たかしの啄木歌碑礼賛

啄木の歌碑並びにぶらり旅等を掲載いたします

盛岡の旧町名(上田三小路)

2011-12-12 | ぶらり盛岡
上田三小路

上田三小路は、江戸時代、中下級の武家屋敷が集まっていた上田小路、与力小路、上田新小路の3つの町を総称したもので、前述の町人街の「長町」の北側にあり、長町に平行な小路です。








(12) 上田小路

梨木町から上田への道で、登り口に尼寺高源寺(こうげんじ)があったことから、当初は上田門前町と呼ばれていた。高源寺には、近世初頭に藩重臣の北秀愛(ひでちか)亡き後の奥方が尼となって入山、高源寺殿と呼ばれた。また、この寺の前の坂を高源寺坂とか、訛って「こうらひ」坂とも呼ぶようになった。この道路は夕顔瀬橋から上田通りを横切り、岩手県立中央病院前を通り、国道4号盛岡バイパスを横切り、北山トンネル、県営野球場前を通り、岩泉にぬける道路です。道路も狭く、朝晩は非常に込み合うこともあり、現在片側2車線に拡幅工事を行っている。







上田小路




(13)与力小路

岩手大学に沿う南側の道路で、盛岡高等農林学校当時の正門もこの道にある。




盛岡高等農林学校当時の正門


与力小路



写真の右側が岩手大学構内でまっすぐ進むと崖があり、その下に「上田三小路公民館」がある






上田三小路公民館




(14)上田新小路

嘉永5(1852)年に、城下の諸士屋敷が不足していた時にできた侍町である。この地は,明治35(1902)年、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)が創立された際、大学構内に一部が編入された。盛岡高等農林学校では宮沢賢治も勉学に励んでいる。岩手大学植物園の樹木は、武家屋敷の庭園のたたずまいを伝え、石川啄木の妻節子の生誕の池も構内にある。



岩手大学構内にある上田新小路案内表示



大学構内植物園の上田新小路跡




岩手大学の旧正門を過ぎると右側に温室、左手に資料館がある。啄木の妻節子(旧姓堀合)の生家は、岩手県岩手郡上田村上田新小路11番地とされています。岩手大学の調査の結果、節子の生家は現在の農業資料館正面・温室前通路から温室を含む現広場の一画にあったとほぼ特定できました。



岩手大学旧正門



農学部資料館・温室



節子の生家には古井戸があり大正2年(1913)の写真を参考に、岩手大学では車井戸を平成20年(2008)に復元しました。井戸の復元に際し、井戸の安全のため御影石の蓋をし、その蓋に夫婦の、次の歌を刻んだ。なお、堀合一家は、節子生誕の3年6ヵ月後の明治23年(1890年)4月、上田新小路から新山小路に移っている。






温室と車井戸



ある日、ふと、やまひを忘れ、
牛の啼く真似をしてみぬー
妻子の留守に。

啄木  歌集「悲しき玩具」より


ひぐるまは焔吐くなる
我がうたにふと咲き出でし黄金花かな

節子  文芸雑誌「小天地」より




上田新小路は岩手大学構内を抜けると盛岡第一高等学校の正門前を通り上田組町にたどり着く。



上田新小路、左側の門が盛岡第一高等学校の正門



盛岡第一高等学校の構内にあ啄木歌碑


盛岡の中学校の
露台の
欄干に最一度我を倚らしめ

啄木







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