「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

陽明学実践の手引き・わが行動哲学十の指針

2012-04-07 12:03:49 | 【連載】 先哲に学ぶ行動哲学
先哲に学ぶ行動哲学―知行合一を実践した日本人(最終回)(『祖国と青年』24年3月号掲載)

陽明学実践の手引き・わが行動哲学十の指針

立志・事上磨錬・致良知・天・知行合一・謙・寛厚・正成一人・日本精神・終生の志


 この連載では、王陽明と日本陽明学の脈流に屹立する十四人の日本人の生き方と「魂の言葉」を紹介して来た。取り上げた人物は、全てが求道の士であり、学問追及者であり教育者であり、然も行動家であった。

私自身は日本国を正す為の国民運動・教育事業の場に身を置いている。その任を担うに相応しい人物に自分が成り得ているのか、常に問い続けている。私の陽明学派人物探究は、自らの生き方の範を求める已むに已まれぬ学びとしてある。

そこで今回は、私自身の実践綱目十点を先哲の言葉と共に紹介する。

一【立志・生涯を貫く高い志を立て励まし持ち続ける事】

 人間の価値は、その志の有無によって決まる。自分の事しか考えない人間には志など生れない。回りの社会や国家の有り方に疑問を抱き、それを自らの努力で変えようとの意思が生じた時に、志は生れて来る。人生追求の延長線上にしか生れない。それ故、死生観や人生観を求めんとの激しい欲求無しには、志を立てる事は出来ない。日本の先達は、七・八歳から、遅くとも十五歳迄には「立派な人間になり、日本国の現状を救わん」との志を打ち立てている。

私自身は大学二年生の九月二二日(わが立志記念日)二十歳の時に志を立てて独学を始め、その後の三カ月に「葉隠」「陽明学」「吉田松陰」「西郷南洲」との劇的な出会いがあり志が愈々固くなった。立志の後に大切なのは「励志」・志を励まし続ける事であり、その努力の末に「持志」となる。

●志有るの士は利刃の如し。百邪辟易す。志無きの人は鈍刀の如し。童蒙も侮翫す。(佐藤一斎)

二【事上磨錬・真実の学問とは心を磨き上げること】

 志を持ち続けるには、日々の学問が不可欠である。それは、知識の集積では無く、自らの心を磨き続けて行く「心の学問」「学道」である。学問の成果は、日常の立ち居振る舞いに表れ、対人関係や発する言葉の中に現れて来る。人間は食物で身体に栄養を摂る様に、心の栄養を「言葉(先達の精神)」によって補給し続けねばならない。心と言葉の貧しい者は精神の栄養補給を怠っているのだ。

私は現在、朝の経書講義録(安岡正篤・伊與田覺・諸橋轍次等)学習・しきしまの道(御製や万葉集等の拝誦)実践、夜の経書・先哲遺文素読を自らに課している。飲酒の後でも「酒後の行」として必ず実践している。朝・夜の精神の栄養補給の上に、日常生活での心の修業が生まれる。陽明学は「自反の学」といわれる。総てが自らを磨く砥石と考え、自己を省みて行くのである。学問は日常生活の場にあるが故に「事上磨錬」・事に当って心を磨くことが重視される。

●にせの学問は、博学のほまれを専らとし、まされる人をねたみ、おのれが名をたかくせんと(略)おほくするほど心だて行儀あしくなれり。(中江藤樹)

●自分の内心に強く響く、自分の生命・情熱・霊魂を揺り動かすやうな文献を探求し、遍参した。(安岡正篤)

●学業は、鉄を鍛ふるが如し、一鍛休むべからず、百錬の剛を成さんを要す。(山田方谷)

●弁舌なるものの力は舌の先の芸でなく、演者の人格にあり(新渡戸稲造)

三【致良知・内在する良知の力を絶対的に信じること】

 陽明学の真髄は「致良知(良知を致す)」の三文字にある。自己に内在する「良知」・万能知に基いて生きるのである。だが良知は、私欲によって曇りその働きが鈍る事がある。それ故に良知を磨き続ける不断の努力が必要である。その努力を惜しまないなら、全ゆる物事に勇気を持って立ち向かえるし、問題があってもその打開の道を必ず指し示してくれる。それ故、何事も恐れず、良知の鏡にありのままを映し出すべく、真直ぐに立ち向かう事が出来るのである。

私は、わが良知に絶対の信を置くが故に、全ゆる人と真正面から向き合い、眼を直視して話を聞き、語っている。

●一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂ふること勿れ。只だ一燈を頼め。(佐藤一斎)

●“汝の内なる光に頼って行け”(略)私は自分自身に言った―私は純粋だから、十倍の力が出るのだ。(新渡戸稲造)

●彼の所謂豪傑とは自己内心の至上要求に率うて、内面的にも外面的にも一切の盲目的他律的圧迫を排脱せんとする精神的勇気の謂である。(安岡正篤)

●良知を致すの学、但だ人を欺かざるのみならず、先づ自ら欺くことなかれ(大塩中斎)

●思父よ思父、他人は欺くべきも、松陰は其れ欺くべけんや。松陰は欺くべきも、自心其れ欺くべけんや。(吉田松陰)

四【天(神)に向き合い、自然と対話して生きる事】 

 自らに宿る良知が絶対の真理であるなら、それは世界を生み出し、運行させている宇宙の大生命と繋がるものでなければならない。宇宙の根源を儒学では「天理」「太虚」と称し、仏教では「大我・真我」と称している。天に向き合う事は、この大生命への希求に他ならない。

時間の悠久に比せば自己の生命はごくわずかに過ぎない。先人は「当観無常」と時間の浪費に警鐘を鳴らした。天を見つめ、神に祈り、目に見えぬ世界に思いを凝らせば現世の物質への執着は薄らいで行く。先人達はその様な精神生活を送っていた。私が学んだ済々黌の黌歌には「天地万象皆我が師」との一節があった。天地自然との触れ合いは、人生に大事な事を教えてくれる。大自然の中に人間の有り方を学びたい。

●人は須らく自ら省察すべし。「天何の故にか我が身を生出し、我をして果して何の用にか供せしむる」と。(佐藤一斎)

●「怒りを蔵さず、怨みを宿めず」。此の二句、尤も善し。君子の心は天の如し。怨怒する所あれば雷霆の怒を発することもあれども、其の事解くるに至りて、又天晴日明なる如く、一毫も心中に残す所なし。(吉田松陰)

●天地間如何なる大功業も、時に遭ひ運に遭ひ、自然の道義より出づれば、出来ざることなし。(山田方谷)

●人を相手にせず天を相手にせよ。天を相手にして己を尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。(西郷南洲)

五【知行合一・知識は行動に結びつかねば意味がない】

 王陽明は時代の弊風たる「先知後行」を改めんが為に、「知行合一」を唱えた。現代も、知育偏重の中で行動が伴わない人間を多数輩出している。更には、「武士に二言無し」の如きサムライとしての矜持が喪失した結果、口先だけの人間が如何に横行している事か。あまりにも言葉が軽すぎて、自分が言った事さえ平気で忘れるのである。行動を生み出さない知識とは、客観認識に過ぎない。真の知には心の動きが伴い、已むに已まれぬ行動を生み出すものである。

講演を聞いて真に「知」が生じたなら、それは直に「行」に転化され、生活の改善や言葉の変化、運動の生起などのアクションが生じなければならない。そうならないのは、物事を心で受け止めていないからである。感性の摩滅は行動渋滞を起こす。先人達は感性が豊かだったが故に、知識を断固たる行動へと昇華させた。その姿に見習いたい。

●紙上の空言、書生の誇る所、烈士の恥づる所なり。(吉田松陰)

●忠君愛国。言葉ではない。その精神を日常生活にあらわすという事である。(新渡戸稲造)

●魂を振起するには行動しなければならない。動かない澱んだ魂は、実は魂ではない。(三島由紀夫)

●指導の力は理論に在るのではなくて、信念情操気魄に在る。人格の英邁に在る。練行の雄風に在る。(安岡正篤)

六【謙の徳・驕りこそが人間を堕落せしむる】

 人間を堕落せしめるものは、驕りであり不遜である。自己を絶対視し、人の話に耳を貸さなくなる事である。本来学者は学問によって心を磨き、孔子の様に「耳順」の徳を身につけるべきだが、ともすれば、自らの知識を誇り、他者を非難し組織を分裂せしめる人が多い。佐藤一斎が、男は五十歳、女は四十歳の頃、「世態習熟し、驕慢を生じ易」いので気を付けて、身を慎まなければ「晩節を失」ってしまうと、警告を与えている。

私のセミナーでこの話を聞いたある会社の社長が、「自分の回りの経営者達は五十歳を過ぎた位だが、人の話を聞く者は殆んどいない」と肯ていたが、自信が傲慢に繋がってしまうのが世の通弊である。それを防ぐには、何事にも謙虚さを心懸け、自分の意見を主張する前に相手の話を充分聞く、その習慣を身につける事である。才能には謙虚さが伴わなければ力は発揮出来ない。

●好みて大言を為す者有り。其の人必ず小量なり。好みて壮語を為す者有り。其の人必ず怯愞なり。唯だ言語の大ならず壮ならず、中に含蓄有る者、多くは是れ識量弘恢の人物なり。(佐藤一斎)

●他の世上勤王の士を見るに 半は是れ功を貪り半は利名(高杉晋作)

●佐久間に、温・良・恭・倹・譲の一字何れかある。(山田方谷)

七【寛厚・柔らかな心、余裕の心を持て】

 私は学生時代に探検部部長をしていたが、気力・体力共に充実し、決して妥協しなかったので「鬼多久」と呼ばれていた。更に、民族派学生運動に参画した後、私から鉄拳制裁を受けた後輩も少く無い。だが、南洲遺訓の「男児は人を容れ人に容れられては済まぬものと思へよ」の教えに接した事と、組織の長となって全ての同志に心を馳すべく努力する中で変わって来た様に思う。昔の私を知っている後輩からは「多久さんも随分丸くなりましたね」と言われる。しかし、それでも怒りの心が湧き立って爆発してしまう事もある。

その時、中江藤樹先生の言葉が、西郷南洲翁の英姿が瞼をよぎる。先達は、心の柔らかさ、余裕・弾力を持つ事によって、真の「剛者」となったのである。

●人はいかようにもあれ、吾は何の心もなく、ひたすらに親み和ぎぬれば、人も又岩木ならざれば、感動するところありて、仁愛をもて我を親むものなり。(中江藤樹)

●我心わたの如くやはらかに、水のごとくすくみなく候えば、天下一の火打にあたり候ても火出申ず候。(中江藤樹)

●風流と節義と 兼ね得るは即ち英豪、今日花を描くの手、いつの時か快刀を提げん(高杉晋作)

●一忍以て百勇を支うべく、一静以て百動を制すべし(河井継之助)

●月は梧桐の上に至り、風は楊柳の辺に来る、人間にこの余裕あれば自然に人を感化し得るものである(根津一)

●内に火山の熱火は蓄えても、外には湖水の平静を保たなくちゃいかん(安岡正篤)

●「六中観」(安岡正篤)

八【正成一人の気概・自らの心が総ての出発の基である】

 陽明学は「心即理」を説いて自己の心の修養を重視する。それ故、自分の心の在り様が自分の回りの世界を生み出し、心の中の事は必ず外に実現して行く。心に真剣に思えば、必ず行動が生まれ、変革が生まれ、実現して行くものなのである。危難に遭遇した際に、先達は自分を固く信じ、困難を打開して行った。

建武の中興の際、笠置山で窮地に陥られた後醍醐天皇から呼ばれた楠木正成は、自分が生きている限り、天皇様の御運は必ず開かれますと、固くお答えしたという。凡てを背負う「正成一人」の覚悟である。正成の時代には陽明学は未だ伝わっていないが、後に陽明学を修した者達は皆、この覚悟を持ち、一人から行動を起こしている。それは「自ら信ずるの厚きが故」(南洲)である。

●士は当に己に在る者を恃むべし。動天驚地極大の事業も、亦都べて一己より締造す。(佐藤一斎)

●六十四国は墨になり候とも二国にて守返し候。(吉田松陰)

●われゆかば人もゆくらん皇国のたゞ一すぢの平らけき道(乃木希典)

●吾々は、護るべき日本の文化・歴史・伝統の最後の保持者であり、最終の代表者であり、且つその精華であることを以て自ら任ずる。(三島由紀夫)

●【萬燈行】暗黒を嘆くより、一燈を点けましょう。我々はまず我々の周囲の暗を照す一燈に(安岡正篤)

九【日本精神の研鑽・吾こそ日本人との強い自覚】 

 日本人である吾々は、日本の風土の中で育まれ、日本語の持つ精神世界の中で心を養っている。吾々の存在と日本文化とは切っても切り離せない。吾々にとっての「公」や共同体は日本国にしか存在しない。日本を担わんとする吾々の心には、先人が歴史に刻んだ日本精神・大和魂が受け継がれている。その事を深く思い、先達の生き方や言葉を自らの心で感じ取る事が出来た時、自分の中に日本人らしさが甦って来る。

しかし、戦後教育を受けた吾々は元来「根無し草」の習性を持っている。それ故に、自らの中に日本を回復する営為を重ね続けねばならない。日本の歴史・伝統・文化に対する不断の研鑽が求められるのである。

●学は儒をも学び、仏をも学び、道ゆたかに心広く成りて、かり、かされざるの吾が神道を立つべきなり。(熊沢蕃山)

●真の愛国者にして国際心の持ち主とは、自国と自国民の偉大とその使命とを信じ、かつ自分の国は人類の平和と福祉に貢献しうると信じる人である。(新渡戸稲造)

●すべて日本人の繊細優美な感受性と、勇敢な気性との、たぐひ稀な結合を誇りに思ふ。この相反する二つのものが、かくもみごとに一つの人格に統合された民族は稀である。

●日本精神の清明、闊達、正直、道義的な高さはわれわれのものである。(三島由紀夫)

●日本精神と云ふのは最も深い思想的根底に立つて此の行詰まれる世界文明の救済をやらなければならぬ使命を有つて居る(安岡正篤)

十【終生の志・祖国への奉仕に生きる】

 日本国に対する熱き思いは、生涯を日本国の為に捧げたいとの強い志を生み出す。日本人である吾々が、心の真実を発見する陽明学を深めて行く時、自ずと日本人の魂が蘇って来る。その感激は、吾々をして、この素晴らしき、美しき、万邦無比の日本国の為に尽したいとの生涯の決意を生み出す。

私は、学生時代に陽明学と出会い心を磨き、様々な先達に感動し、日本国の国体に感激し、この素晴らしい日本を永遠に守り伝えたいとの志を立てて、今の道を選んだ。そして、それは「死而後已」まで続くであろう。

●禁は是れ徳川一世の事、今時の事は将に三千年の皇國に関係せんとす。何ぞ之れを顧みるに暇あらんや。(吉田松陰)

●天下は大物なり、一朝奮激の能く動かす所に非ず、其れ唯だ積誠之れを動かし(吉田松陰)

●大君の御楯とならん身にしあればきたへざらめやみがかざらめや(乃木希典)

●日本の精神界の堕落に対し憂慮する所あり。之れを救済せん(根津一)

●日本国民といふものはさう軽薄なものではないから話せば判る、其内病気が癒つたら草鞋穿きで全国を遊説して回り一戸一戸よく諭して歩く積りだ。(根津一)

●祖国への奉仕が終わってしまう迄は死ぬわけにはいかない(新渡戸稲造)
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