(24)三戸町(さんのへちょう)
本町・八日町方面からまっすぐに北の方に進んでいくと、この案内板のある三戸町に直行する。三戸町を右折して進むとJR山田線の上盛岡駅、左折して進むと盛岡駅方面です。
近世初頭の慶長期(1600年前後)に南部氏が城下を三戸から盛岡へ移すにあたり,盛岡城造営や城下町建設の工事に従事したのは三戸から来た武士や町人でした。この三戸出身の人々が集住したことから、三戸町の町名の由来です。
その範囲は,当初,内丸の日影御門の外に位置する広い地域を指したようですが、盛岡城下が整備されるに伴い,侍町と町人町が区分されると,赤川を堀とする外堀の外側の町人町を指すようになった。田町(たまち)と呼ばれた時もあった。
このように三戸町は盛岡城下最初の町人町で,城下最初の市日が立てられたのも,この町であった。市は,月に6度の六斎市(ろくさいいち),年1度の歳市の馬市も,当初この町で開かれていた。また,城下の雫石街道・鹿角街道の往還路にあたり,材木町とともに商業地として繁昌したところでした。
三戸町
まっすぐ進み、奥州街道(上田通り)を横切って進むと上盛岡駅がある
この町に隣接する外堀の土手の上に鐘楼が立てられ,「三戸町の時鐘」と呼ばれた。鐘は,現在,内丸の鶴ケ池の側へ移され,市指定文化財になっている。
三戸町の時鐘(現在岩手日報前の亀ケ池前に移転されている)
本町・八日町方面からまっすぐに北の方に進んでいくと、この案内板のある三戸町に直行する。三戸町を右折して進むとJR山田線の上盛岡駅、左折して進むと盛岡駅方面です。
近世初頭の慶長期(1600年前後)に南部氏が城下を三戸から盛岡へ移すにあたり,盛岡城造営や城下町建設の工事に従事したのは三戸から来た武士や町人でした。この三戸出身の人々が集住したことから、三戸町の町名の由来です。
その範囲は,当初,内丸の日影御門の外に位置する広い地域を指したようですが、盛岡城下が整備されるに伴い,侍町と町人町が区分されると,赤川を堀とする外堀の外側の町人町を指すようになった。田町(たまち)と呼ばれた時もあった。
このように三戸町は盛岡城下最初の町人町で,城下最初の市日が立てられたのも,この町であった。市は,月に6度の六斎市(ろくさいいち),年1度の歳市の馬市も,当初この町で開かれていた。また,城下の雫石街道・鹿角街道の往還路にあたり,材木町とともに商業地として繁昌したところでした。
三戸町
まっすぐ進み、奥州街道(上田通り)を横切って進むと上盛岡駅がある
この町に隣接する外堀の土手の上に鐘楼が立てられ,「三戸町の時鐘」と呼ばれた。鐘は,現在,内丸の鶴ケ池の側へ移され,市指定文化財になっている。
三戸町の時鐘(現在岩手日報前の亀ケ池前に移転されている)
********************************************************************
啄木の盛岡中学時代の歌
彫りし花は光うつらぬ古壁なりき、まぼろし 雲の影黒うちる
≪盛岡中学校校友会雑誌 第3号(明治35年12月)≫ 「白蘋」名で9首 (その3)
******************************************************************** *
啄木の盛岡中学時代の歌
彫りし花は光うつらぬ古壁なりき、まぼろし 雲の影黒うちる
≪盛岡中学校校友会雑誌 第3号(明治35年12月)≫ 「白蘋」名で9首 (その3)
******************************************************************** *