いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
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トルコ10日間のたび その10-2:ガラタ塔からイエニ・ジャミイを展望する

2011-11-05 20:45:55 | トルコのたび
「トルコ10日間のたび」の最終日、アタチュルク空港へ発つ前の2時間を利用してガラタ塔へ単独行です。その顛末は「その3」に書いてありますので、本稿では省略します。宜しければ「ガラタ塔での諜報活動に敗北した黒海艦隊」まで、お立ち寄り下さい。

さて、アジア側のガラタ塔の展望台からヨーロッパ側のイスタンブール展望です。



ガラタ橋を渡った先に逆L字型の建物・エジプシャン・バザール、その左横に2基のミナーレ(尖塔)を配置したイエニ・ジャミイが見えます。
写真中央の奥に3基のミナーレに囲まれたシュレイマニエ・ジャミイが見えています。オスマン朝では最長の在位を誇り、オスマン帝国の黄金時代を現出させた第7代スルタンシュレイマンのモスクです。オスマン建築の巨匠と称されるミマル・スイナンの手になるジャミイで、幾たびかの地震に見舞われてもひび割れせずに現存している建築物のようです。

ちなみに書きますと、オスマン一世がビザンチン帝国の衰微に乗じてアナトリア西部に建設したイスラム国家が、オスマン帝国(1299年~1922年)です。
16世紀に最盛期を迎え、帝国の領土はアジア・アフリカ・ヨーロッパに跨がりました。17世紀末から衰退に向かい、第一次世界大戦で敗れた後、ムスタファ・ケマル・アタチュルクらの起こしたトルコ革命によって滅亡した(広辞苑第5版)。

ところで、オスマン帝国のメフメット二世は、イスラム法で定められていた宗教寄進財産制度を最大限に活用して、公共事業を支えていた(鈴木董著:オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」)。イエニ・ジャミイは、バザールから入る賃貸料をモスクの維持に充てるためにエジプシャン・バザールを建設したことは「その10」に書きました。

この建物を公共目的のための施設・ワクフに指定し、バザールを運営することから得られる収益によってモスク運営する方法を採っている。さらに、バザールの収益は免税ですから、イエニ・ジャミイの維持管理には、かなり貢献した筈です。
オスマン帝国の崩壊後、家族ワクフは禁止されたようですが、トルコ共和国初代大統領ムスタファ・ケマル・アタチュルクがこの制度の抜本改革にメスを入れたか否かについては未確認です。なお、アタチュルクのことはその5「M .K.アタチュルクが連合軍を撃退した激戦地ゲリボル」にも書きました。ご来店をお待ちしています。

実は、ブルー・モスク(スルタン・アフメット一世ジャミイ)、アヤソフィア大聖堂、シュレイマニエ・ジャミイなどには、それぞれの輝かしい由来が残っています。イスタンブール市内に数あるモスクの中で、このイエニ・ジャミイは、同じガイドブックにワクフとの係りで紹介されているだけです。それで、本稿を書きたくなったのです。


イスタンブールのヨーロッパ側からアジア側を眺めると空中に聳え立つガラタ塔が存在感を誇示しています。



ガラタ塔を撮った位置で、90度右回転します。



ガラタ塔から展望したイエニ・ジャミイと、その右側にエジプシャン・バザールの一部が目に留まります。そこに、「その10」に書いたシミットおじさんの移動店の屋根が写っています。

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