本町から続くのが八日町で、続いて四ツ家町になる。
(22)八日町(ようかちょう)
八日町は,文化9(1812)年に本町と改名された京町の西隣りで,本町は毎月28日,八日町は8日が市日であったことに由来する。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/d9/19c2409f44caf87222c9f85e07c692c2.jpg)
(23) 四ツ家町(よつやちょう)
八日町の北に四ツ家町があり,上田への出口,赤川橋の手前に,外堀にかかる四ツ家御門があり,盛岡城下を通る奥州街道の北の玄関口に当たっていた。またこの付近には,北に入る袋丁があり,谷小路という侍町があった。四ツ家町の由来は,町割に際し4軒の家を初めに建てたことによるという。また、四ツ家御門に至る通りを大四ツ家ともいった。
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「田中の地蔵さん」の名で親しまれている四ツ家の地蔵尊は,5代藩主南部行信の母堂の遺骸を荼毘(だび)に付した火屋(ほや)の跡に建てられたもので,以前は東禅寺門前の田圃の中にあったことに由来する。現在地に遷座されたのは,大正元年(1912)年である。
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四ツ家教会
四ツ家教会に向かって左隣は白百合女子高等学校があったが、高校は移転し、跡地は盛岡中央郵便局になっている。また、教会の右隣は四ツ家交番で、その脇に狭い道があり、まっすぐ進むと岩手大学工学部の同袍寮まで続いていた。この狭い道路は昭和45年の岩手国体の時に拡張され、下の写真のように本町通りからまっすぐな道路になっている。
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(22)八日町(ようかちょう)
八日町は,文化9(1812)年に本町と改名された京町の西隣りで,本町は毎月28日,八日町は8日が市日であったことに由来する。
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(23) 四ツ家町(よつやちょう)
八日町の北に四ツ家町があり,上田への出口,赤川橋の手前に,外堀にかかる四ツ家御門があり,盛岡城下を通る奥州街道の北の玄関口に当たっていた。またこの付近には,北に入る袋丁があり,谷小路という侍町があった。四ツ家町の由来は,町割に際し4軒の家を初めに建てたことによるという。また、四ツ家御門に至る通りを大四ツ家ともいった。
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「田中の地蔵さん」の名で親しまれている四ツ家の地蔵尊は,5代藩主南部行信の母堂の遺骸を荼毘(だび)に付した火屋(ほや)の跡に建てられたもので,以前は東禅寺門前の田圃の中にあったことに由来する。現在地に遷座されたのは,大正元年(1912)年である。
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四ツ家教会
四ツ家教会に向かって左隣は白百合女子高等学校があったが、高校は移転し、跡地は盛岡中央郵便局になっている。また、教会の右隣は四ツ家交番で、その脇に狭い道があり、まっすぐ進むと岩手大学工学部の同袍寮まで続いていた。この狭い道路は昭和45年の岩手国体の時に拡張され、下の写真のように本町通りからまっすぐな道路になっている。
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啄木の盛岡中学時代の歌
雲をよびて落つる光に袖、かさむ、甲斐なく秘めし我花冷ゆる
≪盛岡中学校校友会雑誌第3号 明治35年12月≫ 「白蘋」名で9首 (その2)
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啄木の盛岡中学時代の歌
雲をよびて落つる光に袖、かさむ、甲斐なく秘めし我花冷ゆる
≪盛岡中学校校友会雑誌第3号 明治35年12月≫ 「白蘋」名で9首 (その2)
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