-+-+-+臼村さおりのお知らせ-+-+-+2022年8月の催し
夜の曇り空から満月近い月が透けるように見えた。
ポン、ボン、ボボンと花火の音が聞こえてきて、なんとか花火の姿を見えないものかと少し歩いたのですが、視界に入るのは立ち並ぶ住宅とその住宅の窓からみえる光だけで、花火の姿を見ることはできませんでした。残念。ここ10年間くらいで住宅の数がかなり増えた。花火そのものは住宅の数が増える以前から見えなかった。けれども以前は、それでもなんとか花火が見えるのではないかという期待から、そこら中を歩き回って探し回る気になることもあった。けれども今は、花火を探しに行こうかなという気持ちがちっともわいてこないくらい住宅の数が増えた。
住宅の数が増え始めたころは、畑だった位置に住宅が増えるたびに、これで夜道が怖くなくなったとうれしくおもったものだった。それまでは畑の向こうにある家の網戸の中から光が見えるほどであった。
もっとももくもくアート会をやっていた夜だったので、たとえ住宅の数が少ない以前だったとしても、花火を探しに遠くへ行くことはなかったであろう。もくもくアート会とは、始めた当初は仕事後にみんなで集まってもくもくとアート制作をする場がほしくてやっていた。新型コロナウイルスの流行を受けて途中からオンライン開催になり、また時の流れで自身の内面に関してもろもろの状況も変化した。でもなんとなく続けているそんな会である。ここ数か月は、もくもくアート会だから木曜日に開催するというこだわりもなくし、自身や常連の方の予定に合わせて柔軟に、悪くいえば惰性でなんとなくやっている。
けれども人というのは調子がよかったり、時間があるときは誰でもできるものである。もしも何かを続けたいとおもったとき、忙しいときや調子がいまいちのときにどれだけできるかがものをいう気がする。その意味ではもくもくアート会は素晴らしい場じゃないかと自画自賛している。
過渡期。新型コロナウイルスの流行を経て、かつてとは変わった私たちのライフスタイルに合わせてもくもくアート会もまた変化していくという意味においての過渡期。そして社会の状況とも関係しているわけだが、わたし個人のあり方においてもきっと過渡期なのであろう。
芸術と芸術療法の違いについても、考えさせられる。以前はその両方をそれほど分けては考えていなかったが、ここ数か月意識するようになった。そんなタイミングで放送大学の「臨床心理学特論」を聴講したこともありがたい。ホリスティックメディスン(ホリスティック医学)について東京医科大学の名誉教授(お名前をを失念)の方が、芸術療法の可能性を説明してくれていた。
もくもくアート会の参加者としては、芸術を希求する人が多く、ときおり芸術療法を求めてくる人がいるとおしゃべりしたがる人と、集中したがる人の間において、ちょっとした場の不調和が生まれることもあった。同じ会場でみなで会って作業しているのであれば、両方の人がいても問題ないであろう。けれどもオンラインでズームを利用してやると、コミュニーションの場がひとつになるので、だれかが会話をするとそのムードの場になりがちである。確かに場の音声を消して自分だけの世界に入ることもできるわけだが、それはそれで淋しいし、集中したい人が場から疎外されるという結果になって不本意である。わたしのこだわりかもしれないが、自分がミュートして黙るのと、場の音声を消して別世界になるのは、何かニュアンスが異なる気がしている。
現在のところ、芸術とは他者を意識したものであるが、芸術療法とはその場、その時間の表現行為そのものに重きが置かれる気がする。後者には作品としての完成度は求められない。大切なのは、表現者の気持ちの発露だったり、リラクゼーションだったり、思考の開放だったりする。一方の芸術は、楽しいものであると同時に、求道のような側面を併せ持つ。わたしのように癒しを職業やライフワークにしていると、芸術療法を通して自身を見つめるプロセスそのものも求道になるが、一般的にはそれはまれだと考えたほうが枠組みを作るうえでは適切な気がする。どういうもくもくアート会がよいのか、模索は続く。
過渡期ゆえ、試運転だとことわって広報をしているここ数か月のもくもくアート会である。今までのあり方にこだわらずできるだけルールを排したことにより、今後に向けた形がだいぶクリアになってきた気がしないこともない。まず第1・第3木曜日であろうというこだわりを捨てた。ここは私自身が一番無理のあるところであった。開催時間を少し短くした。また必ずしもずっとカメラオンじゃなくてもよくした。一度ズームを切って、シェアタイムにまた戻ってくるのも歓迎した。オンライン開催であれば、各人が自宅から参加しているため、会の終了後も望めばそのままアート制作を続けることができる。いたずらに会の時間を長く設定する必要はない。以前のわたしは、途中の入退場は自由であり、遅刻も早退も歓迎としていたので、時間は長くても関係ないとおもっていた。むしろ長いほうがよくて短くしたい人は短くすればいいであろうと。しかし、自身がほかのオンラインイベントに参加してみてそういう問題ではない気がしてきた。なぜなのであろう、、、できれば最初から最後まで参加したいとおもう。そして気づいてびっくりしたのだが、時間をずいぶん体感として長く感じるものである。運営をしていると気付かない視点だ。
いざアート制作をすると時間が足りないことも多いわけだが、かといって3時間のイベントを設定されると、3時間を確保しなくてはならないという気持ちが大きなプレッシャーである。実際のところはなんとなくスマホを眺めて過ごしていて時間を無駄にしている普段ではあるが、長い時間を確保するのは忙しくて無理だとおもいがちだと気付いた。無論、わたしだけかもしれないが、わたしはそうである。
折しも、芸術家としての活動を続ける育児をしながら芸術家としての活動を続ける女性が参加してくれた。スタート時間のときは、お子様もカメラの中にいたお子様は、会の途中で就寝されたようである。またその方は途中はカメラオフであった。実際の状況はわからないながらに、カメラオフをOKと告知してよかったなあと思った出来事だった。一人のことから全体を語ると思われるかもしれないが、ひとりを大切にしたい。小さな場であり、来てくれるのはひとりひとりである。どうもありがとうございます。
と、もくもくアート会は揺れ動いている状態なので、広報もまた揺れ動いている。今まではいくつかネット媒体で告知してきた。もうここで告知をするのはやめようかと思う媒体が2か所ほどあったが、でも万が一見てくれる方がいるかもしれないという気持ちで告知を続けてきた。今まで慣れ親しんできた作業を繰り返すだけなので、告知そのものは大した手間ではない。参加してくれるかもしれないという万が一の可能性を逃すよりは、面倒でもちょっと我慢すればよいというほうを選んできた。
しかしそのちょっとした我慢に苦しさも感じていて、意識しているがゆえに苦しさがデフォルメされていた。なのでおもいきってその2つの媒体への告知をやめてみた。作業にして15分程度の違いであろうか。驚くほど気持ちが軽くなった。たとえ小さなことでもやめてみればゆとりができて、新しいアイディアがおもいつきやすくなるのではないかという期待もあった。
すると、もくもくアート会の日が次第に近づいてきたころ、常連の方から、仕事のシフトが変更になったためもくもくアート会に参加できなくなったと連絡が来た。その時点でその常連の方のほかに参加申し込みがなかったため、よかったらなのだけどもくもくアート会の日程を変更しないかと相談してみた。結果として、日程が変更になり、昨日の開催となったのであった。
開催日が変更になれば、広報しているイベントを変更する必要に迫られる。そのときにおもったのが、気の乗らない告知媒体での告知をやめていたことがよかったということだ。びっくりするほど気持ちが軽かった。また別に気にしないつもりでもゼロではない変更による気持ちのストレスが、軽減されていた気がする。心の底から、柔軟に日程を変更すればいいし、これはこれで別にいいじゃないかとおもえたのである。
変更するゆとりをつくっておくのは大切だなあとタイミングよく気づかせてもらったわけである。小さな気づきを大げさにつづってとおもわれるかもしれないが、できるだけすべてのことから学んでいきたいものだと考えている。
昨日のもくもくアート会では、うちわ作品をつくっていた。花火のうちわも描いてみたい。
◆臼村さおり twitter @saori_u
思考していることを投稿しています。
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