第8回(令和5年7月4日)
「学は、これ人欲を去り天理を存するを学ぶなり。」 (『伝習録』上巻112)
「学問とは、心の中に湧き起こって来る欲望を取り去って、宇宙の真理とも言うべき「天理」と一体の境地まで自分の心を磨き上げて行く事を学ぶ事なのだ。」
ここでは、「人欲」と「天理」を対比させて、学問の在り方を説いている。
「天理」とは「正しい天の道理」の事を言い、「人欲」は「人の欲望」を言う。宋代に新儒学を体系化した朱子(朱熹)は「天理を存して人欲を去れ」と教えたが、王陽明は「人欲を去り天理を存す」と述べている。ここにも朱子学と陽明学の違いが出ている。朱子は徹底した学問探求によって自らに天理を存する事を求めた。一方王陽明は、元来人間の心は大宇宙と繋がっており、天理そのものなのであるが、人欲によってそれが蔽い隠されているので、日々、人欲を去る=人欲から遠ざかって行く功夫を重ねる事が、そのまま天理を表す事になる、と述べたのである。
又、王陽明は次の様にも言っている。「人欲日に去れば、すなはち理義日に洽浹(こうしょう)す。安(いずく)んぞ説(よろこ)ばざるを得んや。」(人欲を日々去って行くならば、世の中の正しい理(ことわり)が日に日に心の中に行きわたって来る。どうして喜ばないでいられようか。)
上巻の100では「吾が輩の功を用ふる、只だ日に減ずることを求めて、日に増すことを求めず。一分の人欲を減じ得ば、便ちこれ一分の天理を復し得るなり。何らの軽快脱洒ぞ、何等の簡易ぞ。」(私が修行上の功夫を用いるのは、ただ日に日に減らす事だけを務めて、増やす事は求めない。少しでも人欲を減らす事が出来たなら、そのことが即ちその分の天理を回復した事に他ならない。何と軽くて気持よくさらりとして、簡単な事ではないか。)と述べている。
それ故、陽明学は「日減の学」とも言う。増やす事を求めるのではなく、自分に纏わりついている余分な「人欲」を減らして行く事に修行の眼目を置く。それは、本来の自分は「天理」そのものであるとの、人間の本性に対する強い信念から生み出されている。その本来の自己を後に王陽明は「良知」と呼ぶ様になる。
それでは、どのようにして「人欲」を減じていけば良いのか。人間に肉体がある以上全ての欲望を無くす事は不可能である。しかし、欲望を「適正化」する事は出来る。自分の事だけでは無く、周りの人々、家・社会・国家・天下に思いを致す事で、自己の欲望は制御される。常に、他と共に生き、慶び、悲しむ様な豊かな心を養い育てれば、より天理に近づいているといえよう。己の殻に閉じこもるのでは無く、周りの人々と繋がって行く様に努力する事が大切である。新渡戸稲造は、旅行の時には必ず相席の人と談笑する様に心掛けていたと言う。私も飛行機で移動する時などは、棚の上に置いた自分の荷物を取る時にはその周りの荷物も取ってあげる様に心掛けていた。身近な人々に心を寄せる事。物を貰ったなら独り占めしないで必ず人々に分け与える事、更には、大切な会だと思えば進んで会員となり会費を払い続けて支える事なども大切である。「陰徳」を積み重ねる事は、人欲を去る功夫の最たるものである。
「学は、これ人欲を去り天理を存するを学ぶなり。」 (『伝習録』上巻112)
「学問とは、心の中に湧き起こって来る欲望を取り去って、宇宙の真理とも言うべき「天理」と一体の境地まで自分の心を磨き上げて行く事を学ぶ事なのだ。」
ここでは、「人欲」と「天理」を対比させて、学問の在り方を説いている。
「天理」とは「正しい天の道理」の事を言い、「人欲」は「人の欲望」を言う。宋代に新儒学を体系化した朱子(朱熹)は「天理を存して人欲を去れ」と教えたが、王陽明は「人欲を去り天理を存す」と述べている。ここにも朱子学と陽明学の違いが出ている。朱子は徹底した学問探求によって自らに天理を存する事を求めた。一方王陽明は、元来人間の心は大宇宙と繋がっており、天理そのものなのであるが、人欲によってそれが蔽い隠されているので、日々、人欲を去る=人欲から遠ざかって行く功夫を重ねる事が、そのまま天理を表す事になる、と述べたのである。
又、王陽明は次の様にも言っている。「人欲日に去れば、すなはち理義日に洽浹(こうしょう)す。安(いずく)んぞ説(よろこ)ばざるを得んや。」(人欲を日々去って行くならば、世の中の正しい理(ことわり)が日に日に心の中に行きわたって来る。どうして喜ばないでいられようか。)
上巻の100では「吾が輩の功を用ふる、只だ日に減ずることを求めて、日に増すことを求めず。一分の人欲を減じ得ば、便ちこれ一分の天理を復し得るなり。何らの軽快脱洒ぞ、何等の簡易ぞ。」(私が修行上の功夫を用いるのは、ただ日に日に減らす事だけを務めて、増やす事は求めない。少しでも人欲を減らす事が出来たなら、そのことが即ちその分の天理を回復した事に他ならない。何と軽くて気持よくさらりとして、簡単な事ではないか。)と述べている。
それ故、陽明学は「日減の学」とも言う。増やす事を求めるのではなく、自分に纏わりついている余分な「人欲」を減らして行く事に修行の眼目を置く。それは、本来の自分は「天理」そのものであるとの、人間の本性に対する強い信念から生み出されている。その本来の自己を後に王陽明は「良知」と呼ぶ様になる。
それでは、どのようにして「人欲」を減じていけば良いのか。人間に肉体がある以上全ての欲望を無くす事は不可能である。しかし、欲望を「適正化」する事は出来る。自分の事だけでは無く、周りの人々、家・社会・国家・天下に思いを致す事で、自己の欲望は制御される。常に、他と共に生き、慶び、悲しむ様な豊かな心を養い育てれば、より天理に近づいているといえよう。己の殻に閉じこもるのでは無く、周りの人々と繋がって行く様に努力する事が大切である。新渡戸稲造は、旅行の時には必ず相席の人と談笑する様に心掛けていたと言う。私も飛行機で移動する時などは、棚の上に置いた自分の荷物を取る時にはその周りの荷物も取ってあげる様に心掛けていた。身近な人々に心を寄せる事。物を貰ったなら独り占めしないで必ず人々に分け与える事、更には、大切な会だと思えば進んで会員となり会費を払い続けて支える事なども大切である。「陰徳」を積み重ねる事は、人欲を去る功夫の最たるものである。