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寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

三原市西宮・市立西小学校前交差点で漸く人に会う

2013年04月09日 | 
法常寺参道前から西国街道(広島県道155号)を東へ進む。天理教三原分教会(西宮1丁目28‐1)を過ぎた辺りから交通量が少なくなった。

三原市西宮1丁目の天理教三原分教会

三原市西宮・市立西小学校前交差点

市立西小学校前交差点角のダスキン西宮支店で漸く人を見かけてほっとする。ダスキン側から西宮2丁目となる。ここから150mほど先に西宮公民館が建っており、隣にはどうやら神社があるようだった。

三原市西宮2丁目の西宮公民館

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福山市三吉町南1丁目8の大師堂(後編)

2013年04月09日 | 郷土史
大師堂の水掛不動に願掛けにやって来る人はかなり多い。私の見た感じでは年寄りばかりではなく30~40代の人もいる。昭和5年(1930)と昭和20年(1945)の地図でそれぞれ大師堂周辺を拡大してみた。

昭和5年発行の福山市街地図より現在の大師堂周辺を拡大

福山空襲戦災家屋焼失地図より現在の大師堂周辺を拡大(卍が焼失した専故寺)

まず昭和5年の地図では辻がはっきりと描かれているが、現大師堂の斜向かい辺りに専光寺と表記されているのが(文化年間に深津郡深津村より同郡三吉村に移転した)専故寺である。移転前の寺は御仕置場の跡(17世紀の中頃御仕置場は榎木峠に移転)にあり、大阪の法善寺・竹林寺と同じような意味合いを持っていた。

地元住民(明治・大正生まれ)が専故寺の首塚について話す時には決まって低いトーンになったという。福山空襲戦災家屋地図では赤く塗られていないが、実際は焼失している。『神辺町史前巻(昭和四十七年)』における専故寺の記述は生々しい。

専故寺もまた極度の退廃をなしていたが、昭和二十年八月八日、アメリカ合衆国が福山を空襲するに及び、全く灰燼に帰し、跡かたさえ留めないまでに至った。

複雑な経緯を知ってから寺の跡地前を通り過ぎる時には角さんのあのポーズをするように心掛けている。余談になるが、盈進商業学校が寺町校舎から三吉町の新校舎に移転が完了したのは昭和9年4月である(故に昭和5年の地図には文のマークがない)。

三吉町1丁目8の大師堂会館横から北側の専故寺跡(現在は民家が建っている)を望む

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