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かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

全ては太陽の恵みか?

2017-05-07 | 気ままなる日々の記録

   ゴールデンウイークも過ぎここの施設から眺望できる田畑も緑を濃くしている。作付されているのは、麦と思われるが、日に日に緑を濃くし背丈を伸ばしている。大麦か小麦かまだ分からないが、7月頃には分かるとおもわれる。草葉が伸びればそれを食べる昆虫も卵から孵りやがて昆虫になって田畑を飛び回り、相手を見つけて交尾し沢山の卵を草の葉に産み付けることだろう。人間は其れを消毒で殺し、葉を食べられないようにし沢山種を作らせそれを横取りしている。

 小麦ならパンやうどんにして食べ、大麦ならば押し麦にして、お米に混ぜてご飯として頂く。全ては太陽から戴いたエネルギーの賜物である。卵も鶏肉も麦を与えて育てた鶏の産物である。

 魚だって海草を食べて育っているが、その海草が海の中で太陽光に当たって育っているのだ。

 私の祖父は毎朝太陽に向かって柏手を打ってお祈りをしていた。何と言っていたのか、今となっては知る由もないが昔の人は太陽の恵みに感謝していたのだ。

 その点我々現代人の方が大切なことを忘れているような気がする。(T)

    

                                                      麦畑

 

 

 


「徒然なるままに」[右脳視床下部内出血による左半身不随患者の呟き」

2017-05-06 | 気ままなる日々の記録

  車椅子生活で殆ど何もできない。従って、世間は連休ということで、どこか浮き立っていても私の部屋は淀んだ空気で倦怠感に満ちている。

 そんな時、突然「未亡人」などと云う言葉は随分失礼なことばだなあと思ったりする。

 結婚した夫婦で夫が死んだら妻も死ぬべきだとでもいうのだろうか?

 「あの世までおともします」という夫婦愛の極地なのだろうか、と考えたりして、良く知らないが語源は中国かも知れないと思いついたりする。

 そういえば中国の皇帝が死去すると何十人もいた側室は全員殺されたときいたことがある。医学が発達していなかった時代、

 皇帝の死後側室が子どもを産むとその子が皇帝の子どもかどうか分からなかったからだという。

 皇帝の側室になるだけで、その側室の家系はものすごい手当が支給され、兄弟から従妹まで、莫大な年金が授与されたというから、側室が産んだ子供が皇帝の子どもだったら一族郎党全員が大富豪になる。

 ちょっと事情が違うが、玄宗皇帝と楊貴妃の話しでも、その一端が伺える。

そういえば我が国の古墳にも天皇の遺体の周りに、沢山の陶器でできた兵士の像が埋められていたことがあった。あれはあの世でも武装した兵士が天皇をお守りするために埋められたということであった。

未亡人に戻って、未亡人は女性と限らなくても何の混乱も起きないと思われる。妻に先立たれた夫も100%未亡人です。もし妻に先立たれたら未亡人ダイヤドラゴンとして死亡通知書を出そうと思いつき、一人でニヤニヤしているオソマツ君である。(T)

     

                                                                   5月の前庭


奇妙な行動にビックリ。

2017-05-02 | 気ままなる日々の記録

 私は毎朝目覚めると主人の部屋を覗くことにしている。トイレに起きて部屋の温度をとても高くしてしまうことがあるからである。発病したのが冬の早朝で寒かったせいだと思い込んでいるらしい。27℃や時には30度Cにしてあることもある。

 今回は気温は24度Cで就寝時のままであったがマスクの掛け方が異常であった。一度に3枚も重ねてはめているのである。どう見ても奇妙な行動で一瞬ドキリとしてしまった。

 よく理由を聞いてみると私が一度使ったマスクは捨てるように言っているのが気に入らないらしい。もったいなくていつもポケットにシマっているという。ポケットに一杯押し込んでしわしわになったので、3枚一度にはめてしわを伸ばしていたのだそうだ。主人は理由を付けるのが実にうまい。ひょっとしたら認知症の始まりかも知れないと思った。

 3年前の冬のことである。その時はインフルエンザが大流行して、見舞いに来た主人の兄がマスクを2枚嵌めてやってきた。この人ならそんなこともあるかと、噴き出しそうになったが、理由は尋ねなかった。

 兄の場合は噴き出しそうになり、主人の場合はビックリした。この違いはどうしてなのだろうか。とにかく、変わった兄弟であることには、間違いない。(E)

    

                                          散歩道で  八重桜。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日は5月2日(火)終日晴天に恵まれ、初夏を思わせる日差しに恵まれ、《続く》


お風呂のケアーさんに教えられたこと。

2017-05-02 | 気ままなる日々の記録

  僕の場合は月・水・金・がリハビリで、火・木・土・がお風呂だ。どちらも、午前中の仕事である。最近はお風呂が楽しみである。というのも、左腕や左足の裏側《背中の面)が痒くて、お風呂で洗って戴くと暫く痒くないからだ。そこでお風呂でケアーさんにお聞きした。

B(僕)「最近左腕の裏側が痒いけど、僕のように半身不随の人にこういう人は多いかなあ?」

C[多いですよ」

B「どうしてだろうねえ?」

C「どうしても、半身不随の人は悪い方の手足を動かさないから、汗をかいても、いつまで     

  も、乾かないから悪い菌が繁殖しやすいんじゃないかなあ」

B[なるほど、確かに僕の場合も左側の手足はベッドに寝ているときはまずうごかさないですねえ。死んだ魚のようにべッドの上に転がっていますよ。だから、汗が乾かないのか。

 よく分かりました。これからは、目覚めているときは意識して動かすようにします。眠ってしまった時はダメだけど」と云った。人間の体は良くできていて、思わぬところに病気予防の装置が潜んでいる。速歩で4キロぐらい歩くことが健康によいというのもやはり血流を促すからだろう。(T)

     

                                                        散歩道で  卯の花。

 


「知人からのコピーを読んで」

2017-04-27 | 気ままなる日々の記録

  主人の友人の一人に、いつも自分が読んで 興味を持った記事のコピーを送って下さるかたがある。外出もままならず、暇を持て余しているのでは、少しでも脳に刺激を与えて衰えを遅らせようと配慮して下さってのことだと感謝している。

 内容は多岐にわたり、今回は私もその恩恵に預かった。経済とか時事問題に弱い私は今まで読んだことは無いが、題名位は見せてもらう。その中で目についたのは曽野綾子さんの、-わすれるための月日ー 私日記風の記事でご主人の亡くなった様子と自分の心のうちがつづられている。

 冒頭の「この月私の意識の中から社会がかすんでいる」と云う名文には本当に心を動かされ最初から最後まで、もう3回も読んだ。

 一流作家の方から文面をお借りしておこがましいが私も「一か月私の意識の中から生活がかすんでいた」という経験をした。

 3年前、冬の寒い日の早朝主人が倒れた時のことである。始めの1ヶ月は救急病院で残りの5カ月はリハビリ病院で過ごした。この救急病院でのことが思いだせないのである。市内の病院だったので、タクシー代は半額になった。其れで毎日午前中に出かけ夕方帰っていた。その間の自分の家での食事・掃除・洗濯はどのようにしたのか何一つ思い出せない。病院ですることは、何もない。どのように過ごしたのか覚えていない。未知の世界と先行き不安の中でただおろおろしていたのではないか。電話にも出たくなかった。人と話をするゆとりさえ失っていた。

 このような状況では、自己防衛として苦しいときのことを忘れ去ってしまうのだろうか、と今になって思う。生活がかすんでいたというのは1か月ほどの期間でその後のリハビリ病院でのことはしっかりと覚えている。(E)

  

                                                        4月の夕焼け

 

 

 

 

 

 

 


「よく雨ですねえ」

2017-04-26 | 気ままなる日々の記録

  私がお世話になっている「住宅型有料老人ホーム」にもご多聞に漏れず外国人労働者が大勢働いている。

 今日も顔見知りの方が「よく雨ですねえ」と気安く声を掛けてくださった。「ほんとですねえ」と云っておいたがすぐ後に「?」と思った「良く降りますねえ」とはいうが、「よく雨ですねえ」とは言わないのではないかと気が付いたからだ。「よく」は形容詞ではないから、「よく雨」は文法的に間違いということになるのだろう。「よく降りますねえ」は○で、「よく雨ですねえ」は×ということになる。ことほど左様に外国の言葉を覚えるということは大変に難しい。同じことは雪でも言えて「よく雪ですねえ」は×で「雪が良く降りますねえ」は○である。

 蛇足ながら人手不足の我が国の産業界にとって、発展途上国からの労働者がどっと入って来ることは自然の流れで産業界にとってもプラスのように思えるがここが意外と難しいようである。

 いい例が第一次世界大戦の後のドイツで起こったようである。当時ドイツは産業先進国で、第一次大戦で工場がやられたドイツで工場の再建が進むとヨーロッパの貧しい国《スペインの田舎やイタリヤやハンガリーから大量の労働者が流れ込んだ。ところがしばらくすると流れ込んだ労働者たちに沢山の子どもが生まれ彼らはドイツ人であるがドイツ語がサッパリ分からないこどもであった。

 ドイツ政府は莫大な予算をつぎ込んで各小学校にドイツ語の基礎を教える教室をつくり、言葉を教えた。しかし生活習慣の違いから近所の人たちとのトラブルの発生に頭を痛め、結局安易な移民の受け入れは失敗だと気が付いたという。

 今日の我が国はそのことを良く考えて発展途上国の日系人の受け入れに限っているようだが、やはり、難しい問題は残っていると思われる。こうしたところを、我が国の政府は適格に判断しているのでしょうか。心配である。(T)

     

                                               散歩道で  満天星。

 

 

 

 

 

 


異文化について。

2017-04-25 | 気ままなる日々の記録

 私のいる施設には、海外から来て働いている人々がかなりいる。フィリピン、インド、ペルー、カンボジアなど。皆さん日常の会話はとてもよくできる。一目見たり、チョット話したりしただけでは、とても海外の方々だと分からないくらいだ。

 でも文化の違いははっきり出るのですぐわかる。例えば、お茶会のとき、同じテーブルに座っていても、湯のみの形を揃えて出そうとは思わない。日本ではなるべく揃えようと心掛ける。次にビックリしたのは、配膳のとき、朝食の副食は数が多い。其れで一つのお膳に載せようとすると、かなり苦労する。それで、ラップを掛けた焼き魚の上に大根おろしの小皿が載って出る。日本の人は先ずこんなことはしない。始めは面食らったがだんだん慣れてきた。最近、飲む薬がどうしても見つからないことがあった。連絡する前に、まさかと思ったが、お膳を挙げてみたら何とお膳の下から出てきたのである。

 私の偏見かもしれないが、外国の方々は、気くばりということが、苦手のようである。

 食事のときエレベーターを降りると「先ほどお食事をお持ちしました」「今からお食事をおもちします」などといつも声を掛けるのは、日本の方々である。リハビリや診察で遅くなるとなるべく配膳を遅くしたり、集めるのも遅くと心遣いして下さるのも日本の方々である。

 文化が違うところで育った方々に気配りや、心遣いと云う難しいことを要求したりしてはいけないと、自分を諌めつつそれでも心は複雑である。(E)

    

                                                      蓮池にも鴨のつがいが。

 

 

 

 

 

 

 

 


思い出すままに。

2017-04-21 | 気ままなる日々の記録

 ①「ギョエテは俺かとゲーテ仰天す」

 ②「身体髪膚これ両親より受く敢て飢傷せざるは、孝の始め也

 ③「デカンショウデカンショウで半年暮らす、後の半年は寝て暮らす」

上記①~③は旧制高校で生まれた流行語という。少し解説すると、明治になって、我が国は、初めてヨーロッパの文明にふれ、「追いつけ、追い越せ」を合言葉に国民教育に力を入れ、小学校に義務教育を導入し、旧制中学、旧制高校、工業専門学校、医学専門学校、商業専門学校等をつくり、イギリスから教師を招き英語で授業をしてもらいます。学生は激しい受験競争に勝ち合格した生徒たちでこれまた、テストの得点合計でびり5パーセントは落第とか、温情主義なしに競争に追いやられよく勉強しました。明治初期は全部国立で全寮制でした「昔神童と云われた俺も今じゃドイツ語で目が回る」これも旧制高校の寮で謳われたデカンショ節の一説です。①はウムラルトが付いた。発音は日本語に無いので、無理にカタカナ書きするとこういうことになります。なかなかよくできたダジャレです。

 ②は中国の古典にある言葉で自分の体や髪の毛までも大切にしなさいということ。これを寝台白布と書きさらに敢て起床せざるは孝のはじめなりとわざと違う漢字を書いてドアーに貼った学生がいたとか《要するに昼間も寝ているということ。》ジョークとして一級品だと思います。

③はデカルト、カント、ショウペンハウエルの略だそうで。ヨーロッパの哲学を懸命に教えたようです。人生如何に生きるべきか。これを考えるのが哲学のようですが戦後の教育はアメリカの真似をして合法的に如何に儲けるかばかりが注目されこれではもうよきリーダーは育ちません。我が国は敗戦によってアメリカに完全に骨抜きにされたような気がします。トランプ氏の出現によって、それが一層みえてきました、朝鮮半島の緊張に際しても我が国は全くビジョンを持っていません。本当に心配です。(T)

   

                                        散歩道で  雪柳。


最近の出来事

2017-04-19 | 気ままなる日々の記録

  主人が退職するとき、退職金の一部をある銀行の年金センターへ預けたことは聞いて知っていたが、証書がどこにあるとか、どのような手つづきが必要かなど、何も聞いていなかった。元気なうちは詳しく聞きずらいのでついつい先延ばしにしていた。そのうち、主人が発病して何も覚えていないことが判明した。

 預金通帳など××側の××番目の引き出しに入っているというので、そこを探すと古い通帳ばかり出てきて使用中のが見当たらない。印鑑のみは預かっていたので何とかそれで再発行してもらった。

 今回も手続きをそろそろしないといけないと思っていた矢先、年金センターから依頼書が届いた。満期が来たのでいっしょに提出してほしいとのこと。電話をかけて事情を話すと仮の証書を発行するという。それで、届け出印を押して送り返した。印鑑は自信があったので、これで一安心と思っていると、銀行から印影が異なっているという電話が入った。ほかに心当たりはないので、私の見たこともない印影だったらと思うとその晩はなかなか寝付かれなかった。2~3日後印影が送られてきた。見慣れたものだったので、どんなにホットしたことか。

人のことばかりは言っておれない。人生は何時終わりになるか誰も分からないから。少しでも役立てばとノートに書きだしたら、大事なことは沢山あるものだ。大学ノート1冊にもなった。(E)

      

                                                              4月の雨

 

 

 

 

 

 

 


充実した日曜日でした。

2017-04-16 | 気ままなる日々の記録

  丁度前日に学生時代の友人から、最近話題の記事のコピーが送られてきて、

日曜日は朝食を済ますといそいそとそのコピーをよみ始めた。

世界情勢の見方、特に北朝鮮や中国の政治状況の解説が主だったが、

どれも新鮮で、眼からうろこが落ちる感じだった。其れは其れで面白かったが、

相変わらず日本の新聞は各社裏で調整をして同じような視点でニュースを整理し解説していることがよく分かった。

つまり、相変わらず「大本営発表」をやっているということである。

 記事の初稿は雑誌「ボイス」のようで、この雑誌は会社の経営者によく読まれている雑誌のようである。

 オソマツ君は今、昭和16年ごろ我が国がアメリカやイギリスを相手に戦争を仕掛けた時どういう見通しをもっていて、

 国民世論はその見通しを支持していたかどうかよくしらべているが、

 どうやら、見通しも何もなく、国民世論も何もなかったようである。

 当時の為政者は敵を欺く前に国民をあざむいていたようで、

 今の日本はそこのところが依然として同じようだ。

  平和憲法を神棚に上げて毎日お詣りして、

あとなにもしなければ平和が護れるというものでもなかろう。

 日本のマスコミ界は相変わらず共同歩調を大切にして、真実を伝えるという重い責任感に乏しいようである。(T)

    

                                                           白鷺とかも

 

 

 

 

 

 


今日は日曜日。天気晴楼にして、風もなし。

2017-04-16 | 気ままなる日々の記録

   朝からいそいそと文書を読み始めた。

  学生時代からの友人が面白い雑誌の記事をコピーして送って呉れたものだ。その雑誌は「ボイス」がほとんどである。新聞だけ読んでいると例の寄って我が国の危うさが気になって落ち着かないが、ボイスを始め、会財界の人々が読んでおられる雑誌になると、さすが、世界的な視野に立っての評論であるから安心して読んでおられる。

  夫《三浦朱門氏)を亡くされた租野綾子氏の随筆「忘れるための日々」もなかなか良いしし、中国人評論家「なぜ中韓は何時までも日本のようになれないのか」も面白い論考である。   トランプ大統領の出現によって急に波風が立ち始めた我が国を取り巻く国際情勢についての分析も面白い。我が国の新聞を中心とする論調は昭和10年代と同様世界的にみるといかにもオロカでピンボケなことが、多い。日本人は誰が何と言をうと自分はこう思うと自己主張することを嫌う。右顧左眄し皆と同じ意見であろうとする。これが、大きな過ちになる昭和10年代の愚かな選択が第二次世界大戦へと向かうし、長崎・広島の悲劇を招いた。

 昨今の北朝鮮との対応も日本政府はどういう作戦でいるのか、一向に分からない。米国がトランプ大統領になってこの問題について日本政府の見方を問うようになって、慌てている感がある。各国の日本大使館はなにをしているのだろう。憲法をまだ後生大事にして、日米安保協定こそが我が国の安全保障せいさくだというのだろうか?(T)

   

                                                        散歩道で  金柑。

 

 

 

 

 

 

 


白鳥は悲しからずや」

2017-04-12 | 気ままなる日々の記録

  今朝は5時半ごろスッキリ目が覚めて、外を見れば朝日が輝いていた。

そこで、いそいそと起き出して例の3階の展望窓へ行った。

4月に入って日に日に太陽の光が強くなって、田圃の草たちも青々と茂ってきた。

 ここで、「天地返し」をしておかないと、6月の田植えシーズンに雑草の荒野になってしまう。ぼくは、しみじみ田も畑も全て太陽の恵みなんだなあ、

と心の中で呟き田圃に目を移したら、

そこにシラサギが1羽いて餌を探しながら時々嘴を田の土の中に差し込んでいる。

小さな蛙とかドジョウをたべているのだろう。

 白鷺は何時も数十羽群れをつくって飛んでいる。

この方が餌を探すのに効率がよい。確かに、仲間がよく餌をついばんでいる方へ集まる習性がある。数十派が盛んに餌をついばんでいると、空を飛んでいた白鷺の群れがそこへ降りてくる。

このようにして、シラサギは何時も数十羽むれをなしている。

 ところが、今朝は、1羽だけがよろよろと田圃のなかをあるいていた。そこで思い出したのが、若山牧水の次の詩だ。

白鳥は 悲しからずや 空の青海の青に染まず漂う。であった。あの白鷺は1羽だけで越冬したのだろうか? それとも 春になって、仲間とはぐれてしまったのだろうか、そうだ、体調不良なんだ。半身不随かも知れない。白鳥には脳内出血による半身不随は無いのだろうか?と次々に想像が膨らみました。

 鳥の世界でも脳内出血はあるだろう、だから、半身不随もあるはずだ。

ただそうなったら、4~5日で死んでしまい土になるか他の動物の餌になるのだろう。

それが自然というものだ。と考えた。僕のように半身不随で3年も生きているということは自然界ではありえない。

 全ては有り難い給食と暖かいベッドの御蔭だ。其れを忘れて文句ばかり言っていてはもうつける薬がないというものだ、と気が付いた。

 これぞ、シラサギの贈り物だ。そこまで考えて部屋へ戻った。

 やはり、室外は寒く部屋へ入るころは身震いしていた。(T)

     

                                                            前庭のチューリップ

 

 

 

 


インター・ネットの素晴らしさに感動!!

2017-04-12 | 気ままなる日々の記録

最近、、ユーチュブに夢中だ。50ねん程前だろうか。ザ・ピーナッツという1卵性双生児の女の子がテンポのいい歌を歌っていて、それが好きだったが、今その歌声が聞けるのである。

 本当に科学技術の進歩にはめをみはるものがある。オソマツ君は、暇さえあればそれを聞き返している。勿論映像つきである。ネットで検索すればすぐたどり着ける。

 曲を聞けば、其処には、30代の自分がいる。えらい時代になったものである。夜中に起きてピーナッツの曲を聴いていると、第三者からは間違いなく狂人に見える。そしてすぐに家内に叱られる。人間は、自分で作ったバーチャルリアりテイ―の世界に体がついていけなくなって、パニックを起こす。ヌべなるかな。というものである。(T)

 


「誕生日」

2017-04-11 | 気ままなる日々の記録

 先週76歳の誕生日を迎えた70歳過ぎてからはあっという間に1年が過ぎてしまうようで何とも複雑な気持ちになる。それでもことしは、例年より多くの方々に祝って戴いて、之はこれでとても嬉しい。

 想定外は2歳違いの妹と主人からである。妹も主人も毎年祝ってくれるわけではない。三重に住む妹からは冷蔵でお赤飯がとどいた。南天の葉や黒ゴマ塩も添えて。感激したのは言うまでもない。他にもいろいろ入っていたが、柚子のジャムにはびっくりした。一般的な甘夏のママレードも手間がかかるが、それより小さい柚子で作ったとは、どんなにか時間が必要だったことだろう。

 主人からのプレゼントは何と森永キャラメル3粒。最初は笑ってしまったが、これがどれほど意味が深いか、徐々に分かってきた。

 数か月前私が低血糖に陥って、とても苦しんでいたことを、脳のどこかで記憶していてくれたに違いないと、思い始めたからだ。

 次に自分から進んで売店へ買い物に行くと云うのも初めての経験。お金も持っていないはずなのにと不思議に思ってしまう。

 ある日主人が引き出しを開けたら昔使っていた財布が出てきたという。その中に大金が入っていてそれを持ってかいに出かけたというのだ。財布が入っていることは知っていたが、大金が入っていたとは全く知らなかった。

 トータルで10箱買ったと本人は言っていたが私は本気にしなかった。ところがその後キャラメル騒動がおき、思わぬところから10箱ー2箱=8箱が本当に出てきたのである。(E)

     

                                                     妹から届いたマーマレード

 

 

 

 

 


子供時代の思い出

2017-04-11 | 気ままなる日々の記録

  オソマツ君には、1歳年上の兄がいる。小学校高学年になるまで、オソマツ君は兄のあとをついて回っていた。

  近くのお寺の縁日には二人とも50銭ぐらいお小遣いを貰って、小さなテントを張った出店を見て回り、合計が50銭以下になるように計画を立ててから、 キャラメルや玩具を買った。

 そこには、よく見世物小屋が立てられ、サーカスやロクロク首などが行われていた。

 ロクロク首というのは可愛い顔の女の子の首がどんどん長くなり蛇のようにくねくねまがって、それでもかわいい女の子は瞬きをし、 ときどき可愛い声で「イヤアーン」という。これを見るにはお金を払ってテントに入れて貰い椅子に腰かけて鑑賞しないといけない。 それでも、探すと隙間からロクロク首がみえるところがあって、子供たちはその場所の取り合いをして覗いたたものだった。

 僕たち兄弟は其れは観なかった。入場料が50銭で此処へ入ったらあとなにも買えなくなってしまう。

兄は後半時々、残りの手持ち金を出させそれをキチンと二人に分けて配分した。

そして「お母ちゃんが、よく二人仲良く半分ずつ分けなさい」といっているから。「これでいいな」といっていた。

 だがよく考えて観ると兄の方が沢山飴を舐めていた。当時も今と同じ森永のミルク飴だった。兄は何時もこれを二粒づつ口に入れぐちゃぎちゃ舐めていた。だから、残りは僕の方が多い。その残りを出し合って二等分すればぼくの方が損をしている。

 しかし、当時はこれが分からなかった。いつも二等分しているから、全体としても半分ずつになっていると思われた。森永ミルク飴の箱はその頃と変わっていない。

 部屋の掃除のおばさんに「僕、子供帰りしてしまって、これが美味しいの。おばさんも食べてみてください」といってあげたら大変喜ばれた。オバサンも子供の頃森永のミルク飴が好きだったそうだ。ぼくの記憶で箱のデザインも変わっていない。森永さんの伝統重視の経営方針に敬服!脱帽・敬礼!である。(T)

    

                                               ふきのとう