いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

日本人は入店できない免税店

2018-01-03 10:14:05 | 散策
それを体験したのは、対馬市厳原町(いづはらまち)。

公共性と暮らしの利便性を兼ね備えた大型複合施設として2006年10月にオープンした対馬市交流センターとショッピングゾーン。
TIARA(ティアラ)は後者の愛称でマツモトキヨシの横にそびえたつ建物の1階と2階にある。前者はその奥にあり、750席のイベントホール、茶室や展示ホール機能のある地区公民館、
研修室・ギャラリーと図書館が設けられている。






対馬を訪れる観光客は、日本人よりも韓国人が圧倒的に多いといわれている。
昨年10月29日、「家も土地も・・・もはや韓国領」とのタイトルで報道された対馬の現況を新聞で読んでも、
国境のない日本に外国の領土があるなんて、にわかに信じられない。
そんなときに、対馬・壱岐を巡るツアーと出会い、国境の町を体験することにした。


TIARAの2階に100円ショップ「得得屋」があり、地元では観光シーズンなると韓国人観光客であふれると囁かれていた。左隣のマツモトキヨシも同じだという。
そこで、得得屋へ出向いたけれど、平日のためか人影はなかった。得得屋を抜けると対馬市交流センターがあった。公共施設とショッピンングセンターが一体の建物を実感する。





生憎、イベントホールに公演はなく閉まっていた。ショッピングセンターの出入口前で昼食中の女性達が目に留まる。このショットを撮ってからカメラをバッグにしまい、
奥にある階段から外に出るようにして傍を通る。
左側にしゃがんでいる女性が気付き弁当を素早く片付け、小生の様子を窺う。
道路に降りる階段のところまで行って外を確認して戻る時、女性達の会話が小耳に挟まる。小声での会話は日本語のそれではなく、予想していた通りだった。





赤色のジャンパーで路傍の階段に座っている男性、その左横に立っている3人も含め写っている全員、かの国からの観光客。




ショッピングセンターの写真を撮った場所の左真横に免税店があり、『白い恋人』の看板に誘い込まれる。



店内に入ろうとすると、
「ここは、外国人専用の店です」
中年の女性店員は入店を拒否する。
「品物を見るだけですから」
「だめです」
ここが対馬かと耳を疑った。

このツアーで知り合った方の話では、
「日用雑貨品はマツモトキヨシ、得得屋で購入、免税店で仕入れた割安のブランド品は帰国後に売っているらしい」と、地元では話題になっている様子。

日本への入出国に必要なパスポート所持者以外は入店を許さない。
こんな馬鹿げた行為が横行している地域があるなんて・・・。新聞報道の警告は他人事ではなかった。
後日、対馬への日本人観光客を増やすために何らかの対策を講じて貰いたい、と、この体験を記した手紙を対馬市役所あてに投函した次第。

国境の町を体験するために参加したツアーの目的を達成しただけでは、日本の領土としての機能を復興する手助けにはならない。
日本人が足繫く対馬へ行くしかない。
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子育てに大車輪のツバメ

2015-05-27 14:52:14 | Weblog
2年前、玄関の上に設けた照明灯にツバメが巣をつくり9羽が巣立った。



5羽が巣立った後寂しい思いをしながら巣だけはそのままにしておいた。
暫らくすると空家になった巣の中で4羽の雛が餌をねだっている。



ツバメは年に2回子育てをすることが後でわかり、納得する。
背伸びをしてまで、嘴を大きく開けて自己主張する子ツバメは、元気印そのもの。
張れ裂けよとばかりに嘴開け広げ、大声を張り上げる負けん気の強いツバメの子。
右側のツバメ2羽は、給餌が終わり満足げな様子。



食べる時は、兄弟なんか関係がない。
餌を与えた親は、食欲盛んな子のためすぐに飛び去ってしまうから、兄がとか弟だとか、そんなこと考えている暇はないのだ。早いもの勝ち。
親の関心を惹きつけて、餌を貰う知恵だけが働く。早いもの勝ち。
このツバメたちも無事に育ち、長いながい渡りの旅に巣立っていった。

一昨年作られた巣を残し、ツバメの来訪を期待したけれども、外装工事をしたため、ほかの場所へ巣作りをされてしまった。
塗料やシンナーなどの匂いが巣に浸み込んでいたのだろう。
秋になりツバメの空家を取り壊して、元気印たちとの再会を待つことにした。

そして、今年はやって来ました。
4月の初めころから巣作りが始まり、親ツバメは抱卵に専念する。



今朝、写真を撮ろうと、巣の様子を窺いシャッターを切る。
シャッター音に反応し巣から頭をだしたツバメは3羽。



どれも元気印で、安心して撮る。
そこへ親ツバメが給餌に戻って来た。
3~4度旋回を繰り返し警戒していた親は、右側の子に餌を与える。



餌を強請(ねだ)るほかの2羽に給餌する親。
カメラを構える不躾な男を無視する親心がないと、子供たちを育てあげられないのだ。お邪魔虫は、子供の餌にせねば・・・。

そんなことを言われても、巣立ちする間、親子のつながりを記録するよ。勇気を持って、古希を過ぎて6年目を迎えるカメラマンを励ましてね。
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月の松、150年振りに復元

2015-05-24 14:19:03 | Weblog

葛飾柴又帝釈天の住職・御前様(笠 智衆)と娘冬子(光本 幸子)が京都の街を展望しながらひと休みしている。そこに、外人カップルを観光案内する寅さん(渥 美清)がやってくる。
「男はつらいよ」シリーズ第1作にある、御前様が京都美人とのデートと早合点した寅さんを窘めて3人が大笑いするシーンだ。
そこは、京都清水寺本堂(きよみずでら・ほんどう)の正面左右に設けた入母屋造りの翼廊にある懸造(かけづくり)あるいは舞台造と呼ばれるせり出したところ。ここ清水の舞台からの展望は、京都見学の定番となっている。

一方、清水の舞台に倣って造られた清水観音堂(きよみず・かんのんどう)のそれが、上野恩賜公園を縦断するさくら通りの小高い丘の上に観える。



観音堂から望む不忍池は琵琶湖に見立てて、竹生島(ちくぶじま)になぞらえた弁天島(中の島)を築いて辯天堂を建てた、と寛永寺由来にある。不忍池辯天堂はさくら通りの右側にあり、観音堂舞台の真正面に建っている。



清水寺の舞台高さは4階建てビルに相当する。
その昔、清水の舞台から老若男女が願を掛けて飛び降りる慣わしがあったようです。
清水観音堂は標高17mの丘に建っている。
ここの舞台から飛び降りても、数メートル下の丘の斜面に落ちるだけ。切羽詰った願掛けをして飛び降りよう、なんて考える人はいないだろう。

   名所江戸百景 歌川広重 月の松

と書いた看板が舞台前に立ててある。急ぎ足で観音堂への階段を駆けあがる。



「月の松」の集客力は抜群だった。舞台内は花見客で満杯。
松の円い枝をテーマーにするカメラマンに変身した花見客は、なかなか松の前から離れようとはしない。隙を見計らって、転落防止柵が写らないよう後退しながら、「月の松」全景が入るところでカメラを構える。しかし、その狭い空間に花見客が入り込んでは邪魔をする。暫くの我慢をお願いして狙いの写真を撮った。



ちなみに、この松は平成24年12月7日、除幕式を行いお披露目された、との記事を上野経済新聞(2013年01月09日)で見付けた。新たな観光名所として上野公園を盛り上げる目的から、約150年前に消滅した松を復活し江戸の風景を取り戻した。この松を目当てに高齢者を中心に多くの人が訪れ、外国人観光客も増えた、とも紹介されている。

江戸の風景を取り戻すというその心は、歌川広重が『名所江戸百景』で描いた「月の松」を復元する粋な計らい。とはいっても、関係者の話では、松の枝を丸くする腕をもった庭師は少なくなっているので、復元を急いだ。3年前に移植したこの松は、枝を丸くして育てた5本の松のうち成功した2本の1本。2、3年でこのような枝になるようですが、広重が描いた松に育つのは、あと数年先か数十年先であろう、とのこと。この松の枝を覆っている養生が不要になる、自然体の松にするための努力が欠かせないようです。



広重は、連作浮世絵名所絵「上野清水堂不忍ノ池]



「上野山内月のまつ]



に復活された松を画題にしている。

広重が名所絵を描いたのは、上が安政3(1856)年4月、下は翌年8月。

復元した松は、不忍池辯天堂が「月の松」の中央になる場所に植えられている。
『名所江戸百景』の「月の松」には、次のようなコメントが掲載されている。
広重の時代のころは、「縄の松」と呼ばれた有名な木であり、徳川幕府の中でも有力大名である加賀藩主前田氏の江戸屋敷周辺を描いている。その跡地に現在の東京大学がある。
清水観音堂周辺の彼岸桜の大木は花の豊かさと早咲きで評判が高く、露台からその展望を楽しむ人々の姿が描かれている。



その下で顔を隠している薄茶色の羽織の男は、ひいきの遊女と花見にでも来て、少々世間を憚っているのかも知れない、と。




世間を憚りながらも、顔は隠して花見を楽しむ。
共に来ている遊女への心配り、江戸っ子気質って、いいね。
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当日券で、国宝鳥獣戯画展を観る

2015-05-20 20:24:02 | Weblog
5月9日(土)9時40分ころ、国宝鳥獣戯画特別展を見に東京国立博物館に出かけた。





展示会場へ入場するのに40分、展示品を観るのに140分の待時間になります。それを承知で入場券を購入してくださいと、係員が説明するので見学を断念する。

甲・乙・丙・丁4巻からなる鳥獣戯画の修復を終えた記念に一般公開することになり、その特別展が京都で開催し終え、東京国立博物館で開催中のもの。

鳥獣戯画本物を見る機会に何時出会えるか判らない焦りもあり、19日(水)6時に拙宅を出る。
早いほうがラッシュを避けられ、朝食は上野駅構内にある飲食店でも食べられるだろうとの楽観が的中した。

早起きは三文の得を授かった。そんなことを考えながら会場へ急ぐ。8時20分頃に博物館へ着いた。
博物館前には、前売り券を購入した人達が列をなしている。列の最後尾を探していると、当日券は8時30分からこちらの売場ですとの案内があり、そこに行く。5ケ所ある窓口の前に20人前後の人が待っていた。

やがて、入館が始まる。
前売り券で並んでいた人達は、8時30分に入館が始まっても、一人ひとりチケットの確認を受けてから入場するので時間が掛かっている。
他方、当日券はその必要がなく、入場券買うまで5分ほど待ったがチエックなしで入場できた。
結局、当日券を購入した私は、入館待ち行列の4人並びの16列目で待つことになった。



開館が15分早くなった展示会場へは50人単位で入るので、2番目になった。
展示会場によっては順路に従って観なければならない制約があるので不安があったが、爆発的人気のある鳥獣戯画甲巻を最優先して観ることに決めていた。
同じ観かたをするようガイドが勧めており、甲巻の展示場所へ直行する。それでも、すでに行列が出来ていた。戯画に対面するまで10分くらいは要しただろうか。

そして、3mほどの戯画を観た時間の記憶はない。
歩きながら観るように督促されても戯画を観る積りだったものが、現物を目の前にするとついつい鑑賞してしまう。立ち留まらないように注意されても、1列に並んいる牛歩の列が早く進ことはなかった。
丁巻の展示場へ向かう頃には甲巻の行列はかなり長いものになっていた。甲・乙・丙・丁の4巻からなっている戯画を展示している第2会場内でも、甲巻を観るまでに40分お待ちください、との説明を小耳にした。

第1、2会場の展示物を観終えて11時頃に会場を出るときには、甲巻の待時間は140分になっていた。
9日に待時間140分と聞かされた現実がそこにあり、早起きは三文の得をもたらしてくれた。

そこで、お勧めすることは、

1.8時30分から発売になる当日券を購入する 
  当日券売り場に行列はできないし、ネットなどで前売り券を購入しても入場するのに時間が掛かる。

2.甲巻を最優先に観る
  見学者の関心は甲巻にあるので、皆がそこに直行する。


ちなみに、6月7日(日)が最終日です。

付録のはなし。
隣の本館では、鳥獣戯画甲巻の摸本も解説付きで展示されており、前後左右を気にすることもなく自由に鑑賞できるし、お気に入りの写真撮影もできた。







加えて、本番を観た後の復習ともなり、鳥獣戯画の理解を深めてくれた。

時間と体力に余裕があったので、本館巡りをする。
そこでは、日本に現存する、又は消滅した各種伝統文化が展示されているから、鳥獣戯画特別展で学んだ仏教文化と伝統文化全体との係わりなどを考える参考になった。



この菩薩立像は、鳥獣戯画展の第1会場に展示してある白光神立像(びやっこうしん りつぞう)を連想させる。本館に展示してある仏像の中で一番印象に残る仏像になった。


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中欧8日間のたび ウイーン 番外編:トラムで味わったウイーン人情

2013-03-18 17:34:29 | 中欧のたび
シエーンブルーン宮殿、国立オペラ座、王宮を見学してからウイーン市庁舎前のクリスマス市巡りをした2日目は、ウイーンの森とバーデン散策のオプショナルツアーに参加しました。

夕食までの時間を利用して大観覧車見学に行く可否を添乗員さんに相談します。
地元のガイドには観覧車に乗れるのは19時までと書いてあり、ホテル前から路面電車(トラム)に乗っても、乗換えた地下鉄路線から途中で他の路線に乗換えねばならないので目的地に行くのは難しい、と説明され、しかも、16時過ぎに暗くなった土地勘のないウイーン街中を単独で行動する不安も重なり諦めます。大観覧車をデザインしたバッチをホテルの売店で買い、気持ちの整理をしたんです。

 ところが、大観覧車のバッチを帽子につけていると、30数年前に逃した大観覧車見学、この先何時来るか不透明なウイーンではないか。一度は諦めた大観覧車に乗りたい誘惑が鎌首をもたげてきます。19時を少し過ぎた頃、ウイーン市内交通図でアクセスをチエックしてホテルを飛び出します。

 カバリエホテル前にあるトラムの停留所で右側に行くNO.52に乗りウイーン西駅で降りる。地下鉄U3線のシュテフアンスプラッツ駅でU1線に乗換えウイーン北駅で降りる。そこから徒歩5分。

 これだけのアクセス情報とガイドブックの交通図を頼りにホテルを出たのは良かったのですが、乗車券を扱っているタバコ店が見付かりません。電車内で買おうとして小銭を探します。手持ちのコインは2ユーロだけ。5ユーロ紙幣で購入したいのですが、紙幣は使えない自販機。

 その前で困惑している元気印を注視していた初老の乗客にジエスチャーで伝えると、元気印の所まで立ち寄ってきます。手にした小銭を見せると2.2ユーロと表示している自販機の料金を指さすのです。2ユーロしか持っていないと察した小父さんは、自分の小銭入れから2ユーロと20セントコインを取り出し乗車券を購入して、私の手に置きます。5ユーロ紙幣を渡そうとするのですが“ノープロブレム”と言い残して座席へ戻ります。そこから、乗車券に刻印するように合図し刻印機の場所を指さします。その通り刻印すると首を縦に振り微笑んでくれたのです。

 親切なその老人は次の駅で降りましたが、このツアーの印象を胸に深く刻んでくれたウイーン小父さんの優しさでした。

 地下鉄の行き先を表示した案内版が各駅のホーム上に吊り下げてあり、地下鉄の進行方向を矢印で表しているので、地下鉄の乗換えは行く先を抑えておくと乗り間違いは防げます。これは後知恵で、目的地と逆のホームへ行ってしまい、アクセス・メモを頼りに確認するなど、悪戦苦闘の結果なのです。早とちりの元気印ならではの大観覧車見学の体験でした。



往路で使用のトラム内で購入した乗車券(上)
スーパーなどで購入すると2ユーロ。車内販売券には10%の手数料が加算されている。

復路で使用の地下鉄駅で購入した乗車券(中)

王宮ツアーの時配布された乗車券(下)
スーパーなどで販売しているようです。

いずれの乗車券も上か右側に刻印を押してある。
刻印のない乗車券は無賃乗車扱いされるので、親切な初老の小父さんは刻印するように指示してくれたのです。

 トラムと地下鉄の乗車券は共通使用可なので、利用者には便利でした。また、目的地までの所要時間が判ればそれに見合った乗車券を購入する。所要時間が15分、30分は幾らのように、乗車券を層別して購入する仕組みです。1日使用乗車券もありますから、目的に応じた乗車券を購入すれば無駄な料金を払うこともないので、利用者にとっては有難い。

 乗車距離で料金を決めている日本、乗車時間を基準にしているオーストリア。どちらが徳なのかは判断できません。お国柄としか言いようがない料金体系でした。乗車券に刻印を押すだけで改札を通れるし、刻印を押さなくても改札口に駅員がいないのでトラムに乗れる。また、改札のない下車駅、駅員がいないなんて想像も出来ませんでした。トラムの全駅が日本で言うところの無人駅なのです。オーストリア人の品位を忖度する物差しのひとつでしょう。ウイーン小父さんの親切が身に染みます。

 利用者の立場に立った乗車券の例に、ロンドン市内のバスと地下鉄、地下鉄の路線を変更しても利用できる共通乗車券があります。猪瀬東京都知事は、地下鉄の統合を実現すべく国土交通省と積極的に交渉を行っていますが、利用者の便宜を優先する視点から統合の拡大範囲を広げて貰いたいですね。

 東京の地下鉄九段下駅には、東京メトロ半蔵門線と都営新宿線のプラットホームを遮る「バカの壁」があったのですが、その撤去に尽力した猪瀬都知事への期待が増すばかりです。
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中欧8日間のたび ウイーン その3:ハプスブルク家の秘めた恩讐を感じた大観覧車に乗る

2013-01-20 15:10:29 | 中欧のたび
ベルリンの壁が崩壊し暫くした後にウイーン、ベルリン、パリ、ロンドンにある著名な劇場を巡った30数年前、名前を忘れた劇場視察のあと自由行動の時間になった。「第三の男」に登場した観覧車に乗ろうと思い立ちます。劇場の近くにあった小さな店で場所を聴いたのですが、観覧車がプラター公園にあることを知らなかったので行き先が特定できず、目的を果たせなかった。そこで、夕食前の2時間を活用して再チャレンジすることに・・・。

ところが、ホテルから観覧車へ行くまでの交通アクセス整理に時間が掛ってしまい、午後7時過ぎになります。観光客であることがひと目で判別されては何が起こるか判りません。整理メモを挟み込んだガイドブックをショルダーバックへ押し込み、カメラはホテルへ置いて出掛けます。そんな訳で、観覧車の写真は撮っていません。

WIENER RIESENRAD の搭乗券と観覧後に貰った割引券です。
ガイドブックには搭乗料8.5ユーロとありますが、9ユーロに値上げしたようです。
19.12.2012 20:32 Preis in Euro 9,00
平成24年12月19日 20時32分に発売した搭乗券と表示してあります。羽田空港でのユーロ換算は116円だったので、1,044円の搭乗料金、まあまあですね。



15台ある客車に人が乗っていたのは3台だけ。
夜の帳に包まれた客車からは、暗闇の中に点灯している街灯や道路傍の外灯の輝きに囲まれて寝静まるウイーンの夜景を展望するだけでした。

『客車の中は寒かったよ』

両足をバタバタさせて寒さを凌いで、乗客の乗り降りを誘導している小父さんに、客車を降りながら肩をすぼめて声をかけます。

『これで一杯やっていけよ。ここを直進して右に曲がったところにレストランがある』

と聴こえます。30セントの「BONUS-SKONTO」(割引券)をくれたのです。

乗るとき日本人だと答えた元気印に、『おお、アントニオ 猪木』と大袈裟なジエスチャーを返した小父さん。両肩を上下して叫んだ小父さんの心意気を感じた瞬間です。『有難う』と握手して別れましたが、心のなごむ小父さんでした。大観覧車前のウインターマーケットは1月6日まで開催されるので、それらと連動したサービスだったのかも知れません。
客車を降りたのが21時を回っていたし、人もまばらなマーケットには立ち寄らず、大観覧車の搭乗記念にとも考え、未使用のままバックへ仕舞い込みます。

そんなこんなで、観覧車の下にある土産店にあった唯一のガイドブックは、現地語(ドイツ語?)のガイドブックなので他の資料も併用して本稿を書きます。



公園・庭園・国立公園であるプラター公園の総面積は、15,000㎡。
1898(明治38)年の夏、オーストリア帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世即位50周年を記念する祝典計画に目を付けたイギリスの退役軍人・ウオルター・バセット(Walter B. Basset)は、その祝典の娯楽のひとつとしてプラター公園内にあるカイザーガーデンに観覧車の建設を提案し採用されます。他に、フォルクスオーパーが即位50周年記念事業として建てられている。



記念祝典の前年に操業を始めた直径61m、最高地点64.75m、秒速0.75mの観覧車はRiesenrad(リーゼンラート)と呼ばれ評判となり、今もってウイーン市民の憩いの場となり愛されているようです。

観覧車の建設・運営まで行う会社を設立しているバセットですが、プラター公園内にあった遊園地「ウイーンのベニス」を経営していたGabor Steinerに観覧車の運営・管理を任せます。

また、バセットはウイーンに大観覧車を建てる前に、社交ダンスのメッカになっているイギリスの保養地ブラックプールとロンドンに大観覧車を建設し成功しています。パリの大観覧車はウイーン後に建設したもので、ヨーロッパに建てられたそれら4基は、観覧車の歴史の中でも画期的なものと言われている(福井 裕子著:観覧車物語 他)。

ロンドンのグレイドン・ホイールは、1895(明治35)年に開催されたオリエンタル博覧会の時に、第5回パリ大博覧会が開かれた1900(明治40)年にパリのそれは建設され、ヨーロッパ4基のなかでは最大(直径93m、高さ96m)のもの。ブラックプールの大観覧車は取壊され、ロンドンやパリの大観覧車も同じ運命を辿っているので、ウイーンのリーゼンラートは現存する世界最古の大観覧車になった。

ちなみに、次男に授かった長男の100日目に背負わせる一升餅をロンドンへ持参した折に、ミレニアム記念事業として建設された観覧車に家族連れで乗りました。当時世界一であったロンドン・アイですが、シンガポール・フライヤーにその座を譲ってしまった。

建設中の観覧車。
自転車の車輪と同じスポークで引っ張る構造を採用した完成間近の観覧車本体と、30台取り付く客車の2台を取り付けた様子が判ります。



完成した観覧車を世界にアピール。
ウイーンの観光名所となったプラター公園、観覧車を公園の主役に仕立て、その周辺に漲っている活気が窺える写真ですね。リンクと呼ばれるウイーン市内の環状道路とそれに沿って支援が走っている。



第一次大戦の空襲で火炎に襲われる観覧車。



客車は焼失しても観覧車は無事のようです。
空爆による建物の瓦礫の中に黒こげになった観覧車だけが焼け残っている。構造物のみになったリーゼンラートは、戦争の傷跡をあざ笑っているかのように悠然と佇んでいる。



余談です。

プラター公園は、ドナウ川と運河に挟まれた大緑地に設けられました。オーストリア帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が1766(明和3)年まで貴族の狩猟場を一般開放したのです。この他にヨーゼフ1は自分が生まれ自ら好んで住居にしていた、皇帝として執務したシエーンブルン宮殿の庭園、それとアウガルテン宮殿の庭園も一般に開放している。

ウイーン市内を走っているリンクと呼ばれるのは、市内を囲んでいる城壁の撤去をヨーゼフ1世が命じ、その跡に作られた環状道路。それに沿って電車の線路を敷き、その周辺に歴史的な建物を建設する都市計画が推進された。その例外とされる建物がウイーン市庁舎で、古典建築様式に囚われないウイーン独自の設計で施工している。

ところで、第一次世界大戦は、ヨーゼフ1世の甥であるフランツ・フェルディナント大公が、「青年ボスニア」と称する暗殺グループによって1914(大正3)年6月28日、サラエボで妻ゾフイと共に暗殺された「サラエボ事件」が遠因になっているようです。

また、ヨーゼフ1世戴冠50周年記念式典の娯楽のひとつとして、バセットの提案により建設したのが観覧車であることは前に書きました。そのような誕生物語がある観覧車も第一次世界大戦の戦火に見舞われる。そこに、リーゼンラートが背負っているハプスブルク家との宿命のようなものを感じるのです。

良く知られている話のなかには、ヨーゼフ1世の長男ルドルフが30歳の時、17歳の愛人マリー・フオン・ヴエッツエラとの情死があります。無類の狩猟好きであったルドルフが、自分の狩猟用に建てさせた城館で1889(明治22)年1月30日、愛人マリーを拳銃で射殺して自らの生命をも絶ったのです。通称「マイヤーリンク事件」と言われるこの心中事件には、暗殺説もあってその真相は今もって不明のままのようです。

自殺の報を聴いたヨーゼフ1世は、事件のあった城館を跡形もなく取壊させる。ルドルフの母エリザベート皇后は、亡き皇太子を弔うために教会堂とカルメル派の女子修道院を跡地に建てさせます。ネオゴシック建築様式で建てられた教会堂の祭壇は、二人が死んで発見された別荘二階の部屋があった所に据えられている、と教会堂の冊子には記載されています。
フランスの作家クロード・アネの小説「 Mayerling ( 邦題:うたかたの恋 ) 」は、このルドルフとマリーの心中事件がモデルになっていることは、宝塚フアンでなくてもご存知の方は多いでしょう。



ヨーゼフ1世の悲劇は続きます。
弟のマクシミリアン1世(メキシコ皇帝)は1867(慶応3)年6月19日、メキシコ皇帝が支持する保守派と相対する自由主義勢力に捕らえられ、二人の王党派将軍と共にケレタロ(鐘の丘)で銃殺刑に処せられる。1898(明治31)年9月10日には、「バイエルンの薔薇」と賞賛され、チターを弾くのが上手く、作詞・作曲の才に恵まれていたエリザベート皇后が無政府主義者に狙われ、ジュネーブのレマン湖畔で刃先が三角形のナイフ状となるように研ぎだしたヤスリで心臓を刺されて他界している。

一方のヨーゼフ1世が生涯を終えたのは、第一次世界大戦が終わる2年前の1916(大正5)年11月21日、ウイーンで肺炎を患い崩御している。享年86。

それにしても、皇位継承者の長男と甥、そしてエリザベート皇后を相次いで失ったヨーゼフ1世。それも、相次いで身内の者が異常な死に方をしている。苦悩するヨーゼフ1世の心中は、元気印のような市井人には計り知れないものがある筈です。

 「元気印さん、それらの事情はマイヤーリンクの教会堂を訪れてから知ったんですね」

ボケ封じ観音さまの呟きが聴こえてきます。耳が痛くなりますね。

ベートベンが第9を書いた家を訪ねられるとの期待でオプションツアーに参加した訳ですが、第一次世界大戦の勃発要因とされる「サラエボ事件」につながるヨーゼフ1世の家系に遭遇するなんていうことは、想像さえしなかったのです。

再建されたリーゼンラートの写真と解説文でしょう。
第一次世界大戦終盤の1944(昭和19)年の空爆で焼失した客車、火災で黒子焦げの鉄骨だけになった観覧車は、当初24人乗り客車が30台付いていた観覧車の負担を軽減するために15台に半減、定員も15人にして、翌年に再建された。



最高地点に向かってゆっくり回転する客車。
リーゼンラートの客車内で射殺して突き落としても完全犯罪は成る、とペニシリン密売の黒幕ハリーはホリーに脅しをかけ、闇取引の協力者にならないかと誘う。断るホリーを乗せた客車の扉をハリーが開けて地上を俯瞰するシーンでは、何時、ハリーがホリーを突き落とすか、その恐怖感を煽られます。緊迫したスリルとサスペンスが充満した場面が思い起こされます。

客車を降りたハリー・ライム(オーソン・ウルズ)は、友人のホリー・マーチンス(ジョセフ・コットン)に

 「スイスの同胞愛、そして500年の平和と民主主義はいったい何をもたらした?鳩時計だよ」

と捨て台詞を残して、ハリーは空爆で破壊され瓦礫が散乱しているウイーン市内へ姿を消します。その画面にアントン・カラスが弾く「ハリー・ライムのテーマ」が被さります。

戦火で焼失したリーゼンラートが再建された3年後に撮影が始まった「第三の男」で有名になっただだっぴろい客車の中には、元気印しか乗っていません。10数分かけて1周する間観覧車が2回停止します。客車の扉を開けて地上に目線をやるハリーの凄みに身震いした映画の場面が蘇ってきます。故障かな、と不安に襲われたのですが、客車への乗り降りは回転を止めて行っていることを後から知って納得する始末です。

映画のロケに使われたのは「第三の男」が有名ですが、007シリーズ第15作「The Living Daylights」の撮影記事がありました。



イアン・フレミングの短編「ベルリン脱出」を原作にした、監督:ジョン・グレン、主演:ティモシー・ダルトンによる、シリーズ誕生25周年記念映画として大型予算で製作した作品。
1987(昭和62)年に公開されているけれど、元気印の007はショーン・コネリーなので観ていません。これも何かの縁と考え、DVDを観てみようかと思案している所です。

歴史とは面白いもののようですね。
ヨーゼフ1世が一般に開放した貴族の狩猟場に建設されたのがリーゼンラートであり、しかもそれは、ヨーゼフ1世の戴冠50周年記念式典における娯楽のひとつとして建てられている。
そして、第一次世界大戦の引金を引いた「サラエボ事件」には、ヨーゼフ1世の甥が絡み、その大戦でリーゼンラートが戦火の被害を受けているのですから・・・。

いずれにしても、フランツ・ヨーゼフ1世と観覧者との因縁、第一次世界大戦とハプスブルク帝国崩壊との関り、ハプスブルク家の始祖ルドルフ1世にちなみ「ルドルフ」と命名したヨーゼフ1世の長男が心中した城館など、など、予想外の収穫があったオプションに参加して良かった。心から感謝しています。
元気印を、30数年ぶりに再チャレンジするように仕向けたリーゼンラートとの間には、お互いが認識できないけれども何か因縁の類が潜んでいるのかも知れません。

『マイヤーリンク教会堂の祭壇前に舞戻って花を咲かせている、今から115年前、ジュネーブのレマン湖畔に散ったバイエルンの薔薇がチターを弾いている光景を空想しているよう・・・。ハプスブルグ家唯一の皇太子ルドルフを愛しむ歌詞に付けたメロデイーを聴いているのですか?元気さん』




















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中欧8日間のたび ウイーン その2:クリスマス・ワークショップを楽しむ子供たち

2012-12-29 22:57:08 | 中欧のたび
ウイーン市庁舎内を見たくなり唯一開いている入口を入ると、そこは子供を対象にしたワークショップ会場でした。

クリスマスの備品作りに熱中する子供たちの姿を撮った後、入口上に吊るしてある案内板に気が付くづうづうしい外国人にも関わらず会場へ入る時、子供たちが歓迎してくれたのです。



組み立てた小屋に色を塗り完成させるワークショップ2の子供たち。
母親らしき人物が小屋の組み立て方でも相談している模様です。彼女が手にしている小屋のパーツを注視している指導員の横に座っている男の子は、母親と指導員との遣り取りが気になり、その様子を横目で窺っている。僕は自分で小屋を完成したのに、お母さんは・・・とでも言いたげな雰囲気ですね。
完成間近の小屋の底に何かを書いているのは女の子でしょう。右端には屋根を組み立てる前に小屋の出来映えを確かめている子もいます。



クリスマスプレゼントにする手作りペンダントのワークショップは3にありました。
男の子も女の子も夢中でペンダントを作っています。プレゼントする相手の笑顔を思い浮かべているようにも窺える熱の入れようです。



キャンドルを作るワークショップ4は、男の子だけのようです。
キャンドルの出来具合を評価してもらう子、横にしても傾かないかを確かめている子、キャンドルに吹きかける色を選んでいる子供たち。みんな真剣勝負に挑んでいるようです。



自分が選んだ色をキャンドルに吹き付ける男の子供たち。



日本の大晦日がクリスマス・イブ、クリスマスは元旦に相当するようです。
除夜の鐘が撞き終わり新しい年を迎える感覚がクリスマス・イブ、クリスチャンにとっては最も重要な時間です、と現地のツアーガイドさんから聞いて、クリスマス直前の日程を選んだ目的のひとつが達成できました。

 「もっと大事なことを書き忘れていませんか、元気印さん?」

ボケ封じ観音さまの声がします。

 「クリスマスイブで輝くワークショップで作ったキャンドル、小屋やペンダント作りに込めた子供たちの気持ちを一家団欒の話題にするのもイブでしょう。5日後に控えたクリスマスイブの備品作りワークショップに出会えたのは、千載一遇のチャンスだった。違います」

別の余禄もあります。
シェ―ンブルン宮殿前のカルチャー・クリスマスマーケットには、キリストの誕生場面を表す木彫り人形であるクリッペが展示されていたのです。




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中欧8日間のたび その1:ウイーン最大のクリスマス市場

2012-12-27 20:16:21 | 中欧のたび
ジングルベルとケーキがクリスマスだと思い込んでいた頃に、あるクリスチャンから誘いを受けたクリスマス・イブでは、その年を振り返り、来る年への抱負を語り合った30数年前の体験が、「中央ヨーロッパ5ヶ国周遊8日間」に参加する心の導火線に火をつけたのです。

旅行日程表が届き訪問地でのスケジュールには、「クリスマス・マーケット」見学にウイーンで1時間が2回、プラハ、ブタペストでも1時間組み込まれている。訪問先の情報収集はガイドブックを頼りにウイーンへ向かう機内で俄仕込み。

今回訪問したウイーン、プラハ、ドレスデン、ブラチスラバ、ブタペストの冬の風物詩がクリスマス市で、これだけを見学するツアーがあるとのこと。

クリスマス・マーケット、クリスマス村、クリスマス市、ウインター・マーケットなどの名称で呼ばれる10にも及ぶ市があったようです。ガイドブックによれば、クリスマス前の日曜日から溯って4週間前の日曜日からクリスマスまでの期間を「アドヴエント」と呼ぶクリスマスを迎える準備期間。

12月18日の16時10分(現地時間)ウイーン到着後、シエーンブルン宮殿前のカルチャー・クリスマス村を見学してからホテルへ向かいます。ここのクリスマス村は11月24日から12月26日まで、それから元旦まではニューイヤー・マーケットに衣替えするようです。

ウイーン最大のクリスマス市には、おおよそ150の屋台が並び、子供や家族連れの人気が高い市が市庁舎前のクリスマス市、1772(安永元)年から開催されている伝統あるフライウンク広場のノスタルジー・クリスマス市の見学はなかった。

1883((明治16)年に完成した市庁舎の前広場に開いた市をブルク劇場前から撮った風景です。



中央の通り道を市庁舎前まで直進し、右側にヴォティーフ教会の塔が観えます。
この教会の塔は99mですが、市庁舎の塔の高さはそれ以下にするよう皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から注文が出され、設計者フリードリヒ・フォン・シュミットは98mにしたとのこと。



屋台の前で軽食する人、外国人カメラマンを興味ありげに眺める女性、市場での過ごし方は十人十色。

市場の入口で子供たちの団体に出会います。
みんなバックを背負っています。
子供たちの動向を注視している金髪の女性は、引率者でしょうか。
市庁舎内部では、Christkindls Werkstatt が開催されていました。
そこではローソクの着色、小屋の組み立て、ペンダントなどを作っていたので、子供たちはChristkindls Werkstattで遊び、クリスマス市の散策を楽しんで、これから帰宅するのでしょうか?



市庁舎手前の左側に子供たちの人気スポットがありました。
銀色の翅を広げた蝶を背にして記念写真を撮ろうと子供が集まってきます。
その前でわが子にカメラを向けている母親、ヴォティーフ教会を背景にしているカメラセンスは玄人はだしですね。



「グリューワイン」を飲みながら市場内の屋台巡りをすることが、ウイーン市民の楽しみとのこと。
赤ワインにオレンジピールやシナモン、クローブなどの香辛料、砂糖やシロップを加えて火にかけて暖めた飲み物がグリューワイン。
飲み物だけは3.5ユーロ、マグカップを持ち帰る場合は6ユーロ。
最初に6ユーロ支払い、マグカップを返却すれば2.5ユーロ払い戻しされる。そのまま持ち帰ってもなんら支障がないし、他の国のクリスマス市も同様の方式なので、お土産に集める知恵者がいました。





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浜離宮恩賜庭園 その3:凛として佇む 可美真手命(うましまでの・みこと)の像 

2012-12-15 00:57:45 | 散策
「近いうちに解散する」
この「近いうち」解釈をめぐり3ヶ月にも亘って、法案の審議をすべき責務を放棄し、貴重な時間を浪費していたことを過去のものとする先生方々は、晩秋の厳寒にも負けず選挙区内を駈けずり回っている。師走に相応しい情景ですね。
12月9日(日)の「新報道2001決戦直前11党党首激論SP」でも、党が掲げる公約の実現確度に党首たちは熱弁を振るい、他党のそれの不備を衝くなど喧々諤々。

日本の舵取りを渇望する政党が12も名乗りを挙げ、単独で政(まつりごと)を担えるのではと予測される政党に、1人だけのそれ、数人あるいは数十人のそれらが混在して気勢を揚げて、第46回衆議院議員総選挙を1,504人が戦っている。誤解を承知で書けば、ジパングの政は俺に任せろと、老雄、奸雄、妖雄、風雲児らが割拠している政治の世界。

「有権者は12月16日(日)その審判を下すんでしょう。その義務を放棄して投票場へ行かねば、政治や行政に自分の意思を提言する、苦情を述べる権利をも放棄することになりますね」

ボケ封じ観音さまの世界にも総大将を選ぶ行事があって、その投票は神様の義務になっているのだろうか・・・?

さて、浜離宮恩賜庭園に佇んでいる銅像があります。
JR浜松町から「中の御門」を通って公園内に入って道なりに直進すると突き当たりにこれが観えて来ます。



一方、汐留・新橋からだと「大手門」が出入口になり、三百年の松、梅林、将軍お上がり場などを経て富士見山、中島の御茶屋方向へ巡る散策になり、銅像に気付かない場合が多いだろうし、これに関心をもって訪れる入園者も少ないでしょう。

『可美真手命(うましまでの・みこと)
饒速日命の皇子で、神武天皇の東方遠征に従い、手柄をたてたと言われる軍神の銅像です。
明治27(1894)年、明治天皇の銀婚式を記念して陸軍省が行った懸賞募集に当選した作品であります』

命(みこと)像の前に設置してある台座には、佐野 昭制作、鈴木 長吉鋳と記されています。



今年は、明治天皇崩御100年、古事記編纂1,300年です。これを読みながら、俄然、この像は興味の的に・・・。

ところで、饒速日命(ひぎはやとの・みこと、以下、ニギハヤト)は『日本書紀』、『古事記』では邇藝速日命と表記しているように、「記紀」に登場する神様の御名は違います。台座の解説は前者を採って可美真手命(以下、ウマシマ)、後者では宇麻志麻遅命(うましまぢの・みこと)です。

ちなみに、明治天皇の銀婚式記念とは、明治27年3月9日に催された大婚二十五年祝典のこと。日本で初めて明治天皇が銀婚式の祝賀を行ったことが契機になり、金婚式の折返しにあたる銀婚式を日本に広めた式典ともなったようです。その明治天皇が崩御されてから100年に当る今年、国の式典などは催されなかったようですが、「明治天皇百年祭」が明治神宮で行なわれていました。

ウマシマは、ニギハヤトと長髄彦(ながすねひこ)の妹・三炊屋媛(みかしきや・ひめ)との間に産まれた男神。大伴(おおとも)氏と並んで朝廷の軍事を司った伴造(とものみやっこ)の氏族。物部連(もののべの・むらじ)らの、穂積臣(ほづみのおみ)、婇臣(うねめのおみ)の祖とされています。

棒状の何かをウマシマは大事に抱えています。
布都御魂(ふつの・みたま、以下、フツノミタマ)ではないかと、元気印は推測しますが、確たる情報はありません。



なにはともあれ、『古事記 神々と神社』(宝島別冊1834 他)によれば、

『フツノミタマは、建御雷之男神(たけみかづちの・をのかみ)が葦原中国(あしはらの・なかつくに:地上世界。特に日本)を平定した時に用いた霊剣で、荒ぶる神を退ける力を持つとされる。「ふつ」は、プツンと鋭く断ち切る音を表しているといわれる。
神武軍が熊野山中で荒ぶる熊神に出会い、その毒気に当たり倒れてしまった。この時、高倉下(たかくらじ)という者がフツノミタマを持ち参じた。剣は、神武天皇の危難を案じる天照大御神(あまてらす・おおみかみ)と高御産巣日神(たかみむすひの・かみ)が、高倉下に神託を下し与えたものだった。その後の国土平定の戦いでも大いに役立ち、物部氏により祀られることになった。フツノミタマは石上神宮(いそのかみ・じんぐう:奈良県天理市)の祭神とされ、ウマシマも配祀されている』

ここに描かれている、神武軍が熊野山中で・・・とは、畝火山(うねびやま)東南の白檮原(かしはら・奈良県橿原市)を都として定めて、神武天皇となる神倭伊波礼毘古命(かみやまと・いわれひこのみこと、以下、カミヤマト)が、日向(ひむか・九州南部)から白檮原への遠征、神武東征と通称されている日本建国物語前半の後半部で語られている戦いです。
カミヤマトは、東征を阻む地方の豪族との衝突を戦い抜いて、白檮原への東征を成し遂げます。熊野山で熊神の毒気で昏睡状態に陥ったカミヤマトと兵隊たちを救援するフツノミタマが天から降され、その後、八咫烏(やたがらす)を降されたカミヤマトは、前途に待構える難局を乗越え東征の最終目的地へと先導されます。

『古事記が記す神武天皇ご即位までの物語は、日本の建国の物語。神武天皇が天下をお治さめになった白檮原宮は最初の皇居であり、我が国最初の都でもある。これ以降は、天皇の統治がどのように行われてきたか、すなわち、天皇の統治の歴史が記されていく』(竹田恒泰著:現代語 古事記)

日本建国の物語に登場するウマシマは、カミヤマトの大和平定に貢献したニギハヤトの息子であると、記されているだけです。このウマシマを題材にして石膏像と銅像を創った二人の作家の創作イメージを知るために、長々とカミヤマトの建国物語を書きました。

カミヤマト、ニギハヤトに関しては古絵図が残っているので、創作イメージに枠が嵌められるのを回避したのではないか、ウマシマと明治天皇の接点はあるのだろうか?

そこで、先の台座に記されている二人の作家、制作の佐野 昭、鋳金した鈴木 長吉について、元気印の情報収集癖がうごめき始めます。

佐野 昭
慶応2(1866)年、江戸に生まれる。※1工部美術学校で※2ラグーザに師事して彫刻を学び、明治15(1882)年卒業。明治28(1895)年第7回明治美術会展に石膏像「虎刈り」など2点を出品。翌29年※3白馬会創立会員となり、第1回展に石膏像「可美真手命像」のほか、第六師団戦勝記念図案等建築下図四点を出品する。石膏像「可美真手命像」はこの後、浜離宮恩賜庭園に銅像として建立。黒田 清輝、久米 桂一郎と交友。(近代日本美術事典他)。

※1工部美術学校(こうぶびじゅつがっこう):工部省管轄の工部大学付属機関として設置された、日本最初の美術教育機関。設けられた学科は、画学科、彫刻科の二科。
※2ヴィンチエンツオ・ラグーザ:明治9(1876)年、明治政府に招かれて来日したイタリア人彫刻家。工部美術学校で彫刻の指導を行う。清原 多代と結婚。
※3白馬会(はくばかい):明治29年に黒田 清輝(せいき)を中心に発足した洋画団体。

鈴木 長吉
嘉永元(1848)年、武蔵国石井村(埼玉県坂戸市)に生まれる。※1鋳金家。岡野 東竜斎に師事する。※2蝋型鋳造を得意とし18歳の時、鋳物工場を自営。内外の博覧会に多くの作品を出品し多数の賞を得る。明治18(1885)年のニュールンベルク金工万国博覧会で最高賞を受けて有名になる。明治29(1896)年に※3帝室技芸員となる。代表作は「鷲置物」(重要文化財・東京国立博物館)(新潮世界美術事典他)。

※1鋳金(ちゅうきん):加熱によって融解した金属を、鋳型に注ぎ入れて器物や彫刻を作る技法。
※2蝋型鋳造(ろうがたちゅうぞう):蜜蝋をひねって原型を作り、これを鋳型土で包んで土鋳型を作製し蝋を焼き抜いて、できた空間に溶銅を注入する技法。飛鳥・白鳳・奈良時代の金銅仏にこの技法が多く用いられている。
※3帝室技芸員(ていしつぎげいいん):明治23(1890)年の帝室技芸員制度により皇室の
保護を受けた美術・工芸家。戦後廃止されたこの制度の顕彰行為は、文化勲章や重要文化財制度、或は日本芸術院会員の認定などに引き継がれている。

ウマシマ銅像制作の背景を探るヒントが、二人の経歴にありました。
先ず、明治天皇の銀婚式典について、「歴史読本 明治天皇100年目の実像 2012・12」には、

『内心では戦争を潔しとしなかった明治天皇の大婚二十五周年を祝う銀婚の式典が、明治27(1894)年8月1日に開戦する日清戦争に先立つ3月9日、国を挙げて催された。伊藤 博文の建議になるとされるこの式典は、西洋に倣って皇室の大衆的人気を喚起し、当時の政治状態の惨状によっては望みえなかった国民的一体感の作出を狙ったものと考えられる。宮中の慶事に国民も熱狂し、「市中は軒頭に提灯を掲げ、意匠を凝らしたる飾物を作り、深更けに至るまで花火を打揚げて祝意を表す」と明治天皇紀は記している(第八巻、390頁)。いったん開戦となるや天皇は、個人の意思に封印して、日本軍を率いる大元帥としての役割を見事に演じていく』

とあり、歌人としても知られた天皇は、その生涯におよそ10万首の歌を残している。中でも明治の人が愛唱した御製(ぎょせい・歌)は、

  あさみどり 澄みわたる大空の
        広きおのが心ともがな

( 一点の雲もなく、浅瀬に晴れわたった大空のように、清くそうして広いこころを、私はもちたい )

次に、宮内庁から写真提供された明治天皇の御肖像画(明治神宮所蔵)が掲載されています。
イタリア総領事の山中 譲治が明治7(1874)年、イタリア人画家ウゴリーニに発注して制作させた肖像画に描かれている天皇の御顔の雰囲気が、銅像のウマシマのそれに近いと元気印は感じます。佐野が白馬会第1回展に出品した石膏像「可美真手命像」を発想させる源ではなかったのかと、独断と偏見に満ちた推測を促してくれます。

国民の慶事として祝福された明治天皇大婚二十五年は、日清戦争が勃発する緊迫した外交問題があり、それを回避する政治情勢も混乱を極めていたようなので、佐野は日本を平定したカミヤマトでは畏れ多いと考え、具象化する男神としては自由度の広い、大和平定に功績のあったニギハヤの息子ウマシマを彫刻の題材として選択し、フツノミタマを抱えさせた。

また、佐野は、第六師団戦勝記念図案等建築下図四点を出品しているので、陸軍との接点もあります。おそらく佐野の石膏像を観賞した鈴木長吉は、彼の創作意図を瞬時に飲み込み、佐野が制作した石膏型から土鋳型を作り鋳金することを考案し、陸軍省の懸賞募集に応募・当選したのでは・・・。

二人は、明治天皇の銀婚式典を慶び、御肖像画に描かれている天皇の御姿を観る機会があって、御製を愛唱する国民の心情も心得ていたでしょう。陸軍省の審査員もウマシマ像の制作意図を忖度する歴史認識を持っていたはずです。

保存に手間隙を要する石膏像は、銅像にして建立すれば長期保存が可能になります。
関係者にそのような決断を下させる魅力を放っていたウマシマ石膏像。明治天皇崩御100年目に当たる平成24年、鈴木が鋳金したウマシマ銅像は、今も凛とした表情を崩さずに恩賜庭園に佇んでいます。



「そんな突拍子もないことを思い浮かべて楽しんでいるんですか。でも、事典が記す、その後、浜離宮・・・が暗示するウマシマ銅像誕生の秘密かも知れませんよ」

ボケ封じ観音さまの心強いアドバイスに頭が下がります。

ここで、明治27年、明治天皇の銀婚式を記念して陸軍省が行った懸賞募集に当選した作品である云々、と台座に記されているウマシマ像の創作背景が垣間見えたようです。
明治天皇と可美真手命、陸軍と佐野 昭、そして、佐野と鈴木 長吉とが線で結ばれたようです。しかし、元気印の勝手な推論ですから、参考にならないことを強調します。

政治状態の惨状によっては望みえなかった国民的一体感の作出を狙い、明治天皇の大婚二十五周年を祝う銀婚式典を建議した伊藤 博文。
明日は、彼のように柔軟な発想から政策を生み出して果敢に実行する人物や政党に投票したいものです。
















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浜離宮恩賜庭園 その2:ここは、我輩の特等席

2012-12-01 15:55:52 | 散策
11月24日(土)は、昼前までは太陽が雲に遮られ、曇天模様でした。
昼過ぎに雲がなくなり庭園内に降り注ぐ陽光を浴びている猫は、あたかも、小春日和を満喫している雰囲気。



さて、徳川三代将軍・家光の4子・綱吉に実子がいなかったのが幸いし、五代将軍・綱吉の養子になってから、宝永6(1709)年5月1日、家光の孫にあたる家宣は六代将軍に就いた。これを契機に、松平 綱重が別邸にしていた甲府浜屋敷は、「浜御殿」と呼ばれるようになり、ほぼ現在の姿の庭園が第十一代将軍・家斉 [ いえなり:天明7(1782 )年~天保8(1837 )年 ] の時代に完成している。

家斉は、燕の茶屋、松の茶屋、藁葺の茶屋(鷹の茶屋)、御亭山腰掛、松原の腰掛、五番掘腰掛、浜の藁屋、新銭座東屋などを建てている。浜御殿はこの時代に最も整備・修治され、華々しい催しが続いた時代であった(小杉 雄三著:浜離宮庭園)。

松に隠れている「小の宇島」の入口には「藤棚」、左奥に観える「中島の茶屋」。そこから富士見山方面へ向かう白い橋を横目で窺い、「潮入の池(大泉水)」を悠然と眺めている猫がいます。
芝生へ入らないように散策路に張り廻らしてあるロープを結界とでも心得ている様子で、散策者の話し声や足音がしても正面を直視したまま。口笛で呼びかけても馬耳東風。

ここから少し右に行くと平成22年12月に復元された「松の茶屋」があり見学ポイントになっている。人の気配がする環境に慣れているのでしょう。よそ者の元気印がチャチヤを入れても無視される訳です。



この庭園にあった「燕(つばくろ)の茶屋」、「松の茶屋」、「藁葺の茶屋(鷹の茶屋)」のうち復元されたのは「松の茶屋」だけ、他の二つは礎石等が現存しているので、復元する計画があるようです。

茶屋の周辺に松が多く植えられていた、谷 文晁(たに ぶんちょう)が戸障子すべてに松を描いたから「松の茶屋」と呼ばれ、翠松亭(すいしょうてい)とも言われていた(同上)。



広さ約8,000坪もある「大泉水」は、水門によって海の水を導く「潮入り」の手法を取り入れ、潮の干満によって池の水位が変化する造りになっている。庭園の定住猫は、池の岸の様子がその時々に変わる風情を想像しているのかも知れません。
家斉が精魂を込めて整備した庭園の最盛期を偲ばせる見事な松もあるこの場所は、定住猫の指定席に相応しいようです。

「松の茶屋」で猫を撮り終えて「お伝い橋」の入口へ行く途中、外国のメディアに出会いました。
和服の女性二人と打合せをしている外国人二人。女性は通訳、演出をする男性でしょうか。音を採る係りは大きなマイクを片手に、なにやら調整している様子。右の二人はカメラマンでしょう、和服女性の姿をどう撮るかを頭に描いている風情です。



ことの顛末を見定めたかったのですが、生憎、12時30分から12年振りに再会する会合があり、後ろ髪を引かれる思いで、浜離宮恩賜庭園を後にした次第。










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