goo blog サービス終了のお知らせ 

寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

愛媛県今治市の金星川に架かる相生橋

2018年05月31日 | 
常盤町3丁目側から見た相生橋。今治城の外堀の名残りである金星川に架かる短い橋である。欄干に平成16年(※2004)6月と記されたプレートが取り付けられていた。

欄干

橋を渡ると末広町1丁目になる。橋の袂に位置する「洋」は知る人ぞ知る名割烹。私は店の前で準備中の男性に声をかけ今治空襲について尋ねてみた。

「この辺りも焼け落ちたんでしょうか」

「そのようですね。もちろん惨状を見た訳じゃないけど。…店を出す際の工事で地下1メートル辺りから真っ黒な炭が大量に出土し空襲の凄まじさを間接的に知ったんですよ」

昭和20年(1945)8月初めの米軍の爆撃で今治の市街地の大半は焦土と化した。戦後生まれの市民から貴重な証言を聞き出せたのは非常に幸運だった。城下町福山も同様の運命を辿っており不思議な縁を感じた。

欄干2
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛媛県今治市常盤町4丁目1‐18・今治大丸跡地

2018年05月15日 | 
よく今治に遊びに来ていた頃には大丸が営業しており中に何度か入った記憶がある。平成20年(2008)12月31日に大丸が閉店、平成25年1月に更地になった。私は国道317号・ドンドビ交差点付近から跡地を眺めて一抹の寂しさを覚えた。現在は「どんどび芝っち広場」としてイベントなどで利用されているそうだ。詳しい経緯を知りたい方はサイト『今治大丸の歴史』をご覧になるといい。

大丸跡
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛媛県今治市南大門町1丁目3・旧今治郵便局跡

2018年05月10日 | 
駅前のもと飲み屋が段々姿を消していくが、近くに「ゲストハウス シクロの家」ができ新しい風も吹いていることが分かる。

飲食店

もと旅館

バス通りを渡り今治アーバンホテルの横を通過し北へ向う。趣のある建物を眺めながら南大門町に入った。突き当りにNTT西日本今治ビルが建っている。更に南東へ約20m移動すると慰霊碑がある。

石碑

この場所は旧今治郵便局の跡地にあたる。昭和20年(1945)4月26日午前9時過ぎ米軍が投下した爆弾によって勤務(電話交換業務)中の若き女性職員10名が亡くなった。私は手を合わせて犠牲者の冥福を祈った。

碑文
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛媛県今治市北宝来町1丁目の旧カフェー街

2018年05月07日 | 
「まだ残ってたんだ‥‥‥」 

これが私の口から自然に出た言葉だった。予想に反して駅弁の二葉の向かいに位置する建物がしぶとく存在感を示していたのである。旧カフェー街の一部としての史料的価値は高い。

建物2

建物3

時代の流れで廃業したラーメン屋が実にシブい趣きである。定連客の回想を読んだが、店がオープンする前は赤線というよりむしろ青線として機能していたようにも受け取れる。

祠

商売繁盛を祈願するお稲荷さんを祀った小さな祠が細い路地沿いにあり当時の繁盛ぶりを今に伝えている。駅前のもと色街を若い人が見たらどんな印象を持つのだろうか。

祠2
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛媛県今治市北宝来町1丁目の猿飛佐助像

2018年05月06日 | 
十数年ぶりに今治を訪れた。駅前の猿飛佐助像を見ると懐かしさがこみ上げてきた。忍者佐助は当地出身の山田阿鉄らが創作した架空の人物である。私は水分補給を済ませて南へ移動した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡山県津山市久米川南の忠魂碑(宇垣一成陸軍大将書)

2018年01月31日 | 
吉井川右岸から宮尾の集落を進んでいく。中国電力久米変電所周辺は一面の農地である。旧出雲街道を示す石柱が民家の隣に建っていた(宮尾192付近)

電力会社

石仏

石柱には宮尾の文字も刻まれており木の下に石仏が集められていた。久米建設近くに石鳥居が見えたので少しばかり休憩することにした。

石鳥居

忠魂碑

鳥居前には御旅所の石碑、郷社八幡神社参道入口の標石があった。そして石碑の対面に位置するのは立派な忠魂碑だった(※碑の北側を流れる水路が久米川南と宮尾の境界になっている)

忠魂碑2

忠魂碑3

宇垣一成陸軍大将書の刻銘があり裏を見て昭和3年(1918)11月10日に建立されたものだと分かった。田中義一内閣の時代にあたり11月からラジオ体操の放送が始まり10日には迪宮裕仁(つぐのみやひろひと)親王(28)の即位の礼が京都御所で行われた。

踏切付近

踏切付近2

参道を北上しJR姫新線八幡神社踏切を渡る。日本ニューホランド岡山営業所の角を左折して国道181号に入り道の駅久米の里を目指した。

道の駅

ガンダム

駅の西側に展示されている巨大なZガンダム。私と同世代と思われる男性が嬉し気に何枚も写真を撮っていた。小学校の頃地元の大松模型店にバンダイのガンプラを予約して全て作り上げたので彼の気持ちは十分に理解できる(笑)。

今回の旅では小回りのきく自転車を駆使し走り回った(一部は歩き)。河辺の桝形跡から道の駅久米の里までを直線で結ぶと約11.5kmになる。途中寄り道したり道に迷ったりしたので走行距離は25kmに達したかもしれない。治安維持の観点から津山城下とその周辺を調査し旧院庄村と旧平野村の類似点を確認できたのは大きな成果だった。

地図
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡山県津山市宮尾の中須賀船着場石灯籠

2018年01月30日 | 
錦橋西詰のすぐ北側、吉井川の土手道沿いに「中須賀船着場石灯籠 ↼40m」の案内標識が出ている。石柱は(旧)久米町教育委員会が平成6年(1994)3月に建立したようだ。

案内標識

標石

石灯籠は昭和44年(1969)10月9日に同町の文化財に指定された。平成17年(2005)2月28日久米郡久米町が津山市に編入され、久米町大字宮尾は津山市宮尾になった。

標柱

石灯籠

中須賀船着場石灯籠
 中須賀は、吉井川の船便を利用し、下流にある備前国との交易をする物資の集積地として、また宿場町として栄えた地で、出雲街道の要衝のひとつであった。
 ここにある三基の灯籠は、航海の安全を祈る為に建てられたもので、出雲街道の両側に伊勢神宮内宮・外宮(明治元年十一月吉日)の石灯籠が、また吉井川沿いには金比羅宮(嘉永七年十月吉日)と刻まれた石灯籠が建てられr、常夜灯として昭和十年代頃まで各家順番で点火していたということである。
 その後、これらの石灯籠は、河川改修によりこの場所に集められ、現在に至っている。
久米町教育委員会

かつて高瀬舟が吉井川を行き来し物資や人を運んだ。鉄道建設によってその役目を終えることになるが、約80年前まで近所の人達が灯籠に点火していたとは驚きだ。確かに備後福山でもその頃までは渡し舟がたくさんあった。

説明板
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡山県津山市神戸と宮尾を結ぶ錦橋(吉井川)

2018年01月28日 | 
旧出雲街道沿いのアキタアパートから西へ約20m進んだ地点に道標と常夜燈があった。石材の劣化が進み文字の読み取りは困難を極めるが「従是 備後三郎舊跡江之道」と彫られている。道標から北へ向かうと院庄館跡(作楽神社)に着く。備後三郎とは隠岐へ配流される後醍醐(廃位)を慕う忠臣・児島高徳(こじまたかのり)のことである。

旧出雲街道

錦橋

あきたクリーニング、愛美容室を過ぎた辺りから住所は院庄から神戸(じんご)にかわる。私はやっと吉井川に架かる錦橋の手前まで来た。錦橋とJR姫新線第二吉井川橋梁との間(河川敷)に美作国の安国寺があったと伝わっている(『院庄構城跡 平成19~23年度市内遺跡確認調査報告書 2013 津山市教育委員会』参照)

橋の銘版(宮尾側)に記載されたKK駒井鉄工所は大阪市発祥の橋梁製造メーカーだが、合併により駒井ハルテックという社名になった。炭素鋼SS41(現SS400)が一等橋の材料に使用されたことがわかる。

橋の銘版
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡山県津山市院庄・構城址に建つ貞烈純孝島田母子之碑

2018年01月26日 | 
院庄八幡神社石鳥居前から旧出雲街道を西へ約150m進んだ地点(路地入口 ※津山市院庄535側)に「貞孝母子之碑 是より一町」と彫られた石柱がある。細い道を北上すると農地が広がる。

標石

小道

そしてこんもりした場所に石碑が二つ見える(線路の向こうの大きな建物は特別養護老人ホームのどか)。道の右手に建つのが院庄構城址を示す碑である。

城跡

森忠政公が一年ほど滞在した平城について詳しいことは分かっていない。本丸跡と清眼寺との間には藩主のための御茶屋が設けられていたという(『院庄構城跡 平成19~23年度市内遺跡確認調査報告書 2013 津山市教育委員会』参照)。

貞孝母子之碑

私は勝手な想像を膨らませた後、もう一つの石碑に近付いた。これがかの有名な「貞烈純孝島田母子之碑」だ。母子とは島田馬之丞の妻と娘のことを指し、二人が自害した悲しい経緯を今に伝えている。

貞孝母子之碑2
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡山県津山市院庄388・八幡神社

2018年01月23日 | 
「美作国七福神霊場毘沙門天清眼寺」の標柱から西へ約10m、旧街道南側に津山市消防団院庄分団第三機庫がある。その隣に八幡神社の石鳥居が建っている。

社殿

社殿(側面)

社殿(背後)

鳥居を潜り奥に入って行くと右手に社殿が見える。木々が茂る裏手には稲荷大明神や荒神社などたくさんの境内社が横一列に並んでいた。

摂社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡山県津山市院庄779・真言宗極楽山清眼寺

2018年01月22日 | 
旧街道を更に進むと「美作国七福神霊場毘沙門天清眼寺」の標柱と「奉納大乗妙典六十六部供養」という文字が彫られた石塔があった。ここから北へ延びる道が極楽山清眼寺(ごくらくざんせいげんじ)の参道である。

門前

門前2

当寺はぼたん寺とも呼ばれ4月下旬頃には境内のぼたんを見に大勢の人が訪れるという。山門脇に「美作八十八ヶ所霊場第五十六番」の幟が立っていた。

本堂

参詣を済ませた私は七福神の後方にある古びた石造物に目をとめた。宝篋印塔(ほうきょういんとう)は明和四年(1767)に建立されたものだった。

宝篋印塔
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡山県津山市院庄・にらみあいの松

2018年01月17日 | 
滑川橋を渡った先に「あねご」という名のお好み焼き店があり住所が院庄に変わる。道なりに進むと民家の前に「院庄村二宮村組合立双松尋常高等小学校跡」を示す石碑が建立されていた。

小学校跡

機庫

標識

そして寿ぐ介護サービス・津山市消防団院庄分団第六部機庫(辻)の西約150m先で「にらみあいの松」と書かれた木製の案内看板を見つけた。この角を曲がり小道を南に入ったところが院庄東公園だった。

標識2

説明板

公園入口付近に松に関する説明板が設置されており遊具の北側に2本の松が向かい合う配置となっている。森忠政公が院庄に城を築くことを断念するきっかけとなった刀傷事件は歴史ファンの間では有名だ。

松
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡山県津山市二宮の滑川橋

2018年01月15日 | 
JR姫新線の院庄踏切を再び渡り駅の裏手を経由して旧出雲街道に戻った。吉井川に沿って土手道を南西へ進むと小さな橋が見えてくる。

街道

橋A

滑川(なめらがわ)の河口に架かる滑川橋である。幅の狭い滑川はこの橋のすぐ南で吉井川に合流する(3枚目の写真)

橋B

橋C

山中一揆の首謀者(義民)が仕置きされた場所(院庄川原)とは滑川橋周辺を差すのではないだろうか。橋は架け替えられてまだ15年ほどである。

橋D
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡山県津山市二宮42‐3・JR院庄駅

2018年01月07日 | 
金光下バス停を通過するとまた追分道標が建っていた。(2枚目の写真の)左側が出雲街道、右側が伯耆街道である。

追分

瓦置場

左の道に入る。すこし先が瓦置場らしき場所だった。私はここで「院庄駅(いんのしょうえき)を見ておくべきだな」と考え直して寄り道したのである。

寺

寺2

浄土真宗本願寺派白道寺(びゃくどうじ)前から道なりに進み駅の裏に出た。ホームで姫新線の車両を待つ人がいたが、何とものどかな風景だ。

駅裏

踏切

院庄踏切を渡り辻を右折し小さな駅舎に到着した。駐在所が脇にあるのは東津山駅(と交番の配置)に似ている。地元の人は既にお気づきかと思うが、最初の追分から伯耆街道を経て西進するのが駅へ行く最短コースだ。

駅前
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡山県津山市二宮596‐1・首なし地蔵(佐野食品敷地内)

2017年12月29日 | 
青野石油店本社角地に追分道標が建っている。諸藩は分岐点の先に治安維持の目的で重点的に監視員を置くことが多かった。津山も実は例外ではない。

追分道標

本社西隣の佐野食品敷地内に五体の首なし地蔵(山中一揆の義民を供養するために建立)が祀られている。享保十二年三月十二日(1727年5月2日)に行われた重罪人の仕置及び晒し場については『津山市史 第四巻 近世Ⅱ ‐松平藩時代‐(※PDF文書として公開されており誰でも閲覧できる)』の記述が分かりやすいと思う。

食品会社

地蔵

説明板

 三月一二日、藩は徳右衛門ら首謀者の処刑を申し付けた。頭取牧分徳右衛門・見尾村弥次郎の二人は院庄河原で磔、富東谷与七郎・束茅部村七左衛門の二人は獄門、土居村忠右衛門・東茅部村喜平次は死罪とされた。処刑は次のように執行された。早朝六時に、町奉行村山左仲・同書役・同心小頭・支配代官三木甚左衛門・郡代下役が牢屋に出頭した。本来は支配代官は処刑執行には立ち会わないきまりになっていたが、騒動についての幕府への聞こえにも配慮して出役した。郡代下役が処刑ごとに仕置状を読み渡した。忠右衛門・喜平次へは死罪が申し渡され牢屋の討捨場で討首、七左衛門・与七郎へは斬罪が申し渡され牢屋で討捨、首は二宮と院庄との境の川向こうの河原で獄門に掛けられ、悪事筋書札は川岸の道べりに立てられた。徳右術門・弥次郎への磔の「申渡」は牢屋役所で済ませ、両人を牛に乗せ、悪事筋書札を先頭に立てて、町同心・郡代所役人の警護のもとに、牢屋より本町を通り、獄門と同じ場所で磔にした。河原の仕置場へは御徒目付・郡代下役・下目付・郡代所新組・二宮触と院庄触の大庄屋・村々庄屋が立ち会った。

私は地蔵に手を合わせて旧街道を更に進むことにした。残り少ない時間でも院庄地区をざっと見て回ることは可能だと判断したのである。

地図
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする