「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

武士道の言葉 その6 「葉隠 3」

2013-04-05 22:04:45 | 【連載】武士道の言葉
「葉隠」その三(『祖国と青年』平成24年10月号掲載)

今時分の男を見るに、いかにも女脈にてあるべしと思はるるが多く候。あれは男なりと見ゆるはまれなり。  
                                                    (聞書第一 36)

 葉隠の時代、男性の女性化が進行していた。前回の最後で、奥さんから「あなたは死の覚悟が出来ていないから、こんな無様な事になる」と叱咤された侍の話を紹介したが、天下泰平の世の中ではこの侍の如き軟弱な男性が生れていた。

 江戸時代の医師は、脈を計って診断し、脈の違いから男性と女性の治療とを区別していた(今日でも鍼灸治療では、脈診を行う)。ところが、松隈前の享庵先生が「この五十年来、男の脈が女の脈と同じになってしまった。男性の気質が衰えて女性と同様になっている」と語られた。それを聞いて山本常朝は、「今時の男を見ると、いかにも女脈に違いないと思われる者が多くいる。あれは男である、と思われる者は滅多にいない。それ故、少し力んで頑張れば容易く人の上に立てる様になる。」と述べた。更には、「男が為すことは元来荒っぽく血なまぐさいことが多いのに、今は口先だけで上手にごまかして骨っぽいことは避けて通る者が多い。」と嘆く。

 平和な時代には、男は不要となって来る。男性の存在意義は「イザ」という時の「頼り甲斐」にある。混乱の中でこそ男らしさが求められるのだ。私達の学生時代は未だ左翼暴力集団による言論弾圧が横行していたから、彼らとの対決の場には男しか立たなかった。それ故、当時の漫画「朝太郎伝」にあった「男の顔は戦いが作る。女の顔は男が作る。」を口ずさんだりしていた。結婚して子供が小さい頃、私が家で遊んでやるとどうも上手くいかない。そこで、父親の役割は野外活動時に発揮できると思って、山登りやキャンプなどに良く連れて行った。野外で子供達はすっかり父親を頼っていた。男には男しか出来ない役割があるのだ。


ざれにも、たはぶれにも、寝言にも、たは言にも、いふまじき詞なり。
                                (聞書第一 118)

 山本常朝は、武士が平時にサムライらしさを表す為には、日常の「言葉」によくよく注意せねばならないと繰り返し説いている。有事の際に武士は身を擲って、勇気と忠誠心を示す事が出来る。だが、平和な世にあっては、その機会は滅多に訪れない。それ故、日常の覚悟を示す言葉の重みが武士の証明となるのである。

 常朝が「冗談にでも、かりそめでも、寝言でも、うわごとでも決して言ってはならない」と強く否定している言葉がある。それは、「我は臆病なり、その時は逃げ申すべし、おそろしき、痛い。」などという、「弱気」「逃げ」の言葉である。常朝は言う。「武士は全ての事に気を付けて、少しでも人に後れを取ることの無い様にふるまうべきである。特に、物言いに於いて、『自分は臆病である。その時は逃げ出そう。恐ろしい。痛い。』などの言葉は決して言ってはならない。」「ざれにも、たはぶれにも、寝言にも、たは言にも、いふまじき詞なり。」と。「ざれ」「たはぶれ」「たは言」は全て「戯」を使って書き表す。同じ様な言葉を三回も用いて常朝は武士の「禁句」を示した。

 何故か。この様な言葉は、いざという時の「逃げ道」を用意する最も卑怯な言葉だからである。常朝は言う「心ある者がその言葉を聞けば、その者の心の奥をみすかされてしまうであろう。言葉はよくよく日頃から吟味しておかねばならない。」と。同様の事を「聞書第一・143」では、「武士は、仮にも弱気のことを云ふまじ、すまじと、兼々心がくべき事なり。かりそめの事にて、心の奥見ゆるものなり。」と端的に述べている。

心の底は、ちょっとした物言いに必ず現れてくる。言葉の端々で本物か否かは容易に判断がつく。饒舌・多言の者ほど自らの本心を覆い隠している事が多い。最近は、インターネットによって、様々な情報を瞬時に知る事が可能である。それらの情報を何ら検証せずに、物知り顔で語る者の何と多いことか。自らの体験と実感と努力で掴んだ確実な知識を語れる者は、現代では稀になって来ている。ましてや、自らの生き方と覚悟を語る者は極めて少ない。熊澤蕃山は、本物の知を養う為に一年間「無言の行」に取り組んだという。本物の言葉を身に付けるには、偽物の言葉から訣別せねばならない。


武士は当座の一言が大事なり。たゞ一言にて武勇顕るゝなり。治世に勇を顕はすは詞なり。乱世にも一言にて剛臆見ゆると見えたり。この一言が心の花なり。
                                                                        (聞書第一 142)

 「この一言が心の花なり」とは、何と爽やかな美しい言葉であろうか。その様な「心の花」を咲かせたいものである。かつて三島由紀夫氏が、「現代青年論」の中で、二・二六事件で処刑された青年将校・栗原安秀中尉の辞世「道の為身を尽したる丈夫の心の花は高く咲きける」を紹介されていた事が思い起される。

山本常朝は言う。「武士たる者は、その場での一言が大切である。ただ一言で自分の武勇が示され顕れる。平和な世の中で勇気を顕わすのは言葉である。乱世にあってもその場で吐く一言で剛の者か臆病者かは解る。その場での魂のこもった一言こそが心の花と言うものである。」と。他の項でも常朝は「一言」の大切さを強調する。

「人が災難や病気に遭遇した時にお見舞いに行った時の一言が大切である。たった一言でその人物がわかる。武士は気落ちしてしまっていては使い物にならないから、人を引き立てて元気にしてやるのもこの一言である。」(聞書第一・73)。

「大きな難題や大きな変事に遭遇した時も一言が大切である。幸運な時も一言。ちょっとした挨拶話でも一言が大切である。よくよく工夫して言わねばならない。一言で場が凜と引き締まるものである。自分でも覚えがあるが一所懸命に工夫して心がけて置くことである。」(聞書第二・82)。

更に、常朝は次の様に「寡言の勧め」を述べる。「物事を述べるに当って重要なことは、滅多に口を開かない事である。何も言わなくて済まそうと思えば、一言も言わなくて済むものである。どうしても言わねばならない事を、言葉少なく道理を以て語れば良い。不用意に口を開いて恥をかいて相手に見限られる事が何と多いことか。」(聞書第十一・125)。

 私は、我が家での朝拝の際「安岡正篤・活学語録カレンダー」の言葉を拝誦しているが、作日は、呂新吾『呻吟語』の「深沈厚重は是れ第一等の資質、磊落豪雄は是れ第二等の資質、聡明才弁は是れ第三等の資質」だった。聡明才弁な者は自己弁護の詭弁を弄する者が多い。磊落豪雄な者は勇ましい景気の良い言葉を多発する。だが深沈厚重な者は、言葉数は少ないが心の真実を語る。我々は、心の底から湧き出る深沈厚重なる「一言」で「心の花」を咲かせる人物を目指したい。


何事を言ひ付けられたる時も、そのまゝ畏まるべし。惣て武士の前疑ひは臆病の本と知るべし。
                                          (聞書第十一 2)


 物事を受けた時、常に前向きに考える思考形態を持て、と常朝は述べる。現代風に言えば、「プラス思考」の勧めである。戦闘者である武士には必ず主君から「○〇せよ」との命が下される。その時、「いや、出来ません」「ちょっと、難しいです。」などと言ってしまえば、武士とは言えない。「何事を言い付けられた時も、そのまま『承知致しました』と畏まって受けるべきである。全ての点で武士の前思案は臆病の本である事を知らねばならない。」と、小賢しい「前疑い」(前思案)をする臆病侍には決してなるなと。

 この言葉は「戦場で遠慮してはいけない事」という項に出てくる。戦場に於て、「例えば『○〇よ、あの堀を渡って攻めよ、あの攻め口の先陣をせよ』と命じられる事がある。その時『どうしたら良いのですか』などと、受け答えで気弱な事を言ってはならない。『解りました、渡りましょう、真っ先に行きましょう。ついては、貴方の方でそのやり方を確と考えて下さい。』との物言いをすべきである。」と、具体的に述べた後に語られている。

 物事を頼まれた時、直ぐに「解りました。やりましょう。」と言える人間と、「難しいですね。」と、弱気な言葉しか発する事の出来ない人間とでは、気力に於いて天と地程の落差がある。難題が与えられた時、難しいなと心で思っても、「何くそ、やってやろう」と決意するなら、そこから種々の知恵が生み出され、自己の限界を超える為の努力が始まり、思わぬパワーが生じて来る。周りにいる様々な人物の能力を、物事を成し遂げる「大目的」の為に大いに活用し、助力してもらう事となる。その結果、物事は達成される。一方、「前疑い」を起こして、躊躇逡巡の言葉を発する者は、全てにおいて消極的となり、自己の限界を突破出来ない。「前疑い」を発した途端にエネルギーが生じ難くなる。「マイナス思考」から生じる後ろ向きの言動は、周りの人々に失望を与え、心が離れる原因となる。その結果一人ぼっちになり、物事は失敗する。

 国家再建の為の国民運動には、数多くの同志、協力者が結集せねば成功は覚束ない。自らが様々な人々を糾合出来るか否かが問われる。その最も重要な要素が、「前疑い」など決して行わない、決意溢れる爽やかな日本人になる事である。
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