いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

古河庭園 その4 治兵衛と雪見灯篭

2008-02-12 00:59:59 | 散策
地球温暖化現象の影響もあって、冬の降雪が少なくなり東京の雪景色は死語になりつつあります。

1月31日の残雪があるかと期待して2月7日、古河庭園に写真を撮りに出かけました。雪景色を撮りたいとの衝動に駆られたのは、雪見型灯篭の雪化粧を想像したからです。

現実は厳しく、願望に反して園内には残雪はありませんでした。園内を清掃している男性と「はぜの木」などのよもやま話をして分かったのは、2日前まではかなり残雪があったようです。生憎、今日は日当たりの悪い樹木の根元、雪見型灯篭の周辺(写真)などに僅か残雪があるだけでした。

古河庭園には、灯篭が13基あります。最初にここを見学した際、雪見型灯篭を話題にすると、「灯篭巡り」が出来ることを親切な庭園管理者から紹介されていたので、それも兼ねて雪景色を撮影することにしました。

古河家の家業であった鉱山業を分離して会社組織の古河鉱業会社を創設したのは古河家二代目・潤吉です。初代社長に就任した潤吉は、その年、明治38(1905)年に36歳で他界しました。大正3(1914)年は古河虎之助が18歳で古河家の後継者になって9年経過した年に当たっています。

当時、足尾鉄道が開通し、大型コンプレッサーを坑外に設置して鑿岩機(さくがんき)の使用が加速されて生産効率が向上し、足尾銅山の年間生産量は10,000トンに達しようとしていた時期です。
現場係員を養成する足尾銅山実業学校(現・県立足尾高校)を創設するなど、足尾の現場では鉱山経営の基盤が整備されていました。

そんな背景を背負った古河財閥三代目・虎之助は、財界人にふさわしい邸宅を新築する心境に襲われたのでしょう。隣接地を買収して1万坪の敷地を得た大正3年、新築計画は動き出しました。
その頃、武蔵野の一角にあるこの辺りは樹木が生い茂っていたようです。邸宅の周囲を築地堀(ついじべい)で囲んでいるのはその名残かもしれません。

ご承知のように、古河庭園には、洋館前のバラを主体にした西洋庭園と日本庭園とがあります。
西洋庭園は洋館を設計したジョサイア・コンドルに任され、小川家七代目当主・治兵衛(以下治兵衛)に日本庭園の作庭を依頼します。

17歳の時小川家へ婿養子に入ると、先代が没した2年後の明治12(1879)年には七代目・小川治兵衛を襲名しました。

さて、庭園好きで知られる山縣有明(ありとも)の別荘「無隣庵(むりんあん)」の庭園は有名です。
無隣庵の施主である有朋は、庭のイメージを治兵衛に伝えます。

1.芝生の明るい空間をつくる
2.脇役である庭の植木にモミや杉を沢山使う
3.琵琶湖疏水を庭園に引き入れた庭にする

つまり、従来からある装飾的で陰のある空間ではなく、開放的で簡素な中にも、素朴な庭にすることを治兵衛に指示したのです(植治の庭を歩いてみませんか:十一代小川治兵衛監修)。

もう一人、治兵衛の作庭に影響を与え人物に伊集院兼常(いじゅういん・かねつね)がいます。
18~19歳にかけて東京芝の薩摩藩邸の普請などを行い、海軍省の営繕局長、工部省の営繕局長を歴任して、日本土木会社を興し社長に就任しています。この会社では、有栖川宮(ありすがわのみや)、北白川宮各殿下などの御殿を建築しています。

また、この時代を代表する数奇者たちのグループの中にあって、多くの人物と交流し、頼まれて茶屋や庭園を作る機会もあった兼常は、自らも数奇的な生活を志向し、近代の茶の湯に適う数奇空間の創造者として、特に庭園の面で植治(治兵衛)の作風に大きな影響を与えている(矢ヶ崎善太郎)。

兼常の別荘として建物と庭園が整えられた「對龍山荘(たいりゅうさんそう)」の庭園には、兼常が作庭した聚遠亭付近の小池と流れがあり、治兵衛が独自に作った南の流れを中心とする庭園、兼常が作った庭を旧来の姿を残しつつ治兵衛が改修を加えた北の池があります(植治の庭・小川治兵衛の世界:尼崎博正編)。

それまでは植木職人でしかなかった治兵衛ですが、無隣庵作庭の体験から、自らの作風で庭造りをすることを自覚し、庭園技術者としての先達兼常からは、作庭術を習得しているようです。
治兵衛は京都の作庭師ですが、近代日本庭園の作庭思想・手法を確立した先覚者であり、未だにその流れは変わっていないと評価する専門家や研究者がいます。

作庭師として名声を得た治兵衛の今があるのは、山縣さん、中井弘さん、伊集院兼常の3人であると自ら語っています。特に、伊集院兼常さんほどの名人は滅多におらず、普請や庭園は近世の(小堀)遠州どすな、とまで言い切っています(続々江湖快心録:黒田天外)。

虎之助は、古河電気工業、横浜護謨、富士電機等の古河コンツェルンを創立しています。その補佐役は中島久万吉(くまきち)でした。日本工業倶楽部を創立し、後に齋藤実内閣の商工大臣に就任したのが久万吉です。
このように酷似する環境を生き抜いた治兵衛と虎之助の出会いは偶然でしょうが、運命の糸のようなものを感じます。

古河庭園の特徴を「植治の庭」から引いてみます。

1.生い茂る樹林により建築と日本庭園を隔絶している
2.台地の斜面という立地条件を生かして窪地状に土地を造成している
  中心に池(心字池)をうがち、周囲を小高く盛り上げた結果、なだらかな斜面や平地が少ない
3.治兵衛が作庭した庭の中でも特異な庭である
  周囲の自然風景を庭に取り入れる手法で作庭する京都のような庭園環境ではないので、台地上の洋館を庭から見上げるように工夫している

ここでは説明されていませんが、治兵衛は林間に見え隠れする茶室を配置して数奇の空間を想起させる手法を取り入れる特徴があります。

芝生園や展望台からは、心字池畔と苑路、茶屋、雪見型灯篭が林間に見え隠れしていましたが、心字池からは台地上の洋館は見えません。生い茂る樹林が洋館を隔絶しています。紅葉の季節に訪れた時は、芝生園や展望台から林間の風景は見られませんでした。

滝から水を落とし、滝つぼから流れる小川は池に注ぎ、下流へ流れていきます。
水と石の魔術師と呼ばれている治兵衛は、せせらぎの音が聞こえる小川の流れを作らせると右に出る作庭師はいないようです。

古河庭園には大滝があり、心字池を経て裏門へ流れ出ている小川があります。
2月7日の大滝は、滝壷へ落ちる小川の水音は聞こえましたが、手入れの行き届く時期でなければ、大滝周辺は雑草が多くて、その良さを堪能できないようです。それでも、滝下の小川に浮いている落葉をかき分けて餌をついばむ渡りマガモに遭遇するのは、冬場だけの特典です。

滝下の小川に小さな石橋がかかっています。この橋から裏門へ流れる箇所は水路と名付けられています。一枚の石板橋から眺める水路の石を、裏門側から見ると「まるっきり別の石」が置かれているように見えます。小川を中心に据えた風景写真には独立した風景が写っていました。これは、新しい発見で、新緑を見計らって写真撮影をする楽しみに残しておきます。

「先ず、ざっと地面を見渡したところで、この庭園はどう作るがよい、ここの所は何の石がよい、ここの所は何の木がよい、ここをこうして疎にして、ここをこうして密にして、ここに流れをつけて、ここに池を作って、月はどこから上がる、秋になるとどの辺りになる、日光でも日の長い時はどう、短い時はどう、そうして費用はどうと、長年やっていることでございますから、大概目算がつきまさァ。庭園に定まった好みなどないのは、一に地形によるからでございます」
(続々江湖快心録:黒田天外)

治兵衛に保太郎という長男がいます。八代目・白楊(はくよう)を名乗り、趣味は写真でした。
治兵衛は、遠方で仕事をする場合に保太郎を現地に派遣して施主との打合や交渉を代行させています。同時に、庭園を作る場所の写真を撮らせて作庭構想を練っています(同書)。ですから、造園地の写真を見て作庭方針を決め、おおよその予算設定もしていた筈です。

古河庭園の作庭は大正3年に始まりましたので、保太郎は22歳になっています。陸奥宗光邸のあった現地の写真を保太郎に撮らせて、全てを決めても不思議ではありません。治兵衛は新しい灯篭にもいろいろ考案を運(めぐ)らしていると、自ら語っています。
そして、保太郎は本業の灯篭研究では第一人者でしたから、制約の多い古河庭園に13基の灯篭を配置して特色を打ち出すアイデアを治兵衛に提供したのでしょう。

園内の灯篭は、奥の院型5、泰平型2、春日、松陰、濡鷺(ぬれさぎ)、綾部、雪見の各型1、枯山水滝上に配置した十五層塔を入れて13基になります。その多くは江戸後期と明治後期に作られたもののようです。

園内で最大の灯篭は奥の院型灯篭で高さは十五尺(約4.2m)あり、小豆島産の石材で作られ、火袋(ひぶくろ)に牡丹(ぼたん)唐獅子が彫られています。最小型の灯篭は、高さが4尺(約1.2m)の綾部と松陰です。綾部は大阪産の石材を用いて江戸後期に作られています。小豆島産石材で作られた松蔭の詳細は分かっていません。

雪見型灯篭は、河内(かわち)産石材で高さ8尺(約2.8m)の明治後期に作られたものです。笠径(かさけい)が7尺(約2.1m)ありますので、ずんぐりむっくり体型をしています。心字池の南端出島にどっしりと構えていますが、展望台から見るとちっぽけな灯篭になってしまいます。これは、雪見型灯篭を林間から垣間見させるようにしたために、近くで見ると馬鹿でかいと映る灯篭を選択した治兵衛の工夫だったと推察しています。

苑路から飛び石をつたって雪見型灯篭のある出島へ渡れますが、今は苑路を通るように竹垣で誘導してあり、立入り禁止になっています。

この灯篭は、心字池からの景観を引き締めるのに欠かせない役割を担っています。
出島正面の池畔に植えられたハゼの木の鮮紅に雪見灯篭を組み合わせた景観は、アクセントのある素晴しい絵になります。京都の庭園に少ないハゼが對龍山荘に植えられ、ここには2本植えられています。これも、月の出入りや季節の移り変わりを反映させる治兵衛の作庭手腕の証になっているようです。

余談になりますが、虎之助は筑波山下から産出する石を庭石に使うように指示を出しています。
治兵衛は、通常、庭園で使用する樹木や石材を京都で営む小川造園から自社販売していますが、施主の要望には従っています。これは、治兵衛の営業方針でもありました。

有栖川宮、北白川宮各御殿の設計者はジョサイア・コンドルです。そして、二つの御殿の敷地には高低差があり、面積は1万坪強なのです。施工会社は日本土木会社で、伊集院兼常が建設に関っています。京都の南禅寺周辺を別荘地として造営・開発する先導役を果たしていたのは兼常と山縣有明、その別荘庭園の多くを作庭した治兵衛。

古河虎之助邸は、ジョサイア・コンドルを設計者に選択した瞬間から治兵衛を引き付ける磁力を秘めていたのです。


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古河庭園 その3 芝生園の残雪と洋館

2008-02-08 00:32:16 | 散策
チャッピー、ミミとの早朝散歩で、家の周りは雪で白く覆われていました。
昨夜、ワールドサッカー予選をTV観戦していると雪が降りだしたのを思い出し、古河庭園も積雪があると連想してしまい、庭園の雪景色を撮りたくなり、駒込まで足を伸ばしました。

ここは、JR山手線・駒込駅より京浜東北線・上中里駅を利用した方が便利です。
それは、近くにある六義園を観たくなるからでもあり、徒歩で近いからです。

古河家三代当主・虎之助が建てた本宅で、ジョサイア・コンドルの設計した洋館とバラを主体にした西洋庭園と日本庭園との2区画から構成されていることは、ご存知と思います。

駒込駅前にある六義園は4万坪の大庭園です。柳沢吉保(やなぎさわ・よしやす)が和風を基調として自らデザインした江戸時代の大名庭園です。
一方、ここは大正初期に古河虎之助が京都の作庭師・小川治兵衛(7代目)に依頼した1万坪の敷地にある庭園です。

園路を清掃している方の話では、昨夜の残雪より、先週日曜日の降雪が残っているだけとのこと。
11月に訪れた時、心地池(しんちいけ)は燃える紅葉の影になって展望台からは見張らせなかったのですが、今回は、紅葉は落葉になり見晴らしが利いたのです。

傾斜地の低い所に設けられた日本庭園の要である心地池の南端が、芝生から茶室へ向かう園路の入口辺りからも池の周りを垣間見ることができたのです。展望台下には池周りの園路がスカスカの樹林を通して見え、その先に雪見型灯篭が小さくなって居座っていました。

ここの光線の具合は午前中が良いようです。写真は11時30分前後の太陽光です。
バラ園側からは、建坪約240坪、煉瓦造2階建の大邸宅が太陽光を燦燦と受け、安山岩系のやや赤味のある小松石で野面積みされている外壁の凹凸がくっきり観察できるくらいです。

残雪の名残は園内に三々五々とあるだけでした。
洋館横に設けられた芝生園の残雪が一番それらしく、記念にパチリ。
2時間ほどの庭園巡りを終え帰路に就きました。

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