「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

済々黌先輩英霊列伝⑭前川義張「輸送船団の援護を命じられ、ニューギニア・ウエワク上空にて敵大編隊を迎え撃つ」

2021-01-19 16:17:25 | 続『永遠の武士道』済々黌英霊篇
済々黌上空に飛来し別れを告げて戦地へ赴く
前川 義張(まえかわ よしはる)S14卒
「輸送船団の援護を命じられ、ニューギニア・ウエワク上空にて敵大編隊を迎え撃つ」   

 前川義張は熊本市本山町に生まれた。文才があり幼稚園当時作った詩が北原白秋選で入賞している。それは「あさ がっこうの ごじゅぎょう はじまってる、おにわが ひろいな、おこえがしないな、ほほ おつきさま まだでてる、あさのおつきさま しろいなあ」と言う作品である。済々黌時代の友人によると「心優しい思いやりの深い反面、また度胸の据った大胆な行動の持主であった。」と言う。

 済々黌から航空士官学校(55期生)に進んだ。剣道が強く区隊で一・二を争う腕前だった。その剣風は実に悠揚せまらざるもので、小手とか胴などの小細工はせず遠く離れて剣を構え、一寸の隙を発見するや疾風の如く飛んで大上段から面を取るもので、実に綺麗な剣さばきに映ったと言う。入学当時自己紹介の時日頃無口な前川が「熊本県立中学済々黌」と実に堂々と言ったのが大変印象的だったそうだ。剣道が強くかつ明朗で人を疑う事を知らない素直な性格で、その誠実な態度には区隊内で無法松とのあだ名があった者も一目置かざるをえなかったと言う。

 ある時、区隊の者数人で自習室で雑談をしている時に話が陸大や参謀の事に迄及んだ時、前川は「俺は卒業して陸軍少尉になればそれでいいんだ。それ以上は必要ない。」とボソッと述べたと言う、既に期するのものがあったのかも知れない。兵科志願の際最初から航空(戦闘)を志願し、待望の戦闘分科に進んだ。卒業後一〇一教育飛行聯隊に補せられ福島県原の町に於て戦技の訓練に励むと共に教官として後進の教育に当たった。
 
 昭和18年西部軍地区の防空に任じていたが、十月にニューギニアのウエワクの飛行248戦隊に転任を命じられた。ニューギニアに出征するに当たり、10月20日、前川は戦闘機を駆って済々黌と実家を上空より訪問、幾度も超低空まで降下し、その後、翼を左右に振りながら空の彼方に消えて行った、と御母堂が回想されている。

 ニューギニア島東部北岸にあるウエワクには当時ニューギニアで最大となるわが軍の航空基地があった。同戦隊は11月6日のマザブ飛行場群への攻撃を皮切りにマーカム・ラム地区の航空撃滅戦、ポポイ・フィンシハーヘンの敵上陸部隊攻撃、船団掩護、或は遊撃戦と相次ぐ戦闘に力戦奮闘、一か月にして空中勤務者は半減、可動機数は三割に減少した。

 12月21日、前川大尉の戦闘隊は、ウエワクに入港し軍需品の揚陸作業を開始したわが輸送船団の掩護を命じられた。22日早朝、敵の戦闘機・爆撃機連合が大挙して来襲、それを邀撃して無事に任務を果たしたが、前川大尉はその戦闘に於て散華した。

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