀軌の法に習い、彼の城館の鬼門に棲む鬼を平らげ、さらにその霊を鎮魂することで鬼門を封じたのでしょう。

そんななかでも、「七」へ拘る信州善光寺の象徴が、7,777枚の敷石(写真)である、と元気印は考えています。

二天門跡(境内入口)から山門下までの参道は、幅5.7m、長さ397m、敷石の枚数が6,479枚あり、長野市の文化財に指定されています。
御開帳期間中この参道は、回向柱に触れて、善光寺如来に直接触れるのと同じ功徳を得ようと願う参拝者の行列で埋め尽くされ、時には3時間後に、参拝者は大願成就を果たしていたのです。

5月31日に御開帳結願(けちがん)大法要が営まれ、前立本尊(まえたち・ほんぞん)を安置した厨子の扉が閉じられました。翌日の御還座(ごかんざ)の儀式で前立本尊が再び大勧進の御宝庫に還ってからは、境内に何時もの静けさが戻り、早朝の境内に佇む空気は、本堂から流れる朝事(あさじ)の読経に揺らいでいるだけです。

今年の御開帳で敷石たちは、673万人の参拝者を支えました。
4月5日から5月31日までの57日間に、御開帳のない信州善光寺の365日に相当する参拝者に踏みつけられた勘定になります。

この敷石は、武州江戸中橋上槙町(日本橋3丁目)で石屋を営んでいた豪商・香庄平兵衛(こうのしょう・へえべえ)が、郷路山の石(安山岩)を使用した敷石を寄進したもので、腰村(西長野)の太郎左衛門が約300両の工費で請負っています。郷路山は太郎左衛門の住む腰村にありますから、石の扱いには熟れていたのでしょう。

この頃の1両は、享保小判に含まれる金の含有量4.1匁(もんめ:15.309mg)を目安に算定した米価換算で約8万円とする情報がありますので、300両は、2400万円になります。
また、当時の人が1年間に消費する米の量は1石(こく)とされ、1両前後の価格との情報もありますので、一人の人間が
300年間暮らせます。300両は、それくらい莫大な金額です。

ところで、平兵衛が日本橋で大店(おおだな)を営んでいた時代は、徳川五代将軍・綱吉の治世から、六代将軍に就いた家宣(いえのぶ)が僅か3年で他界し、4歳の家継(いえつぐ)が第7代将軍に就きます。敷石はその2年後の正徳(しょうとく)4(1714)年に寄進されています。それから4年後、家継は8歳で他界し、江戸幕府中興の祖とされる徳川吉宗の世に移っていきます。
つまり、江戸文化が成熟した元禄期を経てから、家康が開設した江戸幕府創業期の政治に立ち戻る幕政改革(享保改革)が始まる過渡期でもあったのです。

再三再四、火災に襲われ焼失した本堂が現在の地に移転し竣工したのは、宝永4(1707)年です。
参拝者は、雪解けの季節、雨上がりには泥んこになって参拝していたようです。

香庄平兵衛は、わが子を槍で突き殺しています。
我が家に押し入って暗闇に潜む盗賊を平兵衛は突き殺したのですが、勘当した放蕩息子でした。
世の無常を痛感した平兵衛は、家を養子に譲り、出家するために信州善光寺を訪れます。その時、雨にぬかるんだ泥んこ道に足を取られ本堂へ向かう参拝者を見て、敷石の寄進を決意したようです。正徳元(1711)年7月に敷石を発注し、同4(1714)年9月に完成したのが、現在の参道です。平兵衛の子孫は敷石の修理をしており、一部補修されていますが大部分は当時のままです(信州善光寺案内、他)。

この逸話を読んでいると、熊谷直実(くながい・なおざね)は、源平の戦、一の谷の戦で17歳の若武者・平敦盛(たいらの・あつもり)を止む無く討ちますが、そのことに対する慙愧の念と世の無常を感じて出家した経緯を思い起こします。

平兵衛は伊勢白子(しらこ:三重県鈴鹿市)の人で江戸に出て豪商になったとしか分かりませんが、暗闇で槍を遣います。槍術の心得がある商人、あるいは、武家の出かも知れませんね。自宅に槍を置いて盗賊から防衛する心構え、暗闇に浮かぶ人影に向かって槍を突き刺す沈着な行動などは、武家に育った人物を想像させる材料ですから。

文化10(1813)年、本堂前から山門までの参道に、腰村西光寺の欣誉単求(きんよ・たんきゅう)、大門町曽兵衛(そへえ)らの世話で石畳が敷設されます。請負人は、腰村新諏訪の児玉宗左衛門(そうざえもん)。幅45cm、長さ54cm、厚さ15
cmの石を使い、1坪1両1分で168両余の総工費でした(善光寺の不思議と伝説、他)。

なにはともあれ、早朝の信州善光寺は、寺としての雰囲気に最も満ちている時間帯のひとつです。
内々陣(ないないじん)から流れてくる「お朝事」の読経を聴きながら境内を散歩する人のいる光景からは、欽明(きんめい)天皇が仏像礼拝の可否を群臣に問うた宣化(せんか)3(538)年、この時から始まる阿弥陀三尊仏(善光寺の御本尊)の波乱万丈の流転物語が、信州善光寺縁起に埋もれていることなど、微塵も感じられない。

信州善光寺に秘められている歴史の重みと深さは、参道に整然と敷き詰められた7,777枚の安山岩が支え続けているからでしょうか・・・。


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