今朝は5時半ごろスッキリ目が覚めて、外を見れば朝日が輝いていた。
そこで、いそいそと起き出して例の3階の展望窓へ行った。
4月に入って日に日に太陽の光が強くなって、田圃の草たちも青々と茂ってきた。
ここで、「天地返し」をしておかないと、6月の田植えシーズンに雑草の荒野になってしまう。ぼくは、しみじみ田も畑も全て太陽の恵みなんだなあ、
と心の中で呟き田圃に目を移したら、
そこにシラサギが1羽いて餌を探しながら時々嘴を田の土の中に差し込んでいる。
小さな蛙とかドジョウをたべているのだろう。
白鷺は何時も数十羽群れをつくって飛んでいる。
この方が餌を探すのに効率がよい。確かに、仲間がよく餌をついばんでいる方へ集まる習性がある。数十派が盛んに餌をついばんでいると、空を飛んでいた白鷺の群れがそこへ降りてくる。
このようにして、シラサギは何時も数十羽むれをなしている。
ところが、今朝は、1羽だけがよろよろと田圃のなかをあるいていた。そこで思い出したのが、若山牧水の次の詩だ。
白鳥は 悲しからずや 空の青海の青に染まず漂う。であった。あの白鷺は1羽だけで越冬したのだろうか? それとも 春になって、仲間とはぐれてしまったのだろうか、そうだ、体調不良なんだ。半身不随かも知れない。白鳥には脳内出血による半身不随は無いのだろうか?と次々に想像が膨らみました。
鳥の世界でも脳内出血はあるだろう、だから、半身不随もあるはずだ。
ただそうなったら、4~5日で死んでしまい土になるか他の動物の餌になるのだろう。
それが自然というものだ。と考えた。僕のように半身不随で3年も生きているということは自然界ではありえない。
全ては有り難い給食と暖かいベッドの御蔭だ。其れを忘れて文句ばかり言っていてはもうつける薬がないというものだ、と気が付いた。
これぞ、シラサギの贈り物だ。そこまで考えて部屋へ戻った。
やはり、室外は寒く部屋へ入るころは身震いしていた。(T)
前庭のチューリップ
わかります。
命とか生きるという事は どういう事なのか 時々考える
事があります。
夜中に目をさまし 倅が出張で 家には自分ひとりしか
いない事に気がつき 私も今はここで生きているのだが
いまに 死んでしまうと こには私はいなくなってしまうのだな。女房がついこの間までいたのに 女房も今は
いなくなってしまった。
自分が生きている事を不思議に思う事があります。
命とは何なのでしょうね。
天気の晴れの日には何時も6時30分から6千歩 70分の散歩をしております。今日のブログを読んで思い当たる節があります。しらさぎ 鳩 すずめ 燕 カラス 等偶に1匹のみで飛んでいる時があります。又2 3匹で飛んでいる時もあります。彼らは普通は集団で飛行するものと思っていますが、少数で飛ぶ時は何なのでしょう。人間でも一人で散歩する時、2 3人で散歩する時 集団で散歩する時、色々とありますが、鳥も人間と同じように、その時の気分によって 単独だったり、集団だったり するのだと思います。生き物は鳥も人間も同じと思いますが、身体の調子が悪い時には外に出ません、休んでおります。身体が悪いから1匹で飛ぶ 餌を探すと言うことはしない、出来ないでしょう。散歩中偶に死んで地上に落ちている鳥を見かける時があります、ああ無常 南無阿弥陀仏と唱えます。その時には普段 般若心経を唱えていないので歩きながら 摩訶般若波羅密多心経と2分で唱えます。昨日も友人の命日が近づいてきましたので半切(35糎×136糎)の紙2枚書きました、一枚書くのに278文字90分で書けるようになりました。これまで半紙(半紙に書く時は30分以内で書けると思います時計を見て書いたことがないので不明)に100枚以上は書いたと思いますが、閻魔様に渡すのにもっと書きたいと思います。思いつくがままに