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寮管理人の呟き

愛媛県今治市恵美須町1丁目・今治キリスト教旧会堂跡

有津屋公園を出ると対面に「せとうち整備今治(天保山町2丁目5‐3)という自動車整備の会社があった。有津屋川に架かる有津屋橋を渡り東門町を抜けた。

橋

城

産業道路から今治城を数分眺めて内港に戻った。そして釣具屋の先、金星川の水門脇に石碑が建立されていることに私は初めて気付いたのだ。土地勘のない人のために『地域創生研究年報第7号(2012年)』中の越智真次氏の論文「キリスト教の四国伝道と今治教会の設立」から重要な箇所を引用させてもらう。

碑

(1)はじめに
 今治の商店街のアーケードに並行して金星川という小さな河川が流れている。今治城が存在した藩政時代まで,金星川は今治城の外堀としてその役目を果たしてきたのである。この流れは,今治港の内港へと注ぎ込んでいるが,河口にあたる恵美須町の商業用地の一角には,かつてその場所に今治教会の旧会堂があったことを記す石碑が忘れさられたように建っている。碑文には次のような内容が記されており,第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)8月5日深夜から始まり,翌6日の明け方まで続いた今治空襲によって教会堂が焼失するまで,同地に今治教会が存在していたことを今日に伝えているのである。
(中略)碑文は当時の今治教会牧師であった榎本保郎によるものである。
(中略)徳富蘆花(健次郎)は翌年の1885年(明治18年)に従兄(時雄の父小楠の後妻がつせ子であり,この時雄の継母つせ子の姉が蘆花の母久子)の時雄のもとに身を寄せることになり今治の地を踏むが,彼は後年『黒い眼と茶色の目』のなかで,日曜の朝夕,水曜と金曜の夜毎にこの鈴鐘がよい音を奏でていたと回想している。1893年(明治23年)12月からは,今治町より小学生が登校するときの時報として鳴らすよう依頼を受け,さらには正午までも報じるようになっていたようである。今治の名物となった鐘は人々から「愛の贈り物」と称されていたようである。しかし,この鐘も第二次世界大戦末期が近づく中で姿をとどめることが叶わず,1942年(昭和17年),金属回収令に基づいて強制供出を命じられ,四阪島の炉中に姿を消すことになる。(以下略)

碑2

碑3

今治キリスト教旧会堂跡
明治十二年九月二十一日此ノ地ニ四国最初ノ教会トシテ今治キリスト教会堂ガ設立サレマシタ 爾来此ノ地ハ今治ノ文化、産業開花ノ発祥地トナリ展開シテ行キマシタ サラニ我ガ国ノ精神文化ニ大キナ影響ヲ与エタ横井時雄(今治キリスト教会創立者)徳富健次郎(蘆花)モコノ地ニ在住シタユカリノ人デアリマス 此ノ教会ニハ当時米国教会カラ贈ラレタ鐘ガアリ日本三大洋鐘ノ一ツニ数エラレ朝ナ夕ナ打チナラサレル鐘ノ音ハ広ク今治全市ニ響キ渡リ今モ多クノ人々ノナツカシムトコロデアリマス 教会堂ハ昭和二十年八月五日米軍ノ空襲ニヨリ惜シクモ焼失シ其ノ後南宝来町ニ移転シ今日ニ至ツテオリマス
昭和四十八年二月之ヲ建ツ

商店街

港湾ビル

新町商店街・大和みやげものセンター前のバスターミナルが小奇麗になり港湾ビルも建て替えられて景観が様変わりしていた。船形の建物がみなと交流センター「はーばりー」である。
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