葛飾柴又帝釈天の住職・御前様(笠 智衆)と娘冬子(光本 幸子)が京都の街を展望しながらひと休みしている。そこに、外人カップルを観光案内する寅さん(渥 美清)がやってくる。
「男はつらいよ」シリーズ第1作にある、御前様が京都美人とのデートと早合点した寅さんを窘めて3人が大笑いするシーンだ。
そこは、京都清水寺本堂(きよみずでら・ほんどう)の正面左右に設けた入母屋造りの翼廊にある懸造(かけづくり)あるいは舞台造と呼ばれるせり出したところ。ここ清水の舞台からの展望は、京都見学の定番となっている。
一方、清水の舞台に倣って造られた清水観音堂(きよみず・かんのんどう)のそれが、上野恩賜公園を縦断するさくら通りの小高い丘の上に観える。
観音堂から望む不忍池は琵琶湖に見立てて、竹生島(ちくぶじま)になぞらえた弁天島(中の島)を築いて辯天堂を建てた、と寛永寺由来にある。不忍池辯天堂はさくら通りの右側にあり、観音堂舞台の真正面に建っている。
清水寺の舞台高さは4階建てビルに相当する。
その昔、清水の舞台から老若男女が願を掛けて飛び降りる慣わしがあったようです。
清水観音堂は標高17mの丘に建っている。
ここの舞台から飛び降りても、数メートル下の丘の斜面に落ちるだけ。切羽詰った願掛けをして飛び降りよう、なんて考える人はいないだろう。
名所江戸百景 歌川広重 月の松
と書いた看板が舞台前に立ててある。急ぎ足で観音堂への階段を駆けあがる。
「月の松」の集客力は抜群だった。舞台内は花見客で満杯。
松の円い枝をテーマーにするカメラマンに変身した花見客は、なかなか松の前から離れようとはしない。隙を見計らって、転落防止柵が写らないよう後退しながら、「月の松」全景が入るところでカメラを構える。しかし、その狭い空間に花見客が入り込んでは邪魔をする。暫くの我慢をお願いして狙いの写真を撮った。
ちなみに、この松は平成24年12月7日、除幕式を行いお披露目された、との記事を上野経済新聞(2013年01月09日)で見付けた。新たな観光名所として上野公園を盛り上げる目的から、約150年前に消滅した松を復活し江戸の風景を取り戻した。この松を目当てに高齢者を中心に多くの人が訪れ、外国人観光客も増えた、とも紹介されている。
江戸の風景を取り戻すというその心は、歌川広重が『名所江戸百景』で描いた「月の松」を復元する粋な計らい。とはいっても、関係者の話では、松の枝を丸くする腕をもった庭師は少なくなっているので、復元を急いだ。3年前に移植したこの松は、枝を丸くして育てた5本の松のうち成功した2本の1本。2、3年でこのような枝になるようですが、広重が描いた松に育つのは、あと数年先か数十年先であろう、とのこと。この松の枝を覆っている養生が不要になる、自然体の松にするための努力が欠かせないようです。
広重は、連作浮世絵名所絵「上野清水堂不忍ノ池]
「上野山内月のまつ]
に復活された松を画題にしている。
広重が名所絵を描いたのは、上が安政3(1856)年4月、下は翌年8月。
復元した松は、不忍池辯天堂が「月の松」の中央になる場所に植えられている。
『名所江戸百景』の「月の松」には、次のようなコメントが掲載されている。
広重の時代のころは、「縄の松」と呼ばれた有名な木であり、徳川幕府の中でも有力大名である加賀藩主前田氏の江戸屋敷周辺を描いている。その跡地に現在の東京大学がある。
清水観音堂周辺の彼岸桜の大木は花の豊かさと早咲きで評判が高く、露台からその展望を楽しむ人々の姿が描かれている。
その下で顔を隠している薄茶色の羽織の男は、ひいきの遊女と花見にでも来て、少々世間を憚っているのかも知れない、と。
世間を憚りながらも、顔は隠して花見を楽しむ。
共に来ている遊女への心配り、江戸っ子気質って、いいね。
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