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寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

愛媛県今治市別宮町8丁目1の加茂神社

2018年12月16日 | 
浅川沿いに建つ小さな「加茂神社(セジュールコート東側に位置)」。現在地に新築移転したのは昭和53年(1978)と石碑に書かれている。

神社

会社

神社から90mほど南下すると「砂川橋」の袂に赤頭巾をかぶった地蔵が祀られている。台座石に「天保十三寅七月吉日」の刻銘あり。

地蔵

地蔵2

対岸に見える大きな建物が今治市立別宮小学校である。前身は大正期創設の第四小学校にあたる。約170年前に造られた地蔵が通学する児童を静かに見守っているのであった。

『今治市誌(昭和18年)』
第二編
第二章 教育
第二節 維新後の教育と小學校
四、今治第四尋常高等小學校
 大正十二年市立第三小學校何れも兒童數が增加して、校舍狹隘を告ぐるに至つたので、同年四月通學區域の大異動を行ひ、主として第二第三兩小學校の通學區域から、別宮・北新町・西新町・慶應町・漁師町・砂河・鴨河・高地・夏目・海地の各を割ひて一通學區域としたが、同校舍が大正十三年四月落成するまでは兒童を三小學校の假校舍に收容してゐた。昭和三年四月高等科を廢して、今治市今治第四尋常小學校と稱するに至つた。

橋
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愛媛県今治市別宮町7丁目1‐40・今治市医師会市民病院

2018年12月14日 | 
「大新田公園」の手前に出て国道317号を南下する。別宮町7丁目に面白い看板の喫茶店「フェニックス」があり大いに興味をそそられた。

公園

喫茶店

橋

別宮橋交差点から浅川に沿って上流へ移動する予定だったが、一つ見落としていることに気付き「大正橋」へと向かった。橋の北詰に建っているのが「今治市医師会市民病院(昭和41年9月開院)」と「今治看護専門学校(校舎は昭和46年築)」である。

病院

病院2

大正12年(1921)11月に発行された『今治市街全圖 / 阿部利三郎 著』を見ると現在の病院と専門学校(の一部)を合わせた場所に「避病舎」が存在していたことが分かる。

『今治市誌(昭和18年)』
第二編
第九章 衛生
第一節 傳染病避病院
一、今治町避病舎
 明治二十八年以前は大字藏敷字大濱にあつたが、其創設年月地番等は不詳である。然るに時勢の進運に伴ひ改築の必要を感じ、明治二十八年度を以て大字今治村字淺川 今の淺川貯木場西側 に地を相し、八百九十圓餘を以て避病舎を新設したものである。然るに爾來二十餘年大正六年に至つて、之が改築の必要に迫つたが、該地は狹小にして擴張の餘地が無き爲移轉改築することに决したるも、今治町内に適當の地無く已むを得ず日吉村大字別宮字六反地 今の第四小學校北方 の地を選定した。然るに之に對し日吉村は耕地の中央にして、種々支障ありとの趣旨を以て遂に承諾を與へず、已むなく無承諾のまゝ敷地認可を縣へ申請した。之に對し越智郡役所より日吉村に對すると同様、合同建設又は駢列建設方を慫慂し來つた。併し未だ合同或は駢列建築の機運に至らず、大正六年今治町は豫定地を變更して大字別宮字明所新開 今の避病院對岸 とし、今回は日吉村の承諾を得て敷地認可方を知事へ願出たが、同年七月に至り漸く郡長の意見に從ひ町村隣接の地を選ぶことゝなり、三度位置を變更して大字別宮五反地 今の市避病院敷地の内 に决定したので、五月願書を撤回し、同年八月日吉村長の五反地建設承諾書を添へて出願したるに對し、九月知事の認可あり、金三千四百八十一圓八十三錢を以て千六百七坪を買收した。
 然るに其後容易に建築の運に至らず、漸く大正七年十二月一部分の新築認可申請書を提出した。之に對し大正八年一月知事の認可あり、直に建築に着手したが、以下繼續的に漸次建築中大正九年二月、町村合併につき以後は市の施設となつたものである。

四、今治市避病院
 前記の如く市制實施につき舊今治町舊日吉村豫定地を加え、總計二千六百七十六坪を敷地として、前後五回に分つて建築を續け、大正十二年五月を以て全工事を終了したが、其後絶えず細部の修繕增補を施したのみならず。昭和八年度に於て近見避病舎の一棟を移築して擴張する所があつた。

避病院(避病舎)とは伝染病患者を隔離する施設を差した。明治期に全国各地に建てられたが、患者の治療よりも伝染病の拡散を防ぐことに重点が置かれていた。コレラを発症して避病院に運ばれ生還する例は非常に少なかった(死後、近くの火葬場へ直行するパターンが殆どであったと思われる)。

プレート

ガードレールに取り付けられたプレートには「昭和54年3月完成」の銘が入っているが、名前から推察するに初代の橋は大正期に架けられたのだろう。当時は「地獄橋」という別名があったのかもしれない。

ブレート2
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愛媛県今治市大新田町2丁目2‐4・杵築神社

2018年12月06日 | 
大新田地区の氏神様である杵築神社(きつきじんじゃ)に立ち寄った。社殿自体はこじんまりとしたものである。『今治市誌(昭和18年)』には以下の記述があった。

第二編
第一章 神社及宗教
第一節 神社
八、村社 大山積神社(石井)及境外末社
 大山積神社は、大字石井字繁榮に鎭座あり、大山積神を主神とし、相殿に上津比賣命・大穴牟遲命・須佐之男命・市杵島比賣命を祭る。蓋し大山積神以下の三神は、大三島に鎭座する國幣大社大山祇神社の祭神である。(中略) 
 本社の境外末社は左の二社である。
 杵築神社(大穴牟遲命) 大字大新田字五反地に鎭座 
 須賀神社(須佐之男命) 大字石井字新開畑に鎭座

社殿B

社殿C

社殿D

参拝を済ませた私は大正7年(1918)9月に建立された社碑に注目した。表には「正六位勲六等三嶌敦雄謹書」という文字も彫られている。

社碑

社碑2

社碑3

揮毫者は今治市大三島町宮浦にある大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)の宮司を務めた人物(『天孫人種六千年史』の著作あり)と思われる。実際に杵築神社の主祭神の一つは大山積命である。この年は米騒動が全国に広がり大事になった。岡山では騒擾事件に多くの与太者が関与していたことが分かっている(※参考文献『岡山県下の米騒動 ‐農民運動との関連を中心に‐/ 増島宏』)

注連柱

注連柱には「日支事變凱旋紀念」の刻銘有り。満州事変が始まったのは昭和6年(1931)9月。神社に遺された石造物の調査が結果的には我が国の重要な出来事(戦争拡大への道)を振り返るきっかけになったのである。

注連柱2
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愛媛県今治市大新田町・中井出川に架かる潮法橋

2018年11月29日 | 
大新田町3丁目の「大新センター」前で右折し少し歩くと右手に「浅川汽船ビル」があって、その先に小さな橋が見えた。

橋

橋2

中井出川に架かる潮法橋である(※架け替え前の状態)。橋の東詰から北へ40mほど進むと地区の墓地があった。

墓地

墓地2

電柱

造成時期は不明だが、昭和に入ってからではないだろうか。近くの電柱を見上げるとプレートに「ドバ」と表示されていた。かつて大新田町に貯木場(=土場)があったことの名残りと思われる。

スルースゲート

川沿いに木製のスルースゲートが残っていることに私は驚きを禁じ得なかった。意外な発見こそがぶらり旅の醍醐味である。

スルースゲート2
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愛媛県今治市大新田町3丁目の現在の様子

2018年11月25日 | 
今治市大新田町3丁目には様々な施設が揃っていた。重罪人の供養塔の隣が「近見ポンプ場」と「大新田広場(小さな公園を併設)」である。

町内B

町内C

そして道路を隔てた向かい側に「市営住宅」と「今治市立学校給食センター」が建っている。かつてはセンターで旧市内の全小学校と中学校の給食を作っていたという話だから建屋が大きいはずだ。現在では自校式調理場が増えて独自の色を出しているとのことである。私の中学時代はテレビドラマ『今日から俺は!!』で時折描かれる弁当持参(及び早弁)が当たり前で冬場でも冷や飯を気にせずガツガツ食べていた(苦笑)

町内D

おおしんでんちょう 大新田町1~5丁目 〒794 [世帯]628 [人口]1,887 ▷市の北東部。市営住宅や船員寮がたち並ぶ住宅地であるが製材・タオルなどの工場も多い。南境は浅川河口。中央を国道317号が貫通し,東は燧灘に面する。1・2丁目の浅川河口付近の造成地には食肉センター・四国電力浅川変電所や製材所・造船所・瓦・タオル工場が並び,河口は貯木場となっている。3丁目に市営野球場・同プール・同テニスコートなどの市の総合運動公園大新田公園がある。3~5丁目の国道沿いには商店・給油所・建設事務所などがある。また2丁目に杵築神社,4丁目に大新田公民館がある。
『角川日本地名大辞典 <38> 愛媛県(昭和56年10月8日発行)』

町内E
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愛媛県今治市大新田町・今治藩の獄門場跡

2018年10月28日 | 
大正期の地図に記載のあった浅川墓地はとうの昔に消滅し、現在は住宅地などになっている。『今治市誌(昭和18年)』には墓地移転の経緯について詳しい記述がある。

『今治市誌(昭和18年)』
第二編
第九章 衛生
第四節 墓地
一、市營新堂地墓地 
 淺川河口北岸の淺川墓地は、明治十五年五月より使用せられたものである。尤も明治初年頃のもの、又は文化文政時代よりのものもあるが、これは日本丸にあった墓地から移轉したものであろうと思ふ。兎に角相當古くより、存在し、大字今治村其他住民の墓地として、其面積一反九畝十四歩、其數一千四百に達して居つたが、昭和六年淺川貯木場開鑿上其の存在を容さざることゝなつたので、同年之が移轉地を大字日吉字新堂地の地に選び、金二千三十九圓を以て之を買收、築造費二千四百六十九圓餘を以て整地し、大体原面積を與へ原形に模する方針の下に公費を以て昭和七年五月移轉改葬に着手、六月竣工、同日新墓地に於て慰霊祭を行ふた。改葬に際し合葬又は他墓地に移轉するものもあり、新墓地に移轉したる墓碑は九百四十四基であつた。

寺

寺2

跡地は祈祷所「大福寺」南側辺りが該当するが、戦後の一時期セメント加工場などがあったようである。非常に狭い境内の片隅に一字一石塔が建つ(側面に明治十二卯年四月建立という文字が彫られている)。

塔A

塔B

店

昭和33年(1958)の住宅地図で確認できた市営食肉処理場(所謂と場)は「有限会社ユーアス」周辺にあったと思われる。其処が藩政期には獄門場だったという黒歴史はあまりに有名である。

第一編
第二章 沿革 
第九節 江戸時代の今治(其二)
十二、今治藩の刑制 
3、正刑解説 
 死刑には死罪・火罪・獄門・磔・鋸挽の五種があつた、以下順次説明する。   
〔死罪〕は庶民の刑で、斬首するをいふ。從つて士分には死罪はない。盜賊・追落おいはぎ・巧み事など性質の惡むべき者に適用する。但し盜賊でも實情如何に依つて輕い刑もある。死罪は概ね極惡者に科する。重い者は引廻の附加刑を科した上斬首した。又死罪者には闕所の附加刑があり、田畑家屋敷等沒收された。今治に於ける例を擧げると、貞享四年十月藩奉公人鳥生村の人渡邊作左衞門同村實法寺飼育の馬が作物を害したとして、其馬の雄を切つて追ひ放つた爲、當時生類御憐み、馬保護の禁令に觸れ、江戸へ伺ひの後首を刎ねられ、其妻は追放せられた事、及小泉村百姓今藏が眞木某の具足を盜んだ爲、元祿四年八月九日牢屋に於て斬首せられ、兄弟は追放せられた事がある。因に此時今藏の首を斬つた刀は新刀で、試し斬を兼ねたものである。
〔火罪〕は火焙である。江戸初期には耶蘇教徒又は重罪の者には適宜之を科したが、其後放火罪に限ることゝし、必ず引廻の上行はれた。而も焚き殺した死屍は其まゝ三日二夜晒すのである。今治に於ける例は元祿六年八月二十日、室屋町に放火した火附女菊を同年十一月二十日淺川獄門場所に於て火刑に處し、又拝志町生れ半藏が領中所々放火した罪に依り、安永三年十一月二十一日淺川仕置場に於て火罪に處せられた等である。 
〔獄門〕は梟首ともいひ、元は罪人の首を獄屋の門前に掲げたからの名稱である。獄内で斬首し水で洗つて苞に入れ、が罪状處刑などを記した捨札を持つて先に立ち、刑場に送つて三日二夜晒し首にした。罪の重いのは引廻の附加刑がある。之に該當する罪は、御定書百箇條に密通して實夫を殺す様勸めて手傳した者、密通の女が實夫へ疵付けた者、多數で有夫の女を姦した頭目、養母・養娘並に娘と密通した男女、密通の僧侶等に多數を擧げて居る。今治での例は、正德四年六月三日盜人由平が斬首獄門に處せられた如き、又享保十九年五月二十日盜人權助を日本丸にて斬首し、小淺川 今の淺川 に梟首した如き其の數が多い。斬首獄門の場所に就ては、今治夜話及今治拾遺に品部與市右衞門の手柄に關し記述した後に、「偖其日夜に入濱手に引出ケルガ其頃 元祿十年頃である ハ總社川之裾北ノ方ニテ伐シト也昔ハ東御門之前通濱側ニ獄門ヲナセシガ何レノ頃ヨリカ淺川北往還ノ並松濱側獄門場トナレリ」とあるから、斬首場所は牢内總社川裾・日本丸・淺川尻等所々で行はれ、獄門は殆ど淺川尻 今も首立松と云ふがある で行はれたものである。
〔磔〕(前略)今治に於ける磔の例は拾遺に「元祿十三年三月二日長谷村百姓市朗右衞門母を殺害牢舎申付置公邊御伺之處御老中御用番土屋相模守ヨリ大罪之者於其所磔に仕候様被仰渡、六月六日淺川於御仕置場磔申付云々」とあり、又見聞錄及叢書、貞享三年八月二十六日の條に米屋町に於て贋銀を鑄した傳兵衞を磔に處し、其妻及宿主を獄門とし其他六人を追放した例もある。 
〔鋸挽〕(前略)今治では其例は無かつたらしい。 

塔C

塔D

塔E

かまぼこ屋の先、O邸西隣にある髭題目碑には花が手向けられていた。裏面に「天保二辛卯歳」の刻銘あり。至近距離から供養塔(と首立て松?)の写真を撮った翌日から私は激しい腰痛に襲われ1週間ほど往生した。単に寝違えただけだろうが、気味が悪かったのは確かだ(苦笑)

塔F
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愛媛県今治市の本町7丁目と大新田町2丁目とを結ぶ浅川橋

2018年09月16日 | 
浅川橋からかつて貯木場があった辺りを望む。近くには製材会社や材木店が残っていたので賑やかだった頃を想像してみた。そして今治城下の防衛上非常に重要なポイントであった時代のことも…。

橋2

橋3

橋を渡り切り北西方向に直進すれば交通量の多い国道317号に合流するのだが、今回はあえて旧道へと向かうのである。私は四電工今治営業所の電柱保管施設前で足を止め「あっちだな」と呟いた。

保管施設
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愛媛県今治市の浅川河口

2018年09月11日 | 
北浜ポンプ場横に位置する水門の前を通って本町7丁目へ入った。浅川河口(右岸)にはたくさんの小型ボートが係留されていた。

船

河口

穏やかな海はすこぶる美しいが、裏の歴史を色々と知る男はつい別の風景を思い浮かべてしまう。門田金属株式会社本町倉庫を見上げながら矢野ストアーの方へ向かった。

橋

橋2

食料品店は浅川橋西詰に建っている。綺麗な橋は平成11年(※1999)7月に架け替えられたものである。過去に私は伊豫水軍に行く途中にこの橋を渡っていた。

橋3
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愛媛県今治市北浜町(日本丸周辺)

2018年08月31日 | 
今治市本町6丁目4の倉庫前から北西方向を望む。サニーガーデン本町の手前にある北浜橋を渡り北浜町に移動した。

橋

水路に沿って水門(北浜ポンプ場)の方へ向かう。鉄筋コンクリート造の4階建は株式会社カインドハウス(南鳥生町2丁目)が運営する「高齢者介護施設カインドハウス北浜(平成29年2月オープン)」であった。

介護施設

介護施設2


きたはまちょう 北浜町 〒794〔世帯〕71〔人口〕215▷市の中心部。北西端は浅川河口,東は燧灘に面する。南部は住宅地,中央部にはタオル工場が点在し,北部は工場地域で製材・金属工場などの用地となっている。地内には市防水倉庫・日の丸ポンプ場がある。
『角川日本地名大辞典 <38> 愛媛県(昭和56年10月8日発行)』

第23回 愛媛県都市計画地方審議会(日時:昭和49年5月13日)の第131号議案 今治都市計画下水道の変更(今治市決定)を読むと「日本丸ポンプ場(跡地)」の大体の位置も分かる。

変更理由
1 日本丸ポンプ場は敷地面積1,210㎡ と狭く、またポンプ場周辺の騒音、振動、悪臭などの公害のため、当ポンプ場を北西に約300m の北浜町に北浜ポンプ場として面積6,960㎡ に変更したい。また合流地区の雨水流出量は実験式を採用しているが、将来合理式方法による合流式に変更したいため、北浜ポンプ場6,960㎡に変更したい。

新築移転した北浜ポンプ場は昭和51(1976)年5月から運転を開始した。良い機会なので『伊豫今治町全圖(明治42年11月発行)』を使って昔の地名を解説しよう。

図

図2

図3

現在の北浜町2及び3辺りが「日本丸」と表示され北浜ポンプ場付近に「淺川火葬場」がある(※7枚目の画像・右端中央が戎神社=美保神社)。『愛媛摩訶不思議ちゃんねる』の松山平野火葬場事情5における伊豫國住人さんの書き込みとも一致する。

愛媛においても今治では浄土真宗の3寺院が淺川河口部に共同火葬場を建設していたりしています。城北火葬場もこのような境内火葬場の集約化の中で成立したと思われますが、なにせ資料がないため詳しいことはわかりません。

土葬から火葬への過渡期に火葬場が悪臭問題を避けるために人家の少ない川岸などに建設される例は多かった(備後福山似たようなケースである)。その後、淺川火葬場は大正期に塵埃捨場になっている。地元の人たちは明治の所謂迷惑施設が最終的に重要な排水施設へと姿を変えた歴史をしっかりと抑えておくべきだろう。

ポンプ場

2018.10.28追記
『愛媛摩訶不思議ちゃんねる』の伊豫國住人さんが参考にした文献は『今治市誌(昭和18年)』と思われる。重要な箇所を全て引用しておこう。

第二編
第九章 衛生
第三節 火葬場
一、火葬場の沿革 
 今治の火葬場としては明治二十二年頃常高寺・幡勝寺・稱名寺の共同事業として、大字今治村字濱手即淺川裾東岸 今の塵芥假置物邊 に三十坪の地を相して設置したのを始めとするが、該火葬場は大正十年五・六月頃風致を害するの故を以て禁止せられた。

第十章 社會事業
第十節 方面委員
四、地方改善地區整理事業
 市内北濱町、通稱日本丸は古來細民の集圑地であり、加ふるに火葬場・元梟首場・墓地・下水口等陰慘不淨なる施設の所在地に近く、殊に下水道は不規則狹小且門樋不完全の爲流下せず、泥濘汚滓停滯して惡臭甚だしく、一般民に極度に嫌忌せらるゝ有様であつたが、大正十二年政府は地方改善地區整理を爲し、一面差別的感情の除去に資し、一面當該發展の機運を與ふる爲、本縣下に於て此日本丸を選定し、大正十二年度より昭和二年度迄毎年六千圓宛昭和三年度に五千圓合計三萬五千圓を國庫より交付する事となつたので、市は之に依つて下水道を改修して幅員五間延長二百五十五間の整然たる水路を作り、橋梁を架設し、兩岸に道路を設け、且最下流に完全なる閘門を造り下水の流出と海水の阻止とに便し以つて此の一帶を良住宅地となし、延いて居住民に對する差別感情を一掃せんとしたものである。然るに一工事を數年に分割施工することは困難且不經濟であることから、大正十五年六月保險積立金一萬七千圓を借入れ、前三年分と合せて三萬五千圓とし、大正十五年度限り工事を完成し、爾後國庫支出金を以て右借入金の償還に充て、昭和三年度を以て終了した。
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愛媛県今治市の旧漁師町(現美保町1~3丁目)

2018年08月28日 | 
本町から美保町に入ると比較的大きな公園があった。『角川日本地名大辞典 <38> 愛媛県』の美保町の解説は以下の通りである。

みほちょう 美保町<今治市>
[近代]昭和43年~現在の今治市の町名1~3丁目がある。もとは今治村の一部。住居表示実施により成立。

公園2

神社A

海岸近くの美保神社へ向かう。私は今治の漁師町の風景を一通り眺めてから神社に参拝したのだった。美保町と名を改める前は猟師町(漁師町)と呼ばれていたそうだ。

りょうしまち 漁師町<今治市>
[近世~近代]江戸期~昭和48年の通称町名。猟師町とも書く。江戸期は今治村,明治22年今治町大字今治村,大正9年からは今治市大字今治村のうち。今治市街地の北東部に位置し,古い漁業集落である。貞享元年の「今治藩領改帳」によれば今治村のうちに猟師町の人口292,鰯網代8帳,船数合64艘,うち大船7艘・網船7艘・猟船50艘とある。漁師が集中したので自然と町名になった。貞享2年の町法度によると魚類の沖売りや他所売りを禁じており,町奉行の支配を受けている。また,貞享2年「猟師町屋敷改帳」によると今治村庄屋と並んで漁師町庄屋藤兵衛・組頭弥右衛門がいる。明治23年の戸数360,うち専業漁夫男536人・女526人。明治36年今治漁業組合設立。大正2年の水揚14万8,000円,うちタイ6万2,000円・カレイ2万3,000円・フグ1万3,000円・サワラ1万2,000円などであった。中央浜手に戎(美保)神社がある。現代の美保町1~3丁目のあたり。

神社B

神社C

神社D

福山でも平成10年代までは本通商店街などで魚の行商人を見かけたものだが、リヤカーを引いて得意先を回っていた婆さん(※笠岡市神島から遠征し花や練り製品まで扱っていた)は今元気にしているだろうか?

リヤカー
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愛媛県今治市本町5丁目・旧波止浜街道沿いの風景

2018年08月03日 | 
旧波止浜街道(本町5丁目)から本町6丁目付近を望む。大正期の地図では現「松月堂」までの道沿いが北新町で高野山真言宗「理性院神供寺」より先が慶応町となっている。

公園

公園2

児童館

慶応の名を冠した公園(児童館が隣接)は5丁目側にあるのだが、余所者の私には詳しい区分がよく分からない。周近は空襲の被害を免れている。参考までに『角川日本地名大辞典 <38> 愛媛県』の解説を引用する。

きたしんまち 北新町<今治市>
〔近世~近代〕江戸期~昭和48年の町名。江戸期は今治藩の城下今治町の町名。今治城下8町の1つ。寛永12年松平定房入封後の元禄年間までに成立した町。町名のとおり本町4丁目の北に続き,波止浜街道に沿って作られた。元禄13年「北新町寸間改帳」には東ノ輪・西ノ輪と見え,のち1~2丁目となる。当時は茶屋・油屋・畳屋などのわずかな町家があるのみで,大半は百姓屋敷であったが,江戸中期以後町家と職人が増加し,安政6年には小松屋小次郎ら3名の町年寄の名が見える。延宝8年の人口122,明治13年の戸数141・人口607。慶応年間,当町北部に慶応町が成立。明治18~22年今治を冠称。同22年今治町の大字,大正9年からは今治市の町名となる。昭和48年現行の本町6丁目となる。

けいおうちょう 慶応町<今治市>
〔近世~近代〕江戸期~昭和43年の通称町名。江戸期は今治村,明治22年今治町大字今治村,大正9年からは今治市大字今治村のうち。城下町今治の中心本町から延びる北新町に続き,浅川までの通りで,波止浜街道に沿う。もと北新町のうちで,慶応年間に発展した町。明治13年「越智郡地誌」に慶応橋が見える。明治末期,通りの両側は家屋が並んでおり,第二丸今綿布の工場があった。大正初期,木原商店織布工場が創業,その後四国電力の今治火力発電所や多くの染色・タオル工場が立地して工業地区として発展した。現在の本町6~7丁目・室屋町7丁目のあたり。

辻を右折すると味のあるモルタル建築が残っていた。レトロな造りに横文字の店名がまた面白い。ここから海はすぐ近くである。

モルタル建築
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愛媛県今治市共栄町3丁目及び4丁目の歓楽街

2018年07月30日 | 
共栄町3丁目の風俗店辺りがかつての京町だと思う。戦前は遊廓があったという話だが、「アイリスK」東側の駐車場がその跡地に該当するのだろうか。

歓楽街B

歓楽街C

同4丁目には数少ない戦前の建物が残っている。「今治ラヂウム温泉」が平成28年(2016)11月29日に国の登録有形文化財に登録されたことは非常に喜ばしい。岡崎直司さんのエッセイ『“MY TOWN”うぉっちんぐ 歩キ目デス&足ラテス vol.79 今治ラヂウム温泉の不思議<今治市>』には建物のことや町名の由来などが書かれており非常に参考になる。

 昨秋晴れて国登録有形文化財に選定された、この男湯と女湯が二つのドーム型に設計された建築の偉容は、大島出身の材木商村上寛造氏によって大正8年位創業された。ただ、実は正確な建築年が判明しておらず、昭和2年には存在していたという事のみ伝わっている。肝心の設計図書や、木造建築にあるような棟札の存在が無い為に、その設計者・施工会社は何れも不明である。資料が無い訳は、太平洋戦争末期、未曾有の災禍となった今治空襲によって隣接していた村上家も被災し、全てが焼失した事によるらしい。米軍機による空襲は、昭和20年4月26日、5月8日、8月5日、6日の計4回実施され、数百名の死者を数えた。 

 そもそも寛造氏は材木商で成功し、葦原でしかなかった場所に歓楽街を造り上げようと、大正期に映画館(共楽館と第二共楽館)や温泉などを興し、一帯を父京造の名から一字取って京町と名付け(今の共栄町)、一代でその夢を成し遂げた。されどもラヂウム温泉の建物は、ふんだんに手に入るハズの木材による建築とせず、当時の最先端と思われるコンクリートで計画する。

歓楽街D
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愛媛県今治市共栄町3丁目3‐1・フランス屋

2018年07月22日 | 
片原町1丁目から見た広小路。今治の目抜き通りを南西に進み瀬野汽船の角を曲がり共栄町に入った。以前から気になっていた「フランス屋」に寄った。

店

店2

店内に置かれたレトロなコカ・コーラ冷蔵庫(栓抜き&受け皿付き)がいい。昭和40年代の子どもは店のおばちゃんに代金を渡して冷蔵庫から瓶のコーラを取り出し栓を抜いて一気飲みしたものである。

私が大学を出る迄は瓶と缶が主流だった(大型ペットボトルは既にコンビニで売られていたが)。それが小型ペットボトルに取って代わるのは平成以降の話である。

パン

パン2

バタークリーム入り(フランスパン200円)とドーナツ(70円)を土産に買い求めた。どちらも適度な噛み応えがあり自分にはとても懐かしい味わいだった。後者は揚げパン風でセブンの商品とは全然別物だ(昔はこんな食感が多かった)

ドーナツ
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愛媛県今治市恵美須町1丁目・今治キリスト教旧会堂跡

2018年06月29日 | 
有津屋公園を出ると対面に「せとうち整備今治(天保山町2丁目5‐3)という自動車整備の会社があった。有津屋川に架かる有津屋橋を渡り東門町を抜けた。

橋

城

産業道路から今治城を数分眺めて内港に戻った。そして釣具屋の先、金星川の水門脇に石碑が建立されていることに私は初めて気付いたのだ。土地勘のない人のために『地域創生研究年報第7号(2012年)』中の越智真次氏の論文「キリスト教の四国伝道と今治教会の設立」から重要な箇所を引用させてもらう。

碑

(1)はじめに
 今治の商店街のアーケードに並行して金星川という小さな河川が流れている。今治城が存在した藩政時代まで,金星川は今治城の外堀としてその役目を果たしてきたのである。この流れは,今治港の内港へと注ぎ込んでいるが,河口にあたる恵美須町の商業用地の一角には,かつてその場所に今治教会の旧会堂があったことを記す石碑が忘れさられたように建っている。碑文には次のような内容が記されており,第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)8月5日深夜から始まり,翌6日の明け方まで続いた今治空襲によって教会堂が焼失するまで,同地に今治教会が存在していたことを今日に伝えているのである。
(中略)碑文は当時の今治教会牧師であった榎本保郎によるものである。
(中略)徳富蘆花(健次郎)は翌年の1885年(明治18年)に従兄(時雄の父小楠の後妻がつせ子であり,この時雄の継母つせ子の姉が蘆花の母久子)の時雄のもとに身を寄せることになり今治の地を踏むが,彼は後年『黒い眼と茶色の目』のなかで,日曜の朝夕,水曜と金曜の夜毎にこの鈴鐘がよい音を奏でていたと回想している。1893年(明治23年)12月からは,今治町より小学生が登校するときの時報として鳴らすよう依頼を受け,さらには正午までも報じるようになっていたようである。今治の名物となった鐘は人々から「愛の贈り物」と称されていたようである。しかし,この鐘も第二次世界大戦末期が近づく中で姿をとどめることが叶わず,1942年(昭和17年),金属回収令に基づいて強制供出を命じられ,四阪島の炉中に姿を消すことになる。(以下略)

碑2

碑3

今治キリスト教旧会堂跡
明治十二年九月二十一日此ノ地ニ四国最初ノ教会トシテ今治キリスト教会堂ガ設立サレマシタ 爾来此ノ地ハ今治ノ文化、産業開花ノ発祥地トナリ展開シテ行キマシタ サラニ我ガ国ノ精神文化ニ大キナ影響ヲ与エタ横井時雄(今治キリスト教会創立者)徳富健次郎(蘆花)モコノ地ニ在住シタユカリノ人デアリマス 此ノ教会ニハ当時米国教会カラ贈ラレタ鐘ガアリ日本三大洋鐘ノ一ツニ数エラレ朝ナ夕ナ打チナラサレル鐘ノ音ハ広ク今治全市ニ響キ渡リ今モ多クノ人々ノナツカシムトコロデアリマス 教会堂ハ昭和二十年八月五日米軍ノ空襲ニヨリ惜シクモ焼失シ其ノ後南宝来町ニ移転シ今日ニ至ツテオリマス
昭和四十八年二月之ヲ建ツ

商店街

港湾ビル

新町商店街・大和みやげものセンター前のバスターミナルが小奇麗になり港湾ビルも建て替えられて景観が様変わりしていた。船形の建物がみなと交流センター「はーばりー」である。
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愛媛県今治市天保山町2丁目4の柳瀬翁碑(有津屋公園内)

2018年06月16日 | 
額に汗をかいて今治内港の南端まで移動すると潮風が吹いており心地よかった。懐かしい風景を眺めながら沖洲橋(おきすばし)に向かう。

橋

公園

橋を渡った先(右手)が「有津屋公園(天保山町2丁目3及び4)」である。振り仮名は「あろうづや」が正しいのかな?

公園2

石碑

石碑2

公園の東側で大きな『柳瀬翁碑』を見つけた。石碑は柳瀬義富(綿織物業者・興業舎の社長を務めた人物)を称える為に大正6年(1917)に天保山に建てられたが、その後蔵敷(現旭町5丁目)に移され、昭和49年(1974)にこの公園に戻された。詳しい経緯と会社の歴史については、愛媛県総合科学博物館研究報告(2006)の資料『今治綿織物業者「興業舎」の明治から昭和の社業変遷の一面 / 藤本雅之』に目を通すことで理解出来ると思う(PDF文書として公開されている)

公園の道路を挟んだ向こう側(阿部鉄工所やIJCが経っている場所)がかつての天保山海水浴場の跡と思われる。埋め立てが進んだ結果、海岸線は北に移動した。『愛媛摩訶不思議ちゃんねる』における伊豫國住人さんの書き込みから昔は砂浜近辺が埋葬地だったことが分かる。参考までに一部を紹介しておこう。

松山平野火葬場事情2
…現在の日本において砂浜といえばあまり暗いイメージはないのだが、明治時代までは共同墓地として利用されていた場所が多く、しかもどちらかというと埋め捨て、死体処理場としての性格が強かったらしい。明治の政府通達等を見てみると「海岸部の墓地は海が荒れるたびに埋葬された死体が海に流出して不衛生なのでどうにかしろ」なんていうのがあり。愛媛においてはこの新川や今治の天保山は特にひどかったらしい。…

鉄工所
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