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元気印シニアとの対話。

トルコ10日間のたび その10-3:不思議な由来を秘めているイエニ・ジャミイ

2011-11-19 17:41:57 | トルコのたび
ガラタ橋のたもとに位置しているYENICAMII(イエニ・ジャミイ)は、イスタンブールのEminonu(エミノニュ)地区にあります。このジャミイは1597年に工事着工して1663年に竣工するまで66年もの建設期間を費やしており、NEW MOSQUE(新しいモスク)との表示があります(写真)。



「イエニ」は「新しい」を意味しているので、YENICAMIIは「新しいジャミイ(トルコ寺院)」を強調しているようですし、最後にNEW MOSQUEと英語で明記してあります。
66年にも及んだ工期とNEW MOSQUEと表記された銘板は、へそ曲がり元気印の興味の炎にハイオク・ガソリンをぶっかけてきます。
では、この寺院建設を発起(ほっき)したのは誰か・・・。結論を先に書いておきます。
オスマン朝第13代皇帝ムラト三世の后・サフイエ・スルタンが発起人で、完成させた人物が、第19代皇帝メフメト四世の母トウルハン・ハティジエです。

本稿を書くための資料収集過程で、メフメト四世とその母の霊廟がイエニ・ジャミイの敷地内にあることを知りましたが、エジプシャン・バザール見学が目的のツアーの時は、写真撮影だけに終わってしまったのです。後悔しても後の祭りですね。

さて、オスマン朝では、兄から弟へそして最年長の甥へという「年長者相続制」の原理と、父から子への「父子相続制」の原理が並存していたが、後者が定着していた(鈴木董著:オスマン帝国-イスラム世界の柔らかい専制)。
第13代皇帝メフメト三世が崩御してメフメト四世が皇帝に即位するまでの45年間に、六代の皇帝が即位しています。父子相続制の原理に従えば、メフメト三世に繋がる人物が皇帝に即位するまでに45年の時間経過を経なければならなかった訳です。

このようなオスマン朝の時代背景が、イエニ・ジャミイの工期を延ばす要因になったのでしょう。
極く限られた史実しか把握していませんが、具体的な要因をその中から探る試みに挑戦します。

その一つは、メフメト三世の母后となり、その名声と権力を掌中にした証に、その威信を誇示するモスクの建設を発起したサフィエ・スルタンの波乱に満ちた生涯の中に潜在しています。
ヴェネツイア共和国領コルフ島総督として赴任する父が任地へ向かう船路の途中で、オスマン帝国の保護を受けて海賊行為を働いていたイスラム教徒の船乗りで構成するバルバリア海賊に襲われたサフィエ・スルタン家族は、海賊の捕虜となります。サフィエ・スルタンは、イスタンブールへ送られます。そこで、奴隷として売り飛ばされた後、オスマン朝のハレム(女性の居室)に入れられます。そこでは、オスマン朝第11代皇帝セリム二世の息子、第12代皇帝ムラト三世となる皇子の寵姫(ちょうき)となり、メフメト皇子を出産します。後の第13代皇帝メフメト三世です。

このメフメト三世が皇帝に即位した2年後の1597年、皇帝の母后になったサフィエ・スルタンは、その権力を発揮してモスク建設の勅令を出します。写真の1597は、この事実を表しています。
しかし、メフメト三世は1603年12月22日、崩御されます。同時に、サフィエ・スルタンは居住していた新宮殿(トプカプ宮殿)から旧宮殿へ転居させられ、サフィエのモスク建設工事も中断したようです。モスク建設が始まって6年目のことです。この間、設計・監督者のダウト・アーが1599年に処刑されていることもモスクの建設工期を長びかせた可能性もあります。

二つ目は、このような皇位継承の荒海に襲われていたオスマン朝の状勢以外にも悪条件が重なっていたことです。
サフィエのモスク建設の勅令が出された1597年当時、カラテイスと呼ばれるユダヤ人が集中居住している地域がモスクの建設候補地に選定されたのですが、金角湾の一等地でした。
そこは、住民が集会や礼拝に使用している会堂(シナゴーグ)や教会を撤去しなければならない地域なのですが、皇后の勅命には逆らえません。さらに、この地域は海水の侵入などがあり、モスクの建設工事はたびたび中断されたようです。
いずれにしろ、サフィエのモスク建設工事は、オスマン朝内部の皇位継承のあおりを受けて長期間中断したまま放置されていた。そのため、かって、この地域に住んでいた住民カライテスが工事現場周辺で再び暮らす模様に陥ります。

建設工事が再開された時期に関する資料等は手元にない現況ですが、1663年に竣工したことはイエニ・ジャミイ正門に掲げられている銘板(写真)により明白です。

釈迦に説法を承知の上で、モスクについて書きます。
都市の各街区、各村ごとに設けられるモスクの他に、金曜礼拝を行う金曜モスクと呼ばれる大きなモスクが都市の中心に置かれている。モスクの基本的な建築構造は、回廊に囲まれた四角形の広い中庭と礼拝堂を持ち、オスマン朝に至ってビザンツ朝の教会建築を取り入れ、大ドームを小ドームや半ドームで支えることで柱のない広大な礼拝堂空間を持つ様式が生み出された。

トルコ最高の建築家とされるコジャ・ミマール・スイナンは、モスク建設における大ドームを発展させると共に、鉛筆形の細長いミナレット(礼拝時刻の告知を行うモスクに付随する塔)を特色とするオスマン建築特有の様式を完成させている。先に書いたサフィエのモスクの設計・監督者に任命されたダウト・アーは、スイナンの後継者でした。

ここからは、元気印の乏しい想像力に委ねた話になります。
サフィエ・スルタンの夫・ムラト皇子が1574年、第12代皇帝ムラト三世として即位したこと、そのムラト三世が1595年に崩御して、サフィエの息子メフメト皇子が、第13代皇帝メフメト三世として即位し、彼女が皇帝の母大后となったことは、既に書きました。

サフィエ・スルタンは、皇子ムラトの寵姫として何人もの子供を出産しましたが、義母ヌール・バヌ同様に自分がヴェネツイア人であることを終生忘れていません。ヴェネツイア共和国の貴族の娘として生まれたとする彼女の自尊心は、ヴェネツイア大使マルコ・アントニオ・バルバロと秘密裏に交信する動機となり、母国の便宜を計る国家反逆罪にも相当する売国行為を実行している。1573年に締結していたヴェネツイア・オスマン条約を1575年に改定する会談に臨んだムラト三世や大宗相ソコルル・メフメト・パシャは、ヴェネツイア側に有利な条件で条約の改定をせざるを得なかった。会談前に、彼らの思惑はヴェネツイアに筒抜けとなっていたのです。

そのような行為をしていたサフィエ皇后は1618年に、寝室で不審な死を遂げます。ムラト三世の寵姫だったハンダンと彼女と結託した宦官による暗殺だと考えられているようです。

メフメト三世が即位した時、「帝国の掟」を実行に移しています。
この皇帝に関わりのある19人の異母兄弟達は、全て紐で絞殺され、且つ、ムラト三世の愛妾40人の内、妊娠していた7人は生きたまま袋詰めにされ、真夜中のボスボラス海峡に沈められている。

しかし、メフメト三世時代以降は、スルタン(皇帝)の兄弟達は「黄金の鳥籠」と呼ばれる幽閉所に幽門するように改められています。それは、王朝の血統を絶やさないための配慮からでした。
その反面、メフメト三世の母サフィエ・スルタンは、皇帝の母后の地位に昇格します。

残忍極まりのない「帝国の掟」を長々と書いたのは、サフィエ・スルタン暗殺の首謀者とされるハンダンも、ムラト三世に寵愛されていたからです。仮に、彼女が産んだ息子が皇子になり皇帝に即位した場合、サフィエはどのような処遇を受けるかは掟に定められています。運命の悪戯が2人の将来を按排(あんばい)した、と表すしかありません。

オスマン帝国に関する様々な資料を読み、一生を決める岐路を選択する局面に出逢った時、その先の進路は、その人自らの意思よりも、その人が持っている運命によって生涯が決定される。ムラト三世に寵愛されたサフィエとハンダンの生きざまを記した史実の断片から、そのことを教えられた次第です。

サフィエのモスク建設工事が長期に亘った最後の理由にも関係が深いので、もう少し書きます。
オスマン朝第10代皇帝スレイマン一世時代の首都イスタンブールには、「旧宮殿」と「新宮殿(トプカプ宮殿)」の二つの中心宮殿と、「ガラタ宮殿」と「イブラム・パシャ宮殿」の二つの補助宮殿があった。
これらのうち新旧両宮殿は、第7代皇帝メフメト二世の造営にかかるものだった。新宮殿はメフメト二世以来、スルタンの通常住居であり、国政の場でもあった。

スルタンの後宮(こうきゅう・后や女官達が住む宮殿)は、新宮殿内にはなく、旧宮殿に置かれていた。しかし、スレイマン一世の時代になって、後宮も新宮殿に移された。そして、旧宮殿は、前代以前のスルタンの後宮に属していた者たちの隠居所と化した。しかし、後宮から新宮殿に移されたことは、後宮がスルタンと国政に対し影響力を拡大するのを避けられないものとした(同前書)。

後宮に移居させられたサフィエ・スルタンは、スルタンに対する影響力を行使する前に暗殺されたので、サフィエのモスクは建設を中断し放置されてしまった。父から子へと皇位継承の原理が決められ、帝国の掟を遵守する以上、退位した皇帝に関連する事業を継承する皇帝が現われなくても、当たり前のことでしょう。

何とか、イエニ・ジャミイが完成に66年間も費やした事情が見えてきました。
トプカピ宮殿の建設期間は13年です。サフィエのモスク建設を再開する勅令が発せられたのは何時なのか。疑問に残っています。おそらく、この時点ではサフィエのモスクとする建設初期の目的は、メフメト四世のモスクに変換されていた。敷地内に設けられた霊廟がそれを物語っていますし、新しいモスクと表記してある銘板の意味も納得できます。

また、サフィエ・スルタンの波乱万丈の生涯に照らし合わせても、新しいモスクにする必要があった筈です。従って、新しいモスクは、設計をやり直して建設工事を再開したと、元気印は推察しています。

では、第19代皇帝メフメト四世の母トウルハン・ハティジエは、何時モスク建設の決断を下したのでしょうか。
新しいモスクの竣工は1663年ですから、トプカピ宮殿の工期13年と同じに仮定して、1650年とします。この年はメフメト四世が即位してから2年目に当たり、サフィエのモスク建設の勅令が出された時期、メフメト三世が皇帝に即位した2年後と一致します。偶然の一致かも知れませんが、皇后となった2年目には、その権力を発揮する仕組み、人脈などが把握できるのでしょう。

この仮定を基に推測した結果、サフィエのモスク建設工事は47年間中断したまま放置され、工事現場周辺に、この地域に住んでいた住民カライテスが再び暮らすようになっていた。新しいモスクを建設する邪魔物になる建設途中のサフィエのモスクは撤去した方が、すっきりします。

新しいモスクの設計者に任命されたムスタファ・アーは、トウルハン皇后の意向を汲んだ設計を行い、建設工事が再開された。

オスマン建築を紹介した記事に、

「イエニ・ジャミイはスイナンの後継者であるダウト・アーによって設計されたが、彼は1599年に処刑されてしまい、1663年に完成したこのモスクは、スイナンのものと比べると、その構成はかなり見劣りするものとなった」

このように記載されています。この記事から、トウルハンのモスクは、新設計されているとの想定をしています。

繰り返しになりますが、第13代皇帝后サフィエ・スルタンの生涯からは、その陰に潜む諸般の事柄が思い起こされてしまいます。凡人の元気印にオスマン朝の第19代皇帝后トウルハン・ハティジエの気持は忖度できませんが、心の片隅に引っかかっていたのかも知れません。

「それよりも、サフィエのモスクを工事中断したまま47年間も放置されたいたことが、新しいモスクを建設する動機になっていますよ。元気印さん」

ボケ封じ観音さまが、やっと登場です。

イスラム教の礼拝堂であるイエニ・ジャミイへの参拝は、部外者が興味本位で行う行為ではないとの思いが強く控えました。
その内部は分かりませんが、厳しい偶像否定があるイスラム教の礼拝堂には、一切の祭壇や像がないとされており、カーバ神殿の方向に当る側の壁に作ったくぼみ・ミフラーブとその脇に設けた説教壇・ミンバルがあるだけと考えています。

イエニ・ジャミイ礼拝堂の入口に、この地区のムスリムが参拝する姿があります。



礼拝堂の正面には浄めを行う水場があります。お釈迦さま、唯一神アツラーであっても、その信者が参拝前にお浄めをするのは、仏教徒もムスリムも同じ習慣です。第13代皇帝后サフィエ・スルタンと第19代皇帝后トウルハン・ハティジエとを繋いでいるイエニ・ジャミイの透明な糸に込められた縁の謎解きをする仲人になりました。


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