いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

手賀沼に残る『ハケの道』と大正ロマン

2007-03-24 20:48:22 | Weblog
我孫子駅(JR武蔵野線)南口階段を降りて坂道を直進すると、突き当りに
手賀沼公園がある。
公園前の車道を渡る左手に、楚人冠(そじんかん)公園、白樺文学館、志賀
直哉邸跡を示す案内板があり、ここから旧村山堅固(けんご)別荘へ至る道が
『ハケの道』。

『ハケの道』に入ると道がYの字に分かれる。左側は天神坂で、道の両脇に茂
る樹林から木漏れ日が石段を照らしている。
大正の頃は階段下辺りまでが手賀沼の水際で、天神山に住んでいた加納治五
郎や白樺派の文人達が手賀沼で遊ぶ小船が出入りしていたことだろう。

天神坂を見過ごして白樺文学館へ向かう途中に楚人冠公園がある。
昭和初期,手賀沼干拓計画が決まった時に「手賀沼干拓の中止願い」を陳情書
として、時の農林大臣に提出した杉村廣太郎(楚人冠)の邸宅地を公園にした
ところで、陶製の句碑が建立されている。

公園からUターンしてハケの道を左折すると白樺文学館、志賀直哉邸宅跡は
直ぐだ。新しい村運動の創始者・武者小路実篤(むしゃこうじさねあつ)、白樺派
の重鎮・柳宗悦(やなぎむねよし)たちに出会える白樺文学館。

斜め前にある、小説の神様・志賀直哉が最初に持った家の跡地には書斎が保存
されている。楚人冠や治五郎と一緒になって手賀沼景観保護運動を推進した村山
堅固の別荘は直ぐ近くにある。

余談になるが、楚人冠、志賀直哉は手賀沼で鴨猟を嗜んでいた。剥製店が我孫子
にあった位だから、手賀沼は良い狩猟場だった様子が窺える。大正14年10月に行
われた第二回国勢調査では、我孫子町の人口は4,945人、手賀沼も今より大きく、
野鳥の飛来も多かった。

加納治五郎の姪・直枝子(すえこ)は東郷平八郎の副官を務めた谷口尚美(なおみ)
に嫁いでいる。日露戦役捷記念碑が「緑の香取神社」にあるのは、それが縁になっ
ているのだろう。

天神山、観音山と呼ばれる小高い丘のふもとは手賀沼の水際であった。
このような斜面下にある湿地際の道を『ハケの道』と関東地方では呼んでいる。
「水刷け」の「ハケ」が『ハケの道』(写真)の語源とする説が有力である。

手賀沼の『ハケの道』周辺には、大正デモクラシーに身を任せ、白樺派文人のロマ
ンに浸らせる情緒が漂っている。


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1 コメント

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Unknown (通りすがり)
2007-04-13 15:22:20
我孫子駅(JR武蔵野線)×
我孫子駅(JR常磐線)○
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