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いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

中欧8日間のたび ウイーン その2:クリスマス・ワークショップを楽しむ子供たち

2012-12-29 22:57:08 | 中欧のたび
ウイーン市庁舎内を見たくなり唯一開いている入口を入ると、そこは子供を対象にしたワークショップ会場でした。

クリスマスの備品作りに熱中する子供たちの姿を撮った後、入口上に吊るしてある案内板に気が付くづうづうしい外国人にも関わらず会場へ入る時、子供たちが歓迎してくれたのです。



組み立てた小屋に色を塗り完成させるワークショップ2の子供たち。
母親らしき人物が小屋の組み立て方でも相談している模様です。彼女が手にしている小屋のパーツを注視している指導員の横に座っている男の子は、母親と指導員との遣り取りが気になり、その様子を横目で窺っている。僕は自分で小屋を完成したのに、お母さんは・・・とでも言いたげな雰囲気ですね。
完成間近の小屋の底に何かを書いているのは女の子でしょう。右端には屋根を組み立てる前に小屋の出来映えを確かめている子もいます。



クリスマスプレゼントにする手作りペンダントのワークショップは3にありました。
男の子も女の子も夢中でペンダントを作っています。プレゼントする相手の笑顔を思い浮かべているようにも窺える熱の入れようです。



キャンドルを作るワークショップ4は、男の子だけのようです。
キャンドルの出来具合を評価してもらう子、横にしても傾かないかを確かめている子、キャンドルに吹きかける色を選んでいる子供たち。みんな真剣勝負に挑んでいるようです。



自分が選んだ色をキャンドルに吹き付ける男の子供たち。



日本の大晦日がクリスマス・イブ、クリスマスは元旦に相当するようです。
除夜の鐘が撞き終わり新しい年を迎える感覚がクリスマス・イブ、クリスチャンにとっては最も重要な時間です、と現地のツアーガイドさんから聞いて、クリスマス直前の日程を選んだ目的のひとつが達成できました。

 「もっと大事なことを書き忘れていませんか、元気印さん?」

ボケ封じ観音さまの声がします。

 「クリスマスイブで輝くワークショップで作ったキャンドル、小屋やペンダント作りに込めた子供たちの気持ちを一家団欒の話題にするのもイブでしょう。5日後に控えたクリスマスイブの備品作りワークショップに出会えたのは、千載一遇のチャンスだった。違います」

別の余禄もあります。
シェ―ンブルン宮殿前のカルチャー・クリスマスマーケットには、キリストの誕生場面を表す木彫り人形であるクリッペが展示されていたのです。




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中欧8日間のたび その1:ウイーン最大のクリスマス市場

2012-12-27 20:16:21 | 中欧のたび
ジングルベルとケーキがクリスマスだと思い込んでいた頃に、あるクリスチャンから誘いを受けたクリスマス・イブでは、その年を振り返り、来る年への抱負を語り合った30数年前の体験が、「中央ヨーロッパ5ヶ国周遊8日間」に参加する心の導火線に火をつけたのです。

旅行日程表が届き訪問地でのスケジュールには、「クリスマス・マーケット」見学にウイーンで1時間が2回、プラハ、ブタペストでも1時間組み込まれている。訪問先の情報収集はガイドブックを頼りにウイーンへ向かう機内で俄仕込み。

今回訪問したウイーン、プラハ、ドレスデン、ブラチスラバ、ブタペストの冬の風物詩がクリスマス市で、これだけを見学するツアーがあるとのこと。

クリスマス・マーケット、クリスマス村、クリスマス市、ウインター・マーケットなどの名称で呼ばれる10にも及ぶ市があったようです。ガイドブックによれば、クリスマス前の日曜日から溯って4週間前の日曜日からクリスマスまでの期間を「アドヴエント」と呼ぶクリスマスを迎える準備期間。

12月18日の16時10分(現地時間)ウイーン到着後、シエーンブルン宮殿前のカルチャー・クリスマス村を見学してからホテルへ向かいます。ここのクリスマス村は11月24日から12月26日まで、それから元旦まではニューイヤー・マーケットに衣替えするようです。

ウイーン最大のクリスマス市には、おおよそ150の屋台が並び、子供や家族連れの人気が高い市が市庁舎前のクリスマス市、1772(安永元)年から開催されている伝統あるフライウンク広場のノスタルジー・クリスマス市の見学はなかった。

1883((明治16)年に完成した市庁舎の前広場に開いた市をブルク劇場前から撮った風景です。



中央の通り道を市庁舎前まで直進し、右側にヴォティーフ教会の塔が観えます。
この教会の塔は99mですが、市庁舎の塔の高さはそれ以下にするよう皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から注文が出され、設計者フリードリヒ・フォン・シュミットは98mにしたとのこと。



屋台の前で軽食する人、外国人カメラマンを興味ありげに眺める女性、市場での過ごし方は十人十色。

市場の入口で子供たちの団体に出会います。
みんなバックを背負っています。
子供たちの動向を注視している金髪の女性は、引率者でしょうか。
市庁舎内部では、Christkindls Werkstatt が開催されていました。
そこではローソクの着色、小屋の組み立て、ペンダントなどを作っていたので、子供たちはChristkindls Werkstattで遊び、クリスマス市の散策を楽しんで、これから帰宅するのでしょうか?



市庁舎手前の左側に子供たちの人気スポットがありました。
銀色の翅を広げた蝶を背にして記念写真を撮ろうと子供が集まってきます。
その前でわが子にカメラを向けている母親、ヴォティーフ教会を背景にしているカメラセンスは玄人はだしですね。



「グリューワイン」を飲みながら市場内の屋台巡りをすることが、ウイーン市民の楽しみとのこと。
赤ワインにオレンジピールやシナモン、クローブなどの香辛料、砂糖やシロップを加えて火にかけて暖めた飲み物がグリューワイン。
飲み物だけは3.5ユーロ、マグカップを持ち帰る場合は6ユーロ。
最初に6ユーロ支払い、マグカップを返却すれば2.5ユーロ払い戻しされる。そのまま持ち帰ってもなんら支障がないし、他の国のクリスマス市も同様の方式なので、お土産に集める知恵者がいました。





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浜離宮恩賜庭園 その3:凛として佇む 可美真手命(うましまでの・みこと)の像 

2012-12-15 00:57:45 | 散策
「近いうちに解散する」
この「近いうち」解釈をめぐり3ヶ月にも亘って、法案の審議をすべき責務を放棄し、貴重な時間を浪費していたことを過去のものとする先生方々は、晩秋の厳寒にも負けず選挙区内を駈けずり回っている。師走に相応しい情景ですね。
12月9日(日)の「新報道2001決戦直前11党党首激論SP」でも、党が掲げる公約の実現確度に党首たちは熱弁を振るい、他党のそれの不備を衝くなど喧々諤々。

日本の舵取りを渇望する政党が12も名乗りを挙げ、単独で政(まつりごと)を担えるのではと予測される政党に、1人だけのそれ、数人あるいは数十人のそれらが混在して気勢を揚げて、第46回衆議院議員総選挙を1,504人が戦っている。誤解を承知で書けば、ジパングの政は俺に任せろと、老雄、奸雄、妖雄、風雲児らが割拠している政治の世界。

「有権者は12月16日(日)その審判を下すんでしょう。その義務を放棄して投票場へ行かねば、政治や行政に自分の意思を提言する、苦情を述べる権利をも放棄することになりますね」

ボケ封じ観音さまの世界にも総大将を選ぶ行事があって、その投票は神様の義務になっているのだろうか・・・?

さて、浜離宮恩賜庭園に佇んでいる銅像があります。
JR浜松町から「中の御門」を通って公園内に入って道なりに直進すると突き当たりにこれが観えて来ます。



一方、汐留・新橋からだと「大手門」が出入口になり、三百年の松、梅林、将軍お上がり場などを経て富士見山、中島の御茶屋方向へ巡る散策になり、銅像に気付かない場合が多いだろうし、これに関心をもって訪れる入園者も少ないでしょう。

『可美真手命(うましまでの・みこと)
饒速日命の皇子で、神武天皇の東方遠征に従い、手柄をたてたと言われる軍神の銅像です。
明治27(1894)年、明治天皇の銀婚式を記念して陸軍省が行った懸賞募集に当選した作品であります』

命(みこと)像の前に設置してある台座には、佐野 昭制作、鈴木 長吉鋳と記されています。



今年は、明治天皇崩御100年、古事記編纂1,300年です。これを読みながら、俄然、この像は興味の的に・・・。

ところで、饒速日命(ひぎはやとの・みこと、以下、ニギハヤト)は『日本書紀』、『古事記』では邇藝速日命と表記しているように、「記紀」に登場する神様の御名は違います。台座の解説は前者を採って可美真手命(以下、ウマシマ)、後者では宇麻志麻遅命(うましまぢの・みこと)です。

ちなみに、明治天皇の銀婚式記念とは、明治27年3月9日に催された大婚二十五年祝典のこと。日本で初めて明治天皇が銀婚式の祝賀を行ったことが契機になり、金婚式の折返しにあたる銀婚式を日本に広めた式典ともなったようです。その明治天皇が崩御されてから100年に当る今年、国の式典などは催されなかったようですが、「明治天皇百年祭」が明治神宮で行なわれていました。

ウマシマは、ニギハヤトと長髄彦(ながすねひこ)の妹・三炊屋媛(みかしきや・ひめ)との間に産まれた男神。大伴(おおとも)氏と並んで朝廷の軍事を司った伴造(とものみやっこ)の氏族。物部連(もののべの・むらじ)らの、穂積臣(ほづみのおみ)、婇臣(うねめのおみ)の祖とされています。

棒状の何かをウマシマは大事に抱えています。
布都御魂(ふつの・みたま、以下、フツノミタマ)ではないかと、元気印は推測しますが、確たる情報はありません。



なにはともあれ、『古事記 神々と神社』(宝島別冊1834 他)によれば、

『フツノミタマは、建御雷之男神(たけみかづちの・をのかみ)が葦原中国(あしはらの・なかつくに:地上世界。特に日本)を平定した時に用いた霊剣で、荒ぶる神を退ける力を持つとされる。「ふつ」は、プツンと鋭く断ち切る音を表しているといわれる。
神武軍が熊野山中で荒ぶる熊神に出会い、その毒気に当たり倒れてしまった。この時、高倉下(たかくらじ)という者がフツノミタマを持ち参じた。剣は、神武天皇の危難を案じる天照大御神(あまてらす・おおみかみ)と高御産巣日神(たかみむすひの・かみ)が、高倉下に神託を下し与えたものだった。その後の国土平定の戦いでも大いに役立ち、物部氏により祀られることになった。フツノミタマは石上神宮(いそのかみ・じんぐう:奈良県天理市)の祭神とされ、ウマシマも配祀されている』

ここに描かれている、神武軍が熊野山中で・・・とは、畝火山(うねびやま)東南の白檮原(かしはら・奈良県橿原市)を都として定めて、神武天皇となる神倭伊波礼毘古命(かみやまと・いわれひこのみこと、以下、カミヤマト)が、日向(ひむか・九州南部)から白檮原への遠征、神武東征と通称されている日本建国物語前半の後半部で語られている戦いです。
カミヤマトは、東征を阻む地方の豪族との衝突を戦い抜いて、白檮原への東征を成し遂げます。熊野山で熊神の毒気で昏睡状態に陥ったカミヤマトと兵隊たちを救援するフツノミタマが天から降され、その後、八咫烏(やたがらす)を降されたカミヤマトは、前途に待構える難局を乗越え東征の最終目的地へと先導されます。

『古事記が記す神武天皇ご即位までの物語は、日本の建国の物語。神武天皇が天下をお治さめになった白檮原宮は最初の皇居であり、我が国最初の都でもある。これ以降は、天皇の統治がどのように行われてきたか、すなわち、天皇の統治の歴史が記されていく』(竹田恒泰著:現代語 古事記)

日本建国の物語に登場するウマシマは、カミヤマトの大和平定に貢献したニギハヤトの息子であると、記されているだけです。このウマシマを題材にして石膏像と銅像を創った二人の作家の創作イメージを知るために、長々とカミヤマトの建国物語を書きました。

カミヤマト、ニギハヤトに関しては古絵図が残っているので、創作イメージに枠が嵌められるのを回避したのではないか、ウマシマと明治天皇の接点はあるのだろうか?

そこで、先の台座に記されている二人の作家、制作の佐野 昭、鋳金した鈴木 長吉について、元気印の情報収集癖がうごめき始めます。

佐野 昭
慶応2(1866)年、江戸に生まれる。※1工部美術学校で※2ラグーザに師事して彫刻を学び、明治15(1882)年卒業。明治28(1895)年第7回明治美術会展に石膏像「虎刈り」など2点を出品。翌29年※3白馬会創立会員となり、第1回展に石膏像「可美真手命像」のほか、第六師団戦勝記念図案等建築下図四点を出品する。石膏像「可美真手命像」はこの後、浜離宮恩賜庭園に銅像として建立。黒田 清輝、久米 桂一郎と交友。(近代日本美術事典他)。

※1工部美術学校(こうぶびじゅつがっこう):工部省管轄の工部大学付属機関として設置された、日本最初の美術教育機関。設けられた学科は、画学科、彫刻科の二科。
※2ヴィンチエンツオ・ラグーザ:明治9(1876)年、明治政府に招かれて来日したイタリア人彫刻家。工部美術学校で彫刻の指導を行う。清原 多代と結婚。
※3白馬会(はくばかい):明治29年に黒田 清輝(せいき)を中心に発足した洋画団体。

鈴木 長吉
嘉永元(1848)年、武蔵国石井村(埼玉県坂戸市)に生まれる。※1鋳金家。岡野 東竜斎に師事する。※2蝋型鋳造を得意とし18歳の時、鋳物工場を自営。内外の博覧会に多くの作品を出品し多数の賞を得る。明治18(1885)年のニュールンベルク金工万国博覧会で最高賞を受けて有名になる。明治29(1896)年に※3帝室技芸員となる。代表作は「鷲置物」(重要文化財・東京国立博物館)(新潮世界美術事典他)。

※1鋳金(ちゅうきん):加熱によって融解した金属を、鋳型に注ぎ入れて器物や彫刻を作る技法。
※2蝋型鋳造(ろうがたちゅうぞう):蜜蝋をひねって原型を作り、これを鋳型土で包んで土鋳型を作製し蝋を焼き抜いて、できた空間に溶銅を注入する技法。飛鳥・白鳳・奈良時代の金銅仏にこの技法が多く用いられている。
※3帝室技芸員(ていしつぎげいいん):明治23(1890)年の帝室技芸員制度により皇室の
保護を受けた美術・工芸家。戦後廃止されたこの制度の顕彰行為は、文化勲章や重要文化財制度、或は日本芸術院会員の認定などに引き継がれている。

ウマシマ銅像制作の背景を探るヒントが、二人の経歴にありました。
先ず、明治天皇の銀婚式典について、「歴史読本 明治天皇100年目の実像 2012・12」には、

『内心では戦争を潔しとしなかった明治天皇の大婚二十五周年を祝う銀婚の式典が、明治27(1894)年8月1日に開戦する日清戦争に先立つ3月9日、国を挙げて催された。伊藤 博文の建議になるとされるこの式典は、西洋に倣って皇室の大衆的人気を喚起し、当時の政治状態の惨状によっては望みえなかった国民的一体感の作出を狙ったものと考えられる。宮中の慶事に国民も熱狂し、「市中は軒頭に提灯を掲げ、意匠を凝らしたる飾物を作り、深更けに至るまで花火を打揚げて祝意を表す」と明治天皇紀は記している(第八巻、390頁)。いったん開戦となるや天皇は、個人の意思に封印して、日本軍を率いる大元帥としての役割を見事に演じていく』

とあり、歌人としても知られた天皇は、その生涯におよそ10万首の歌を残している。中でも明治の人が愛唱した御製(ぎょせい・歌)は、

  あさみどり 澄みわたる大空の
        広きおのが心ともがな

( 一点の雲もなく、浅瀬に晴れわたった大空のように、清くそうして広いこころを、私はもちたい )

次に、宮内庁から写真提供された明治天皇の御肖像画(明治神宮所蔵)が掲載されています。
イタリア総領事の山中 譲治が明治7(1874)年、イタリア人画家ウゴリーニに発注して制作させた肖像画に描かれている天皇の御顔の雰囲気が、銅像のウマシマのそれに近いと元気印は感じます。佐野が白馬会第1回展に出品した石膏像「可美真手命像」を発想させる源ではなかったのかと、独断と偏見に満ちた推測を促してくれます。

国民の慶事として祝福された明治天皇大婚二十五年は、日清戦争が勃発する緊迫した外交問題があり、それを回避する政治情勢も混乱を極めていたようなので、佐野は日本を平定したカミヤマトでは畏れ多いと考え、具象化する男神としては自由度の広い、大和平定に功績のあったニギハヤの息子ウマシマを彫刻の題材として選択し、フツノミタマを抱えさせた。

また、佐野は、第六師団戦勝記念図案等建築下図四点を出品しているので、陸軍との接点もあります。おそらく佐野の石膏像を観賞した鈴木長吉は、彼の創作意図を瞬時に飲み込み、佐野が制作した石膏型から土鋳型を作り鋳金することを考案し、陸軍省の懸賞募集に応募・当選したのでは・・・。

二人は、明治天皇の銀婚式典を慶び、御肖像画に描かれている天皇の御姿を観る機会があって、御製を愛唱する国民の心情も心得ていたでしょう。陸軍省の審査員もウマシマ像の制作意図を忖度する歴史認識を持っていたはずです。

保存に手間隙を要する石膏像は、銅像にして建立すれば長期保存が可能になります。
関係者にそのような決断を下させる魅力を放っていたウマシマ石膏像。明治天皇崩御100年目に当たる平成24年、鈴木が鋳金したウマシマ銅像は、今も凛とした表情を崩さずに恩賜庭園に佇んでいます。



「そんな突拍子もないことを思い浮かべて楽しんでいるんですか。でも、事典が記す、その後、浜離宮・・・が暗示するウマシマ銅像誕生の秘密かも知れませんよ」

ボケ封じ観音さまの心強いアドバイスに頭が下がります。

ここで、明治27年、明治天皇の銀婚式を記念して陸軍省が行った懸賞募集に当選した作品である云々、と台座に記されているウマシマ像の創作背景が垣間見えたようです。
明治天皇と可美真手命、陸軍と佐野 昭、そして、佐野と鈴木 長吉とが線で結ばれたようです。しかし、元気印の勝手な推論ですから、参考にならないことを強調します。

政治状態の惨状によっては望みえなかった国民的一体感の作出を狙い、明治天皇の大婚二十五周年を祝う銀婚式典を建議した伊藤 博文。
明日は、彼のように柔軟な発想から政策を生み出して果敢に実行する人物や政党に投票したいものです。
















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浜離宮恩賜庭園 その2:ここは、我輩の特等席

2012-12-01 15:55:52 | 散策
11月24日(土)は、昼前までは太陽が雲に遮られ、曇天模様でした。
昼過ぎに雲がなくなり庭園内に降り注ぐ陽光を浴びている猫は、あたかも、小春日和を満喫している雰囲気。



さて、徳川三代将軍・家光の4子・綱吉に実子がいなかったのが幸いし、五代将軍・綱吉の養子になってから、宝永6(1709)年5月1日、家光の孫にあたる家宣は六代将軍に就いた。これを契機に、松平 綱重が別邸にしていた甲府浜屋敷は、「浜御殿」と呼ばれるようになり、ほぼ現在の姿の庭園が第十一代将軍・家斉 [ いえなり:天明7(1782 )年~天保8(1837 )年 ] の時代に完成している。

家斉は、燕の茶屋、松の茶屋、藁葺の茶屋(鷹の茶屋)、御亭山腰掛、松原の腰掛、五番掘腰掛、浜の藁屋、新銭座東屋などを建てている。浜御殿はこの時代に最も整備・修治され、華々しい催しが続いた時代であった(小杉 雄三著:浜離宮庭園)。

松に隠れている「小の宇島」の入口には「藤棚」、左奥に観える「中島の茶屋」。そこから富士見山方面へ向かう白い橋を横目で窺い、「潮入の池(大泉水)」を悠然と眺めている猫がいます。
芝生へ入らないように散策路に張り廻らしてあるロープを結界とでも心得ている様子で、散策者の話し声や足音がしても正面を直視したまま。口笛で呼びかけても馬耳東風。

ここから少し右に行くと平成22年12月に復元された「松の茶屋」があり見学ポイントになっている。人の気配がする環境に慣れているのでしょう。よそ者の元気印がチャチヤを入れても無視される訳です。



この庭園にあった「燕(つばくろ)の茶屋」、「松の茶屋」、「藁葺の茶屋(鷹の茶屋)」のうち復元されたのは「松の茶屋」だけ、他の二つは礎石等が現存しているので、復元する計画があるようです。

茶屋の周辺に松が多く植えられていた、谷 文晁(たに ぶんちょう)が戸障子すべてに松を描いたから「松の茶屋」と呼ばれ、翠松亭(すいしょうてい)とも言われていた(同上)。



広さ約8,000坪もある「大泉水」は、水門によって海の水を導く「潮入り」の手法を取り入れ、潮の干満によって池の水位が変化する造りになっている。庭園の定住猫は、池の岸の様子がその時々に変わる風情を想像しているのかも知れません。
家斉が精魂を込めて整備した庭園の最盛期を偲ばせる見事な松もあるこの場所は、定住猫の指定席に相応しいようです。

「松の茶屋」で猫を撮り終えて「お伝い橋」の入口へ行く途中、外国のメディアに出会いました。
和服の女性二人と打合せをしている外国人二人。女性は通訳、演出をする男性でしょうか。音を採る係りは大きなマイクを片手に、なにやら調整している様子。右の二人はカメラマンでしょう、和服女性の姿をどう撮るかを頭に描いている風情です。



ことの顛末を見定めたかったのですが、生憎、12時30分から12年振りに再会する会合があり、後ろ髪を引かれる思いで、浜離宮恩賜庭園を後にした次第。










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