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寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

岡山市東区宍甘の明治天皇宍甘御野立所

2019年09月01日 | 
宍甘第2遊園地(宍甘128-5)から案内標識を頼りに山王山に登る。5分ほどで岡山市立宍甘遊園地(同445‐2)に辿り着いた。明治天皇宍甘御野立所と記された石碑が端の方に建っていた。

石碑

石碑2

石碑3

 
龍駕駐蹕記念碑=明治四十三年秋陸軍特別大演習を我吉備の野に於て行はる〱に當り、明治天皇は御総監として行幸あらせられ、大本營を岡山後樂園に置かれ演習地に行幸あらせられたり。演習第三日(十一月十五日)東軍は司令部を藤井に置き、岡山西大寺道上横割附近より龜井頭、土田を經て四御神西北方高地に亘りて陣地を占領し以て機の熟するを待ち、西軍は司令部を原尾島に置き、旭川の左岸に展開して東軍を追擊せんとす。時に東軍は有力なる部隊の來着をに依り俄然攻勢に轉じ笠井山、龜井頭にある兩軍陣地より砲聲起り、續いて全線の歩兵戰鬪を開始し砲聲銃聲殷々轟々加ふるに機關砲の響は砰礚として耳を劈くが如く、午前九時東神下、長岡の線にて衝突狀况となり演習中止となる。此日明治天皇は古都村大字宍甘山王山の高地に行幸あらせられ、親しく兩軍を御総監あらせられたり。依りて其附近數百歩の地を併て公園となし、櫻楓樹を植ゑ小亭を造り御野立あらせられたる御跡には石碑を建て、之を後世に傳ふること〱なりぬ。苟も一たび去つて此聖蹟に過ぎるあらば、誰か天皇の御偉德を瞻仰熱烈の至誠を起さざるものあらんや况んや。又當時に在りて畏くも龍顔に咫尺し餘光を拜せし臣民に於てをや。(後略)
『上道郡誌(大正11年・1922)』

龍駕駐蹕記念碑

現地を訪れた時には近くの記念碑について詳細は分からなかったが、上道郡誌の記述に目を通して漸く胸のモヤモヤが解消したのだった。これほどの史跡が郷土史家やコアな鉄道ファンにしか知られていないのは実に惜しい。説明板(漢文碑文の口語訳など)を設置して内外に大いにPRしてもらいたいものだ。

在来線

藩政時代に山王山周辺で屑中の屑が仕置されたことを明治天皇は恐らくご存知なかったと思う。天子様がご覧になった田舎の風景は今や様変わりしたが、見晴らしの良さは全く同じだ。真下を通過する新幹線や南方を行き来する在来線を撮影出来て嬉しかった。

新幹線
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岡山市東区宍甘の水道記念碑(宍甘簡易水道組合)

2019年08月25日 | 
JR流田一踏切を渡り北西へ向かう。丁字路角の「岡山市消防団古都分団(宍甘)機庫」から藤井宿方面へ(近世の西国街道を)少し歩いてもよかったのだが、時間をできるだけ確保しておくために今回は見送った。

磔刑場=現今の上道郡古都村大字宿古都尋常高等小學校の地にして國道に沿ひ諸大名の通路の南側にて面積約東西十三間南北二十七間巨大なる椋樹の外に老松四五本樹立し北側には一里塚とて一本の椋樹あり狐狸栖とて人をして悚然たらしめしが明治八年校舎新築に際し伐採して今は昔の面影だも止めずもと磔刑場は本村宍甘(現御野立所南下)にありしが池田新太郎少將の時淫祠を廢し荒祠寄をなすにあたり巫女十三人を火炙の酷刑に處したりしに其の火焔岡山の居城地より幽に見えし故不祥なりと現遺跡に移轉したるものなりといふ後天保五年(八十四年前)本郡玉井村宿奥の井上彦兵衛なるもの池田家に奉公中器物を盜取し仙臺の大名に賣却せんとしに池田家の定紋ありし爲逮捕せられ磔刑に處せらる又上道郡可知村大字松崎新田に孫八といふ不孝者あり親の訴によりて磔せらると又曰く和氣郡茂山(片山町東)の庄造なる者上道郡二本松(宇野村原尾島)某家に放火したる廉にて火炙の酷刑に處せらる叫號の聲遠近に徹したりと傳ふ是れを以て處刑者の最後とす今や慘憺を極めし磔刑場も咿唔の聲を聞く一村文敎の中心となるに至りも聖代の餘德といふべし、
『上道郡誌(大正11年・1922)』

表面

表面2

前述書の上道郡圖を参考にすると移転した磔場の跡は古都宿遊園地や忠魂碑がある付近と考えられる。山王山の麓で水道記念碑を見付けて裏面の文字も確認しておいた。碑は昭和三十六年一月に建てられたもので当時の宍甘は西大寺市の一部だった。伍賀厚氏は最後の市長(2代)となる。福山で言えば松永のような感じだろうか。

裏面
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JR赤穂線/山陽本線・流田一踏切(岡山市東区宍甘)

2019年08月18日 | 
JR東岡山駅から徒歩約3分の所に臭突付き平屋の賃貸住宅群があった(※昭和50年前後に完成と思われる物件)。この付近から住所は東区宍甘(しじかい)となる。西隣の中区土田との境界は小さな水路だった。土田は旧上道郡財田村の大字で宍甘は同郡古都村の一部…つまりかつての村境が区境に変わったと考えられる。

踏切

踏切2

踏切3

私が岡山市を訪れた際には「市道宍甘沼線道路改良工事(30‐1)」が行われていた。JR流田一踏切の手前(南側)のレールが赤穂線(全線単線)で奥側が山陽本線である。流田という地名は大昔の水害を連想させる。

JR貨物EF210形電気機関車(ECO‐POWER 桃太郎)の通過を眺めながら『岡山藩・宍甘の磔場跡は現踏切周辺が該当するんかな』と呟くと地元民と思しき人が露骨に嫌な顔をしていた。

貨物列車
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JR東岡山駅周辺地図から観光スポットを探す

2019年07月31日 | 
私は駅周辺地図の前に立ち効率の良い回り方を即座に決めた。近くの観光スポットとして最初に山王山に行きたかったのである。

地図2

駅舎

駅前から駐輪場を抜けて東へ向かう際に山を眺めたが、古墳特有の形状である。自主研究の調査も同時にできるためワクワクしてきた。

山
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JR山陽本線・東岡山駅で記念撮影

2019年07月02日 | 
岡山市中区土田にあるJR東岡山駅。赤穂線の電車も発着するが、私がここで下車するのは初めてである。明治24年(1891)3月18日に山陽鉄道の長岡駅として開業。明治39年(1906)元旦に西大寺駅となり同年12月1日国有化された。昭和36年(1961)3月20日現在の駅名になった。

駅2

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愛媛県今治市大西町の史跡巡り

2019年03月31日 | 
大西町内には史跡がたくさんあるが、私が見たのはほんの一部である。案内板が設置されており助かるが、欲を言えば簡単な観光マップの類が欲しい。

宝篋印塔

宝篋印塔2

宝篋印塔3

「ひとくろだけ地蔵」の程近くに宝篋印塔が復元されていた。山を下りる際に西ノ谷の「眞名井神社(まないじんじゃ)」に参拝した。

神社

神社2

神社3

小社

祭神は宗像三女神の一柱である多紀理毘売など八神。拝殿の裏に小さな社「おつぐろさん」があった。国道196号に出て南西へ進む。

墓

墓2

「太田歯科医院」の東側付近に藤堂高虎公に仕えた「土岐氏の墓」があった。今治の城下町と紺原地区がつながるとは思いもしなかった。

寺A

寺B

寺C

寺D

宿場町に戻り浄土宗「清井山浄雲院真光寺」裏手に「田坂槍之助の墓」を見つけた。槍之助は来島城主村上康吉の家臣で桜井の浜で討たれたが、分墓がこちらにあるらしい。

屋敷

屋敷2

大木

大木2

同町の最大の見所はやはり「旧大庄屋井手家」である。屋根の上に天水瓶が置かれているのは珍しい。敷地内のクスノキの大木は樹齢350年以上と言われている。

駅

江戸期の治安維持体制について重点的に調査した今治の旅はこれで完結。豆知識‥‥‥「大西駅(と菊間駅)」のスタンプは「今治駅」にある。

スタンプ
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愛媛県今治市大西町紺原の曹洞宗安養寺

2019年03月19日 | 
「ドラッグセイムス今治大西店」の横を通って南下する。西ノ谷という集落に入り坂道を上って行くと史跡案内板があった(時間がないので調査は断念)。

案内板

餌箱

坂道

野鳥の餌箱を置いている所があるように自然豊かな地だ。暫くして私は曹洞宗「安養寺」に辿り着き大きく息を吐いた。寺の沿革に目を通し山号を知り不思議な縁をしみじみと感じた。

寺

寺2

興福山 安養寺
野間郡四国八十八ヶ所六十六番札所
宗派 曹洞宗 本山 永平寺 総持寺
本尊 聖観世音菩薩
 この寺は享禄二年(一五二九)風早の大通寺二世華屋英曇大和尚がこの地に来られ開創され、後に大通寺開山玄室守腋大和尚を勧請開山としてお迎えした。
 その後二世月峰恵心大和尚まで二百年余りの間、寺は相当荒廃していたが、普宗密全大本寺である豊後の安楽寺にお願いし久留島家に頼んで波止浜の来島にある櫓を貰い受け堂宇を一新した。
 更に延宝年間(一六七三~一六八一)には大庄屋井手家の檀那時として知遇を受け紺原の祈祷寺として栄え今日に至っている。

寺3

地蔵

私がここまでやって来た本当の目的は山門向かい付近に祀られている石造物を直に確認することだった。道標の隣が「ひとくろだけ地蔵尊」である。

地蔵2

大木の前に設置された説明板には次のように記してあった(※グーグルストリービューの拡大機能を使えば全文字を読むことができる)。

地蔵さん
江戸時代に建立されもとは旧道の紺原集会所付近にあった。
その辺りで沢山のキリスト信者が処刑されたといわれ、これら受難者の霊を弔うために建てられたと伝えられる。四国遍路の道標もある。

転向を拒んで冥土に送られたキリシタンは様々な意味で気の毒だが、あらゆる宗教が苦悩する人々を救うことはない。現代人の多くが信仰に無関心なのはその事実を認識しているからだ。

地蔵3
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愛媛県今治市大西町新町の札場跡

2019年03月13日 | 
古寺の地蔵堂を出て波止浜街道を引き返し「鴨頭医院」の前に来た。大西町新町の三叉路は波止浜街道と今治(=松山)街道の分岐点にあたり江戸時代には札場が置かれていたという。旧道歩きを趣味とする人達には説明不要と思うが、追分の近くに御仕置場(=獄門場)が設置された事例はかなりあるのだ(※備後福山藩の榎峠など)。

石碑

石碑2

道標

かつては非常に重要な地点だった場所に建つ2本の石柱。新しい方が「四国のみち」の石碑(平成四年三月吉日建立)で風化が進んだ道標には施主として井手氏の名が刻まれていた。私は「延命寺」方面へと足を向けた。

国道

集会所

道標から東へ直線距離で350mほど移動すると南側に国道196号が見えた。逆方向(北50m)に位置する「紺原集会所」を急いで撮影し感知式信号機付交差点へと駆けて行ったのだった。

集会所2
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愛媛県今治市大西町新町・松山藩の御仕置場跡(古寺の地蔵堂)

2019年02月28日 | 
「新町第二集会所・三穂神社」を出て艮の方角に進み「美容室駐車場」と手書きされた看板が視界に入った。線路沿いを行くと波止浜街道に出る。

看板

教会

私が今治の旅でどうしても見ておきたくなったのが「金光教大井教会」の先にある「古寺の地蔵堂」だった。1日で複数の御仕置場跡を巡る機会は滅多にないからだ。

お堂

石造物

石造物2

こじんまりとしたお堂の前に供養塔らしき石造物が並んでいた。「大乗妙典一石一字」碑隣の大きな石の裏には「昭和八年七月 鴨頭ヨシ子 建之」の刻銘があった。

由緒沿革

背後に「古寺地蔵尊由緒沿革」の説明板が設置されており部外者が歴史的背景を理解するのに非常に役立った。私は地蔵尊に手を合わせながら地元の問題点について色々と考えた。

古寺地蔵尊由緒沿革
 ここ古寺には、もともと真光寺があった。同寺が移転したため、松山藩はこの跡地を処刑場とした。以来、ここは多くの罪人が処刑されてきた地である。
 貞享年間、高い年貢に加え打ち続く凶作のため、百姓の生活は悲惨を極めていた。延喜村の庄屋、八木忠左衛門は彼等の生活を座視することが出来ず、藩主に年貢軽減の直訴に及んだ。忠左衛門はその罪を問われ貞享三年 (一六八六) せがれ小太郎と共に、ここ古寺の処刑場で斬首、さらし首に処せられた。延喜村を中心とする野間郡の百姓たちは、命を賭して直訴した忠左衛門を義民と称え、ひそかに地蔵尊を建てて、その菩提を弔った。その後、この地蔵尊は、火難、悪病、厄除け地蔵として人々の信仰を集めてきた。
 下って明治二年 (一八六九) 野間郡大庄屋井出氏により、処刑された人々の霊を慰めるため「大乗妙典一石一字」の供養塔が建てられた。
 さらに大正十三年 (一九二四) 、同年五月十八日には、下町を中心とする有志の方々によって近郷近在で御詠歌を唱えて浄財を募ったりの方々の寄付により隣接地を購入して境内を拡張し、新しく御堂が建立された。爾来、新町は、この古寺地蔵堂の維持管理を下町に委嘱し、毎月二十三日を、御命日として御霊供膳を備えて祭り、殊に新暦八月二十三日を、御縁日として下町総出でダシ (藁人形) を作り、表通りに飾って賑やかに供養してきた。参詣の人々は「大井古寺火難悪病厄除お守り」を授かり、盆踊りも盛んで夜店も出るなど大変賑った。
 その後、六十有余年の歳月を経た御堂も老朽化が進み、内外の人々から寄付を仰いで昭和六十年三月十七日、古寺地蔵堂の新築再建を見るに至った。
 ここに古寺地蔵尊の功徳に感謝し、先人の業績を偲ぶと共に、この尊い遺産を後世に伝え残したい。
昭和六十年(一九八五) 新町

恥かしいことに福山では性質の悪いジンケンゴロの顔色をうかがう【似非】郷土史家が白を黒と言う。当時の重罪人は義民だけではないことを子どもに明確に教えていく必要がある。江戸時代の藩は曲がりなりにも法治国家であったのだから(罪と罰の関係)。定説を疑うことによって見えてくるものは多い。

扁額
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愛媛県今治市大西町新町の新町第二集会所及び三穂神社

2019年02月12日 | 
大西駅の西側に出て線路に沿って北東へ進むと「俺のらーめん」の北側に「新町第二集会所」があった。建物の端の方が「三穂神社(みほじんじゃ)」になっている。

集会所

石灯籠

説明板

石灯籠のそばに設置された説明板の記述に目を通して松山藩にとっては非常に重要な場所だったことを知った。地元の人のブログに掲載された昔の写真から判断すると以前神社は現在の「セブン‐イレブン大西町新町店」前辺りに鎮座していたと思われる。

政所由緒沿革
平成19年前後、数年をかけ株式会社新来島どっく工場用地拡張の為、永年住み慣れた政所の住民十六軒の移転が余儀なくされた。
此の地は、野間郡のほぼ中央に位置し、藩政時代に代官所や御蔵元が置かれたことから戸口も増え、神原村・現在の紺原から分村し新町村が生まれたと伝えられ、この地域を番所と呼び、政所の語源ともなっている。また大きな松の古木があったことから、通称大松(新町甲一〇九四番地)の名で親しまれていた。この付近に大井御蔵元があり、新町他十四ヶ村の年貢米が収納されていた。収納米の管理には代々地域の庄屋が命ぜられてきた。 時代の変遷と共にいつの日か (時代不詳) この地に蛭子の宮の祠が祀られ「おえべっさん」の名で周辺の人々の信仰を集め蛭子の宮の祠と共に人々の安らぎの場となっていた。
この蛭子の宮は 明治三年、三穂神社と改号された。
文政三年 (1820) 波止浜塩田騒動が起き、藩庁では暴動に加わった首謀者や浜子らを逮捕し大井蔵元に送り、この代官所で過酷な取り調べがなされた事などが伝えられている。
昭和十九年「波止浜船渠株式会社」により造船所の建設が始まったが翌二十年終戦となり建設は中止され、昭和三十年三月三十一日 町村合併 (大井村・小西村) となり、昭和三十六年来島船渠株式会社を誘致し同年八月から跡地のドックを利用し大西工場建設に着手。
昭和四十二年周辺の人々による浄財により前身の三穂神社の社が新築され其の後、昭和五十八年地域住民の寄り合いの場として、新町により政所中原集会所が新築された。
平成二十一年是れら歴史あるすべての土地建物も移転余儀なく、平成二十二年三月新町により現在地に新築移転されるに至った。
私達は此れら由緒ある政所の沿革を、後世に伝えていきたいと思う。
平成二十二年三月 新町

集会所2
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JR予讃線・大西駅に到着

2019年01月21日 | 
JR予讃線を利用して愛媛県今治市大西町新町(おおにしちょうしんちょう)までやって来た。何とものどかな土地である。無人駅で下車したのは私を含めて数人だった。

アンパンマン列車

駅2

跨線橋

昭和34年(1959)10月に「大西駅」と改称される前は「伊予大井駅」という名称だった。私は独特の形状をした跨線橋(こせんきょう)へ向かい波方駅方面を眺めて目的地の大まかな位置を確認したのだった。

線路
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JR今治駅のスタンプを旅の記念に押す

2019年01月08日 | 
「今治地方観光情報センター(JR今治駅構内)」で入手した市街地図(実物はB4サイズの古紙に印刷されていた)を使って駅の西側に位置する高等学校について少し触れておこう。

高校

高校2

2枚目の画像は学園通り沿いの田んぼ(現在はセブン‐イレブン今治学園通り店になっている)近くから「愛媛県立今治北高等学校(宮下町2丁目・地図では赤)」周辺を撮影したもので前身は「今治高等女学校」である。そして3枚目が「今治明徳高等学校(北日吉町1丁目・地図では黄)」で歴史を辿ると「今治技芸女学校」に行きつく。

駅

私は当初の予定を変更し郊外まで足を延ばすことにした。改札係員に一声かけて駅スタンプを出してもらい官製はがきの裏に押した。誰もが納得する特産品のタオルをあしらったデザインだった。

スタンプ
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愛媛県今治市高地町2丁目1951・須賀神社

2019年01月05日 | 
高地町在住の方のご厚意で須賀神社の近くまで車で送ってもらった。水路(鴨川?)沿いに案内板が建っており高地集会所にはすぐに着いた。

案内板2

集会所

集会場の隣がお堂で地蔵菩薩なども祀られている。高地町公園の下にあった「戦没者之碑(平成元年十一月吉日建之)」には日華事変及び太平洋戦争で亡くなった計19名の名が刻まれていた(※昭和20年に関しては殉職者と戦災の犠牲者も含まれる)。

石造物

石碑

須賀神社の石鳥居は文化年間に「石工 木村忠左衞門」が手掛けたものであることが分かった。玉垣や石灯籠そして注連柱は明治41年に造られていた。

石鳥居

社殿

社殿は集会場やお堂から少し離れた小高い所に鎮座している。参拝を済ませた私はペットボトルのお茶を飲み干して石段を駆け下りたのだった。

石鳥居2
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愛媛県今治市高地町2丁目の新堂地墓地

2018年12月29日 | 
JR予讃線の高架は平成4年(1992)3月末に完成している。私が「新浅川橋」から見たのは1両編成の電車だった。高架の下を通って宮下町に入る。

老人ホーム

支所

「特別養護老人ホームすずらん」から「今治第一病院」を経て「今治拘置支所」の前に出た。道がごちゃごちゃして分かりにくいが、高架を目印にして北西方向に進むことにした。

電柱

電柱2

マンホールの蓋

「日新第三マンション」近く(南)の電柱のプレートには太字で「夏目」と記されていた。周辺の古い地名と思われる。汚水管マンホール蓋のデザインは伊予水軍である。暫く歩いて新堂地墓地(高地町2丁目1845‐2の北側辺り)に到着した。

田

墓地

墓地2

私は墓参りに来た婆さんに「昔、墓地のそばに火葬場があったことをご存知ですか?」と尋ねてみた。70過ぎと思しき彼女は何も知らなかった。ただ目を丸くして「初めて聞く話です」と言った。

『今治市誌(昭和18年)』
第二編
第九章 衛生
第三節 火葬場
一、火葬場の沿革
(前略)大正九年九月有志數名の組合立を以て大字日吉字新堂地の地に「靈照館」を設置し、爾来昭和三年八月市營火葬場設置迄は殆ど全火葬を引受けたが、別項市營火葬場開設以來は年々少數の火葬をなしつゝあるに過ぎぬ。
二、市營火葬場
 今治市に於ては衛生上必須施設として、最新式無煙無臭の火葬場設置の必要を認め、既に大正十四年度に於て、二萬六千九百圓の建設豫算を置いたが、位置選定に關し、故障起り、大正十四年・同十五年度共建設に至らず、昭和二年十二月に至り始めて大字日吉字イタチカドの地として、市會の議決を經、直に建設に着手し、昭和三年五月末を以て火葬爐の据付及附属設備の竣工を告げた。該爐は東京昭和企業株式會社の昭和式重油燃焼無煙無臭爐で、特等、一等、並等、小兒用各一基を有し、昭和九年九月使用を開始して今日に及び、右の他大谷墓地の一部に火葬場附属の斎場を設備し、更に管理人事務室及宿舎を附設して取扱の完璧を期して居る。建設總經費は二萬七千二百三十八圓六十二錢で設備内容は左の通である。
 尚無煙無臭の完備せる装置なるを以て、昭和三年十二月以來、晝間火葬作業を許可せられ、一火葬時間二時間 小人は一時間半 なるを以て、私營火葬場時代に比し能率大に擧がり、火葬操作の面目を一新した。

山

後になってすこぶる愚問だった(火葬場が役目を終えようとしていた時にまだ彼女は誕生していない)と反省した次第である。『今治市街全圖 / 阿部利三郎(大正12年)』を参考にすると火葬場「靈照館」は墓地の上の方にあったと思われる。石組の上に建つ小屋付近が該当するのかもしれない。

山2
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愛媛県今治市別宮町9丁目1・今治家畜市場跡地

2018年12月23日 | 
二級河川の浅川から少し離れて別宮町9丁目の住宅街をぶらつく。今でも昭和の面影が色濃く残る界隈である。

住宅

「平屋建て棟割り住宅」を眺めていると福山の東手城に舞い戻ったかのような気分になってしまう(笑)。私は直に目的地の「愛媛県東予家畜保健衛生所今治支所」に着いた。

支所

支所2

支所の隣(西側)が「Aコープいまばり愛彩」だが、昭和40年(1965)の住宅地図では「今治家畜市場」になっている。そして現駐車場の位置に「愛媛県農協連今治畜産センター」が存在していたことになる。

橋

「八幡地橋」の袂から約80m南にある「浅川防潮水門(昭和60年完成)」。河口付近で高潮が発生した際に河川の水位上昇を防ぐための設備でJR今治駅周辺の治水を目的としている。

水門
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