いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

澆季(ぎょうき)に蘇る書 その1:弾誓の名号書

2009-12-08 20:56:05 | 時の話題
長野市内に宿泊する仕事が縁となり、渋温泉「外湯巡り」の九番結願湯・大湯に掲げてあった、山岡鉄舟揮毫の扁額に巡り合い、諏訪大社下社・春宮の「お舟渡り」が始まるまでの時間つぶしで偶然「万治の石仏」と出会ってから弾誓上人(たんぜい・しょうにん)の存在を知り、その付合いが続いています。

さて、弾誓上人の人となりは、おおよそ次のようです。

『天文20年生。尾張の人。安土桃山・江戸時代前期の浄土宗の僧。白衣・乱髪垂肩の異相の山居(さんきょ:山中に住むこと)念仏修行者として知られる。幼くして沙弥(みしゃく)となり、弾誓と号して各地を遍歴。天正9年、佐渡檀特山(だんとくさん)に入り、慶長2年、岩窟で弥陀説法の霊瑞(れいずい:不思議なめでたいしるし:弥陀直授の説法はのち「弾誓経」と称される)を得た。信濃に出て諏訪唐沢(からさわ)阿弥陀寺を造立、慶長8年、相模の塔の峰に入り、小田原城主・大久保忠隣(ただちか)の帰依を受け塔の峰阿弥陀寺を開いた。同14年上洛、古知谷(こちだに:京都市左京区大原)に草庵を結んで阿弥陀寺と号し、道俗(どうぞく:僧侶と普通の人)を教化、同18年5月25日、63歳で没した。遺骸は遺言により7日間山林に置かれた後、廟窟に納められた』(日本仏教史辞典に追記)。

先ず、この辞典に記されている年の出来事を「日本史年表・第四版」で整理しておきます。

 天文20(1551)年:足利義藤が室町幕府12代将軍に就任してから5年目に当たる。肥後で虫害・穀価高騰し、人身売買が行われる。
 天正 9(1581)年:織田信長、高野聖(こうやひじり)千余人を斬殺。豊臣秀吉、淡路を平定。松井友閑らと清水寺で猿楽をみる。翌年6月21日、信長、本能寺の変で自刃する。
 慶長 2(1597)年:秀吉、信州善光寺如来を方広寺大仏殿に移す。小西行長・加藤清正に朝鮮攻撃を命ずる。翌年、秀吉の死を秘して徳川家康・前田利家、在朝鮮の諸将に撤兵を命ずる。
 慶長 8(1603)年:2月、家康、征夷大将軍となり江戸幕府を開く。江戸の日本橋、架橋される。出雲の阿国、京都で歌舞伎踊りを演ずる。
 慶長14(1609)年:家康、大久保忠隣を改易、大阪冬の陣を命ずる。秀頼に勧めて方広寺大仏殿の再建に着手させる。
 慶長18(1613)年:幕府、キリスト教を禁止する。関東天台宗に法度を下す(この頃、しばし諸宗に法度を下す)。

天下統一の野望に燃えた信長・秀吉・家康が総力を挙げて戦っていた時代に、弾誓上人は庶民救済の志に燃え尽きていることが分かります。

ところで、「万治の石仏」こと「浮島の阿弥陀さま」の願主・明誉と心誉については11月15日に書きました。ふたりの願主が初祖と仰ぐ弾誓上人は、63年の生涯に名号書(みょうごう・しょ)を400万枚書いたと言われています。

ちなみに、名号とは、仏(ぶつ)・菩薩の側から衆生(しゅうせい:仏・菩薩が救う生命のあるすべてのもの)に対する名乗り・呼びかけ・働きのことで、仏・菩薩の称号。この働きかけに応じて、衆生の側から仏・菩薩の名前を呼び返すこと、阿弥陀仏の名号を唱えることを念仏と言います。阿弥陀仏の名号は他のいかなる行よりも勝れた行徳があると明かした法然(ほうねん:長承2年~建暦2年:1133~1212)により、名号の価値は飛躍的に高められたようです(日本仏教史辞典)。

そして、墨書された「南無阿弥陀仏」は六字名号(ろくじ・みょうごう)と呼ばれ、浄土教において仏像と同様に最も尊重されているもの(名号本尊)で、他に九字、十字の名号があることは、既にご存知と思います。

宮島潤子氏は自著「謎の石仏-作仏聖の足跡」の中で、弾誓上人の名号書(写真:宮島潤子著:信濃の聖と木食行者)について、次のように述べています。

『弾誓は生涯にわたり名号書を400万枚書いたと『弾誓上人絵詞伝(えことばでん)』に書かれている。自筆の署名が入っている名号書は諏訪唐沢阿弥陀寺に現存している。
真中に「南無阿弥陀仏」、右側に「皈命我十万西清王也」、左側に「法国光明阿弥陀仏」とあり、およそ名僧、高僧あるいは禅僧の墨跡とはほど遠い。しかし、私が圧倒されるのは、弾誓の書には字を書くという意識が微塵もみられないことである。ひたすら念仏を唱えながら、そのリズムに乗って自然に筆が動いていくのであって、本師阿弥陀如来の心が弾誓阿弥陀仏の手と一体となり、形となって流れ出た仏作仏業(ぶっさ・ぶつごう)の書というよりほかはない』

このように評する宮島氏は、東京国立博物館書跡室長などを歴任した堀江智彦氏に日本書道史を師事し、筑波大学教授などを歴任した今井潤一(凌雪)氏に中国書道史を師事した「書」の精通者です。的を射た評価と思います。

ここで、「万治の石仏」の話になります。
春宮の参道横の橋のたもとから細い田圃道を砥川に沿って150mほど入った所に「浮島の阿弥陀様」は佇んでいます。この田圃道は、鎌道街道と呼ばれた中山道旧道であったようですが、その面影は何処にも見当たりません。
また、昭和49(1974)年の諏訪大社御柱祭りに来て「浮島の阿弥陀様」を見た岡本太郎画伯は、「世界中を歩いているが、こんな面白いものは見たことがない」と驚嘆し、「万治の石仏」と揮毫した石碑は、中仙道旧道入口に設けられました。「万治の石仏」が呼び名として定着する働きをしたようです。

ところが、仏像の眼は、頭の先から顎の先までの二分の一のところにつけるのが常識であり、「万治の石仏」は三分の一についている。「万治の石仏」の仏頭石は素人が彫ったものであるから、前衛仏像を意識したものではない。

と五来重(ごらい・しげる)氏は自著「石の宗教」の中で述べています。

「万治の石仏」に彫られた袈裟は、山伏の「執事袈裟(しゅうじ・けさ)」というもので、行脚(あんぎゃ)の時や労働の時につけるものである。したがって、願主は、この積石仏は行脚修業する僧または仏を表現しようとしたことが分かる。
本来は、山伏が行脚するのに、首から掛けたもので、この石仏を作った一派は、弁慶のように菊綴(きくとじ)のついた結袈裟(ゆいげさ)よりも、執事袈裟を掛けることを好んだものと思われる。

とも推察し、弾誓上人の宗教について次のように指摘しています。

「弾誓上人の修験道が一般の修験道と異なるところは、本山派とか当山派のような組織を持たず、大峯山とか出羽三山などに集団入峰もしないで、孤独な窟籠(いわやごも)りの修業をする点である。また、一般修験道が密教を理想として、大日如来と一体化する即身成仏(そくしん・じょうぶつ:現実の肉身のままで仏に成れるという思想)を目的とするのに対して、この一派は念仏を理想として、阿弥陀如来と一体化する即身成仏を目的とする」

「弾誓は、教団の儀礼として「仏説弾誓経」を作り、「前三重後三重切紙伝授」という教理も整えたが、仏頭伝授(ぶっとう・じゅじゅ)を受けて弾誓法流を継ぐことの出来る者は、厳しい窟籠りと木食(もくじき)その他の戒を守らなければならなかったため、後継者が絶えてしまい長続きしなかった。そして、その遺跡は天台宗または浄土宗に組み込まれて、平凡な寺院になった。しかし、その事績は「万治の石仏」として永久に伝えられることになった」

「最近、仏頭授受といって、仏頭を重んずる修験道の一派があったことが分かってきた。これは、木製の「仏頭」であるけれども現存する。それは、古知谷阿弥陀寺の仏頭で、この寺を開いた弾誓上人の遺品である」

「弾誓の仏頭授受は、自然宗教、または原始宗教時代の修験道の自然石崇拝が基礎となり、真言念仏の「宝冠の弥陀」の思想が入って、宝冠の代わりに仏頭を用いたものと思われる」

つまり、日本宗教の歴史には「万治の石仏」のような石積石仏をつくる宗教者の系譜があり、それは日本仏教史の「隠された十字架」である。「万治の石仏」に象徴される「隠された十字架」は、宮島潤子氏の研究によって明されることを強調しています。

慶長13(1608:徳川2代将軍・秀忠)年から同18年に没する迄の時期、弾誓上人は古知谷に住み、この間、弾誓上人の高徳を慕って京都から参詣に来る男女が、貴賎を問わず後を絶たなかったようです。弾誓の宗教は、庶民仏教の歴史が明らかになるにつれて、真面目に宗教を求める人や、日本文化の原点を探ろうとする人々を引き付けるという意味では、古知谷阿弥陀寺は将来、庶民信仰のメッカとして栄えていくだろうと、五来氏は弾誓に関する今後の研究に期待を寄せています。

余談です。
神戸に単身赴任していた20数年前の現役時代、三千院(京都市左京区大原)を見学したのですが、そこから僅か一キロほど奥に阿弥陀寺があることは知らず、その時は見向きもしなかったのです。

と言うことのなると、弾誓上人の唱えた修験道は現在、仏教界でどのような位置付けがなされているのか、気になります。そこで、平成2(1990)年頃の日本の仏教状況を調べて見ます。

奈良仏教、天台宗、真言宗などの系列が7系あり、その中に律宗、天台宗、真言宗などの宗派が204あります。弾誓の宗派は、浄土系浄土宗捨世派(しゃせいは)になっており、弾誓は、捨世派念仏僧。捨世派の開祖は称念(しょうねん)、間通(かんつう)が捨世主義をとる浄土律の高僧、とされています。
そして、捨世派は清閑の地に道場を設け、念仏修業に徹し、もって法然の恩徳に報いんとする一派で、中世期における浄土宗門の新念仏運動。建物としての本堂は、東向きに同派の流儀にそって造らせ、けやきの欄干で内陣と下陣を厳重に仕切るなどの優れた特徴が多く見られる。さらに、当時の寺院が俗化するのを嘆き、静かな場所で念仏に専念したのは同派である、とも記述されています(日本仏教宗派事典・1993年11月発行)。

宮島氏は、万治3(1660)年5月25日、弾誓上人の50回忌が諏訪唐沢阿弥陀寺で行われ、祖師と仰ぐ弾誓の50回忌を終えた明誉と心誉が「万治の石仏」を造立したことを突き止めていますし、そのことは、これまでに書いてきました。
五来氏が仏頭を重んずる修験道の一派があったと推察したヒントは、宮島氏が「万治の石仏」出自の謎を解いた業績によるもの、と讃えています。

「字を書くという意識が微塵もみられない」弾誓上人の名号書を授けられた「浮島の阿弥陀様」は、日夜の修行・行脚に執事袈裟を掛けて念仏を唱え、澆季に警鐘を鳴らしたい衝動に耐え忍んでいるのかも知れません。
昨今の世相は、「浮島の阿弥陀様」の唱える念仏の意味を忖度したくなるほど、むちゃくちゃな様相に陥っていませんか。
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