今はまだまだ人生を語らず

温故知古、古きを訪ねて古きを知る

Living In The .....

2023-06-07 11:32:52 | ジョージ
パティの話
ご本尊系で会ったことない人は、パティ、ダニー、モーリン、ジョン。で、縁あってパティのトークショーに顔を出しました。
Living In The Material Worldの内ジャケにサインもらおうと思いましたが、やめました。理由は後ほど。

開場直後、トークショーのナビゲーターのピーターバラカンさんが本当に熱心に一枚一枚写真を観ていました。30分、いやもっとだったと思います。おそらくですが、初日のトークショーがいまひとつパティと噛み合ってなかったと聴いていたので、だからかと思います。

トークショーの内容は、パティ自身のモデルとしてのキャリアについて、あと、クラプトンとの結婚直前の話、そしてクラプトンと離婚する時にジョージに相談に行った時の話は、すごくイキイキというか、とっても話したいことなんだろうと思いました。

一方で、クラッカーボックスパレスに閉じこもっていた時代の話はどことなく表情は暗かったし、マハリシ、インドあたりも積極的じゃない感じしました。The Foolの絵画の前のモデルとしての仕事を見て、クラッカーボックスパレスに住む前まではガンガン仕事してたことを知り、まあ、辛くてあまり思い出したくないことは、まあサラッと流したいのだろうと。
パティ撮影の写真で、ドアップいい表情だったのは浮気相手のロニーだけで、あとは自分が全身の被写体となっていたことが多いからか、景色と人物、もしくは全身の写真が多いのにも気が付きました。
それと、ポールの話、リンゴの話もしなかったです。

推測邪測ですが、なんか寂しげなジョージとの結婚生活の中で、瞑想に心ひかれ、ジョージも巻き込むも、ジョージ本人がマハリシ、インドにハマり、小さなキンファウンスの白い平屋の家も、サイケに模様替えになりと、そのうち馬鹿でかいクラッカーボックスパレスに引越し、仕事もやめて一人でそこに居た時にレコーディングに来た人たちを写真に撮ったものにサインかあ、という気分には私はなれませんでした。

印象に残った写真は、1968年のベッドで考え事をして寝転んでいるジョージ。彼女の写真では珍しく人の表情がよく分かるもので、スライドに映ってた注釈には、私のみた最後のclam。ミュージシャンとしてコレからもやって行くか、ビジネスマンとしてコレからやって行くか。

バラカンさん、パティの本を読んで来たらしく、パティはAppleでのビートルズメンバーの仕事ぶりを長ズボンを履いた子どもと書いていたそうだ。パティは今まで全てマネジメントしてもらい音楽だけやっていれば良いから、ブライアンエプスタインが死んで変わってしまった的なことを言っていました。そのあたりからジョージとのすれ違いが始まったのかな。でも、あのジョージのぼんやりと考え事をしている写真は、彼女しか撮れない写真だわ。
その時どんな感情であろうと、カメラの前では求められる表情をする仕事のトップスターだった彼女。ミュージシャンとして無心に、子どものようにギターを弾いてたジョージとエリックと過ごした時間が彼女にとっては良かったのかと思いました。

もう私は、物質世界から心離れましたので、写真集を買いませんでした。


入社2年目

2023-06-03 01:09:24 | 私は今日まで生きてみました
1348. Takuro Yoshida

こんなyoutubeをみつけてしまった。私の心のアルバム、もちろん42枚にも入っていて、拓郎さんではもっとも好きなスタジオアルバムの Long Time No Seeに参加したベースのLeland Sklarさんが、その時の思い出を語っています。マジで感動です。

バハマでレコーディングして、1995年6月に発売になり、全く売れなかったです。あの頃は、毎週末愛車プレリュードで辻堂と東京を深夜往復してまして、吉田拓郎のclub 25(日曜日25時から)をカーステFMで聴いていました。入社2年目、もうほとほと職場に、会社に嫌気がさしていました。

そんな折、Long Time No Seeで一緒にバハマでレコーディングした外人バンドを呼び寄せて、ツアーに出る!(7本くらいだったと思う)というので、10月に拓郎さんに会いに行くことにしました。雨の日の平日、もう日が暮れるのが早くなった秋、NHKホール。もう会社を辞めようって思ってましたので、10月に出たばっかりの20日間の有給休暇を早くも取りまくり。なので、その日は朝から独身寮で辞表を書いて、藤沢からトコトコ電車で彼に会いに行きました。
拓郎さんは前年の大晦日に、紅白(これもNHKホールですね)に出て、外は白い雪の夜を歌いました。正直、あまりカッコよくなかったです。だから期待していなかったですが、とんでもなく素晴らしいライブでした。日本語が通じない外人バンドをいいことに、のびのびと新曲を歌いつつ、時折、泣ける名曲を挟む構成。空席もそこそこある中で、もう過去の人だった拓郎さんの復活を喜ぶ熱いファン。

ハイライトはニューアルバムからの「永遠の嘘をついてくれ」。そう、中島みゆき姉がバハマでのレコーディングに出発する前日にこの曲のデモテープを送り付け、拓郎さんは内容がショックのあまり、出発当日に行くのをしぶったという曲だ。中島みゆきの「ファイト」を武道館でカバーしたことをきっかけに中島みゆきと会うことになり、そこで曲を作ってくれと依頼したというMCからはじまる意味深な曲。

引退を口にする拓郎さんに、「永遠の嘘をついてくれ」と。多分そういう意味なんだろう、中島みゆきらしいハッパの掛け方だ。

その後の拓郎さんの復活劇は凄まじかった。Love Loveやって、肺がんになったけど瀬尾バンドとライブを行い。ライブなんて全然チケット取れなかったもん。

そして2006年、つま恋でこの曲を2人で歌うなんて超サプライズでした。カッコ悪いところを中島みゆきに見せられないと思ったからか、無茶苦茶すごいボーカルです。

紫陽花

2023-06-01 21:59:53 | 私は今日まで生きてみました
紫陽花、梅雨の季節。紫陽花を見ると50年近い前の幼稚園に行っていた時のことを思い出します。嫌だった幼稚園。でも我慢して、雨のなか、紫陽花の前でバスを待って毎朝行っていました。躾けとか厳しくて、息が詰まる感じでした。自分が何組だったも、先生の名前も、同級生のことも何一つ覚えていません。紫陽花の咲くバス乗り場でバスを待つ、ということしか覚えていないです。

で、うちの近所に国旗を覚えさせて(少なくとも15年前はソ連の国旗があった)、自分の名前を漢字で書けるようにする、結構子どもからすると厳しそうな幼稚園があります。結構、親世代からは評判がいいようです。でも、うちの長男、次男は2人ともそこには行かせず、すごい緩い幼稚園に通いました。ズボンのポケットがなぜか前についていて、結構間違えて履いていきました。でも、怒られないんだよね。いい幼稚園でした。この幼稚園だったら私も行きたかったです。

でも、その幼稚園を卒園すると、結構な割合で小学校でつまずきます。そうだよなあ、国旗幼稚園は小学校に行っても困らないように調教しているんだもんなあ、のんびり自由奔放だと小学校に行って躓く。。。うちの2人も本当に小学校3、4年くらいまでは苦労してました。で、長男は児童会長になって先生たちとうまくやることに、次男は不登校で徹底抗戦(笑)。どちらも公立小学校に見切りをつけて中学は市外の学校に。独学で勉強して行ったので、塾費用とかかからず良かった。

偏差値的には、長男の行った方の学校の方が高く、とてものびのびやってましたが、次男はいわゆる中堅進学校で、ちょっと大変みたい。今、新聞で、「その宿題必要ですか」的な特集記事があって、中堅進学校はとんでもない量の宿題が出る特徴があるらしく、まあ、そんな感じ。で、次男は宿題をほとんど意味がないものだとブった斬り、やりたい勉強だけをやっている。学校側もさぞかし困ったのだろうが、今は結局それを認めているようで(笑)。

この社会はなんのために子どもに教育しているんだろうか。やっぱり会社に入って歯車として正確に働く人間を大量生産したいためなんだろうか。