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寮管理人の呟き

愛媛県今治市大新田町・今治藩の獄門場跡

大正期の地図に記載のあった浅川墓地はとうの昔に消滅し、現在は住宅地などになっている。『今治市誌(昭和18年)』には墓地移転の経緯について詳しい記述がある。

『今治市誌(昭和18年)』
第二編
第九章 衛生
第四節 墓地
一、市營新堂地墓地 
 淺川河口北岸の淺川墓地は、明治十五年五月より使用せられたものである。尤も明治初年頃のもの、又は文化文政時代よりのものもあるが、これは日本丸にあった墓地から移轉したものであろうと思ふ。兎に角相當古くより、存在し、大字今治村其他住民の墓地として、其面積一反九畝十四歩、其數一千四百に達して居つたが、昭和六年淺川貯木場開鑿上其の存在を容さざることゝなつたので、同年之が移轉地を大字日吉字新堂地の地に選び、金二千三十九圓を以て之を買收、築造費二千四百六十九圓餘を以て整地し、大体原面積を與へ原形に模する方針の下に公費を以て昭和七年五月移轉改葬に着手、六月竣工、同日新墓地に於て慰霊祭を行ふた。改葬に際し合葬又は他墓地に移轉するものもあり、新墓地に移轉したる墓碑は九百四十四基であつた。

寺

寺2

跡地は祈祷所「大福寺」南側辺りが該当するが、戦後の一時期セメント加工場などがあったようである。非常に狭い境内の片隅に一字一石塔が建つ(側面に明治十二卯年四月建立という文字が彫られている)。

塔A

塔B

店

昭和33年(1958)の住宅地図で確認できた市営食肉処理場(所謂と場)は「有限会社ユーアス」周辺にあったと思われる。其処が藩政期には獄門場だったという黒歴史はあまりに有名である。

第一編
第二章 沿革 
第九節 江戸時代の今治(其二)
十二、今治藩の刑制 
3、正刑解説 
 死刑には死罪・火罪・獄門・磔・鋸挽の五種があつた、以下順次説明する。   
〔死罪〕は庶民の刑で、斬首するをいふ。從つて士分には死罪はない。盜賊・追落おいはぎ・巧み事など性質の惡むべき者に適用する。但し盜賊でも實情如何に依つて輕い刑もある。死罪は概ね極惡者に科する。重い者は引廻の附加刑を科した上斬首した。又死罪者には闕所の附加刑があり、田畑家屋敷等沒收された。今治に於ける例を擧げると、貞享四年十月藩奉公人鳥生村の人渡邊作左衞門同村實法寺飼育の馬が作物を害したとして、其馬の雄を切つて追ひ放つた爲、當時生類御憐み、馬保護の禁令に觸れ、江戸へ伺ひの後首を刎ねられ、其妻は追放せられた事、及小泉村百姓今藏が眞木某の具足を盜んだ爲、元祿四年八月九日牢屋に於て斬首せられ、兄弟は追放せられた事がある。因に此時今藏の首を斬つた刀は新刀で、試し斬を兼ねたものである。
〔火罪〕は火焙である。江戸初期には耶蘇教徒又は重罪の者には適宜之を科したが、其後放火罪に限ることゝし、必ず引廻の上行はれた。而も焚き殺した死屍は其まゝ三日二夜晒すのである。今治に於ける例は元祿六年八月二十日、室屋町に放火した火附女菊を同年十一月二十日淺川獄門場所に於て火刑に處し、又拝志町生れ半藏が領中所々放火した罪に依り、安永三年十一月二十一日淺川仕置場に於て火罪に處せられた等である。 
〔獄門〕は梟首ともいひ、元は罪人の首を獄屋の門前に掲げたからの名稱である。獄内で斬首し水で洗つて苞に入れ、が罪状處刑などを記した捨札を持つて先に立ち、刑場に送つて三日二夜晒し首にした。罪の重いのは引廻の附加刑がある。之に該當する罪は、御定書百箇條に密通して實夫を殺す様勸めて手傳した者、密通の女が實夫へ疵付けた者、多數で有夫の女を姦した頭目、養母・養娘並に娘と密通した男女、密通の僧侶等に多數を擧げて居る。今治での例は、正德四年六月三日盜人由平が斬首獄門に處せられた如き、又享保十九年五月二十日盜人權助を日本丸にて斬首し、小淺川 今の淺川 に梟首した如き其の數が多い。斬首獄門の場所に就ては、今治夜話及今治拾遺に品部與市右衞門の手柄に關し記述した後に、「偖其日夜に入濱手に引出ケルガ其頃 元祿十年頃である ハ總社川之裾北ノ方ニテ伐シト也昔ハ東御門之前通濱側ニ獄門ヲナセシガ何レノ頃ヨリカ淺川北往還ノ並松濱側獄門場トナレリ」とあるから、斬首場所は牢内總社川裾・日本丸・淺川尻等所々で行はれ、獄門は殆ど淺川尻 今も首立松と云ふがある で行はれたものである。
〔磔〕(前略)今治に於ける磔の例は拾遺に「元祿十三年三月二日長谷村百姓市朗右衞門母を殺害牢舎申付置公邊御伺之處御老中御用番土屋相模守ヨリ大罪之者於其所磔に仕候様被仰渡、六月六日淺川於御仕置場磔申付云々」とあり、又見聞錄及叢書、貞享三年八月二十六日の條に米屋町に於て贋銀を鑄した傳兵衞を磔に處し、其妻及宿主を獄門とし其他六人を追放した例もある。 
〔鋸挽〕(前略)今治では其例は無かつたらしい。 

塔C

塔D

塔E

かまぼこ屋の先、O邸西隣にある髭題目碑には花が手向けられていた。裏面に「天保二辛卯歳」の刻銘あり。至近距離から供養塔(と首立て松?)の写真を撮った翌日から私は激しい腰痛に襲われ1週間ほど往生した。単に寝違えただけだろうが、気味が悪かったのは確かだ(苦笑)

塔F
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