いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

トルコ10日間のたび その5 M..Kアタチュルクが連合軍を撃退した激戦地ゲリボル

2011-05-17 22:55:51 | 散策
イスタンブールを発ったバスは、ゲリボル半島の先端を目指します。その途中、ギリシャ、ブルガリアの国境と接している町へ行く道路標識などがあると、その都度現地ガイドが案内してくれました。

トロイへ行くには、ヨーロッパ側からダーダネルス海峡をフエリーで渡り、アジア側のチャナッカレを経由します。
フエリー乗場があるヨーロッパ側の町ゲリボルでは、埠頭から徒歩で7~8分のところにあるレストランで、魚料理の昼食に舌鼓を打ちます。

この町の埠頭にはふたつの記念碑があり、その一つがケマル・アタチュルクのようです。(写真)。というのは、フエリーの出港時間に合わせて昼食を摂ったので、写真を撮るのが精一杯。だれの記念碑なのかなど質す余裕なんかなくて、フエリーに掛け乗った。そんな次第ですから、詳細は一切不明です。

人物の胸像の周りに配置してある月と星は、トルコ国旗を象徴しているようですし、トルコ共和国を建国したケマルが最も相応しいと、元気印は勝手に決め込んでいます。

さて、ゲリボルの戦いは、「ヨーロッパの病人」と揶揄されていたオスマン帝国が、イギリス・フランス・オーストリアなどの連合軍に勝った戦いです。

第一次世界大戦の「西部戦線」(フランス・ベルギー方面)に属していたゲリボル戦は、ケマル率いるオスマン帝国軍の反撃に直面していたロシア軍から要請を受けた連合軍が支援していた戦いでもあった。このことは、皆さんもご存知のはず。

その戦闘は、以下の様な経緯を経ているようです。
結果は、ダーダネルス海峡西側にあるガリポリ半島を占領し、オスマン帝国の首都・イスタンブール進撃をもくろみ、「地中海遠征軍」を派遣する作戦計画は、イギリス海軍大臣・ウインストン・チャーチルが立案・提唱したのですが失敗に終わり、その責任を問われたチャーチルは失脚します。

1915(大正4)年4月25日、ガリポリ半島先端のヘレス岬へ上陸したイギリス軍は、戦死者86,692人、戦傷者164,617人に及ぶ犠牲を出したオスマン軍の反撃を受けて、半島の戦局は10月まで膠着状態が続きます。戦局の打開が難しいと判断したイギリス政府は、ガリポリ作戦の撤退を検討し始め、12月7日に順次撤退を開始したのです。

連合軍の戦死者は44,000人、オスマン帝国軍の半数です。8月に入って連合軍・新鋭2個師団がアンザック入江北側のスラブ湾に上陸し、攻勢を試みたが、オスマン帝国軍がいち早くイノニュ高地を占領したため、連合軍は橋頭堡を確保する以上の進展は見られず、塹壕戦となった。
アンザック入江とスラブ湾の橋頭堡を連絡させようとする連合軍最後の8月大攻勢も失敗に終わり、オスマン領内へのさらなる進撃は望めない状態になり、連合軍とオスマン帝国軍は「塹壕戦」を余儀なくされたのでした。
それは、ケマル率いるオスマン帝国軍の戦法が巧妙であったからです。

連合軍とオスマン帝国軍との物量・兵力を比較すると、大東亜戦争におけるアメリカ軍と日本軍とのそれに匹敵するくらい隔絶していたようですが、劣勢にあるオスマン帝国軍を支えたのは、前線で戦う兵士たちの司令官・ケマルに対する信頼と尊敬の念だけであった。

「ご覧のように、小さな丘陵(イノニュ高原)が波のように続いています。我々は敵が丘陵を越えようとする瞬間にだけ一斉射撃 し、敵の砲撃が続く間は塹壕で身をひそめていました。白兵戦となれば我々の方がすっと強かったし、この地形では敵も白兵戦 をやらざるをえなかった。ともかく、敵軍が丘陵を一つ越すためには、その部隊の半数を犠牲にしなければならなかったので  す。こちらは弾丸が足りなかったけれど地形に明るいために、敵の銃弾よりも十倍は効率よく使えたでしょうね」

これは、ダーダネルスでの勝利戦を戦い抜いた兵士の「ナマの体験談」を聴いた大島直政の「ケマル・パシャ伝」に紹介されている一節です。
さらに、「ダーダネルスの勝利」に疑問を抱いていた著者は、複数の歴史の証人から「ナマの体験談」を聴いて、謎が氷解したと言い、ケマルに対する兵士の尊敬と信頼が、あの方面のトルコ軍の資質を一変させ、数倍の敵との苦戦に耐えに耐えさせた、とも記しています。
そして、この戦いの後に待ち受けている「救国戦争」を勝利に導いたのは、ダーダネルスの勝利であったとも。

「最初は気乗りしなかったトルコでしたが、貴重な収穫を得た旅になったようで・・・。
 トルコのたび日記は、やっと、緒に就いたばかりですね。
 前線の兵士は、自分の上官が有能か無能かを動物的感で見破り、信頼できると確信した指揮官の下でならば、どんなに武器弾薬 や食料が不足していようとも、力の限りを尽くして戦うとも、ありますよ。」
 

古稀を迎えた元気印にカツを入れたボケ封じ観音さまは、何時も通りの気まぐれ旅に出立するのです。

「いかなる戦線においても、ケマルは将軍という身分でありながら、常に危険をかえりみず最前線を視察し、そこで自ら指揮をと った例も多かったこと。そのうえ、自分が立てた作戦の要点を、部下の将校たちが十分に納得するまでくり返し説明した。
 これは、当時のトルコ軍の高級将校としては異例のことであり、将軍(パシャ)ともなれば「雲の上の人」であって、部下はそ の命令に服するだけで、質問することも許されなかったと、ケマル・パシャ伝にありましたよ。
 このようなケマルの特筆すべき行動を肝に銘じておくと、シニア・エイジはより楽しくなりませんか。
 空きカンけりに戯れて時間を無駄にするよりはマシな時間になるように思うんですけれど・・・。如何なものでしょう」

漢音さまのエコーが響いてきます。
東日本大震災や福島原発事故に対する菅政権の無策ぶりまで言い出すのは、極めてまれです。
それにしても、漢音さまはケマルのことをどこまで知っているのだろう?
これでは、元気印の出番がなくなってしまうのに・・・。


コメント
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